息だけをしている

マルチューン

前編

 二年前に。

 どうせ子どもを作れないなら、去勢してしまおうと思った。


 これから先、女性を口説く気もないし、真っ当な家庭を築く気もない。

 使い途もないのに、放っておけば毎日毎日、下腹を登って脊髄から莫迦な考えばかり伝えてくる本能なんて、切り離した方が世のため、僕のためだろう。


 ネットで調べてみるとすぐ、難しいことが分かった。

 合法に安全に去勢するのは、少なくともこの国ではできそうもない。

 性欲減退の薬は日本で買えない。手に入ったとしても、僕の性癖は抑えられない。

 パイプカットは可能だけれど、単に子どもを作れなくなるだけで、性欲は消えないらしい。それではなんの意味もない。僕は手を出した時点で終わりなんだから。


 結論、去勢はできない。

 僕は引き続き、息を潜めているしかない。

 それがすぐに分かっても、感慨は特になかった。モニターの前で、いつもより少しだけ深く息をついたことは覚えている。いつものこと。


 けれど、思った。

 もういいんじゃないか。手は尽くしたよ。

 青天の霹靂だった。


 僕からこれを、性欲を。僕を唯一突き動かす、この憎しみのようなものを除いたら、僕にいったい何が残るというのだろう。

 親からたっぷりと愛してもらって、小中高大、十分すぎる教育を経て、それでも真っ直ぐ伸びずに腐った僕が、誰にも言えずに育ててきた熱情を。


 失くせば、きっと何者でもなくなる。



 ならば、と思った。

 今までずっと、ずっと息だけをしてきた。それ以外は許されなかった。

 正しく生きたかったから。親を悲しませたくなかった。でも、もういいだろう。

 息抜きをしよう。最初で最後の、何もかもを滅茶苦茶にする気晴らしを。




 そう決めてから二年。

 僕はターゲットを定めていた。


「おじさん、今日もいるね」


 大きな公園と、大きな川の境目。公園とも川とも呼びにくい間に、接ぎ目のように置かれたベンチで、僕は女の子と並び腰掛けていた。


「家が近いからね。休憩がてら、外の空気を吸うにはちょうどいい」


「別に、窓開ければいいじゃん。川も見えるでしょ」


 かなり前に、嘘の住所を伝えたのを覚えているようだった。僕の家はここから近くもなんともない。

 子どもは何でも覚えている。何でも信じる。そういうところは、色目なしに好きだった。


「そうだけど。好きだからさ。夕方のここが」


「わたしは嫌い。なんにもないもん」


 隣りにいるのは、まどか。苗字は知らない。

 ここ数ヶ月、この時間になると時折顔を出す、近所の小学生。

 華奢で全身が薄くて、お尻の一番お尻らしい箇所だけが僅かに丸みのある、痩せぎすな女の子。目は大きくて、今どきの愛嬌ある形をしている。

 きっと学校ではモテるはずだろうに、見かけるといつも一人でいる。


「友だちはいるけど。学校の後で遊ぶのは、なんかいや」


 会話の流れで聞いてみると、円は口を尖らせていた。

 ベンチからぶらつかせた足を覗き込んで、俯いている。

 どうにも自分の話をするのが苦手な娘だった。おかげで周辺情報を聞き出すのに苦労する。


 けれど、もうこの娘にすると決めていた。

 この娘を滅茶苦茶にする。そう思うと息が、喉をざりざりと削るほど、荒くなりそうになる。

 それだけ、丁度良い身体をしている。絶妙に幼い心をしている。


「おじさんは、小学校のころ何してた?」


 円は話を聞くのが好きなようだった。初めて会ったときも、きっかけは向こうからの質問だった。

 大人よりもずっとスムーズに話を繋ぐ。それができずに悩み病む男だっているのに。


「ゲームしてたよ。誰かの家に行って対戦する。昔はゲーム機がいろいろあったから、今日はあいつの家、今日はそいつの家って、いろんなとこを行ったりきたり」


「え、友だち、いたんだ」


 うへへと言ってわざとらしく笑う。僕にさっき聞かれた意趣返しだろうか。

 時折、小学生らしからぬ嫌味を言ってくる。円の可愛らしいところだった。

 僕は本心から笑って流す。話を続ける。


「僕は意地っ張りだったから、勝てるゲームしかしなかった。初めて見たソフトは、しばらく後ろで観戦してコツが分かるまでやらなかった」


「ああ。そういう男の子いるよね。負けず嫌い。カッコ悪い」


 負けず嫌いは、今の子どもにはウケない価値観らしい。あの頃の僕にとっては、勝つことが全てだったけどな。


「だんだん呼ばれなくなったよ。僕の家に呼んでも、ゲームはしてくれなくなった」


「こだわるの、ダサいからねえ」


 ダサいか。そうかもしれない。

 ゲームにしても運動にしても、勉強にしても。歳をとるごとに、勝てるものがなくなっていった。

 それでも縋りつけるものを探して、今、女の子を襲おうとしている僕みたいなのもいる。そう考えると、確かにダサいな。


「でも、おじさんとならゲーム、してもいいかも」


 意外なことを言いつつ、円はぴょんとベンチを立った。帰りの合図。タイミングは日によってまちまちだけど、日が暮れる前には必ず帰る。


「だって弱そうだし。わたしも、勝つほうが好きだし!」


 ばいばいと手を振って、駆けていく。川沿い、夕陽の逆光で、円の姿はすぐに見えなくなった。


 彼女は振り向かないだろうけど、僕も手を振って、すぐに立ち上がる。

 今日は特に何も聞き出せなかった。せめて住んでいるところくらいは把握しておきたいけれど、円は小学校の帰り、公園と川の境目――此処を通って帰ること以上は、まだ聞けていない。


 自分から尋ねれば、声掛け事案として通報される。小学生と会話している時点で、十分に不審者なのだから、用心は重ねなければ。僕はいつも受け身でないといけない。


 小児性愛者には、厳しすぎる時代だ。そうあって然るべきだと、僕も心から思うけれど。


 皮肉が過ぎる。可笑しくて笑いそうになる。ここで笑えば、通報されかねない。

 僕は堪えるように、ゆっくりと息を数回、分けて吐いて、静かに吸って、考えるのを止めた。


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