怪物の冒険

@ak5051

怪物の冒険


 1


 僕の妻は変人である。

 しかしながら彼女の性向を言葉で説明するのには少々骨が折れる。文字通り筆舌に尽くしがたい御仁なのだ。

 例えばこう前置きしておけば理解が良くなるだろうか。洗脳されている人間にあなた洗脳されてますよとお伝えしたところで、すでに洗脳されている人間がそれを信じるわけがなく、暖簾(のれん)に腕押しのような状況となってしまう。それと同義で、彼女にあなた少し変ですよと諭したところで、彼女自身は自分のことを変だとも非常識だとも思っていないのでちっとも通用しないのだ。僕が彼女の間違いを正そうと正論を述べたところで、彼女にとってそれは正論ではないのだから正しようがない。彼女の不可思議極まりない価値観も理念も生き方も、動かざること死者のごとしなのだ。

 こう聞くと何だか面倒くさい女に思われてしまうのだが、一度そういうものだと諦めてしまうことで彼女にまつわる大概のことには目を瞑ってやりすごすことができるようになる。それに、彼女自身には他人を貶めてやろう傷付けてやろうなどという害意は一切ないし、それを僕も、僕の同志らも分かっているので、彼女に本気で腹を立てる人間も、諍(いさか)いを起こす人間も僕の周りには存在していない。僕の周りには。

 彼女の行動が結果的に僕たちに害をなすことになろうとも、それを咎めたり罵ったりする人間も周囲にいない。一週間かけて作り上げたものを一秒で台無しにされようが、そんな程度のことは常に想定内ということにしている(何を言っても無駄だと分かってることが大きいのだが)。

 我が家の中に確かに妖怪がいるのに平和は続いている。そんな感じ。

 結局のところ禍福の決め手など、非常識者の存在の有無などではなく、その周囲の歯車の噛み合わせの問題なのだろう。我が家にはカオスの渦の根源が確かに存在している。にもかかわらず、今日も今日とてその渦の動きを想定した組み合わせの歯車がどれもこれも食い違うことなく、変則的で複雑なその運動を自然な流れの中で続けているのだ。滅多にお目にかかれない高難度の歩行術や呼吸法のようなものをみなで体得し、みながそれを実行している。おかげで我が家はいつもいつも喜劇を演じる羽目になってしまうのだが。

 問題は妻が家の外に出る時だ。彼女のことをその性質も含めて理解している集団の中ならば彼女の蛮行は何の問題にもならない。それを知らない人間が彼女と相対した時にだけ毎回問題が発生しているのだ。特にそれが常識人相手であるほど激しいぶつかり合いが生じてしまう。

 そしてその時に価値観を変えられるのはいつも常識人たちの方だった。彼女は絶対に揺るがないからだ。彼女の思考は常に一貫しており、それはダイヤモンドよりも不変で地球よりも泰然としていた。

 その日、僕が仕事を終え家に帰ると、リビングから何やら話し声が聞こえてきた。我が家の一員である大事な大事な二つの歯車の声だ。妖怪の立てた波風を上手に受け流す術を身に着けた「プロ歯車」の二人。妻と知り合って三年目の僕などよりもずっと多く彼女のことを知見してきた尊敬すべき先達。

「あー憂鬱。三者面談どうなっちゃうのよ」

 家に上がって早々、悲痛に喘ぐ少女の声がした。

「担任の先生にアンガーマネージメントの基礎を指南しておけよ。それか、寺行って修行してこいって」

 どこか冷笑的な若い男性の声が応じた。

「修羅場って、欠伸(あくび)してれば過ぎてかないもんかな」

 呑気さと切実さを両方内包した少女の声が漏れ出てくるリビングに入っていくと、猫が部屋の隅の方で知らん顔して丸くなっていた。

「ただいま」

 僕がそう言う前に彼らはすでにこちらに顔の向きを合わせていた。

「おお、労働義務違反の強制収容所から無事帰ったか、家長」

 若い男がニヤニヤしながら言う。

「でも、ご飯にするかお風呂にするかそれともワタシにするかを訊いてくる優しい奥様は待ってないわよ、家長」

 少女がどこか上から目線で言う。

 めいめいに、それぞれの個性を挨拶に映し込んでくる似た者兄妹。

「ただいま」

 足でちょっかいをかけながら猫にも挨拶。にゃあとも言わずに無反応で無視するあたりがなんとも猫である。

 兄妹がいるのはテーブルのいつもの席だった。長方形の長い辺の方に二人で並ぶ形。家の者には家の者の定位置というものが自然と出来上がってしまう。僕もこの家の中に独自の定位置をいくつか持っているので、義弟や義妹のそれを見るのが少しうれしい。

 風邪を引いたらいやなのでうがいと手洗いはきちんとする。それを済ました後でリビングに戻ると、それまで待ってくれていたであろう二人がさっさと座れと僕を急かしてくる。

 僕は僕の定位置である彼らの向かい側の席についた。我が家のテーブルにはあと一人分の定位置がある。僕の隣の席だ。今はそれ以外の三か所が埋まっている形だ。

 恐らく、この兄妹が本日取り上げたい議題はその空いている定位置の人物についてのことなのだろう。

 我が家の安全管理運営委員会の議長は僕だが、活動の中心となっているのはこの若き委員の二人である。そして彼らが議題に上げる問題は常に妻のこと以外に無い。うちは四人家族なので妻を除くと構成員はこれで全部だ。

 僕の真向かいにだらしない姿勢で座っている妻の弟、日向(ひなた)弦(げん)吾(ご)は現在二十歳の大学二年生だ。しかも僕の勤める大学の同じ研究室に在籍しているので、家でも職場でも彼とは顔を合わせることになる。僕のような若い研究員は教授たちよりも学生らと一緒にいる時間が長くなるので、この弦吾君とも余計仲良くなってしまっている。彼は彼の姉や妹とは違い恵まれた容姿は持ち合わせていなかった。自分でも眠たそうなカエルなどと自分の面相のことを面白おかしく卑下している。それでも肩の力を抜いてのらりくらりと人生を歩んでいる感じが一緒にいて居心地がよかった。余裕を持っている人間というのは自分も含め誰も傷付けないからだ。更に言うならば、彼は自分の領分というものをよく分かっている。その時々の自分ができること、できないこと、その時々の自分の背丈や手の届く領域の半径なんかも正確に心得ている。視野が広く、柔軟な思考の持ち主でもあり、達観もしているのだが楽観も忘れずに持ち合わせていて、身勝手な寄り道を密かに楽しんでいる。僕が二十歳の時にこんな友人が身近にいたら素直にうらやましがっていたことだろう。

「お疲れさん。ブラック研究室からようやく解放されたってのに、今日もまた肩の力を抜くのは後回しだからヨロシク」

 ニコニコではなく明らかにニヤニヤという表情を浮かべながら、労いやら嫌味やらをいっしょくたにして投げつけてくる弦吾君。

 僕は苦笑いで応じた。

「若者からしたらブラックな環境なんだろうけど、教授たちの世代からしたら全然純白の環境なんだろうね。普段から僕ら下請けに発注している作業量なんて、あの人たちからしてみればどうってことない量なんだよ。むしろ自分たちがそうだった時と比較してと思っているくらいなんだ」

 これにニヤケ面のままの義弟が応じる。

「自分は何と配慮の行き届いた年寄りなのだと勘違いをこじらせて耳を閉ざし、目の前の若い悲鳴を遣り過ごすわけだ。六十年もおんなじ頭蓋骨の中にある脳みそなんて変えようがねえからな」

「彼ら世代が参照にするのは常に自分の過去の実体験のみという点が、彼らの考え方をいつまでも変えられないものにしてしまっているのさ。その参考文献が間違っていた場合の修正と反省がずっと無いやり方だね。辛い経験やそれをクリアしてきた経験がその経験自体を美化してしまって、そこに世の中の真理の全てが詰まっているかのような使い方をしてしまうものなのさ」

 老害と呼称される方々の大半は経済成長期とバブル時代を経験している。科学も文化もあらゆるものが黎明期だった頃のことだ。その未熟な時代の実績と成功体験が意固地な教典となって新しい時代に生きる人々を不便にしているという不合理。

「さすが。新進気鋭の若手社会学者さま。本出せるよ」

「もう出てます。その印税で大学通ってるのが君です」

「あ、その節はどーも」

 びっくりするくらい他人事なのが逆にすがすがしくて心地よい。基本的にこの兄妹には義兄に対する遠慮がない。これには本当に助けられている。

「ちょっと、。相談があるのはじゃなくて私なんですけど」

 少し尖り気味の澄んだ黒目が前屈みになって僕を見据える。

 実の兄と義兄の呼称を上手く使い分けるこの少女は妻の妹、日向美(み)琴(こと)十七歳。現役JKの二年生。姉に似てとびきりの美人だ。毎朝綺麗なロングの髪をなびかせ、スカートをはためかせながら行ってきますをする彼女のことを僕は太陽以上に眩しく感じていた。彼女自身は年齢以上に聡明でしっかりしており、時には二十八歳の僕以上に達観した意見を言うこともあるほど大人なのだが、一方で子供ゆえの生意気さや遠慮の無さもきちんと忘れてはいないのだ。それは短所では全然なく、むしろ失ってはならない長所であると僕は思っている。容姿の似ているはずの姉と決定的に違う点は平生の目つきの鋭さだろうか。現実の厳しさと嫌らしさと手強さをこの年齢ですでに悟っているところにその遠因があるのだろう。

 姉のことも含めてこの兄妹は色々と気苦労を重ねてきた。クリア不可能な困難やストレートな不条理は子供をすぐに大人にしてくれる。その結果がこのしっかり者の兄妹だ。反対に、それらから逃げ回ることのできる環境にある子供は大人になってもずっと子供のままなのだろう。

「三者面談があるんだって?」

 僕は美琴ちゃんの方に顔を向けてそれを確認した。彼女は頬杖を突いて座っており、その白い手の平に己のアゴを置いたままかくかくと頷いた。その後で僅かに僕の方に身を乗り出してきた。

「そうなの。にいさん、まず何も知らない無知なにいさんに三者面談というものの悪辣な仕組みを説明しておくね。ここ大事だからよく聞いて。これは何と、驚くことなかれ、私と先生だけでなく、もう一人、この私の保護責任者などというものを進路相談の場に連れてこいという、あまりにも挑発的なシステムになっているのよ。つまり三人目が必要なのよ、三人目」

 美琴ちゃんは指を三つ立てて何事かを強調してくる。僕は彼女の想定している挑発的の意味が気になりだして可笑しくなった。

「さて、にいさん。ここに至って私はとんでもなく不幸な事実に気付くことになってしまったの。突如として私は顔面蒼白。白髪続出。生理ストップ。更にはラニーニャ現象まで起きたっていうじゃない」

「今年の冬は寒くなるってハナシだね」

 などとヘラヘラしながら適当な相槌を打った僕は、何故か美琴ちゃんから睨まれてしまった。

「にいさん、真面目に聞いて。実のところ三者面談のお達しがあった時点では全然、私は余裕だったの。何故なら私には両親はいないけど、三者面談の三人目となれる保護責任者候補が身近に三人もいることを知っていたのだから」

「え? 嘘、三人?」

 混乱する兄を、妹が睨みつけた。

「まずは一人目。こちらにおわす姿勢のよろしくないカエルのような男性。今年の春に二十歳の大台を突破、民法改正による成人年齢の引き下げもあり見事未成年を卒業。法的にも、または民法改正後の成人年齢にまだ馴染めない人々からも大人の一員として認められることとあいなりました。まだまだかよわく社会的弱者である妹の保護責任義務を形だけでも果たすことのできる男に無事生まれ変わったということです。はいオメデトウ」

「うわ。そういやそうだった。俺二十越えてんだ。あー、永遠に戻らない十代。どうすんだよ」

「続けてもよろしいでしょうか?」

 妹が真面目ぶって兄に問う。

「好きに生きろよ」

「ちなみに、私はあと三年程の猶予があります」

 妹が真面目ぶって兄に言う。

「みんなそうだったよ。そして気付かぬうちに長い老後が始まるんだ」

「知ってますよ。高齢社会待ったなし、若者よ震えて眠れ、ってにいさんの本に書いてあったし」

 書いてない。

 もうこの子らと一緒に暮らして二年になるので、いい加減この漫才にも慣れてきた。

「十代を名残惜しく感じるのは、二人にとって十代は幸せなものだったからじゃないかな」

 僕は思ったことを口にしてみた。すると持ち前の鋭い視線で美琴ちゃんがジトリと睨みつけてきた。

「あらあら、こちらの能天気が過ぎる先生は何を仰っているのかしら。あの姉と共に育ち、若くして両親を亡くし、生まれた家まで失くした私たちのティーンネイジが幸せだったと? 先生、お生まれはお花畑でしたっけ?」

「いやいや、違うよ美琴。彼の生まれはこの日本というしょうもない国のど真ん中さ。その国では平和ボケという奇病が蔓延しているんだ。症例はほらこの通りだ。山賊に襲われたこともなければ山賊になったこともない男の発言がそれだ」

 こんな感じで茶化されても特に腹は立たない僕。

「いやあ。僕だってそんなに良い十代ではなかったけどなあ」

「というわけで、二人目の保護責任者候補がこちら。我が姉の夫君にして稀代の平和主義者、夢路(ゆめじ)響(ひびき)、二十八歳。時にはテレビのコメンテーター、時にはベストセラー作家、時には路頭に迷いかけていた子犬一匹カエル一匹を拾い上げてくれた聖人君子。完全なる常識人。よく見るとナイスガイ。硝子の十代。秘められた過去。三者面談に連れて行くなら本命は間違いなくこの人。次点でカエル」

「だってさ、本命さん」

「カエル君、別に議題に上げる程の問題でもないじゃないか。だって僕が美琴ちゃんと一緒に面談に行けばいいんでしょ?」

 すると何故か二人して目を合わせてため息を吐(つ)かれてしまった。

「私だって、できればにいさんに来てほしいけど……」

「美琴、それは無理だケロ。今週、うちの大学でかなり大掛かりな講演会がある。本命さんが絶対に欠席できないやつだ。何故なら発表者はその夢路響先生ご本人様だから。面談はその日なんだよね」

 弦吾君のこの言の反応として、何故か妹が恨みがましく僕を見てくるのだ。何故だ。

「それなら弦吾君が面談に行ってやればいいじゃないか」

「二人とも同じ研究室でしょ」

 美琴ちゃんの素っ気ない、だが確実に僕の息の根を止める冷徹な一言。そうだった。弦吾君もその日一日拘束されてしまうのだ。

「いよいよ三人目の候補者にご登場願うしかないということで、こうして話し合っていたわけなのよ。無念よ」

「そういうことか……」

 なるほど。これは大問題である。

「美琴、三人目の紹介文はいいのか?」

 兄がわざと真面目ぶって何かを提案する。

「勝手知ったる我が姉よ」

「おいおい。そんなぞんざいに済ますなよ。いざとなったら然るべき施設に紹介状を認(したた)めて送付しないといけなくなるってのにさ。しっかりしてくれよ」

「この家がその施設よ。絶対に外に出したらダメなのよ。保護監視役はお姉ちゃんがうまいこと捕まえたそこの先生よ」

「そこの先生も後学のために美琴ちゃんの紹介文を聞きたいな」

 僕も兄の悪巧みに乗っかることにした。美琴ちゃんはわかりやすくため息を吐いた。

「はあ。えーと。夢路音々(ねね)。旧姓日向、二十六歳。既婚。変人兼女流小説家。お菓子が大好き。超絶美人。しかしそれが却(かえ)って残念。正論を暴論で打ち砕く破壊神。常識を非常識に変えてしまう革命家。喜怒哀楽のうち何個か確認できない人。メガネ。変人。既婚。変人。メガネ。旧姓日向」

「あ、もういいよ」

「え?」

 とっ散らかったところで兄が止めた。不満気な妹。

 だがあの人を言葉で説明する難しさは知っているので、美琴ちゃんは頑張った方である。

「今年の春の家庭訪問の時はお姉ちゃんじゃなくてにいさんが対応してくれたでしょ? だから今の担任の先生はお姉ちゃんのこと知らないのよ。このままだと三者面談が初顔合わせになってしまう。初見の人間に対する夢路音々の恐ろしさたるや、想像を絶する悲劇しか想像できないわ……」

「想像できるんだ」

「え?」

 日本語に矛盾を抱えた美琴ちゃんが顔をしかめる。

「美琴ちゃんの通ってる高校って、ものすごく偏差値の高いところだよね」

 僕が確認の為に訊いた。これに訳知り顔の兄が応じた。

「そうだよ。九割が王侯貴族出身の進学校だよ。こいつは残り一割のレアケース。人民。教師陣も全員聖職者でございって顔した生真面目集団。行儀と常識にうるさいのと、その分了見の幅が狭いのが校風で、時代によっては宗教団体に分類される恐れすらある学校法人らしいね」

「弦吾君、通ったこともない学校のことをよく御存じで」

 僕は饒舌な弦吾君にツッコミを入れた。

「絶えず母校の愚痴を垂れ流す正直な妹を持ってしまったことで、知らないことを知る機会に恵まれたというだけのことさ。人の世は知りたくないことだらけだというのに」

「一割のレアケースは肩身が狭いのよ」

 妹が反論ともつかない反論をする。

「そういえば、この前、美琴ちゃんの高校の制服を着た生徒がオープンキャンパスに来ていたよ」

 僕はふと、いやな記憶とともにそれを思い出した。

「知ってる。お兄ちゃんから聞いた。にいさん、客寄せパンダに使われたんだって?」

「そうそう。引率の事務員がさ、わざわざ僕を高校生たちの前に引っ張り出してこちらがあの夢路響先生ですって、おおっぴらに紹介したりするんだよ。勘弁してほしいよ」

「そりゃ兄貴はベストセラー作家だから。人気者の有名人だから。我が大学のホシだから」

 弦吾君がニヤニヤしながら要らない相槌を打ってくる。

「うんうん。ホント羨ましい限り。みんなのアコガレよね。私なんて人民なのに」

 見事に呼吸の合った兄妹の連携が僕に襲いかかってくる。

「全っ然。全然そんなことないです。その引率の人がさ、先生に何か訊きたいことありませんかって、生徒さんたちに訊いたんだよ。そうしたらあの子たち、全員無反応。ぼんやりと見下したような目で、薄っすらと僕を見るだけ」

 これは恐怖の記憶として僕の脳裏に刻み込まれている。

「それが進学校の生徒よ、にいさん。それが王侯貴族の反応なのよ、にいさん」

 美琴ちゃんが真面目な顔で諭してくる。

「自分はあんな作家に興味を持つようなミーハーではない。もっと崇高な存在なのだ。なぜなら人よりもたくさん勉強してきたし、偏差値も人より上だから。地位も格式も上の存在だから。これよこれ」

 美琴ちゃんが独特の言い回しで進学校の生徒の精神構造を解説してきた。

「美琴ちゃんの高校もそうなの?」

「うちの高校がそうなの! とにかくあの人たちは人よりも上にいることが好きなのよ。狙っているのも難関大学のみ。医者及び法曹志望多し。私なんか下の上くらいの成績だから……」

