偏差値55の世界

篠川翠

第1話

 私の時代は、まだ定期テストの成績優秀者の名前と点数が公表されていた時代でもある。今では個人情報扱いで、公表しない学校が多いのだろうけれど。中学でも高校でも大体私の名前は載っていたが、一番上ではない。総合点の順位では上から20~25%くらいの位置である。科目単位では、社会だけがトップクラスだった。物書きの端くれをやっているくらいなので、国語の成績はそこそこ取れていたし、たまに学校のお便りやクラス紹介の文の執筆を頼まれることもあったけれど、「ナントカ賞」の類は受賞経験ゼロ。学校のテストでも100点を取ったのは小学生の時くらいだし、国語で学年トップに立ったこともないので、ダントツで優秀だったという実感はあまりない。強いて言えば、小学校の文集の常連だったくらいだろうか。本当に「他の人より頭一つ抜けていた」と言えるのは、歴史。今風に言うならバリバリの「歴女」で、世界史も日本史もほぼ趣味の一部だったので、こちらは胸を張って得意科目と喧伝していた。だから国語という科目は、私にとって平均より少し上の位置付けの「偏差値55」の科目である。


 自分が書いた文章を点数化される経験は、何かのコンクールなどに応募しないとそれほど多くはないと思う。趣味の一つに「小説の真似事」もあったので、県文学賞にも応募した経験もあるが、あえなく一次選考で沈没。親にも「それ見たことか」と鼻先で笑われて、「自分は所詮、少しだけ書ける程度だったのか」と落胆した。だが、書く行為が点数という形で思いがけず評価されたのが、「小論文」である。小論文は国公立大学志望だったこともあり、現役のときはあまり力を入れて指導されていなかった科目だ。だがセンター試験の数学・英語の成績が非常に悪く、「地元の大学なら、二次が小論文の学部があるのでなんとかなるのではないか」と担任からアドバイスされ、それに従ってみることにした次第である。しかも、センター試験受験科目のうち英語を含む3科目のみが評価対象と、受験者にしてみれば「ラッキー」という科目構成だった。数学・英語ができなくても世界史と国語でまずまず出来が良かったら、二次試験の小論文で逆転できる可能性があった。


 結果としては現役では落ちたが、浪人中に通った予備校で小論文の授業を取り、そこで最初こそ低評価だったものの、徐々にA判定を貰えるようになっていった。小論文はロジカルな文章を書けるかどうかを重視するので、「理論モノ」を好む私には合っていたようである。お陰様で、このときについた自信は入学後大学のレポートでも効力を発揮してレポート試験には強かったし、今の私の原点と言えるかもしれない。


 私の出身高校は、地元では中堅の普通科高校。それこそ、偏差値にして「55」程度。大学も国公立ではあるが、多分成績だけで言えば「偏差値50~55」くらいで、割と平凡な位置づけだと思う。当時と今では多少状況が異なるが、当時、私の通う高校から国公立大に入るのは少数派。しかも国公立大学への進学は、推薦入学での進学が一般的だった。


 少し特殊な事情でこの高校に入った私にとっては、これが結構コンプレックスだった。大学に入ったけれど、自分が特別優秀だとは思わなかったし、出身高校の中では優秀な部類に入るかもしれないけれど、全国レベルで見ればアベレージ前後の成績。しかも地方の国公立大の位置づけは、全国の中ではそれほど高い評価ではなくても、地元ではそれだけで一種のステータスとして扱われがちという微妙な立場。あまり良くない例えかもしれないが、「関関同立出身者」よりも「地元のA高校出身から地元国立大へ進学」という方が、地元では高い評価をされる場面も確かにあるのだ。だから、地元の国立大出というだけで逆差別、すなわちやっかみを受ける場合もある。


 比喩的な表現をするならば、少しだけ周辺の人よりも勉強を頑張ってみたけれど、地方という金魚鉢の中では、それが目立って周りの金魚から攻撃される感じ。同じフィールドの中で戦うのも無益なので、必然的に攻撃をかわすために沈黙を守り、黙って仕事に勤しむようになる。仕事の場面ではとにかく評価してもらえるように工夫はするけれど、感情を見せずに機械的に。


「変わっている」と評価されようが、陰口を叩かれようが、まずは仕事上の客観的評価を上げることに専念する。つまり、最近までそのような社会人生活を送っていたわけである。これも、私なりの「偏差値55の人間の処世術」だったのだ。


 ただ、やはり精神的には、非常に疲れる。それでも周辺を無視できるほど振り切れるわけでもなく、少しずつストレスが溜まっていく。


 クラウドワークスでライティング案件を受けるようになったのは、そのような評価の仕方から、現実逃避してみたかったという事情もあった。しばらくリライト案件を受注していたのも、先の小説落選の経験から「突出したクリエイティブな独自性がなくても、理論的な文章への書き換えや工夫なら私でもできる」と考えていたからである。


 さまざまなクライアント様からリライト案件を受注する中で、「文章自体は上手くないかもしれないけれど、勢いがある文章」や「それほど難しいことを言ってはいないのに、読んでいて楽しい文章」に出会う機会も数多くあった。もちろん、その逆も。


 要は、少しでも「キラリと光る」要素があることが重要。


 これって、数値化して表現するなら「偏差値55」の世界ではないだろうか?


 仕事上で扱う文章では、最低限の文法やルールは守られていることが必須条件だが、ネットの世界では、その枠すらも飛び越えてなお魅力を発信できる人もいる。よく評価基準として「数字」が使われるけれど、やはりそれが全てではない。分かりやすい指標ではあるけれど。これが、「書く」ことの面白さであり、怖さでもあると思うのだ。

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