 それは微妙な。

「下でも中でもない、上の位置にいる方々からいつも見下されているわけよ。真面目に勉強していないやつとは話したくないっていう、あの独特のオーラ。下の民なんて、勉強サボって遊んでるって思われてるのよ。人を見下すことでしか自己を肯定できない人間は最低ですって、たしかにいさんの本にも書いてあったわ!」

「いや、書いてないよ。美琴ちゃんも大変な高校に入ったもんだね」

「もう四面楚歌よ。先生方からも要注意人物のレッテル張られてるんだから」

「え? そうなの?」

「そうなのよ。お姉ちゃんのせいで、私、ずっと先生にマークされてるの」

「なるほど。危険思想の持ち主のお仲間扱いってことか」

 兄が楽しそうに口元を歪める。

「正義面した連中ほど異質な存在に対して不寛容なんだから。シャレも酔狂も通じない品行方正な手合いが多いってことよ、あの学校の職員室には」

 妻の場合、誰が相手でも寛容にはなれない気もするが。

「うーん。でもあの先生はその中でもノリが軽そうだったけどなあ。家庭訪問の時にうちに来た美琴ちゃんの担任の先生。えーと……」

「田口先生。通称たぐっちゃん」

 そう田口。たしか四十歳くらいの小柄な女性だった。ネズミのような顔でニコニコ笑いながら話をする愛想の良さが印象に残っている。

「とても愛想のいい人だったよね。私立の厳格な教育者というよりも、まるで国公立にいる人情派の先生みたいな」

 僕はだんだんと記憶を取り戻していった。

「でもなんかそういうキャラを演じているだけという印象が拭えなかったなあ。私はプロなので保護者との会話を楽しむことにも長けてますよみたいな……」

 ほら、プロの教員の私はこういうスキルも持っているんですよ、みたいな。私が獲得したスキルを駆使すれば人を楽しませることすら自由自在。楽しく会話いたしましょう。

 そういう類型のオバちゃんは各所に分布している。

「にいさんよく見てるわねえ。平和ボケの症状はもう治ったのかしら。その通りです。たぐっちゃんって作り笑いでわざと他愛もない話をしたりするのよ。わ、ざ、と。だってそういうキャラの方が保護者ウケも生徒ウケもいいからね。普段はそうなのよ、普段は。でも根は大真面目だから、いざ私たちが何かをやらかした時には笑顔を完全に消滅させてお説教。アレが本当の姿」

 苦い顔を作って語る美琴ちゃん。苦い経験があるのだろう。

「どうせそれもちゃんと生徒との戯れと指導を分けてますよっていうアピールなんだろ」

 兄も冷笑を浮かべて指摘する。

 この兄妹は本当に賢く育っている。洞察力と観察眼がともに鋭く抜け目ない。やはり困難と共に成長した子供は精神の伸びが良いのだろう。

「去年の家庭訪問はどうたったの?」

 僕は訊いた。美琴ちゃんが一年生の時は僕ではなく妻が対応したはずだ。

「生徒間で石像と称される遊びの部分が一切無い三十代前半の男性教諭がやってきて、お姉ちゃんと謎の問答をしてました」

 どこかに目を背けながら、思い出したくない過去を想起するかのように彼女は話した。

「どんな?」

「あの頃はお父さんとお母さんが死んだばっかだったから。先生も色々と気を遣ってくれたのよ。本当にこのままの生活で大丈夫か、とか。無理してないか、とか。私が大丈夫です、お姉ちゃんもいるので、って適当に流したら先生がお姉ちゃんの方を見ながらこんなことを言ったのよ。我が聖林(せいりん)高校は大変厳しい進学校です、もちろんそれは生徒たちの将来の為なのですが、三年間問題無く健やかに我が校の教育を受けて頂くためにはお姉さまにも相応の覚悟を強いることになるかもしれません、お姉さまもお仕事でお忙しいことでしょうが、これから三年間受験戦争に身を投じる美琴ちゃんのことを御家族の皆様で支えてもらわなければなりません、その覚悟がおありでしょうか、なんて。石像みたいに真顔で訊いてきたわけよ」

「ほう。そしたら姉ちゃんなんて?」

「はい、ありません、って」

「ふむ」

「もう無表情で即答。あの子供の様な無邪気な目でじっと先生を見つめながら」

 まあそうだろうなと僕は思っていた。弦吾君も納得の表情だ。それが妻のいつもの反応だからだ。

「先生も驚いたみたいだったけどすぐに取り戻してさ、この春の不幸により急遽美琴ちゃんの保護責任者となられたお姉さまには、本当に急なことなのかもしれませんが、なんて語り出したのよ。私だけじゃなくお姉ちゃんも心痛で未だに現実を受け入れていないっていう解釈よ。そうしたらお姉ちゃんがさ、それより先生、お仕事戻らなくていいんですか、なんて訊くのよ。こんなところでサボってると悪い噂が立ちますよって、大真面目に」

 弦吾君が爆笑した。美琴ちゃんも少し笑っている。僕も堪えている。

「先生あまりにも唖然としちゃって、本当の石像になっちゃって。後方に控えていた私がたまらずフォローに向かったのよ。お姉ちゃん今日は家庭訪問って言ったじゃないって。そしたらお姉ちゃん、ああそうですか、あと何分くらい話したらちゃんと家庭訪問になりますかって。もう先生も口開けたまま固まっちゃって。そんな先生に向かってお姉ちゃん、もしよろしければもうお帰りになっても構いませんよ、なんて……」

 今度は美琴ちゃんも爆笑してしまった。

「その後お姉ちゃん、それじゃあ私お仕事があるので、って言って、そこの冷蔵庫からプリン取り出して自分の部屋戻っちゃって。取り残された石像を私が何とか帰してあげたのよ。大変だったんだから。しかもね、さっきも言ったけど、私それからずっとその先生からマークされちゃってんのよ。ことあるごとに他に面倒を見てくれる親戚はいないのかとか。お姉さんもお仕事大変そうだから離れて暮らした方がいいんじゃないかとか。その度に私、姉ではなく義兄が面倒見てくれているので大丈夫ですって言ってかわしてきたのよ。社会学者のにいさんのことをその先生は知っていたみたいだから、一応は納得してくれて。でもいまだに怪しんではいるわね。もう面倒くさいったらありゃしないわよ」

 以上が前年度の家庭訪問の顛末らしい。

「そういえば今年の家庭訪問の時、田口先生に今日は奥さんは留守ですか? なんて訊かれたような……」

 僕はふと思い出した。その質問をする時だけは田口先生がキョロキョロと落ち着きがなかった記憶がある。あれはおそらく前の担任からの引き継ぎの中に要注意事項として妻の存在があったからだろう。

 そこで僕はふと思いついた。

「去年の三者面談は音々さんが?」

 たしか美琴ちゃんの学校は毎年面談があると話していたような。僕が出かけた記憶が無いのなら妻が赴いたはずだ。

「にいさん、実家の法要だか法事だかでいなかったから」

「じゃあ……」

 そして僕はその答えを聞く前から妻が出向いたかどうかが分かった。美琴ちゃんの表情が全てを物語っていたからだ。

「あの日、石像が半年ぶりに石像に戻ったの」

 神妙に語る美琴ちゃん。やはり何かあったのだろう。

「私、このテーブルの上に三者面談の通知書を置きっぱなしにしてしまったのよ。にいさんに後で渡そうと思ってここに置いておいたの」

「それを音々さんに見られたわけだ」

「そう。いつの間にかそこに座っていて、通知書をぼおっと眺めていたのよ。お姉ちゃんには関係無い書類ですって取り上げたら、その日響さんは御実家に帰られてますよって言われて。顔面蒼白。白髪続出」

「生理も止まったわけだ」

「は?」

 理解不能の顔をする美琴ちゃん。

「兄貴、未成年の義妹に向かって何言ってんの? 美琴にとっては全然身に覚えのないことだと思うし」

 タッグを組んで僕を罠に嵌めようとするこの兄妹。僕が調子に乗ったのがいけなかったのか。

「もう、ラニーニャ現象も発生するくらいの衝撃だったわけよ」

 美琴ちゃんが続けてそんなことを言うと、騙された感が強くなってしまう。

「今年の冬は寒いらしいからな」

 兄が不要の相槌を打つと、妹もうんうんその通りよく分かってると納得する始末。

「その時点で私に残された道はお姉ちゃんと一緒に三者面談に行くという、神が与え給うた難易度マックスの修験道しか残されていなかったわけよ」

「いっつも与え給うてくるよなあ、あのインチキ占い師」

 弦吾君がまた要らない相槌を供給してくる。

「人間が嫌いなのよ。引きこもりよ、きっと」

 途轍もない冒涜をしているようだが、この国の若者世代での神の扱いなどこの程度でしかないのだろう。

「音々さんは自分から面談に行くって言ったの?」

 僕は訊いた。言うわけがないと知りつつも。

「まさか。初めから自分には関わりが無い情報として捉えていたみたい。お姉ちゃんって大抵の物事に関してそういうところあるでしょ。でもその後、頼りの義兄が本当に三者面談の日に用事があることを知って、結局お姉ちゃんを連れて行くしか選択肢がなく、一緒に三者面談に行ってくれと私がお願いしたのよ。それで無理矢理連れて行ったの」

 美琴ちゃんはもの凄く不満そうな顔を作った。

「石像先生びっくりしてたでしょ」

「うん。だって社会学者の夢路響先生が来ると思い込んでたからね。私もお姉ちゃんが来ること黙ってたし。当日の放課後、お姉ちゃんと二人、教室の外の廊下で待ってたら、廊下の端の方で先生が石になってるのを見て、私笑っちゃって」

 今現在も同じ熱量で笑う美琴ちゃん。

「ようやく体が動くようになった石像先生が今更ながら毅然とした足取りで近づいてきて、どうもお姉さま、ご無沙汰しております、この度は御多忙の中わざわざ御足労いただきまして云々かんぬん、まあ礼儀正しく挨拶したわけよ。もちろんその間お姉ちゃんはあの子供みたいな目でじいっと相手を見ているだけ」

 あー、すげえわかる、と兄が思わず同意した。僕も同じような心内語をツイートし、妻のその習性を改めて思い浮かべた。彼女はどんな場面においても無垢な瞳でこの世界を見つめることしかしないのだ。何も知らない子供の様に。

「そしたらお姉ちゃん、一通り挨拶の弁を並べ終えた先生に向かって、美琴にはそれやらなくていいんですか、なんて訊いちゃって。しかも真顔で……」

 再び笑う妹。兄も私も笑ってしまう。

「聞いたこともない余計な御世話だ」

「で、教室入って、机と椅子並べて、座って。石像ったらいろいろ用意してんのよ。私のそれまでの成績やら、伸び率から見る二年後の予測やら、狙える大学の範囲と現時点での合格率やら。とにかく大真面目なのよ、あの先生。一通り説明された後でどこの大学を志望しているか訊かれちゃって。まだ一年生なのに知るかよとか思って答えあぐねてたら、石像が真剣な表情でもう勝負は始まってるんだとか言ってきてさ。あーうぜーなあって感じでチラッとお姉ちゃんの方見たらお姉ちゃんも私の視線に気付いてくれて……」

 その時妻は妹を一瞥してから石像に向かってこんなことを言ったらしい。

「妹も飽きてきたので、そろそろ本題に入りませんか?」

 嫌味ではなく本心からこれを言うのだ。

「まだ序の口だな」

「うん。先生、呆気にとられちゃって。無心のまま、お姉さま、話を聞いておられましたか、なんて分かりきった確認を取ってちゃって」

「聞いてるわけあるか」

 弦吾君が断じた。

「もちろん、はい聞いていませんでした、って」

 僕が毎度これに強烈なインパクトを感じるのは、彼女が「はい」という肯定や同意を示す言葉を吐いてから「聞いてません」「知りません」などと否定するところだ。

「これには先生すぐに反応して、お姉さま、妹さんの今後に関しとても大事なことですので真面目に聞いてくださいって、声荒げちゃって」

「そしたら?」

「先生、それはこちらで判断することですよ、って」

 弦吾君が爆笑した。

「とりあえず話進めるために、私、適当に志望校の名前言ったのよ。もう埒が明かないから。進行役が半分石化してることだしさ。そうしたら石像のやつ、すぐに元気になってそこの大学へ行くには今のままでは厳しいとか、具体的にこの時期までにこのくらいの実力をつけておかないととか、その為には冬期講習にも積極的に参加してとか」

 職分を全うしようとしてきたわけだ。

「そしたらお姉ちゃんが横から、先生、勉強をしないという選択肢が抜けてますよって。親切ぶって注意してきて」

弦吾くんはさらに笑った。石像にはそれでひびが入ったらしい。

「お姉さま、何を仰る、うちは都内でも有数の進学校です、厳しい受験競争を乗り切るためにみなここに入ってくるのです、日向さんもそれは同じはずです、って興奮のせいで妙な呼吸のまま叫んじゃって」

「同情するぜ」

「そしてここからいよいよ石像崩壊のカウントダウンが開始されるんだけど……」

 美琴ちゃんが一段と神妙に語り出した。

 まず妻は興奮気味の先生に向かってこう言ったという。

「進学校? そうでしたか」

 その予備知識すらなかったようなのだ。

「では生徒のみなさんはこちらの高校に入学するのにも一苦労というわけですね。美琴は偉いですね」

 美琴ちゃんは取り敢えず作り笑いでエヘエへ言いながら様子見をし、これを聞いた石像先生はほんの少しだけ尊大になったという。

「ええ、そうです。入学試験において優秀な成績を残した生徒のみが入学を許され、そして大学進学に際し確かな結果を残し続ける我が聖林高校の素晴らしい教育を受けることができるのです」

 これを聞いた姉は納得したようにコクコクと頷いてから、こんなことを口にしたという。

「勉強できる人にしぼって集めて、三年後に進学させるわけですか。合理的ですね」

 雄弁なる石像はこの言葉で急停止した。

「逆のことをしている学校の方がきっと素晴らしい教育をしてらっしゃるのでしょうね」

 彼女はこれを何の害意もなく言えてしまうのだ。頭の中に浮かび上がってきた疑問の解答を得たので口に出してみただけという感覚で。

「私、ちょっと感心しちゃってさあ」

 美琴ちゃんが言う。何故か不満気に。

「腑に落ちたっていうの? てかむしろ、学校ってそうあるべきじゃないのってことまで考えちゃって」

 優秀なのは聖林高校ではなく生徒の側であるという主張。放っておいても勤勉で優秀な生徒しかいないのであれば学校側が宣伝に使うための「合格率」は常に担保されるということだ。優秀な生徒のいない学校で同じ合格率を挙げることができたのなら、そちらの方が優秀な教育機関ということになるのではないかというこの指摘。まさしく腑に落ちる論理だ。逆に聖林高校の教育が本当に優れているかどうかは疑念の余地があるということ。そしてこれは聖林高校に限った話ではない。全国の進学校と呼ばれる学校にもあてはまってしまう疑念でもあるのだろう。

「美琴はしっかりしてますので、先生は何もやらなくていいんですよ、よかったですね、なんて言っちゃってさ。それもまたお姉ちゃんなりの親切心なのよ。理解できないけど」

 その後、完全崩壊した石像が立ち直ることはなく、三者面談はお開きになってしまったらしい。私は話を聞いていて終始あの人らしいなと感じていた。

彼女なりの視点。それは常に異世界にあり、彼女はこの欺瞞だらけの現実世界を外側から見ることができるのだ。それはいわば「完全な客観視」を持ちうる存在であるということ。

 この世で最も得ることの難しい能力。そしてこの世の誰もが手に出来ていない貴重な、そして最強の能力。

 それが客観視。

 現実世界に対する客観視。

 完全な、100%の客観視。

 この世に生きて、色々なものを見てしまっている以上、先入観を完全に排除するなど、どんな人間にも不可能な所業である。生きていることそれ自体がありとあらゆる思い込みの温床となってしまうからだ。何も見ず、何も聞かず、何にも触れ合わずに生きていくことなどできやしない。「これが普通である」という人それぞれの思い込みが、「普通」かどうかを確かめたわけでもないそれが、成長過程のあらゆる場面で発生してしまうのが人間だからだ。そしてそれは思い込みである以上、どんなに理に適っていなくても、どれほど自分に、あるいは他者に害を為すようなことであっても、その「普通」を疑問に思う人間などどこにもいない。なんせそれらはどれも「普通」のことなのだから。それが「普通」であると学んでしまっているのだから。いっそ考えるまでもないことなのだから。みなで一斉に同じ歩調、同じ歩幅でその「普通」を当たり前のものとして実行しようとしてくるのだ。

 この誰にも気付かれない「普通」を我々は常識などと呼んでいる。

 常識――。

 思い込みと先入観と勘違いの成れの果て。

 現実世界を規定する不変不動の堅牢なる教典。

 それぞれの「普通」を何としても貫こうとする思考停止の洗脳。

 しかし妻だけはこれに当てはまらない。

 何故なら彼女はを生きてこなかったから。彼女が生きてきたのはずっと自分の中の世界だけだった。自分としか対話してこなかった存在。それが僕の妻の正体なのだ。彼女はを知らないのだ。ゆえに彼女にとってはこの世で常識となっていることが違和や異常になってしまうらしい。

 人類が誰も獲得できないはずの完全な客観視を異世界の住人たる彼女は持っているということだ。それゆえに彼女は破壊神にも革命家にもなってしまう。人の信じている、信仰している常識とやらをことごとく剥ぎ取ってしまう暴力にも似たその力。それが彼女の持つ究極の客観視の恐ろしさなのだから。

「あー心配。たぐっちゃんプライド高いからさあ、自分なら噂のお姉ちゃんでも御しきれると思ってる節があるんだよね」

 美琴ちゃんが深く頬杖を突きながらぶーたれる。

「それは大波乱の予感だな。カメラ入んねーかな」

 兄が面白そうに相槌を打つ。本当に楽しんでいるのだろう。

「今更ながらにいさん、よくうちのお姉ちゃんと結婚したよね。自己犠牲で満足するタイプ?」

 これを本気の疑問のように問うてくる義妹。子供の素直さというのは時に暴力に等しい。

「姉ちゃん美人だからなあ。毒があるとも知らずに近づいちゃう生き物がいるんだよ。大抵の虫はその毒ですぐ死ぬのに、兄貴はまだ生きてるんだよなあ」

 義弟のこれは単なる言葉の暴力でしかない。

「毒はその人の体質によって薬にも成り代わるからね」

 そうやって僕は当たり障りのない返事をして二人を煙に巻いた。

弦吾君の言う通り、妻の美貌に目を奪われてしまったことは正直否めない。僕が最初に彼女と出会った時、女性経験など一度もなかった僕はそのあまりの美しさにコロッと騙されてしまったのだ。

 あの時、彼女は彼女を見つめながら石と化してしまった純情初心(うぶ)な僕に近寄り、かけていた自分のメガネを外し、思いっきり顔を近づけてきて、じいっと僕の目を凝視しながらこう言ってきた。

「ああ、やっぱり私を見ていたんですね」

 あれこそ僕を一生縛り付ける呪いの一言だったのかもしれない……。

 ふと気付くと、我が家で飼っている三毛猫のオヒゲが僕の足にすり寄ってきていた。先ほどはガン無視したくせに。

気ままな彼女を抱き上げてから僕は向かい合う兄妹に言った。

「音々さんの魅力は人に説明するのが難しいだけだよ」

 きっかけは美貌だったかもしれないが今一緒にいるのはそれだけではない、ということだ。

 まだ今の一軒家に住む前のこと。

 その頃兄妹二人はまだ存命だった彼らの両親と共に実家で暮らしており、僕と妻は日向家とは別に、結婚する前から僕が住んでいたマンションで二人で暮らしていた。

 僕も妻も収入は人よりも多くあったので暮らしに不自由など無かった。僕は講師としての給金の他、書いた本が売れてくれたことと、そこから派生していろいろな方面から仕事のオファがきたことにより、多忙ではあったが結婚相手を何不自由なく養うくらいの稼ぎは確保していた。だがそんな僕の配慮など必要の無いくらいにその結婚相手もまた稼いでいたのだ。結婚する前から彼女は売れっ子の小説家だった。学生の頃からすでに出版社に依頼され執筆していたという。受賞歴も無ければ作品がドラマ化、映画化していたりすることもないというのに、それでもファンが付くほどに売れ筋の書き手となっているらしい。なんとも不思議な現象である。なので、売れているのに話題に上ることのない彼女の名前を知っている人に出会う確率など、僕の名前を知っている人に出会う確率よりも遥かに低かった。そしてそれを気にする人物というわけでもない。

 そこのマンションはペット可だった。その当時僕たち夫婦にペットを飼いたいなどという気持ちは一切無く、僕はただいつものように新妻に困らされながら日々を過ごしていた。

 当時住んでいたそのマンションにあの妻を招いてからはやはり様々な問題が生じた。中でも最も多かったのは人間関係による問題だった。彼女は自分の行動範囲内にいる人間と衝突してしまうことが多いのだ。特に善良と呼ばれている部類の住人との軋轢が必ずと言っていいほど発生してしまう。普通、善良と呼ばれる住人とは諍(いさか)いなど起きないはずなのだが、彼女の方が普通ではないのでそうもいかない。

妻が越してきたばかりの夏の日、僕らは隣に住む身ぎれいな五十代くらいのマダムと玄関先でばったり顔を合わせた。僕たち夫婦は二人で共通の知人に会いに出かけるところだった。

 マダムは僕がそこで暮らすよりも前からその部屋に住んでおり、調味料の貸し借りこそないが顔を合わせたら挨拶する程度の付き合いはしていた。外に出て働いている様子もないので、資産家か投資家の類なのだろうと見当をつけていた。もちろん確認はしていない。結婚はしておらず子供もいないようだった。その代わりといってはなんだが犬を二匹部屋で飼っていた。特に吠えることもなく獣臭くもないのでうちに迷惑がかかっていることは何も無かった。自分の愛玩欲求を満たすためだけに動物たちを利用し、動物愛護という言葉に全てを押し付け、周囲の人間に対する迷惑を一切考慮せず、愛玩欲求よりも面倒の量の方が増えた途端に飼育がいい加減になったり手放したりする身勝手な飼い主が多い中、隣人である僕を困らせたことのないこのマダムは善良な飼い主のようだった。そして、恐らく全国のペット愛好家の方々がそうであるように、彼女も自分の飼っているペットを溺愛していた。人間以上にという共通点も忘れずにだ。

 動物は人と違って言葉が話せないというところが大きいのだろう。コミュニケーションが取れてしまうと知りたくない感情も知ってしまう。聞きたくない言葉も耳に入ってきてしまう。その点動物なら安心できる。勝手にこちら側の思い込みで今コイツはこんなことを考えている、こんな風に思っている、などと決めつけることができる。そんな人形遊びの延長を犬や猫で楽しんでいるのかもしれない。

 このマダムも恐らくはそういう類の人種だった。たまに見かけるだけでもそういう印象を抱いてしまう程に、人間にとって疎外感のある愛し方でペットを溺愛していた。

 彼女はつばの広い日除けの白い帽子をかぶり、風通しの良さそうな白いおしゃれなワンピースを着て外に出てきた。これがマダムのいつもの散歩のスタイルだった。左腕で量産型の小型犬を抱え、逆の手で毛並みの良い外国産の犬に繋がれたリールを握っている。

 マダムは玄関から出てきた時から胸に抱え込んだ小型犬に小声で何事かを熱心に話しかけていた。

「あら」

 すぐに我々の存在に気付き、マダムは軽く会釈をしてきた。僕も会釈で返した。妻は無垢な瞳でじいっと小型犬を見ていた。

「ちょっと、夢路さん。とってもきれいな奥様じゃない」

 それが初対面だったらしく、マダムは興奮気味に感想を述べ、妻にも初めましてと挨拶した。さりとてうちの細君は微動だにしないわけなのだが。

 そしてすぐマダムは小型犬に向かって「ねえ? きれいな奥さんでちゅねえ?」などと口をすぼめながらのお子様言葉で話しかけていた。対象物が無反応にも関わらず「ううん、そう」などと受け答えする当たりが僕には理解できないのだ。

 自分本位の身勝手な感情解釈。

 お人形遊び。おままごとの延長……。

 などと考えてしまう社会学者の悪い癖。

 その間にも妻がじいっと小型犬を見ていたので、僕は嫌な予感がしていた。

「あら、奥様、に興味がおありなの?」

 妻の視線に気付いたこの婦人はそう解釈したらしい。絶対にそんなわけがないという僕の懸念を置いてけぼりにして、マダムは妻に小型犬を差し出すような仕草をしてきた。「抱いてみる?」というジェスチャーなのだろう。

 僕の嫌な予感が膨張していく。その隙に妻が口を開いた。

「このはいくらで買ったなのですか?」

 僕の嫌な予感が……爆発した。

 質問者の我が妻は何でもないような顔をしている。夏の猛烈な日差しの下でも彼女は常に涼しげである。

「あの、もしかして、奥様もを飼いたいのかしら?」

 善良な市民による危なげない受け答えである。平和な会話をなんとか継続しようとする意志が感じられる。それだけでも十分善良である。

「いえ、全然。私はただおいくらで買った犬なのかを知りたいだけです。どう見ても野良犬ではなくペットショップで買ったのようですし」

 平然と平和を乱す妻の言動に、さしものマダムも僕に助けを求めてきた。驚き慌てた表情で僕を見てきたのだ。

「あの、音々さんはそれを知ってどうするつもりなんですか?」

 僕は出来るだけ穏やかに妻に問うた。マダムという監視者の目の前で。

これに妻が答えた。

「量産された犬をお金を払ってまで買い上げ、それが死ぬまで手間暇かけて世話をする。よく分かりません。お金をもらってそうするならまだ理解できるのですが」

 彼女にしか理解できない世界が広がった気がした。これにはマダムがやや興奮気味に反応してきた。

「あなた、何を仰りますか。ペットを世話することの面倒なんて、この子たちと一緒に暮らせる幸せと比べたらなんでもありません。一緒に暮らして、可愛がってあげたいんです。だからお金を払ってでもこの子たちを飼いたかったんです」

「この犬と共にペットショップにいた他の犬は何がいけなかったんですか?」 

 これを直球で訊けるのがこの人のすごいところなのだ。咎めているのではなく興味を抱いて訊いているのだ。

 マダムは絶句していた。

「お値段とご予算の都合ですか? それともあまり可愛くなかったからでしょうか?」

「それは……、そんなの……」

 マダムが返答に窮する気持ちはよく分かる。何故ならそこに人間の優越思想が見え隠れしているからである。。ペットを購入するのも世話をするのも、ペットと飼い主の両方が幸福ならばそれでいいのかもしれないが、それらの購入できるペットはみな人間が作り出したものであるという事実。そして我々人間はその作り出した中から選択するという、中々残酷なことをしているわけである。

「私はこの子たちじゃなくても、ちゃんと愛して育てることができます! ペット愛好家はみんなそうです!」

 マダムがついに激高した。犬二匹は相変わらずへっへっへと言いながら尻尾をフリフリしているのだが。

「そうですか。では野良犬を飼った方が万事に亘(わた)って効率的ですね。タダですし、町の人にとってはその辺をうろつかれるという危険も去ります。野良犬側も殺処分されずに済みますし、善良な愛好家さんたちに生涯可愛がってもらえる。犬を売る必要も売るための犬を作る必要もこれでなくなりますね」

 言いながら妻は一人で納得し満足していた。彼女はそもそもこの婦人を咎める気など一切無いのだ。ふと目に入った犬から連想された疑問に独自の解答を見出そうとしただけなのだ。

 あまりの衝撃にマダムは立ち尽くしていた。毛並みの良い外国産の犬の手綱を持ち、愛玩用に作り出された量産犬を抱きかかえたまま。

 このマダムは本当に野良犬でも愛せるのだろう。だが、それならばどうしてそれをしなかったのかという罪悪感が不意に彼女の心を打ってしまったのだ。本来なら感じる必要のないその罪悪感が。

 ……本来なら感じる必要のない?

 ……本当にそうか?

 僕は呆気にとられているマダムに失礼しますと言い置き、妻の手を取ってその場を離れた。

 これが夢路音々のこの世にはない視点での思考の一端なのだ。彼女はいつも常識の外側から物事を見ており、そこに疑問を見出した時に、あっさりとその常識の膜を剥ぎ取ってしまうのだ。

 テープの剥がれを見つけた時のように、あっさりと、無造作に、その手で。

 いつもの駅に向かう道の途上で電柱に張り紙がしてあるのを見つけた。このままだと野良犬が殺処分されてしまうのでどなたか引き取ってくれという内容の文章が犬の写真と共に記載されていた。どこかのボランティア団体の活動なのだろう。

妻も毎日通る道の上だ。

 妻はこれを見ていたからこそ、あの婦人の犬を見て色々と考えが巡ったに違いない。

 その張り紙はボロく、掲載されていた日付も数年前のものだった。引き取り手が見つかっていないのならすでに処分されていることだろう。

 妻はその張り紙をチラ見だけして通過した。

「見て見ぬふりをしている僕らも同罪かもね」

 僕は思ったことを口にしてみた。

「いえ。同じは同じですけどどちらも罪ではありません。人の作り出した法律がそれを許している以上、罪には該当しないわけです」

 妻が坦々と答えた。

「先ほどの奥様も罪を犯しているわけではありません。見て見ぬふりをしている大勢の人たちも同様です。それでも罪の意識を感じることがあるとするなら、そこには法律などよりももっと肉迫した、人間の感情に根ざした真実が埋もれているからなのかもしれませんね」

 妻の考えは常に一貫しているように思えた。

 二人で並んで歩いていると、町内会の掲示板のところで妻が立ち止まった。

「響さん。今度は猫がいます」

 覗いてみると、捨て猫の飼い主を募集しているという張り紙があった。段ボールに入った三毛の子猫の写真が大きく掲載されていた。

「こういうのは昔から無くならないなあ。むしろペットブームの余波で捨てる側の数が増えてしまっているのかもしれない」

 妻は掲示板の前でじいっとしているというよりぼおっとしていて動かなかった。一応僕は話しかけてみた。

「音々さん、ペットブームって知ってます?」

「はい、知ってます」

「多くの人が趣味でさまざまな動物を飼う時代になったんだ。市場規模も年々拡大してきている。独り暮らし世帯の増加もあるんだろうけど、ペットブームの一番の要因は、きっと人間が寂しがり屋だってことなんだろうね」

「そうです。ペットにとってのブームではないです」

 妻が一言、誰かに向かってそう言った。

 あるいは人間全体に対してか。

 彼女は子供の頃から本しか読んでこなかった。創作物にしか触れてこなかった。創作物の外側にある世界のことを彼女は知らないのだ。彼女が自分自身で作り上げた異世界のことしか知らないのだ。彼女の世界の外で人間達が作り上げてきた自分たちにとって都合の良い常識や価値観、言い換えるなら欺瞞。それらがミルフィーユのように何層にも重なり、覆い隠してしまった「真実」はきっと僕たち人間には見ることができないのだろう。なんせそれがミルフィーユだとは思っていないから。それは生まれた時から紛れもない「地面」だったから。人間界で暮らす限りそれが欺瞞の覆いだとは気付かないのだ。

 だが彼女は違う。人間界などでは暮らしてこなかった異世界の住人。

 日本の文化の異常さは日本人よりも外国人の方が多く指摘できる。それと同じだ。彼女だけが持ちうる圧倒的な客観視がそこにはあるのだ。

 この時、僕の目は飼い主募集の写真の中に写る小さな命に釘付けになっていた。そして僕の隣には音々さんがいた。

 何故か自分はとても罪深いことをしている気になってきた。

「音々さんの考えでは、僕らがこのまま子猫を放っておいても罪にはならないんですよね?」

 たまらず僕はそんなことを訊いてしまった。

「はいそうですよ。死に瀕した動物たちを、それと知っていながら無視しても、その行為自体が罪に問われるようなことはありません。そのすぐ後でペットショップに並んでいる毛並みの良い安全な猫を買ったとしても、そのことで罪に問われるようなこともありません。そのことで罪に問えるものはこの世にいないのです。法律も社会も罪に問うことはしません。

 そう無感情に言い置いて、妻は振り返らずに歩き出した。

 僕は何かに置いていかれたような気がした。

 そして翌日、彼女は小さな三毛猫を一匹をもらってきた。

 大きくなったその猫は今僕が抱いている。

 やはり妻の考えていることはさっぱり分からない。さっぱり分からないが、この生温かく生意気なケダモノが目に見えない彼女の美点の証拠のように思えてくるのだ。

あの後すぐに引っ越すことになったので、マダムのその後は知る由もなかった。怖いので知りたくもない。ただ、もしかするとマダムが犬を飼うのはあの二匹で最後になるかもしれないということ。

 そういえばあのマダムは僕たちが猫を飼っていることを知らないのかもしれない。マダムがその事実を知ったらまた何か変わるのかもしれない。

 妻は確かに人間界からしたら異質なのかもしれないが、人間の側が変だということもある。しかもその「変」は巧妙に隠され、いつしか良識や常識に取って代わられ、誰もそのことに気付かなくなっている「変」なのかもしれないのだ。その「変」を利用した嘘もたくさんある世の中となってしまった。

 一方で妻の「変」には人を騙したり自分を誤魔化したりするような悪意が一切無い。彼女の場合はピュアな「変」なのだ。

 まあそれはそれで厄介なのだが。

 僕が思う妻の魅力はどう説明したって他人には伝わらないものなのだろう。どうしても人は妻の「変」なところに注目してしまい、ただでさえ分かりにくい彼女の美点がさらに見えにくくなってしまうのだ。僕だって理解してもらえるよう説明しきる自信など無い。

 それでもいいのだ。

 僕さえちゃんと分かっていれば他の誰にも伝わらなくたって構わない。

 そしてちゃんと分かっている僕がいるので何も問題は無い。

「そういえば、音々さんは?」

 僕はオヒゲを両手で弄びながら二人に訊いた。めちゃくちゃ嫌がっている。

「ずっと自室」

 弦吾君が言った。

「夕飯は?」

 キッチンがキレイに片づけられているところを見ると、この二人はすでに食事を終えた後だということが分かる。二人は本当にしっかりしているので、自分たちで作って、自分たちで食べて、自分たちで片付ける、ができているのだ。

「姉ちゃんも一緒に食べたよ。俺の作ったから揚げ」

 妻は一切料理を作ることができない。そのくせして毎度毎度、食事の用意ができる頃合いに二階の自室から下りてくる。

「私たちがテレビ観ている間にまた二階に戻ったみたい。多分部屋で好きな本を読みまくってんのよ。例の如く」

 呆れ顔の妹が推理する。

「この前、新作を書き上げたばかりだからね。今は息抜きの期間さ」

 僕は少々尊敬の念も込めてそう言った。小説を一冊書き上げることの労力は計り知れないものがあるという。ある者は執筆期間を牢獄に喩え、ある者はフルマラソンに喩えるという。彼女は年に三本は新作を出す。つまりその苦行を年に三回というハイペースでこなしているということだ。これは尊敬に値する数値である。

「一年に三作は本当にすごいことだよ」

 僕は兄妹二人の前で彼らの姉を褒め称えた。

「この家のローン返すために必死で働いてるだけじゃないの?」

 兄の方が辛辣な物言いをした。

「てか、趣味でやってるだけでしょ?」

 妹がもっと辛辣な物言いをした。

 面白いのは二人とも決して姉に意地悪をするためではなく、本気でそういう動機であると疑って口に出しているということ。だが僕だけはそれとは別の動機が見えていた。この二人が絶対に忘れてはいけない、姉がハイペースで仕事をこなすその動機が。

「音々さんはきっと、二人を養うために働いてるんだよ」

 僕はそれをきっぱりと言ってやった。

 飽くまで僕がそう思うというレベルに過ぎないのだが、それでも確信を持ってそう言うと、二人は揃って眉をひそめ、顔中に似たような疑問符を浮かべた。彼らにとって想定外の返答だったことはこれで明らかになった。

「兄貴ねえ、そんなだから姉ちゃんに騙されちゃうんだよ。人が良いんだから」

 結婚詐欺を匂わす弦吾君。

「てか私、そんな一生懸命で健気なお姉ちゃん、嫌よ」

 姉に何の期待も寄せていないことが明らかな美琴ちゃん。誰にも何も施さない姉にクールさや浮世離れ感を感じていて、むしろそっちの方がカッコいいものと思ってしまっているのだ。長年あの姉の毒に当てられたことで思考が捻じ曲がってしまっているのだろう。

 妻の考えていることなど、僕にも到底思い至らない境地にあるものなので、僕の解釈が真か偽かなどは確かめようもない。どうせ本人に訊いても要領を得る回答などしない。それでも僕はそう思いたい。彼女がまだ養われの身である弟らを、先立ってしまった両親に成り代わり養育してあげているのだと。

 日向家の不幸は一年前の春先に起こった。

 ちょうど美琴ちゃんの聖林高校合格が決まった頃のこと。彼女たちの両親が事故で亡くなってしまったのだ。日向家は親戚との折り合いが悪く長いこと孤立していた。どうも日向一家が暮らしていた実家は元々は妻の祖父にあたる人物の所有だったらしく、その祖父が亡くなった折に相続の件で他の親族と一悶着あったらしい。

 結果、その家は御両親の不幸な死に際し仕返しとばかりに仲の悪かった親戚の何人かに取り上げられ、値段のつかないその古い家屋は取り壊され、土地だけ売りに出されることとなってしまったのだ。その親戚連中はどうやら幾ばくかの借金を抱えていたらしい。

 その頃すでに僕と結婚していた長女はともかく、弦吾君と美琴ちゃんは両親を失ったばかりか生まれ育った家まで失い、面倒を見てくれる親戚すらいない状況に立たされてしまったのだ。

 僕は年齢の離れたこの義弟と義妹を当時住んでいたマンションに引き取り、一緒に暮らそうと考えた。そして直接二人にその考えを話した。

「狭い空間に新婚夫婦と一緒なんて、居心地悪いって」

「私たちそんな図々しくないし野暮でもないです」

 と、こんな感じで逆に僕らが気を遣われてしまったのだ。彼らはすでに大人だった。だがあまり大人過ぎてもいけない。このままだと二人して進学せずに働きに出ると言いかねない。せめて学費や生活費の面倒だけでも見させてくれと言おうとした時、妻が口を開いた。

「では新たに家を買うので、四人でそこに住みましょう」

 免疫のある二人でさえこの時の妻の発言に驚愕していた。

「いやいや姉ちゃん、さすがにそれは悪いって!」

「私たちそんな図々しくないって言ったばっかじゃん!」

「もう決めたことですので、二人とも我慢して付き合ってください」

 そう言って妻は押し切った。妻の考えを変えることは神にもできない。説得も説教も説法も通じない。それを良く知っている二人は瞬時に抵抗を諦めたという。

 あの時の妻の強制は必要悪だったのだろうと今なら思える。これが二人にとって一番良いことだと考えて妻は押し切ったのだと僕は思っている。付き合いの短い僕でさえ二人の兄妹のことが好きで可愛いと思えているのだ。長年連れ添った長姉がそう思わないわけがない。

 こうして両親と家を失った二人に新たな両親と家が与えられた。

 彼らにとっては馴染みのない朴訥な父親。

 そして母親は若く、クレイジーである。



 2


 閑静な高級住宅街など、夜になれば単なる犯罪の温床にすぎなくなる。金持ちしか通らないこと請け負いのこんな道、盗賊どもの格好の標的ではないか。武家屋敷みたいな家屋の防犯設備だけが完璧で、お出かけの際の自分らの対策がザルではどうしようもない。

 マンション暮らしからの脱出に成功した成金共がここに城を建て定住する。この御時世、マイホーム購入など不道徳で生きてきた世渡り上手たちの専売特許でしかないはずだ。真面目に生きているスーツ姿の百姓らは昨日も今日も外れくじばかり引いている。そして五度目の外れくじくらいでようやく悟って不誠実に生きる方向に転ずる。ここに通うようになってからはいつもそう思う。みなさん、よくやりましたねと。せいぜい強盗に気を付けてくださいよと。

 私はとりあえずくじは引かずにのんびり楽しく生きていこうと思っている。もし当たりを引いたら、それはそれで戻れなくなる場所がある。私はそれを大事にしたいだけだ。

 それにしても、まさか私の愛するあの子もこの住宅地の仲間入りを果たすとは思わなかった。そんな上昇志向のある子ではないはずなのだ。金に無頓着で人にも無頓着で世間にも無頓着。あいつの暮らしなど六畳の中で完結してしまう程に狭く小さくとりとめのないものでしかないはずなのだ。あいつ自身それで満足している。家などというものにはまるで興味の無い子だったはずだ。

 それにしたって、どうして新築にしなかったのか。

 私は辿り着いたその家を見上げた。平成のものかどうかも怪しい、周囲から浮いて見える中古の一軒家。売りに出されていたものを安く買ったらしいのだが、旦那と自分の印税を合わせると、あそこやあそこやあそこにある新築の物件と同レベルの家くらいたやすく建てられるはずだ。せっかくマイホーム購入を決めたのならむしろそうすべきだった。高額納税者の義務をちゃんと果たせよと思う。

 あの半分呆けた旦那が言うには、家を建てると決めてから実際にそこに住めるようになるまで、早くても半年ほどかかってしまう。常に今を生きている若者達にとってその半年はあまりにも致命的である。だからすぐに住める家を選んだまで、ということらしいのだ。

 これにはまあ納得はした。我々が体感している時間の速度と、お子様たちが体感している時間の速度は驚くほどに別次元である。子供の頃は一か月前のことでも大昔の出来事に思えていたし、一か月後の未来などはるか遠い地平線の向こうにあるもので、永遠にこちらには来ないものと思っていた。今となっては一か月前のことなどついこの間の出来事のようであり、一か月後の未来などすぐにやってきて、油断するといつの間にか目の前を通り過ぎてしまうこともしょっちゅうあるほど目前の距離感となってしまっているのだ。

 大晦日、桜の開花、GW、梅雨、盆暮れ……。全部つい先日。年を取るごとに各風物詩の時間間隔が狭まってくるこの恐怖。「慣れ」とはあらゆることの感覚的な短縮。なんでもそうである。

 逆にそれが無い子供らは「慣れ」てしまう前の新鮮な現実を100%の純度で吸収できる稀有な存在だと言える。彼らの一秒は常に我々の百倍の濃度がある。半年後の新築よりもすぐに住める家を所望した旦那の判断は間違ってはいないということ。

 だが他にも古家を買うに至る要因があったことを私は見抜いている。そもそもあの子には贅沢を欲する脳内麻薬が存在していないということ。そして旦那も旦那で暮らし向きに対し望むものはほとんど無いということ。世間離れの度合いが夫婦二人で仲良く異常値なのだ。だからこんな価値の乏しい財産を大喜びで手にしてしまう。

 恐るべきことに本人たちは何も気付いていないようなのだが、あの夫婦は二人揃って「変」なのだ。これは絶対に曲げられない事実である。妻の異常は言うに及ばず、それを許容している旦那の精神もおよそまともではないはずだからだ。

 しかしながら男としてアレと結婚するという選択肢をつい思い浮かべてしまうのはまあ分かるのだ。美人も美人。男なら少しくらいあんな上玉を嫁に迎えることを夢見てもいいだろう。ただし、それはあいつの中身を度外視した夢である。共同生活が開始されることで明らかになっていくあいつの異常性。どんな猛者だろうがそれにはきっと耐えられない。外見判断のみであいつと結婚した場合、たちまちその薄っぺらな夫は精神をやられてしまうことになるだろう。

 それが二年ほども継続できている。そして両者に不満を感じている様子はない。この世に現存している数少ない奇跡とやらの一つがここにある。

結論。あんたらはどっちも異常。異常、以上。

 これに気付いているのはあの余計な知恵を持った青少年二名と私のみである。

 それに、あの夫婦はおそらく男女の関係にはなっていないはずだ。それどころかキスを交わしたことすらないのだろう。旦那は初心だし妻は無性生殖の生命体と同等の精神構造の持ち主。つまりは奇跡の上塗りである。あの年齢で童貞と処女の夫婦など本当に奇蹟的である。しかももう結婚して二年も経つというのにだ。同居をしている弟と妹が子代わりというわけでもあるまい。さっさと子供でも作ってくれれば面白いことになるというのに。あの夢路音々が子持ちになるなど、もしあるとしたらそれは私を笑い死にさせるために神が与え給うた運命の罠である。音々は私にとってのベストオブエンターテイメント。私は編集の仕事というだけであの女流作家と付き合っているつもりは一切ない。

 私は生来の不真面目であり、それがやがて世界を救うと信じて止まない健全な人間の一人である。私があいつに求めているものは新作でも大作でも傑作でもなく、その奇妙奇天烈、摩訶不思議な人間性の発露にある。

 あいつはいつも私に体感したことのない興奮と熱狂を提供してくれる。私のように不真面目を地(じ)でいく人間にしか分からない不道徳なおもしろさがそこにはあるのだ。品行方正なる善人、聖人、常識人どもは残念ながらこの不道徳なおもしろさが理解できないのだろう。

 何のためらいもなく、余計な思考の介在もなく、善悪もなく、合理不合理もない、ただただ心の底から笑えるというだけのそれを。

 経年劣化した塀が見えてきた。もう到着だ。玄関に続く石段も同じように年を取っている。玄関先の雰囲気も私の実家みたいだなとか思いつつ、インターホンを押す。

 今日は旦那もガキんちょ共もいないはず。勤勉な人間は平日の昼間に家にいるはずのない国家なのだから当然である。

「はい、何のご用でしょうか」

 インターホン越しにフラットな声が聞こえてた。いつ何時も変わらない音々の声だ。というか、まずはどちらさまでしょうかと訊けよ。何者なのかを問わないのはやつが本当に相手が何者でも興味が無いからなのだろうけど。

「あんたの編集様のお通りよ。さっさと鍵を開けて入れなさい」

「カンナさんでしたか。何のご用でしょうか」

 二度目の「何のご用でしょうか」――。

 相手が私だと分かっても、この質問に答えない限り先へは進まないようになっているようだ。旦那より付き合いの長い私ですらこんなすげない扱いとは。

「打ち合わせと言っておいたつもりが、どうやらあなたは湯水のごとく記憶が零れ落ちるオンボロの頭蓋骨をお持ちのようね。いいからさっさと鍵開けてよ。寒いのよ」

「よく分かりませんが、入ってもいいですよ」

 よく分からないことなど何一つないと思うのだが、いちいちそんなことにツッコミを入れていたら春になってしまう。

「だから、かーぎー!」

「開いてませんか?」

 反射的に目の前のドアレバーを押すと普通に開いた。私と三人の家族からそれぞれ家にいる時でも施錠せよと命じられているはずが何故。

「何考えてんのよあんた!」

「今は何も。さっきまでは色々と」

 バカと話していても埒が明かないので無視して玄関を通過した。二階では容赦なくドアの閉まる音が聞こえてきた。二階の廊下にはインターホンの室内機が設置されてあるので、 あの女はそこで私との会話を終えるとそのまま出迎えもせず自室に引っ込んだことになる。

 が、こんなことは毎度のことであるし、あいつの発生させる無数の無礼の中でも序の口の方である。あいつを知らない人間だったなら、インターホンで会話した時点で中に押し入って標的をボコボコにするのもやぶさかではないのかもしれない。それくらいあっさりと人の神経を逆なでしてくる女だからだ。

 足元の猫をよけながら階段を上がる途中で私が思っていたのは、さっきまで奴はどんな考えごとをしていたのかということ。色々と何かを考えていたらしい。

 私はノックもせずに音々の部屋に入っていった。ノックなどするわけがない。相手もそれを求めていない。

 生活の為の自室というより書斎。部屋の左右に本棚がそびえ立ち、その中にはかつて作品作りに使用した資料がびっしりと詰まっている。もし地震で本棚が倒れてきたら、音々はどちら側からの本棚にも押し潰されてしまうこととなるだろう。人という形に支え合うことなど決してない。

 部屋の奥の方には窓を背にする形で机と椅子が置かれてあり、仕事用の据え置き型のパソコンやプリンターと一緒に筆記用具と大学ノートといったアナログなそれらも散らかっていた。四つある机の引き出しにはびっしりとお菓子が入ってる。急いで未来に戻ろうとするドラえもんが激怒するレベルの量だ。

 そして窓から差し込む日の光を後光代わりにして神々しく椅子に座っているそこの天女こそ、この書斎の主にして、この書斎から一歩も外に出してはならない人外、我が愛すべき夢路音々その人である。

 小さな顔に大きなメガネ。重力を忘れているかのように軽やかで光沢のある漆黒の長い髪。鏡面と同等の滑らかさで光を反射するほぼゼリー状の柔肌。身長170センチの私よりも小さいくせに私よりも手足がすらっとして見える完璧な体バランス。そしてメガネの奥で輝く童顔美人。

 白のニットに足元まで隠れる茶色のサロペットスカート。冬はいつもこの組み合わせなのだが、これはこれで完璧に似合っているので、おそらく音々をコーディネートしている妹あたりが必然的に辿り着いた答えなのだろう。

 かわいいかわいい私の天使である。こいつこそ女性の数ある理想形の頂点の一つのような気もするのだ。かなりニッチではあるが。

 音々は私が来るまで外国のマイナーな児童小説を読んでいたようだった。作者名も聞いたことがないし装丁もなんだか薄気味悪い。一体こんなものをどのように取り寄せたのか、その入手経路も気になるが、なによりどうしてこんな児童小説に興味を抱いたのかもっと気になる。そして本人にそれを訊いたところでまともな答えなど返ってこない。そういう女なのだ、こいつは。もうこんなことにはとっくに慣れている。

 常に想定外。

 これだけ覚えておけば常に想定内。

 私は私の為に書斎に置かれてある黒い小さなスツールを引き寄せ、音々の隣に置いて座った。いつも通りの位置取りだ。

「あんたね、何で玄関に鍵かけないのよ。昼夜問わず変人変態がごった返すこの国でそれはもう御法度なのよ」

 私は足を組み、肘を机の上に載せ、音々を睨みつけて言った。このくらいのことをしてようやくコイツは話者に焦点を合わせるのだ。

 案の定、大きな黒目が瞬きで点滅しながら私を見つめた。

「もう一度、脱皮がどうのというところから……」

「言ってない。お前、九割聞いてなかっただろ。一人の時でも鍵かけろって言ってんの」

 まさかこいつ、変態を羽化とかの意味で捉えたのか。

「あのね、あなたがブスだったらこんなこと言わないのよ。でもあなたは残念ながら狙われる危険性の高い女なの。天然、美人、人妻、メガネ。そんなに揃えちゃ駄目よ。特に人妻とメガネ。この組み合わせ。これじゃどんな男もストーカーに早変わりよ。もし外であんたを見かけて、そいつが魅了されてしまったら、そのままこの家までつけられるかもしれないじゃない。あんたにはそういう危険があるってことよ」

「離婚してコンタクトに変えれば危険性は下がると?」

「変な解釈すんな。言っとくけど、あんたがそれ実行したらもっと危険だからね」

 軽く首をかしげたこいつは何も納得しちゃいないのだろう。

「とにかく、一人の時でも鍵かけること」

「でも、それだとカンナさんが困るでしょう」

「なんでよ」

「カンナさんが入ってこれなくなります」

 とんでもないことを言ってきた。

「え? なんであんた鍵開けてくれないの?」

「危険だからです」

「殴るよ?」

「響さんにも弦吾にも美琴にも、誰が来ても開けるなと言い聞かせられています」

 コイツ、ちゃんと三人からの命令を覚えていたのか。

「でも私はいいじゃない。知った仲なんだし」

「はい、ですから、今日だけは鍵を開けておきました」

 きっぱりと話しの流れを急転回させる天才。

「……お前、さては面倒くさいだけだろ。私が来た時、二階から降りてきて開錠するという作業が」

「はい、ですから、今日だけは鍵を開けておきました」

「……」

 もうやめようかと思った。こんなバカとの問答にどうせゴールは無いのだ。

 音々にはものぐさなところがある。こいつのクールさはきっちりして見えることがあるのだが、実際はそうではない。面倒くさがり屋で自堕落。放っておくとところどころ怠惰になる。

 ただし、これもまた普通の人間とは違っていて、こいつの場合は自分のだらしなさを認めないどころか、本気でそうだとは思っていないところが面倒くさい。普通は多少なりとも罪と感じてしまい、それでも怠けるものだから自分に対しても周囲に対してもバツが悪くなる。通常の怠け者の態度の基礎にあるのがその感情だ。

 こいつにはそれが無い。だから何も気にしない。自分の怠惰が故に巻き起こる環境の変化や周囲への影響を一切気にかけない。自分が床の上に置きっぱなしにした何かを気にすることが永遠に無いのだ。

 机の上を片付ける時は机の上が必要になった時のみ。この部屋が散らかっていないのは同居人の三人がこいつの不足分もカバーするくらいのしっかり者だからだ。片付けやら掃除やらはおそらく三人での分担制なのだろう。

 なので、自分が面倒だからという理由で施錠しないことへの反省などこの女には無い。面倒くさがることに対しなんら罪の意識を感じていないからだ。

 バカな会話に付き合わされて普通ならため息をつくところだが、私はいつも一笑して次に進む。困らされているにもかかわらず「こいつはそうでなきゃ」という思いがあるからだ。

「よし、それじゃあ本題に入りましょうか。本置いて」

 私は先へ進むことにした。

 音々は私の言いつけを無視し、机の上に本を置いただけで読んでいたページは広げっぱなしにした。こいつと付き合っていると、びっくりするくらい子供っぽい部分と遭遇することがある。これもまた罪に感じていない故、反省のさせようがないのだが。

「次回作の相談よ。うちで出している二つの人気シリーズのうちどちらの新作をリリースするか、それとも単発ものの新作にするか」

 我が不動出版が出している「日向音々」の作品は二種類ある。『クリスタルナイツ』というガッチガチのファンタジーもののシリーズと、『フリースクール』という現代群像劇シリーズの二つだ。どちらも人気作で、どちらも私が担当している。この作者と交信できる編集者が限られているのでこれは仕方のない事なのだ。私としては願ったり叶ったりなのだが。

「編集長はどうしろと?」

 なかなか現実的なことを訊いてくる音々。

「順番的にクリスタルがいいと。でも最終的には音々の判断でいいと」

「私はどちらでも構いません。カンナさんがお決めになられては?」

 最終的にという言葉の意味をよく言い聞かせてから伝えるべきだったか。

「私はいっつもあんたの意向に沿って動いているでしょ。そもそも自分の興味本位でしか活動しない人間のくせに人に選択させるなんて言語道断よ。あんたが今何に興味があるか、それがすべてよ」

 この女の興味の対象となるのは小説、評論、エッセイ等々……、つまりは本と呼ばれるものの中にしかない。実生活の中で心を動かされたことを題材にするなどという作家生活の通常の流れはこいつにはない。そもそもこの現実世界における経験値が毛ほどもないこの女の実体験など高が知れている。ずっと図書館と図書室と自分しか出席しない脳内の会議室の中だけで生きてきた女なのだから。

 その中だけで人生が完結している女に外の世界を見せて歩き、小説を書かせてみたら一体どうなるのだろう?

 私の人生を変えた試みである。

 試みというか、人体実験である。

 結果その作品が死ぬほど面白かったことは編集長も認めている。作家日向音々が誕生したきっかけでもある。

 私は私の「おもしろさ」の追究の為に音々と共に冒険に出る。『クリスタルナイツ』よろしく音々を未知なる世界へと連れ出すのだ。音々にとってこの世は未知なるものしかないのだから。

 それが音々を大作家にする私の唯一にして無二の手法だ。私は音々と冒険するためだけに生きているようなものだ。とにかくこいつをこの書斎から遥かなる大地へと連れ出しともに冒険する。取材と称せばどこへでも行けるし誰にでも会えるのだから。

 私という悪魔が無垢な天女を外に連れ出し、何も知らない天女は外で大暴れをする。悪魔はその様子を見て笑い転げる。

 これでいい。私の描く最大の幸福。

 さあ、音々よ。選ばれし勇者よ。この混沌とした世の中をもっと混沌に陥れに行こうじゃないか。

 現代版『クリスタルナイツ』の始まりである。勧善懲悪では決してない。

「私の興味があるものですか?」

 勇者音々の丸い瞳が私を見つめてくる。

「そうよ。我慢を知らないあなたはそれでしか動かないでしょう」

「興味があるもの」

 ぽわんとした表情で軽く宙を見つめる音々。

「響さんがお仕事で読む本を私も時々読ませてもらっています」

 急にこちらに目線を合わせて喋り出してきた。

「駄目よ、旦那の仕事の邪魔しちゃ」

「大半は非現実的なことや嘘っぱちを並べ立てているだけのもので、響さんも毎日大変だなと可哀相に思いました」

 社会学者の読み物ということは、当然社会問題に関するものの類なのだろう。実際にどこかで起きている問題を取り上げているものがほとんどのはずだが、何故かこいつの視点ではそれは現実には無いものになるらしいのだ。

「その中でも特に奇妙な一冊がありました。『MONPE・クライシス』という半年ほど前に出された本です」

 MONPE。モンペ。モンスターペアレンツのことか。

「どうも学校側に無理難題を要求する親を糾弾するような内容なのでしたが、到底信じられるようなものではありませんでした」

『クリスタルナイツ』におあつらえ向きのの登場とは。

 私は思わず込み上げてくる笑みを堪え、続きを促した。

「信じられないって、どのあたりが?」

「本当にそんなものが存在しているのかと」

「ほう」

 私から言わせてもらえば、美琴嬢の通う聖林高校を襲うモンペはお前なのだが。

「私は響さんにどうしてこの本が売れているのかを訊ねました。響さんは共感する人が大勢いるからだと仰りました。世間のみなさんにはモンスターペアレンツに触れた経験があるということです。そしてその人たちはそれを問題に感じたということです。ただ私にとっては未知の存在でした。一度も遭遇したことのない存在。故に問題と感じることすらできませんでした」

 私は堪えきれずクックと笑った。

「テレビで見たことないの? ニュースでもバラエティでも、ネットニュースでも、しょっちゅうやってるわよ」

「ありません」

「ふうん」

 これは絶対に嘘だ。こいつは興味の無いものは即刻忘却する病気にかかっているのだ。私はその特性を記憶のえら呼吸と呼んでいる。活動に必要な酸素以外は遮断されてしまうのだ。

 それに一度も遭遇していないというのも怪しい。こいつにだって小学校入学から高校卒業までの十二年間は確実にあったのだから。その中で一人くらいモンペとニアミスしていてもおかしくはない。ただこいつがそれを目に入れていたとしても、こいつの場合は記憶のえら呼吸でそれが遮断されてしまうだけのことなのだ。結果、つい最近読んだ書物の中のモンペがこいつの人生の中の初モンペということになるのだ。

「私は論点となっているモンスターペアレンツなるものに俄然興味が湧いてきました」

 こんなふうに、音々はふとしたことで謎を見つけ、それがすぐ興味に変わる。だがその謎はこいつだけの謎であり、我々にとってはすでに周知のものと化している何かのことがほとんどなのだ。謎でも何でもないはずのものとして。

 そう。

 こいつが己の興味に沿って動き回りガンガンに破壊したものが、実は全て本体ではなくただの分厚い外装であり、そこから隠されていた真実の生皮が顔を覗かせることがしばしばあったからだ。

「音々、これはクリスタルの方じゃない?」

 私は提案した。

「どうやらそのようですね」

 音々もそれに納得したようだ。

 壮大な世界観が売りの『クリスタルナイツ』シリーズは、剣と魔法で悪を討つファンタジー調のロールプレイングゲームをそのまま小説にしたような作品なのだが、音々は何故だか毎度毎度、実際に現実の社会で問題となっている事象を参考にしてこのファンタジーを作り上げるのだった。読者からは特に敵側のボスのキャラクターが秀逸と評価されている。音々が現実世界に存在している問題児に直接取材しに行き、そこから着想を得ることでリアルな存在感を持つボスキャラが作り上げられるのだ。

「今回のボスはモンスターペアレンツね」

「まだ分かりません。でも敵キャラとして上手く描けそうな気はします」

 この自信の裏付けとして、音々はすでに『MONPE・クライシス』という本を読んでいるということがある。人並み外れた想像力を持っている女なので、その一冊からでも想像を膨らませることができるのだ。

「今の段階であんたにとってのモンペってどんなイメージ?」

 私は何かを期待しつつ訊いた。

「言語を知らない怪物です。大きな牙と角があり火を吹きます。化け物よろしく情緒を失しており、常に威嚇の体勢を崩しません。満月の夜に街に下りてきて無軌道な破壊を行います。言葉が通じないので説得は無理です。討伐するしか止める方法はありません」

 音々独特の客観視から見たモンスターペアレンツのイメージがそれである。

「破壊って何よ? 口から波動砲みたいな高エネルギー体でも吐き出すのかしら?」

「いえ、とにかく自分の進行方向にあるものを破壊して回ります。彼は自分の進む道を邪魔するものを決して許さないのです。それが平和な人間であればあるほど許しません。爪で引き裂き、牙で噛み千切り、火を吹いて残骸を灰にします。そこまでしても気は晴れないらしく、死屍累々を積み上げながら月が逃げるまで暴れ続けます」

「そいつの怒りはどうすれば収まるの?」

「動物に理性を植え付ける伝説の魔法を使います」

 ずっと笑いを堪えていた私も、この時ばかりは危うかった。

 エデンの知恵の実か。

「それを使った場合はどうなるの?」

「未定です」

「他に弱点はあるのかしら」

「子供がいます。親に似ても似つかない愛らしい容姿をしています。ただし、暴れる親怪物に踏み潰される運命にあります」

「そしたらさすがに親怪物は暴れなくなるんじゃない?」

「子が死んだのを他者のせいにしてもっと怒ります。もっと怒ってもっと人々を襲うようになります。目に止まるもの全てに牙を剥きます。全部破壊してしまえばどうにかなると思っているのでしょう」

「そもそもどうして怪物は街に下りて大暴れしていたの?」

「未定です」

「子供は助からないの?」

「未定です」

 未定事項が増えてきた。とりあえず私の遊興もここまでにしようか。

 彼らが大暴れする理由は何か。彼らの子供が最終的にどうなるか。理性を植え付けるという伝説の魔法を使うとどうなるのか。

 色々とこの女を外界へと連れ出す口実ができてきた。

「どうやら、モンペの実態を目の当たりにしてからじゃないと判断できないことが色々とあるようね」

「そうですね。理性を植え付けた後どうなるかも、植え付けてからでなければ判断できません」

 真顔で何を所望しているのだこいつは。モンスターペアレンツに理性を植え付けることをどうやって実践しろというのか。

 だが発想としてはそれでいい。お前は普通ではないことをもっとやってくれ。それがお前の天命だ。

 モンスターペアレンツとこいつを引き合わせたらどうなるのか。想像しただけで悶絶ものである。はやくその場に立ち会いたい。理性を植え付けるどころか、更なる猛獣と化して大暴れすること間違いなしだ。それに動じずマイペースで挑発を繰り返すお前を早くこの目に焼き付けたい。

「じゃあ、クリスタルの方でいいわね。そっちの方向で行くからね。ねっ」

 私は念を押した。忘れる時は本当に忘れるからだ。

「ええ、どうぞ」

 お前の執筆活動であるはずが、なぜ私にお譲りするような返事をされねばならぬのか。

「そうなると、やっぱり現物のモンペがほしくなってくるわよね」

 私としてはどうしても本物のモンスターペアレンツとこいつを引き合わせてみたかった。報道部に当たってみて現在進行形で問題になっているモンペでも紹介してもらおうか。そんなもののストックがあるかどうかは怪しいのだが。

 さてどうしたものか。

 こいつにどんなエサを与えてやろうか。どんな世界を見せてやろうか。そのためにはどうすればいいのか。私は腕を組んで頭をひねって眉をひそめて考える。考えるのだが、それらは全て私の趣味の延長のことだという虚しい事実。音々の為ではない。自分の娯楽の為の苦悩。

 本来ならば作家の方から私にこうしたいああしたい、これが欲しいあれが欲しいと要求してくるのが筋だろう。小説を書くのは私ではなく音々なのだから。

 だが、今目の前にいるこの作家は、私が黙りこくったところで打ち合わせはひと段落ついたのだろうと勝手に判断し、引き出しからクッキー系のお菓子を取り出し、一人モグモグと食べ始めたのだ。

 他の人間には真似できない、こいつの並外れた能力。それは他人の目を一切気にしないということ。自分の言動に対し他者が何をどう思っているのかを基本知ろうとしない。そんなものに興味を持たない。自分の行動が周囲に及ぼす影響を一切考慮しない。想像しない。想像できるのにしない。

 自分の世界しか知らない音々は他人の感情を慮(おもんぱか)ることができないのだ。ただ自分がこうしたいからこうするのみ。正常な神経をお持ちの常識人はそこに他人への配慮が必ず入り込んでくる。自分はこうしたいけど周りにいる人が迷惑するからやめておこう。周りにいる人はきっと自分を変な目で見るだろうからやめておこう。すぐ目の前にいる編集さんの神経を逆なでする行為になってしまうからやめておこう……。

 そのような、集団生活を強いられる現行人類の大半が青少年期に自然と身に着けるであろう、「他者の視点の獲得」という人ひとりの成長史における一大イベントを音々は見事にスルーしてきたのだ。

 他人の視点でものを見れないということ。それが音々に対し牙を剥き大暴れする人間の、その怒りのきっかけとなるケースが非常に多い。もう私も何度も見てきたことだ。私が音々を冒険へと連れ出し、ダンジョンの最奥でボスキャラと顔を合わせる。ボスは怒り狂い大暴れするのが通例なのだが、それは音々がその激怒すらどこ吹く風というような、ボスの感情の動きなど一切考慮に入れない言動を徹頭徹尾貫いてしまうからである。それは決して意図的な挑発などではなく、音々としては思うままに相手と対話しようとしているだけのことなのだ。そこには何の悪意も無い。ただその中で他者の視点を考慮することが一切無いというだけ。それだけで意図するよりも質(たち)の悪いとなってしまうということ。

 音々にこのをされても本気で怒ることのない人物を私は私以外に三人知っている。私の知る限りそのような聖者はこの世にあと三人だけ残されている。この世にあと三人しかいないところに本来は絶望しなければならないのだが、元凶たる音々がその三人以外とはほとんど会わないような暮らしをしているので、音々も周りの人間もなんとか衝突を回避できているのが現状なのだ。

 その三人とは無論、音々の家族のこと。旦那と弟と妹のことだ。

 奇跡的にこの世に存在しているその聖者三人が、奇跡的に音々と一つ屋根の下に集結しているのだ。奇跡を何度重ねても足りないくらいの確率で音々は生きながらえているということ。本当ならばこの女はこの世に一秒たりとも生きていけない異世界の住人なのだからそう考えるより外ない。

 音々の唯一の安全圏たる私とその三人。この小さな輪から外に出ないように、出さないようにと、音々の一家は神経を尖らせながら監視警戒しているのだ。音々と音々に踏みにじられることになる誰かをそうやって守っているのだ。

 そんなプリンセス音々を外に連れ出そうという危険思想を抱く者があるとするならば、それは間違いなく悪魔と呼ばれても差し支えのない存在なのだろう。そしてそれは間違いなく私のことなのだろう。私はやはりもっと世の中に、特に常識とか良識とかに縛られた人間どもに、音々という最悪の混沌をプレゼントしてやりたいのだ。

 そんな私を悪魔と称するのは他でもない、音々の二人のきょうだいなのだ。人類にとっての災厄を外に連れ出そうとする私のような酔狂者は、あの二人にとって悪魔に他ならないのだろう。音々を外に連れ出すのは私の悪趣味の延長ではあるが、それは立派な編集の仕事でもあるというのに、あの二人は何故か全然納得してくれない。

「脳みそだけあれば本を書ける人だから永遠に放置しておいていいよ」

「外に出ようとする悪い両脚はいらないので切断しておいてください」

 悪魔はどちらだと言いたくなってくる。姉に対してだけはあんたらの方がよっぽど悪魔だろう。

 私からしてみれば、こんな奇人を部屋に閉じ込めておく方が罪である。もっと外に出して世の中を混乱させるべきなのだ。

 ――。

 悪魔は常にこれを考えて生きてゆこうと思う。

 気が付くと、目の前の女はクッキーを一箱分平らげていた。私に一枚もよこそうとしないところがもうアッパレである。そして足元の引き出しを開けてゴソゴソと何かをやっている。

「コラコラ。これ以上食べると夕飯食べられなくなるでしょ」

 私の叱責に音々の動きが止まる。そして音々は上目遣いに私を見上げてからこう言ってきた。

「今食べる分、夜食べなければいいのでは?」

 バカなそろばんを弾きながらチョコ菓子を取り出した音々。引き出しの甘い宝物たちはもっと甘い旦那が買ってきてくれるのだろう。妻のバカを助長するバカな旦那は控訴棄却で即日死刑である。

「本日のお夕食の当番はどなた?」

 今日の夜、こいつにお残しをされる被害者家族は誰なのかをまず知りたかった。

「美琴です」

「あんた美琴ちゃんに叱られるわよ。昼間にいっぱいお菓子食べてっから私の料理食えなくなるんだろうが、って感じで」

「ですが、お腹がいっぱいになってしまったらもうお菓子は食べられません。そう考えると夕飯後は無理なので、チャンスは今しかないということになります」

 ほら、理に適ってるでしょ、という言外のメッセージを感じた。お前がそう思うこと自体理に適っていないのだから却下である。身の程を知れ。

 やはりこいつの同居人である奇跡のお三方は気の毒である。本日の被害者は美琴ちゃんだ。美琴ちゃんはあらゆる場面で姉に怒るが、どれも本気の怒りではない。むかつきはするだろうが、彼女は自分がいついかなる時でも姉に対しむかつくであろうことを想定して一緒に暮らしているはずなので、その想定から出ない限りは真の怒りには満たない。それに叱ると怒るは全然違う。美琴ちゃんは叱りはするが怒りはしない。怒りは単なる激情だが、叱るのは矯正を促す愛情でもある。もちろん矯正など不可能なことと想定しての叱りなのだが。姉に対し美琴ちゃんは呆れるか困るか叱るかのどれかしかしない。怒ることがないのだ。実に平和な反応と言えるだろう。

 あ、そうだ――。

 妙案。

 美琴ちゃんだ。

 美琴ちゃんの通っている学校をこっそり訪問すればよいのでは?

 保護者なのだから学校見学はOKのはずだ。そうやって入り込んでモンスターペアレンツの調査をすればよいのだ。

 学校見学と同時に、新作小説の参考にするため珍しい校舎を見学して回っているので是非とも細部まで建物を見せてほしいという要望を出しておけば、編集者である私の同行も許可してもらえるはず。生徒や先生や保護者のことについて取材したいという申し出ならきっと却下されるだろうが、対人ではなく対物の取材であるならばきっと許可してくれるはず。入り込んだ後は何とでもなるだろう。知ったことか。これまで何度も立入禁止の看板を踏み潰して前へと進んできた私たちパーティじゃないか。いつもその先には怒り狂う鬼が待ち構えているのだけど。

 今回もその作戦で行こう。いざとなったら美琴嬢から情報を得ることだってできるはずだ。

「ねえ、音々、ちょっと話が……」

「響さんが帰ってきましたね」

「え?」

 空になったお菓子の袋の中身を覗き込みながら、音々が何でもないように言う。

 確かに下から物音が聞こえてくる。間延びした声も聞こえてくる。あれはきっと「ただいま」の声か音々の所在を確認しようとする声だ。

「何でこんな時間に帰ってくんのよ」

「よく分かりません。仕事する気が失せたのでは? それならよく分かります」

 崩壊する日本語。興味の無い妻。階段を上がってくる足音。ノックされるドア。

「音々さん、入りますよ?」

「はい、どうぞ」

 夕飯の分までお菓子を食い尽くす堕落した妻に入室を許可されたその男は、ドアを開ける途中で私がいることに気付き微妙に口角を上げた。ああ、やっぱりいたんだ、という反応と私はとった。

「よお、響。臆面もなく仕事から逃げてきたその姿勢を私だけは評価するよ」

「カンナさんは勤勉な日本人だからね」

 と夢路響。

 こいつは私の大学時代の一コ下の後輩だった。初めて会った時にこいつに抱いた印象は十年経った今も何ら変わっていない。

 冴えない。パっとしない。以上。

 顔は悪くない。ブ男では全然ない。むしろ上中下の上に分類される。それなのにイケメンだとは全然思わないし、思われないし、本人すら一度たりともそのような自分を認知したことがない。

 たまにいるのだ。印象に残らない顔。特徴の無い顔。

 もっと抽象的な表現をすると存在感が薄いということになる。

 中肉中背であることもそれを助長しているし、やる気のない表情に見えること、活発さや溌剌さが著しく欠如していることなども存在感を薄める要因となってしまっている。さらには毎度毎度の服装も地味なのだ。パンツとセーター。パンツとワイシャツ。のみ。原色は基本使わず、薄い灰色とか薄い肌色なんかをベースにしているので地味に地味が上塗りされてしまうのだ。

 総じて冴えない。パッとしない。そいつがイケメンかどうかなどは関係が無い。目に引っかかるか、記憶に引っかかるか。そのどちらでもないのが問題。そしてこの男にはその素養がまるでないのだ。

 何のひねりもない男。それが夢路響の全てだった。

 だが今現在はこいつほどひねりまくっている男もいないだろう。地球の正常な回転を妨げるような女と結婚したのだから。

 かつて私は音々との冒険の途中で、音々を女性経験の無い冴えない男と引き合わせてみたらどうなるかと考えることがあった。そして実際そうしてみた。その後あれやこれやで二人は結婚した。ただしハッピーエンドではないということは断言できる。ハッピーでもエンドでもない。何故なら音々による災禍はこれからも延々続くのだから。

「今ようやくお昼休みになったんです。それで忘れ物を取りに来まして」

 非常に薄い表情で私の嫌味をやんわりと否定する元後輩。

「とか何とか言っちゃって。本当はかわいい嫁さんの顔見にきただけなんじゃないの? ねえ、音々」

 とりあえず響の冴えない顔を見るとからかってやりたくなってくる。答えあぐねている旦那を置いて妻が口を開いた。

「カンナさんが今仰ったような妙な習慣は響さんにはありませんよ?」

 手にしたお菓子を口に運ぶことをやめてまでそれを言ったのだから、音々にとってはよっぽど謎だったのだろう。だが音々よ、お前の旦那にそういう妙な習慣がきっぱり無いわけではないということは知っておきなさい。嫁の顔を見たいがために帰宅しているという面もこの男にはちょっとはあるはずだ。

 私は牽制するようにチラリと響の顔を見た。響は照れ隠しに頭を掻いている。阿呆が。

「で、何を忘れたのよ、無味乾燥くん」

「あ、いや、本を貸していたんです。音々さんに」

 旦那は音々の方を振り返ったが、音々は安定の無反応。えら呼吸で忘れているのだろう。

「旦那の仕事の邪魔するなっつったでしょうが」

 私は軽く机を叩いた。

「私は本を借りただけです」

 音々が言う。

「あんたはこの子に何を貸したのよ」

 私は旦那に訊いた。

「『未来への不安』っていう本、知ってます?」

 響が答えの代わりに訊いてきた。

「ええ、もちろん。長いこと話題になってる本だからね」

「ああ、それなら私も読んだことがありますよ」

 バカが割り込んできやがった。読んだことがあるとは何事だ。他ならぬお前が旦那からその本を借りたことを今問題にしているというのに。

「女性総体への罵詈雑言をまとめたものでしたね」

 音々が謎の解釈を持ち出してきた。

「え? 違いますよ音々さん。今の時代の日本に女性として生まれた者が直面する数々の困難を詳細に書き綴った、非常にメッセージ性の高い読み物ですよ」

 これは旦那が正解だ。女性として生きるのが非常に難しい時代であるという訴えを具体的に書き並べた本になっているはずだ。『未来への不安』が出版されたのは三年前。その内容が多くの若い女性、とりわけ子持ちやシングルマザーの共感を生み、今なお話題の火が絶えないほどに大ヒットした本なのだ。

 それを言うに事欠いてこのヒト科の成り損ないが。何が女性総体への罵詈雑言だ。今を生きる女性の窮状をどうやって曲解すれば女性に対する悪口になるのか。

「シングルマザーと呼ばれる方々をさんざん貶(おとし)めていましたよ?」

 音々が言う。

「違いますよ音々さん。あれは実際にあった苦労話を述べているのであって、決してからかい半分の与太話ではないんですよ」

 シングルマザーが直面する苦労をまとめた章のことを言っているのだろう。

「シングルマザーはお金に汚いと書かれてありましたね」

 音々が平然と言う。

「違いますよ音々さん。シングルマザーになったら今までよりもお金の価値に気付かされると言っているんですよ」

「シングルマザーは子を不幸にする存在だと書かれてありましたね」

「違いますよ音々さん。彼女たちは自分の子供を幸せにしてあげられるかどうか不安だということを言っていたんですよ」

「シングルマザーは裁判沙汰を好んで起こすと書かれてありましたね」

「違いますよ音々さん。離婚調停の際にできるだけ慰謝料を多く取れるよう命懸けで戦うという決死の姿勢が生々しく描かれていただけですよ」

 ずっとこのやりとりを眺めていたいのだが、この二人は本気でこれを何時間でも往復できる阿呆らなので、私は泣く泣く口を挟もうかと思った。

「シングルマザーはママ友と呼ばれる集団の中で虚偽の……」

「はいはい。イチャつくのはそこまで。異色の夫婦愛はもうお腹いっぱい。結局その話題の本はどこにあるのよ盗っ人」

 私がそういうと、音々はすうっと椅子から立ち上がり、本棚のある一か所へと進んだ。そこから一冊本を抜き出し、夫のもとへと急いだ。

「こちらです、響さん」

 彼女が本を手渡すと、目的を果たしたはずの旦那の表情はハッキリとしたクエスチョンマークを表現していた。

「え? 『MONPE・クライシス』?」

 それを聞いた瞬間、何故だか私は慌てた。

「ええ。架空の偏執狂を空想している本です。おそらく現実にはこんな人間存在しません。しかしながらファンタジーの存在としてなら大いにあり得る話です。直接そうとは書かれてありませんでしたが、牙と角を有する大型の化け物である可能性が大です。差別表現に繋がるので割愛したのでしょう」

 ますます旦那の疑問符が鮮明になっていく。どういう神経経路でそっちの本と旦那の求める本とが繋がってしまったのかは謎だが、とにもかくにも牙と角の話を旦那にしたところでポカンとされるに決まっている。

「こらこら、困惑する夫が目に入らぬか。その本に関するお問い合わせは私の方にお送り下さいだろうが。そっちの夫は女性総体の悪口の方に対応してる窓口だから」

 私は立ち上がり、響の手から『MONPE・クライシス』を奪い取った。

「これはこっちの仕事!」

「いえ、カンナさん。それ、元々僕の本です」

 そういえばそうだった。

「うっせーな。かわいい奥さんが仕事で必要だって言ってんだから、気前よく貸してあげなさいよ」

 すると旦那は音々に視線を合わせる。

「へえ。音々さん、今度はその本を使うんですか?」

「いえ。もう必要ないです」

 マジか、コイツ。

「お前、これ読んで興味が湧いたみたいなこと言ってただろ」

「はい。ですがその本自体に興味を抱いたわけではありません。火を吹く例の化け物に対し興味を抱いたのです」

 これを聞いた旦那がまたしても理解不能を分かりやすく表した顔を見せる。なんだ火を吹く例の化け物とは、って思ってる顔。

 何故か少し上機嫌の音々が謎の言動を続けた。

「今はもうその本の中から外に出て、理性を植え付ける伝説の魔法を探す時です」

 旦那はもう妻に回答を求めるのをやめて私の方に顔を向けてきた。ただし伝説の魔法に関しては私も良く知らないのだが。

「音々、だからその話は私が聞くから。旦那に化け物のこと聞かせたって理解できるはずないっての」

 そうなのですか、と音々は旦那に顔を近づけて訊く。するとその男の顔が一気に赤くなっていくのだ。結婚二年目にして初心も童貞も捨てきれていない証拠がこれである。

「モ、モンスターペアレンツのことなら、美琴ちゃんが知ってると思いますよ」

 無理やり話を切り替えるかのように、旦那があたふたしながらそんなことを言った。

「え! なにそれ? ちょっと詳しく聞かせなさい!」

 無論私は飛びついた。美琴ちゃんの学校に侵入しようとしていた矢先にそんなことを聞かされたのだから。

「この前、オープンキャンパスでウチの大学に聖林の生徒さんたちが来たんですよ。その時に僕のことをさりげなく見下してきた生徒がいて」

「へえ。さすが、進学校さま」

 私も進学校出身だから彼らの性格は熟知している。

「あとから弦吾君が教えてくれたんですよ。さっき僕を小バカにしていたあの背の高い、髪の毛の長めの男の子は美琴ちゃんと中学の時から同じ学校の生徒なんだって。白石君って子なんですけど、その話を美琴ちゃんにしたら……」

 美琴ちゃんがその美人を台無しにするような顔の歪め方をしたらしい。

どうやら同じ中学出身でも白石君がトップの成績で聖林高校を合格し、美琴ちゃんはギリギリの成績での合格だったらしい。美琴ちゃんはそのことで随分と肩身の狭い思いをしているようなのだ。聖林高校も他の進学校の御多分に漏れず学業成績で差別される学校なのだろう。

「引率の事務員が僕のことを派手に紹介してしまって、そして悲しい沈黙が訪れた後、白石君が退屈そうな顔して、吐き捨てるようにその事務の人にこう言ったんですよ」

 ――いや、別に、この人のこと知らないですし。

「うわ。キモ」

 私はつい感想を口に出してしまった。

「こういう本を書いている先生ですよって、重ねて事務の人が教えると、あ、そう、読んだことないです、そんな時間ないんでって」

「はい出ました。僕忙しいんですアピール。僕上位の人間ですアピール。ノコノコ出てきた客寄せパンダを一蹴することによるレベルの低い人間を相手にしてませんよアピール」

 などと興奮してしまう私。

 わざわざ言う必要のないことを言ってる時点でそいつの器が知れる。人間心理学を全然学んでいない。まだまだ自分を俯瞰で見れていない。体は大人で精神はお子様ということだ。というか、普通に性格の悪い子だ。

「この話を聞いた美琴ちゃんが大噴火しちゃって。白石君に対する悪口を並べ立てて」

「うんうん。いいぞ、美琴ちゃん」

「その悪口の中に母親がモンペって文言があったんですよ。僕がそれは本当なのか確認したら、中学校の時から有名な話だって」

「ほう」

 大収穫では大収穫ではないか。かくなる上はなんとしても白石君とやらに会い、お母さまをご紹介していただかなければ。

 私はガッツポーズの代わりに、音々に微笑を向けた。だが音々はそもそもこちらを見ていなかった。というか、ずっと何も聞いていなかったのかもしれない。

「てかあんた、結局『未来への不安』はどこしまったのよ。それを寄越せって言ってんのよそこの男は」

 すると音々は私の方へクルリと振り返った。

「聞いたことありますね、それ」

 そしてあちこちの本棚を探し始めた。

 聞いたことがあるだと?

 借りパクしたことすら忘れている人間の言い分ではないか。

 音々がどたばたと家探ししている間(やけにうるさい)、私は興味本位で響に訊いてみようかと思った。

「あんたは女性問題でも研究してるわけ?」

 じゃないと『未来への不安』をここに取りに戻った理由がなくなる。

 すると何故かこの冴えない男が困った顔を見せてきたのだ。

「実は、近日中に雑誌の企画で対談することになっているんですよ」

「誰と?」

「著者の相沢(あいざわ)百合子(ゆりこ)先生とです」

 出た。

 近年テレビ番組やら講演やらに出ずっぱりだった時代の寵児。現代女性の代弁者との呼び声高い『未来への不安』の生みの親。相沢百合子四十歳。三年も前に出版された著書の話題がいつまで経っても消えないのは、著者である相沢女史がメディアに出続け、女性の権利向上を訴え続けていることに因るところが大きい。

 女性目線。女性本位。女性の味方。まったく、同じ女性として恥ずかしくなってくる。とにかく今現在女性支持率ナンバーワンの女性。

 女性にとっての分かりやすい正義である。世の中全体がそれを認めてしまっている。しかしながら私が支持する女性は依然として夢路音々ただ一人である。理由もただ一つで面白いからだ。一方、相沢百合子は私にとって何も面白くない存在である。彼女はまともなことしか言ってくれないからだ。音々はむしろ何一つまともなことを言わない。それが素晴らしい。それが変わらぬ限り私は相沢何某とかいうヒーローよりも破壊神の方を推し続ける。

 しかし先程は面白いことを聞いた。音々の視点からしてみれば、この相沢女史の著書には女性への悪口が並べ立てられているように見えるというのだ。音々の視点とは現実に対する究極の客観視。何の先入観も思い込みも、既存の社会や文化からの軽微な洗脳も介在していない、彼女だけが可能なノンフィルターの視力。完全にフラットな視点。

 その視点から『未来への不安』を見てみると、それらは女性の苦悩を代弁しているものではなく、女性を中傷しているもののように見えるということだ。

 うずうずしてくる。この奇異な意見を是非とも著者本人の耳に入れてみたい。正義だの代弁者だの呼ばれている聖人に音々という奇異の爆弾を投下したい。こちとらそうすることが己の天命だと思って生きているのだから。

「大丈夫ですか、カンナさん。表情が奇異ですよ」

 音々の大きな瞳がニヤケ面した私の顔を覗きこんでいた。本を探す手を止めてまでそんなことを指摘したかったのか。

「大丈夫よ。全然奇異じゃないわ。お前に言われたくないわ」

「そうですか。すごく奇異ですけどね。一日に半日くらい寝た方がいいですよ」

 私はこの奇異な進言を無視して、微笑みながら私たちを見ている旦那に話を戻そうと思った。少しその旦那を睨みつけながら。

「対談の予習するために著書を探しにきたってこと?」

「そうです。僕の予習にもなるし、せっかくなので著書のことを講義でも取り上げようと思って。しかし肝心の本を音々さんに貸したままになっていて」

「逆でしょ逆。貸したままではなく、借りたままにしておくやつがいたのよ。全面的にそいつが悪い」

「いやあ。僕が忘れていたんですよ」

 この甘さが音々の横行を許してしまっている。だがこの甘さがあるが故にこの夫婦には衝突が無いのも事実なのだ。

「あ、ありました」

 ようやく宝物を見つけ出したようだ。

「お待たせしました。こちらです」

 音々は本を旦那に手渡し、今度は旦那もこれこれという表情をしていた。

「では、お仕事頑張ってください」

「音々さんも、お仕事頑張ってください」

 そう言って旦那はまた仕事に出かけていった。何故かイライラする。別れ際のやり取りがそうさせるのだろう。普通過ぎて面白くなかったのだ。普通の夫婦のやり取りなどお前達に期待していないというのに。

 が、なぜだか要領を得ない顔で席に戻る音々。

「なんでしょう、私のお仕事って……」

 首を傾げ、謎の疑問を吐き出す音々だった。小説家が編集を目の前にしてよくもまあそんなことを言えたものだ。

「決まってるでしょ。私を楽しませることよ」

 私がこう言うと、音々が瞬きをした後でこう答えた。

「では、響さんはそれを頑張れと仰ったわけですか」

 続けてどういう風の吹き回しでしょう、などとのたまっていたが、それが私に対する中傷にあたることに気付いたのは、この家を出てからだった。

 音々のやつ。



 3


 光政大学社会学部の研究室は第三室まであり、僕ら下っ端研究員の詰め所は一でも二でもなく第三の研究室となっていた。第一はゼミで使う演習室で、第二は学生諸子の詰め所となっている。しかし第二と第三の垣根はほとんどなく、僕はいつも忙しそうな学生たちと肩を並べて研究員としてのノルマの処理に追われていた。教授や准教授が出席し発言するシンポジウムの資料作りや、僕が出席するわけでもない会議の下準備といった理不尽極まりないメニューが目白押しだ。ひどい時には事務処理的な機械作業も回ってくる。千枚コピー。千枚ホチキス。千枚裁断。更にその合間を縫って自分の講義の準備もしなければならないので、第三研究室から一歩も出ずに一日を過ごすことも少なくはない。講義に使う教材作りも、その講義を受ける予定の学生たちと一緒の部屋で行うという破綻ぶりなのだ。

 これに加え、論文も定期的に提出しなければならない。研究員としての本分は会議の準備やコピー地獄ではなく論文執筆の方なのだ。ただでさえ足りない時間をさらに割かなければならないということだ。

 残念ながら僕の仕事はそれだけでは終わらない。もっともっとある。数年前に僕が書いた本がベストセラーとなって以来、メディア出演や講演の依頼が一気に増えたのだ。嬉しい悲鳴ではあるのだが、それらに加えて出版社からの執筆の依頼もどしどし来るようになった。こうなるともうお手上げだ。僕があと二人くらい足りていない。

若かりし頃に書いたあの一冊の影響で「夢路響」という響きだけは良いその名は売れ、おかげで研究員として母校の大学に勤務させてもらえるようにもなったのだが、あの一冊のせいで忙殺される日々が始まったのも事実だ。

 そして出版から数年が経った今でも尚、名が売れたことで降りかかってくる余計な仕事が僕を困らせてくるのだった。

 相沢百合子との対談。

 何が嫌かって、彼女が僕の苦手なタイプの女性だからだ。

 僕にとっての相沢氏のイメージ。それは単純に悪いことが嫌いで正しいことが好きそうということ。これは誰が聞いても「普通に善い人」だと思う。だがそんな当たり前の善良さでも、その度合いによっては避けたくなってしまう場合があるのだ。

 僕も悪いことをする人間は嫌いだ。だが正義感が軽めの人間の方が付き合いやすいということもあるのだ。その人たちはこちらの失言や失態を気にしないでいてくれるという素晴らしい性質を秘めているからだ。下手に正義感の強い人間はそれらに不寛容なところがある。思いもよらないことに引っかかりを覚えてそれを正そうとしてくる。これが厄介だ。僕の些細な欠点や欠陥を矯正しようとしてくるきらいがあの人たちにはあるのだ。

 もしかしたらそれは正しいことなのかもしれなくて、僕の至らなさがダメなだけなのかもしれない。なんせ向こうは親切心で指摘してくれたりもするのだから。だが半分はただ自分が我慢ならないだけという自分を律することをしない小学生並みの理由であることを僕は知っている。その親切ぶって自論を押し付けてくる性格を欠点や欠陥と呼んでも僕は間違いではないと思っている。しかもそれでいて真面目です正しいです真っ当ですという顔をしているのが、僕には不自然に見えてしまうのだ。他人のそれは指摘するくせに、自分の欠点や欠陥には目を瞑るのかと。というか、見えていないのかと。

 やはり真面目な人間よりも丁度よく不真面目な人間と付き合う方が気が楽である。

 この善良なる相沢氏との対談のことを考えると同時に何故か善良ではない妻のことも思い浮かんでくる。妻の不善良さを思い浮かべ、何故かそれに安心感を覚えるのだ。

 真面目な人間の地雷を踏まぬように気を付けながら相手をするよりも、困らされることが想定内の妻に困らされている方が全然気が楽なのだろう。

 体が環境に合わせて進化したのだ。

「いや、それ、ただ毒されているだけだから」

 僕のこの進化説に対し、即行、あっさりと否定してきたのは同じく妻に毒されている義弟の弦吾君だった。

「感覚が麻痺してんだよ。俺たち家族、全員」

 これを吐き捨てるように言うのではなく、そういう状況を楽しむかのように半笑いで口にするあたりがやはり毒されているのだ。

 ちなみに彼こそが「丁度よく不真面目な人間」の代表格である。

「音々さんはアナザーワールドの住人だからね」

「そう。同居人の俺たちは絶えず異世界の空気を体感しているんだ。あっちの世界の酸素濃度に慣らされちまってるってわけだ」

「度々向こうの世界に連れて行かれるからね」

「高所トレーニングは低所での持久力を強化するかもしれないけど、もしかしたら低所でこれまで通りの生活を送ることの妨げになるかもしれないだろ? 兄貴、俺たちはもうまともな人間と付き合うことが下手くそな人間になっちまっているのさ」

 やはりこれも半笑いで口にしてくる。冗談ではなく本心なのだろうが、姉による弊害をたやすく受け入れられるのがこの兄妹の強みでもある。

 僕が目当ての本を得て自宅から研究室に戻ると、彼はこの第三研究室で一人遅いランチを食べていた。大地震が発生しても何ら変わることのない研究室……との呼び声高いこのゴミ屋敷さながらの第三研究室では、ランチを食べる時もまずそれが可能なスペースを確保するところから始めなければならない。この研究室はいついかなる時も書物と資料で埋め尽くされているのだ。床は散乱したそれらで足の踏み場もないくらいだった。豪雪地帯の雪と同じだと弦吾君は言っていた。テーブルや椅子もあるにはあるのだが、除雪される前は座ることも物を置くことも出来ない。なのでまずはその辺にある紙類を足でどけて、机の上にある紙類も手で押しやって、それで始めてカップラーメンが食べられるのだ。

「やあ兄貴。我が家はまだ健在でしたかね」

 右手で割り箸を構えた弦吾君が半笑いで訊いてきた。僕が一度家に戻ると言うと、今日は姉ちゃんが一人で留守番の日だから、家はすでに火事かガス爆発かパラドックスの割れ目に飲み込まれるかして消失していると予想してきたのだ。パラドックスの割れ目に飲み込まれているのは僕らの方だよ、弦吾君。

 僕は彼の対面に座った。元々そこは僕が帰宅する前まで作業していたところなので、除雪する必要はなかった。だが向こうから押し出された本やらノートやらがこちらのテリトリーまで侵出してきていたので、少しだけこちらからも押し出してやった。こんな攻防は茶飯事だ。

「残念ながら健在だったね。それでも相変わらず音々さんは異世界だったよ。それと、悪魔が訪ねてきていたよ」

 悪魔と聞いた弦吾君は咀嚼したものを不味そうに嚥下した。

「ったく、あの悪魔、年中何も知らない姉ちゃんを連れ回して行く先々でカタストロフィを起こしやがって。あいつと比べれば聖書に登場する悪魔なんざただの意地悪なオジサンになっちまうよ」

 やれやれといった感じで顔をしかめる弦吾君はもう立派な大人だと感じた。

「でも僕は嬉しいよ。なんだかんだいってあの二人仲良いじゃないか。取材で色んなところに一緒に行けてさ。楽しそうで何よりだよ」

 あまり感情を表に出さない妻だが、僕はやはりカンナさんと一緒に何かをやっているのが楽しいのではないかと推理している。妻が嫌がらずに何年も一緒に行動していることがその証左である、

 だがこれを聞いて再び不味そうにラーメンを飲み込む弦吾君だった。

「甘っ!」

「え? 弦吾君、何食ってんの?」

「ちげーよ! あんたがだよあんたが! 兄貴ねえ、そんなだからあの悪魔に甘いだの甘すぎるだの甘ちゃんだの甘っちょろいだの甘えん坊だの言われちゃうんだよ。あの悪魔はね、家で本読ませときゃ小説書ける女をわざわざ外に連れ出して大災害を引き起こそうとしている人類悪だよ。その際姉ちゃんに悪意はないけどあの悪魔にはハッキリとした邪気がある。それは間違いなくある。姉ちゃんという怪物を平和な世に解き放つためならどんな手でも尽くすイカレたテロリストがあの悪魔の正体なんだから」

 よく知ってらっしゃる。

 僕もよく知っているからだろうか、彼女からは別に悪魔と呼ばれるほどの恐ろしさは感じられない。それというのも、僕らの知るカンナさんが明け透けで正直者だからだろう。自分の悪い面も至らない面もさらけ出して生きている。善人と呼ばれる者の大半はそれを隠し通すことで善人と呼ばれているわけで、つまり彼らはみな善人ではないのだ。そればかりか隠しているものの邪悪さ次第では悪人にもなりうるのが善人と呼ばれる人たちのほとんどの正体だ。

 だがカンナさんは善良さなど一切無いうえに邪悪さを一切隠していない。絶対にマイナス値にしかならない数式のくせに、そのマイナス面を隠そうとせずさらけ出している。それなのにプラマイゼロの善人よりもなぜだか信頼できてしまうのだ。

 嘘を吐く善人よりも正直に生きる悪魔の方が信頼できるというどうしようもないこの思想。僕はやはり妻に毒されているのかもしれない。

 思えば妻と引き合わせてくれたのもカンナさんだった。

 越前(えちぜん)閑(かん)名(な)。僕と同じこの光政大学の出身で、一つ上の先輩。

 モデル並みに背が高く、そのすらりとした美脚を人を蹴ったり物をどかしたりドアを開けたりすることばかりに使っている。そういえば先程もスツールに腰かけながら相変わらず両手はジーンズのポケットの中に突っ込まれてあった。いつも両手が塞がっているので足で代用しているのだ。

 以前は腰まで届く長い黒髪だったのだが、音々さんに早く認知してもらうという理由だけである時期からずっとそれを茶色に染めている。お子様相手には視覚に訴えた方が効果的だと豪語しているのだ。その後ろ姿はお世辞じゃなくても美人なのだが、声をかけて振り向いた時の目つきの悪さや顔中から発せられる意地悪な感じがいつも人を遠ざけてしまっている。カンナさん自身も人をからかうのが好きで平穏が嫌いと公言している。いつもいつも相手を傷付ける言葉を探しているということも公言している。なので顔つきもそれに沿って出来上がってしまっているのだろう。折角の美人が台無しとはこのことだ。表情全体が常に攻撃的な形を成しているのだ。常に不機嫌で常にガラが悪い。保母さんや介護士さんとは真逆の位置にいる存在。

 先程もイライラを宿したような顔で何度も睨まれたが、あれは別に睨んでいたわけでもイライラしていたわけでもなく、ただこちらを見ていただけというプレーンの表情と感情だったわけだ。彼女を知らない人間はアレに威圧を感じてしまうのだろう。

 四年ほど前、不動出版で編集をやっていたカンナさんからうちの作家の取材を是非とも受けろと命ぜられ、引き合わされたのが今よりももっと幼い音々さんだった。その頃僕は本があたってメディアにもちょくちょく顔を出していた時期だったので、カンナさんからしてみれば、自分の操る怪物とこの新進気鋭の社会学者を会わせてみるのも一興だという腹でそうしたのだろう。悪魔の動機はいつも自分の愉悦のみなのだから。

 今となってはその不穏な動機にも感謝せざるを得ない。そのおかげで僕は音々さんと結婚することができたのだから。

 初見でまず僕が音々さんに破滅的な一目惚れをし、その感情を嗅ぎつけた悪魔が面白がって何度となく理由をつけて僕を音々さんに会わせたのだ。カンナさんからしてみればくっつかせるためにやっていたわけではなく、両者の反応が面白くてやっていたことらしいのだが。

 何度か会っているうちに、この日向音々という美しい女性が実は非常に危うい人物であることに僕は気付かされた。この人は社会の一員として生きていくことが難しい存在であると本気で憂慮したのだ。同時に何故か僕が彼女を何とかしなければという勘違いを発症させてしまった。そしてカンナさんを介さずとも僕は彼女に会いに行き、色々と要らぬ世話を焼き続けたのだ。音々さん本人にとっては本当に不要なお節介だったのかもしれない。  

 ――自分は何も問題はない。

 そう思って平然と生きているのが彼女だからだ。

 彼女の面倒を見ているうちに僕は生まれて初めての、そしてもう二度と来ないであろう想いが胸に宿ったのだ。この人と結婚したいと。

 そんな僕の暴挙を後押ししたのは、こともあろうに今は亡き彼女のご両親と下のきょうだいの四人だった。

 僕の存在に気付いた彼女の家族は、法律上の手続きを取りつけさっさと既成事実を作ってしまおうと躍起になったのだ。

「あの時はびっくりしたよ」

 僕は弦吾君の方を見ずに、記憶の中に目を向けながら口を開いた。

「弦吾君と美琴ちゃんがいきなり僕のマンションに押しかけてきて、明らかに僕のものでも音々さんのものでもない筆跡の婚姻届を見せつけてきて、これ提出するからねって脅してきて」

 しかもよく見ると「夢路」という印鑑まですでに押されてあるではないか。何をどう手配したのか知らないが、とにかく手際が良すぎてびっくりした。

「そりゃそうするよ。だって、あんな怪物に春が訪れることなんて一生ないと思ってたんだから。お見合いしたって絶対に結婚には結びつかない百戦錬磨の怪物だぜ? それがいつの間にかこんな将来性のある男に見初められていたなんてさ。初めてその話を聞いた時は家族全員、誰一人信じなかったからね。その後本当にどこかの破滅的な怖いもの知らずが姉ちゃんと仲良くなってることを知ることになって、全員驚天動地の呼吸不全。親父も母ちゃんもこれは一生に一度のチャンスだって言って、訴訟問題になったとしてもこの結婚だけは成立させるって気炎吐いてたよ。俺らもそれは同じ気持ちだったし」

 婚姻の強要については何ら問題は無いという弦吾君の態度だった。

「二人が婚姻届を持って僕の部屋に来てすぐに僕は音々さんの許可は取ったのかとご両親に訊きに行ったんだ。そうしたらさ、そんなものは意味の無いことだから考えなくていい、後生だから音々をもらってやってくれと二人で玄関先で土下座されてしまって……」

 弦吾君はラーメンを食う手を止めて笑った。

「見てた見てた。子は親を選べないってよく言うけど、その逆もあるんだなあってその時感じたもん」

 あの時は僕も慌てて膝を突き、僕は音々さんのことを愛しているけど、音々さんはそうではないかもしれないからと、こちらも焦りながら言い募ると、そういうことは考えなくてもいいと、親とは思えない返答をしてきたことをよく覚えている。今となっては音々さんのことをあの時以上によく分かっているので、音々さんに対するそういう扱いも理解できるのだが、あの時はとても衝撃的だった。

 そして御両親の意志を確認してすぐに僕は音々さんのもとへと向かった。懇切丁寧に詳細を説明し、最後に僕は音々さんと結婚したいと思っているが、音々さんはどう思っているのかということをきちんと正直に話した。無論、そのセリフを吐く時は大いに緊張した。つまりそれは「プロポーズ」ということなのだから。

「それを提出すればよろしいのでは?」

 ぽわんとした表情であっさりと彼女は決断を下したのだった。

 そんなことを言われ、僕はすぐに気になることができ、それを慌てて確認してみた。

「音々さんは結婚するということがどういうことか分かっているのですか?」

 これに彼女は表情を変えずに即答した。

「いえ全然。前後で何か変わることがあれば仰ってください」

 不意に訪れた究極の謎かけ。

 僕は永遠とも思える一秒間、固まってしまった。

 そうして麻痺した僕の脳が弾き出した答えは、余計なものを全て排除したとてもシンプルな回答となった。

「音々さんが、僕と、一緒に暮らすことになるのですが……」

 僕はどうですかと問いかけるようにそう言った。心臓も動脈も静脈もあちこちの内臓も悲鳴を上げていた。

「それだけですか。分かりました」

 そのあまりにもあっさりとした返事に、それでも僕はかつてないほど有頂天になった。あの日、僕の目の前に天国が舞い降りてきたことを今でもよく覚えている。いや、一生忘れない。

 音々さんと結婚し、一緒に暮らすことができる。

 冴えない人生を送ってきた僕にとってそれは想像を超えた幸福なのだった。

 音々さんが僕の申し出をOKした理由について、彼女のきょうだいは二つの可能性が考えられると僕に言った。

 一つは身の回りの雑事を引き受けてくれる便利な人間を求めていたため。これは今現在、実際にそうなってしまっているので否定はできない。

 もう一つは態度にこそ見せないけど、本当に僕のことを好いてくれているため。これは何の証拠もないことなので立証はできない。

 僕の考えとしては、どちらにせよ彼女が幸せならばそれでいいということ。AでもBでも彼女の欲求が満たされているのならそれでいいのだ。

 こうして結婚した僕ら夫婦だが、妻に首輪をつけるような真似は嫌だったので、僕は結婚指輪を彼女の薬指に嵌めさせるようなことはしなかった。指輪などに何の価値も見出していないような浮世離れした女性に、あたかも僕の所有物であるかような証を身に着けさせることに気が引けたのだ。そのための動機付けと言うわけではないが僕も同様に指輪をはずして過ごしている。

 式も当然挙げていない。亡くなったご両親の言葉を借りるならば、そんなものは彼女にとっては意味の無いものだからだ。結婚式とは女性の側が主役のイベントであるはずだ。その女性が必要と感じていないものを、男性側が強要する道理など無い。なので式は挙げていない。うちの両親は不審がっていたが、あちらの両親は大いに納得していた。すでに異世界に取り込まれていたのだろう。

 ただ音々さんのウェディングドレス姿は正直見たかった……。

 恐らく音々さんは着ないだろうな。着たくない、着る必要がないという理由で着ない人なのだ。寒そうとか言いそうだ。ブライダルとは高価なドレスが主役の式典なのですかと、女性全体を否定するような言葉を吐くかもしれない。

「で、兄貴、あのオバサンとはいつ対談するの?」

 ラーメンを食べ終えた義弟が何やら薄笑いを浮かべながら質問してきた。あのオバサンとは相沢百合子のことであろう。

「講演会の後日。だからスケジュールがきっつきつだよ」

「断ればよかったじゃん」

「角が立つ、という面倒くさい現象が人間社会にはあるのさ、弦吾君」

 これが異世界ならばむしろそんな面倒はないというのに。なぜ常識的な世界の方が面倒になるのだろう。

 すると弦吾君が呆れた表情を浮かべて首を左右に振ってきた。

「そこだよ兄貴の弱点は。普通なら断っても差し支えないことを、兄貴は相手のことを気にしすぎて引き受けちゃうんだから。甘っあま。甘王だよ兄貴は」

 あまおう。福岡のヒロイン。でかい苺。

「チョコとかゼリーとかに練り込められちゃうんですかね」

「大体、何でそのオバサンは兄貴と対談したがってるんだよ。他にも色々いる中でどうしてこんなぺーぺーの若造なんかを」

「なんか若い男性の意見を聞いてみたくなったってことらしいよ。もしあちらが若くないベテランをお望みならうちの斎藤准教授を差し出してもいいんですけどね」

「だめだめ。准教授はお忙しいから。ホント忙しすぎて、部下に色々お仕事を押し付けないと間に合わないくらいなんだから」

 斎藤准教授は教授から回された仕事を右から左へ、上から下へ、そっくりそのまま僕たち罪なき研究員にスルーパスしてくる名選手である。これは自惚れかもしれないが、僕の本が売れていることがどうやら彼の感情に少なからず影響しているらしい。

「多忙。そして絶望。おかげで甘王はもうヘタしか残ってませんよ」

 僕は斎藤准教授がいる前では決して言えない愚痴をこぼした。

「いいじゃん。家帰って愛妻の顔見りゃ再生するんでしょ」

「それは……否定しかねる」

「でも次の日、せっかく実ったそのいちごを全部あの初老メガネ括弧(かっこ)斎藤准教授括弧(かっこ)綴じ、に食い荒らされちゃうんだろ?」

「いやあ、僕はその初老メガネという人物を知らないし……」

「いや、だから括弧付けて密かに正体を明かしたじゃんか。斎藤准教授だよ斎藤准教授」

「その斎藤准教授さんとの無駄な諍いを避けるという意味で、僕が全部やるという選択肢が結局いちばん円滑に物事が進むんだよ」

「だーかーら甘いって言ってんの。誰かに何か仕事を頼まれたとしても一から十まできっちり引き受けてないでさ、適当な理由つけて断っちまえばいいんだよ。あとはうまーく誤魔化せばいいんだから。うまーくね。そういう姑息な知恵を数多く身につけた者だけが勝者になる世の中なんだから」

 それはカンナさんが考えそうなことだ。

「でも相沢さんとの対談の話を持ってきたのは教授だからね。僕には断ることができない依頼だったってわけさ」

 どうやら対談を組んだ雑誌社の編集長とうちの教授が古い知り合いなのらしい。

「女性の抱える問題について若い男性と話し合ってみたいという向こうサイドの要望があったらしいよ。だったら顔の売れている人間の方が話題性出るでしょっていうことで僕に話が来たらしいんだ」

 へえと、何やら怪しむ顔を見せる弦吾君。

「そのオバサン何歳だっけ?」

「ん? 四十歳ってハナシだよ。でももっと若く見えるよね。メイクもうまそうだし」

「それ悪口だから」

「え?」

「あーあ。兄貴もだいぶ姉ちゃんみたいな慇懃無礼なこと言うようになってきちゃったなあ。夫婦って似るもんだなあ」

 これにはめちゃくちゃへこんだ。弦吾君の冗談だと思いたかった。

「たしかそのオバサン、シングルマザーだったよね?」

「ああ、うん。自身の体験談が著書の随所に入り込んでいるらしいよ」

「かあ。何を間の抜けたこと言ってんだかこの甘王は。この甘王のヘタは」

 言いながら頭を掻きむしる弦吾君。

「え? 何? 確かに甘王のヘタとは僕のことだけど」

「兄貴さ、教授連中にずっと結婚してること報告してないんだろ?」

 今ここに教授連中がいるわけでもないのに、これには大いに慌てさせられた。

「弦吾君! 駄目! それ言っちゃ!」

 焦った僕は身振り手振りで相手の口を閉ざそうと試みた。

「いいって! 言わないから! あのじいさんどもが全員退官するか死ぬかするまでの我慢なんだろ! それに俺はむしろ英断だと思ってるし!」

 焦った僕を見て向こうも慌てた。

 上司に結婚したことを報告していない。これは普通の会社員ならば御法度となるのだろうか。はたまたパワハラやプライバシー侵害に抵触することとして免除されるのだろうか。

 とりあえずうちの教授は絶対にそういうことを知りたがるし、婚姻に神性さを感じる世代でもあるので、知ったら絶対にお祝いしようとしてくる。

「奥さんと会わせろという流れになるだろうな。もしそうなったらきっと……」

「僕はこの大学にはいられなくなるだろうね」

 妻もこの光政大学出身である。そして数々の伝説を残してきてもいる。彼女が光政大学の教授陣にそれぞれ苦い思い出をプレゼントしたことを僕は知っているのだ。

 我が社会学部の教授は幸いにもその伝説を知らない平和な人間の一人らしいのだが、音々さんと顔を合わせるとなると、絶対に平和とは程遠い会食の席となるのだろう。破壊神が僕の教授の前で大暴れするわけだ。想像したくない。

「ずっと指輪はつけてないし、兄貴は本当に女っ気がなさそうだから、大人しくしていたらバレることはないと思うよ。そもそも兄貴がメディアに頻繁に出てた頃は姉ちゃんと結婚する前のことだったわけでしょ? てことは、世の中的にも兄貴は未婚のままなんだよね」

 弦吾君のことも親戚の子ということで通している。大学に通うために上京してきて僕の家で暮らしているという設定だ。まさか義理の弟だとは思われていないはずだ。

「つまり、兄貴は狙い目だってことだ。結婚を望む女性からしてみれば」

 弦吾君が顔を近づけてきてまでそんなことを言ってきた。

「いやいや。そんなことあるわけ……」

「黙れ甘王! 何冊も本を出している大金持ち! しかもまだ二十代! 確かに冴えない顔してるけど目を凝らして良く見てみると全然悪くない! 朴訥! 支配下に置けそうな安定の弱々しさ! 安定の甘王っぷり! 残されたヘタ! 以上! 兄貴がある種の女性から狙われる否定しようのない理由の数々でした! 異論は認めないしあるはずもないので言わなくて結構!」

 義弟はぴしゃりと断じた。

 僕は先ほどから弦吾君の主張が一つのことに集中しているように感じていた。

「ちょっと待って。弦吾君、まさか相沢さんが……」

「まさか、じゃねーっつうの! 確定だよ確定! 子持ちのシングルマザーが富と名声手にしてんだからあとは男だろ! 若すぎず、金も持ってて、かつ世間から良く見られている好人物。ハイ決まり」

 ここいらで僕は気が付いた。

「ああ、そうか。弦吾君、僕をからかって楽しんでるんだ」

 途中から弦吾君の顔から笑みがこぼれ出したのを僕は見逃さなかった。

「そういうところはカンナさんそっくりだな。僕は騙されやすいんだから詐欺にかけないでくれよ」

 すると弦吾君はニヤニヤしながらこんなことを言ってきた。

「正直に言うと、半分はからかい。そして半分は俺の願望。もし兄貴が姉ちゃん以外の人とそういう関係になったら、あの夢路音々は一体どんな反応を見せるのか、社会学者の卵として非常に興味がありましてね」

 どうやらこの企みこそが先ほどからの意地悪い笑みの根源だったようだ。

「兄貴が浮気したり、他の女の人と仲良くなったりしたら姉ちゃんはどうするのか……。想像がつくことよりも全然想像できないことの方がワクワクするじゃん。旦那の浮気に際し一体あの怪物はどういう反応を示すのか。想像の壁の向こう側。その答えをどうしても知りたくて」

 それで僕と相沢さんがくっつくことを願っていたわけだ。

「残念ながら弦吾君。そんなことには絶対にならない。僕は音々さん以外の女性と一緒になることがないのは、気持ちの問題ではなくそれが無理な人間だから」

「まあ、それはそれで可哀相な人だよね」

 今度ははっきりとした同情が寄せられた。

「でも見てみたいなあ。勘違いでもいいから、兄貴が他の女性とイチャついているところに入ってくる姉ちゃん」

 やけに楽しげに語る弦吾君は、やはり冗談で口にしているわけではないのだろう。本心からの願望なのだ。

 その後僕は雑念を引きずったまま『未来への不安』を再読した。やはり著者は真面目な女性だと気付かされた。弦吾君の予想する邪な感情など一切無い。本当に困り果てている世の中の女性のために何かをしてやりたいという強いメッセージを感じた。こういう女性は男性から見ても素敵だと思う。

 ただし、やはり僕にとっては苦手な人種だ。もう一度読んでみてそれがよく分かった。僕は真面目な性質を「気難しい」と訳してしまうタイプの人間なのだ。真面目な人間、真っ直ぐな人間に対し僕は必ず後ろめたさみたいなものを感じてしまう。何故なら自分がそうではないからだ。不真面目な点、はみ出した経験がいくつもあるからだろう。それらが積み重なって罪の意識を植え付け、真っ当な人間に対する苦手意識として萌芽してしまうのだ。

 付き合うのなら、同じく罪を犯し続けてきた人間の方が気楽でいい。

 僕は罪を犯し続けてきた人間にそのことを打ち明けてみた。ちょうどその人物は研究室に備え付けられているパソコンで課題に取り組んでいるところだった。罪人の名は弦吾といった。

「だったら、実際にオバサンと会った時に実はそんなにお堅い人間じゃなくて、万事に亘って真面目ではない性格だったら、兄貴、反動で好きになっちゃうんじゃない?」

 さっきまで魂の抜けた顔でキーボードを打っていたはずの男が、何故か自分の願望に触れることに関しては口角を持ち上げて饒舌になる不思議。

「きっと僕も音々さんと一緒なんだろうね」

 僕が何も考えずに思ったことを吐き出すと、弦吾君が椅子の向きを変えてこちらを見てきた。

「何が?」

「今弦吾君が口にしたような状況に直面した時、自分はどうなってしまうのか。それが全然分からない。分からないのは、きっと経験値が圧倒的に少ないからなんだ。無知なんだよ。だからこそ様々な社会問題に対して独自の視点が持てるのかもしれない」

 僕なりの客観視ということだ。

「経験が無いということはそこに新しい視点があるということ、か。よし、その言葉いただき!」

 何かを勢いよく打ち込む弦吾君。こらこら。

「それ何の課題?」

「『乳幼児と発達教育の基礎』」

 経験が無いって、君。

「兄貴は課題終わった?」

「課題じゃないけど、頭の中で相沢さんの主張をまとめることならできたよ。これやっておかないと、滅茶苦茶怒られそうなイメージがあるから」

 わたくしの本、読んでらっしゃらないのですか?

 そんな目に遭わないように石橋はひび割れするくらい叩いて渡る。

「よっしゃ。じゃあ俺が聞いてやる。『未来への不安』の概要をまとめて口頭で言ってみ。俺読んだことないから実験台としては合格でしょ」

「ああ、いいね。やろう」

 こうして僕は数分間だけ女性問題研究家になった。

「相沢さんの主張その一。女性とは妊娠と出産を考慮に入れなければならない人生を歩まされる存在であること。これは単純に、いつかきっと動けなくなる期間がやってきますよということ。それも年単位の長期間」

 盲点なのか常識なのか分からなくなる微妙なラインの現実だ。弦吾君はこれをただじいっと聞いていた。なんだか不気味だ。

「女性たちが動けなくなる期間はイレギュラーでやってくる。これがまた厄介なんだ。いくら緻密な人生設計を立てたって、離脱する時期を予想することなんてできっこないんだから。子供を生みたいって思った時がそれだとしても、その生みたいと思う時がいつ頃になるかなんて予想できないでしょ。これは社会的にみたら相当なハンデだよ。こと労働に関して言えば邪魔でしかない。いくら産休と育休が法律で保障されているといっても、企業側から厄介者扱いされることには変わりない。職場に復帰できたとしてもブランクがある限りこれまで通りにはきっといかない。妊娠と出産というイベントがいつかある限り、女性はどうしても働くことが不利になってしまうんだ」

「いやいや、の同僚たちの方が気の毒でしょ」

 と、ここで弦吾君がわざとらしい笑みを浮かべて反論してきた。

 さては弦吾君、相沢さんの主張とは反対の意見を言っていくつもりだな。わざと。

 僕としては反対意見は大歓迎だ。それでこそ議論は深まるのだから。

「続けてよろしいですか、相沢先生?」

「あ、僕? 相沢さん役? どうぞどうぞ、聞きましょう」

「女性はイレギュラーで長期間休むことになるという主張ですが、これで一番困るのは元居た職場の同僚たちなんじゃないですかね。今の時代、大抵は十人でやる仕事を五人くらいでやってるところがほとんどでしょ。そうじゃないとブラック企業なんて言葉が横行しません。ギリギリの労働力で働いてる人たちがほとんどじゃないですか。でも妊娠による長期休暇の欠員を、その間補充してくれる企業なんてほとんどないでしょう。休職しただけでは登録してある人員の数に変更はないんだから、予算で人件費がきっちり決められている以上、人の数を増やすことなんてできない。産休を法律で保障しているくせに、その際に生じる労働力の不足は現場の人間でなんとかしてくれという無理難題が発生するわけです。もちろん妊娠を理由に休暇を取った女性をクビにすることを法律は許していないので、ずっと人員の数は変えられません。そしてそのしわ寄せを食い続ける同僚の皆様方は過労死するか、はらいせにその赤ちゃんを誘拐するかしかなくなるということです」

 僕はこの意見に対し、相沢氏の著書に書かれてある内容だけで反論しようと試みた。

「でも労働と出産は切り離して考えるべきだよ。どんな状況下でも女性は子供を生むということを優先しなくてはならないし、周りの人たちもそれを優先させなくてはならないんだ。子供は国の未来そのものだからね。それでもし出産が第一優先というのなら女性はそれだけやっていればいい、仕事はするな……という暴論がまかり通るなら、それはあまりにも時代錯誤的な考え方だよ。まるで女性を出産するための道具として扱っているみたいじゃないか。雇用機会の均等は確保したまま、出産や育児に関しては周囲の人たちがフォローしながらそちらを優先させてあげる。そうしないとこの国に未来はないんだよ」

「だからって別の誰かがその分無理をしなくちゃならなくなるってのは随分な不条理じゃないですか。妊娠による長期間の離脱なんてものが永遠にやってこない男性諸君、あるいはその可能性のない不遇な女性。ずっと真面目に仕事し続けているその人たちが産休をとる女性にノルマを増やされて過労死する逃げ場のない女性優遇社会が正しいとは僕は思えないなあ。もしそのせいで過労死する人、体を壊してしまう人が続出してその問題がピックアップされてしまったら、今度はきっと女性優遇の在り方が社会問題にされてしまうと思うんですけど」

 嫌味が饒舌になる人間は大概性格が捻じれている。演技ではないのか君は。

「なるほど、弦吾君、いいよ」

「え? いいの? 俺悪魔になってるつもりなんだけど」

「いや、対談なんてのは結局、褒め合うだけの予定調和になりがちなんだ。僕も何度か経験がある。だからこそ議論を深める意味で反対意見が必要になるんだ。ここで弦吾君が口にした反論は本番でも使ってみようかな」

「酔狂だな」

「真面目って言ってよ。ええと過労死、過労死……」

「嫁に毒されてやがる」

 僕は構わず話を進めた。

「相沢さんの主張その二。日本の歪んだ女性観」

「ああ、たしかに歪んでるなあ」

「まだ解説してません」

 心当たりがあるのだろうか。

「この国が古くから持つ厄介な先入観の一つ。それが女性に対するお決まりの位置づけ。女性だからこうすべき、女性だからこうしないべき。きっとそんなのがいっぱいあるんだ。いわば女性の役目だと思われていること」

 代表的なのが家事と育児だ。

「普段の振舞いなんかも女性にだけ求められるものがあるよね。おしとやかさだとか」

「ジェンダーの問題なんて男性にだってあるだろ。毎度毎度女性だけ割に合わない論調になるってのはどうよ」

 嫌味な反論だが的を得ている。弦吾君のこのわざとらしい反論を聞いていて思ったことだが、この著書には必要な視点がいくつか欠落しているようだ。

「……まあそうなんだけどさ、それでも女性だけが不遇なことってあると思うんだ。例えば女性だけが無暗矢鱈(やたら)に求められるのが結婚、そしてその先にある出産だ。結婚していない女性は白い目で見られる。適齢期を迎えた女性は延々と結婚することを求められるんだ。この国ではそんな女性観が長年続いていたからね。その風潮が世の中全体に蔓延してしまっている」

 女性は常に急かされて生きているのだ。結婚しなきゃ結婚しなきゃと、強迫観念みたいに。

「どうして女性だけが不利みたいな言い方するんですかね」

「なんと?」

「だって、逆に女性だから許されてることもあるでしょうし、男性だから許されないこともあるでしょう。なんでその中で女性であることが不利な点だけ挙げ連ねて被害者面するのかなっていつも思うんですよ」

「ほう、そうきましたか」

 この視点はたしかに無くてはならない。この社会学者の卵は意外と優秀だ。カエルの卵ではなかったのか。

「力仕事なんかそうですよね。女性は免除で男性は強制。あと下水管理やらゴミ処理なんかの誰もやりたがらない汚い仕事。働いているのは男性オンリーです。女性なんか一人もいません。汚い仕事はハナから免除されてるんですよ。理由は永遠に不明です。男女平等はどこ行ったんですかね? あと、あれもそうですよね。専業主婦。専業主婦はすでにして「専業主婦」という市民権を得ているくせに、夫の字の専業主夫はいまだに白い目で見られる。就業してなくても何も言われないのは女性だけなんです。結婚さえしてりゃ無職であることが許されているんですよ。こんなだから専業主婦狙いの怠惰な女性が、さっさとリタイアしたいからと婚活市場に大量参戦する事態にもなるんですよ。婚活市場のデータをご存じないですか? シャレにならないくらいいるんですよ。働きたくない専業主婦狙いの婚活女性が。あんなのは女性が仕事をしないことを日本人が無意識に認めている、許しているからできることなんです」

 これは見事なご指摘である。

 専業主婦になりたくて婚活している女性は本当に多いのだ。これは弦吾君の勝手な思い込みなんかではなく、どのデータを参照にしても提出される厳然たる事実である。そんなムーブメントが可能なのは、働かない既婚女性を社会全体が認めているという謎の前提が依然として存在しているからなのだ。そして、それらは逆に男性なら許されないことでもあるわけだ。その自明のデータに対し誰も何も違和を感じていないとすれば、その男性なら許されないことを女性に対しては社会全体で無意識に認めてしまっているということに他ならない。

「それなら他にもありそうだね。近年問題になっている各種ハラスメントにしても、男性と女性では同じ状況下であっても加害者になってしまう条件の難易度がまるで違う。男性は簡単に加害者認定されて、被害者認定されるのは難しくなっている。逆に女性は加害者になることは滅多に無く、被害者になることは男性よりも難しくない。男性だから許されない点と女性だから許されている点がそこに混在しているんだろうね」

 その点をもっと男女で平等に論じるべきであるということだ。

「自分がかわいいだけの女の主張なんてそんなもんですよ。一方向から見た一辺倒な意見しかないんです。上司の愚痴を垂れる部下と同じです。上司からすればその部下は本当に使えない人材かもしれないじゃないですか。けどその無能の部下は上司の悪い所だけを並べ立てて酒をあおる。自分の無能っぷりは棚に上げておいて、当人がいないところであいつが悪いこいつが悪いって。まるで欠席裁判ですよ。そうやってみんな平等じゃないところで正しさを主張してるんですよ。おかげさまでその部下は全然成長しない。ずっと使えない人材」

「弦吾君、完全に瞳孔が開いてるよ」

「おやいつの間に」

 我を失っている男がここに一人。それでも核心は突いていると思った。「平等じゃないところで正しさを主張する」。文句を垂れる自分勝手なだけの人間とはまさにそういう生き物なのだろうと思わせる指摘だ。

「弦吾君、弦吾君、女性に何か恨みでもあるの?」

「一切無い。一切無いのにこんなにスラスラと彼女らを貶める言葉が口から流れ出てくる自分に、今驚いている。不思議な感覚だ。これがゾーンってやつか」

 対女性の姿勢の中で無我の境地を切り開いてしまった弦吾氏。何と面倒な義弟なのだろう。

「では続いて、相沢さんの主張その三」

 僕は一つ咳払いをしてから話を進めた。

「妻として、母として救いの無い時代だということ。昔は良かったんだよ。なんせ専業主婦と呼ばれる奥様方が大勢いたからね。それが可能な時代だった。でももう専業主婦なんて絶滅危惧種。家事と育児をこなしつつ、空いた時間でパートタイムに出かける。みんなそう。そうでもしないと収支が危うくなるからね。夫の稼ぎだけでどうにかなる時代はとっくに終わったんだ。妻にも労働力となってもらって、お金を稼いできてくれないと生活を維持できない。子供がいるならなおのこと夫の収入だけに頼ることが難しくなってくる。こうしてほとんどの奥さん、お母さんは家事と育児と仕事という過重労働の三足のわらじを履いて喘いでいる状態になってしまっているんだ。ワンオペ育児ってやつかな。共働きの夫婦でも、夫の意識が低いと妻が全てを押し付けられてしまうんだ。家事も育児も押し付けられて仕事にも行かなければならない。これは先ほどの求められる女性像の問題と絡んでくる。家事も育児も女性がやるものだという偏見が無論男性側にあるのだろうし、女性側にもある場合があるんだ。自分で家事も育児も自分の仕事だと思い込む。そうして体も心も疲れ果ててボロボロになっていく。現にそういう女性がたくさんいるんだから、これは中々問題だと思うよ」

 これにはどう反論するのだろうかと、僕は少々期待して身構えてしまった。

「予期できたことなんだから我慢すれば?」

「なんと?」

「収入少ないから専業主婦は無理だって? いやいや、旦那の収入知らずに結婚したわけじゃないでしょ? 確信犯ですよね? 自分も働かなきゃいけないこと知ってましたよね? 旦那が家事も育児も手伝わない男だと知ってて結婚したんですよね? 何一つ正体を明かさない旦那と結婚しておいて文句を言う女もアウトだし、全部知った上で結婚して後から文句を言う女もアウトなんじゃないでしょうかね? いやあ、僕はまともな人と会話したいなあ」

 瞳孔が全開どころか、一切まばたきもしない。これは出国できないレベルの異常さだ。

「まあまあ。それで、先程説明したワンオペ育児。この最たるものがシングルマザーなんだ。年々急増し、いつの間にか市民権を得たこの女性の一部の総称。もう全部一人でやるしかない人たち。お金も無いし、子供と一緒にいる時間も持てない。そんな人達がいっぱいいるんだ。それなのに今の日本は女性が一人でも子供を育てられるようにはできていないと、相沢さんは嘆いている。待機児童問題しかり、社会政策としてシングルマザーを救う措置が機能していないんだ。少なくとも効果的ではない。シングルマザーが大勢いることは事実なのだから、常時ワンオペの彼女たちを救う手だてを早急に講じる必要があると強く訴えているよ」

「シングルマザーたちの離婚原因が何なのかを突き止めて、それを彼女たちに突きつけてやりましょう」

 ゾーンに入っている彼は間髪入れずに反論を見つけてくる。

「たとえ旦那の浮気が原因であっても、そんな男を選んだそいつの見る目のなさを追及すれば、きっと自己正当化の言い訳しか出てこなくなるでしょう。女性側の判断で選択したことでもあるはずなのに、どうしてその責任はいつもいつも同情に流されてなかったことになるのでしょう」

 この嫌味、もとい視点も面白い。

 これは浮気するような男を選んだことへの反省と改善を促す視点だ。男性側の姿勢の変化に運命を委ねるのではなく、女性側の能力の向上によって災禍を避けるという新説。議論の余地も価値も十分にある。

「旦那の浮気が原因ではない場合、一人で育てるのなんて無理だと分かっていながら子供を引き取った理由を突きつけてやって、自分で決めて別れたくせに助けを求めることがいかに筋違いの要求なのか分からせてやりましょう。愛してるからとか、自分が守らなきゃとかいって、自分の都合を子供以上に優先させたことを全て子供への愛に転嫁するという離れ業を見ることができます」

「弦吾君、もう卒論の方向は決まったんじゃないか。女性主張ばかりの世の中に一石を投じるカエル。これでいけるよ」

 僕もからかい半分で自分の願望を述べてみた。

「無理。卒論を評議する教授陣の中に女性が混じっているのをお忘れなく。俺、ちょっと分かってきたんだ。俺がゾーンに入ってるのはどうしてか。それは多分、この場には男しかいないからなんだ」

「はあ。そういうこと」

 妙に納得してしまった。

「うん。女性の目と耳があるところでは絶対こんな話できないだろ。社会全体で空気感として御法度になっちまってるんだよ。地球全体が女性優先車両。こんな話ができるのは私的な空間で野郎のみ。この条件でしかゾーンにはならない。さっきまでの俺の発言が世間様の目のあるところで公表されでもしたら俺は社会的に抹殺されてしまうんだ」

「だから今、抑圧されていたものが正しい条件下で吹き出てきているということか」

「少なくともこの空気感が蔓延している限り、今の社会なんか全然男女平等じゃないってことは分かるよ。まともな議論すらできないってことだからね」

 それはあまりにも呆気ないが圧倒的結論だった。『未来への不安』を三時間かけて読破するより、カエルのその一声の方が真実を穿っていると思えるほどの。

「姉ちゃんが羨ましいと本気で思うね。相手が誰であろうと、誰が聞いていようと本音しか言わないだろ。常時ゾーン状態なんだ。容赦なく、誰に対しても平等だしさ」

「それはそれで社会性が無いという欠点として認知されてしまうんだよ。実際そうだから一部の人間としか交流を持っていないわけだし」

「もしかしたら、俺がゾーン状態の時に口に出した言葉は姉ちゃんが『未来への不安』を読んだ時に普通に思っていた感想なのかもしれないね」

「いや、残念ながらゾーン状態の弦吾君でさえその境地に至れていないよ」

「おや、どうして」

「音々さんが言うには、『未来への不安』は女性総体に対する罵詈雑言であると」

 ここで弦吾君が一気に破顔し爆笑に至った。

「あー、ムリムリ。俺なんかまだまだだな」

「そう。君はまだまだまともな人間なんだ。異世界の住人になるにはもう一億光年はやい」

「それはそうと、兄貴完璧だったじゃん。オバサンの主張の完コピ。もう相思相愛。姉ちゃんにうまいこと密告してやるからさ、付き合っちゃえよ」

「それはないって! まあ、ちゃんとトレースできていたならそれでいいんだ」

「うん、俺その本読んだことないんだけどね」

「え! じゃあ完コピなんて分かるわけないじゃん! 言ってよ!」

「言ったよ」

「あ、言ったか」

 とりあえず弦吾君がゾーン状態で口にした反論の数々はぜひとも対談の時に僕の口から相沢さんにお伝えしようかと思う。その反論を相沢さんがきれいに制することできたのなら、女性問題に対する彼女の考え方も今よりずっと世間に認めてもらうことができるだろうし、そうなることで初めて対談は成功といえるのだろう。

 そしてこの後、僕はたっぷり働いてから帰宅した。括弧の中の准教授のせいで。

「にいさん、夫婦は助け合うものだって、にいさんの本に書いてあったわ」

 テーブルの僕の席の前にギョーザが山盛りになって積まれていた。

 積み上げたのは少し不機嫌そうな美琴ちゃんだった。制服にエプロンという慌ただしい格好をし、だらしなく頬杖を突いていつもの席に座っている。食事はもう済んでいるようだ。

「書いてないよ。ご飯もお味噌汁もサラダも一人前なのに、ギョーザの量だけ不自然だね」

 僕はツッコまないのも妙かと思い、触れておく程度に触れておいた。

 少し離れたソファの上ではすでに食事を終えた弦吾君が片手でオヒゲを弄びながらこちらの様子を窺っていた。オヒゲはとても嫌がっていた。

「あなたの愛妻が私の傑作をことごとくお残ししたのよ。その堆(うずたか)く積まれたギョーザは奥様から旦那様への愛の無いプレゼントね」

 こちらも見ずに吐き捨ててくる美琴ちゃん。

 昼間お菓子を食べすぎてこんなことになったのだろう。予想通りの未来の到来。

「音々さんは?」

「部屋戻って本読んでる。またなんか書くって」

「いただきます」

「いただきなさい」

 妻の残飯処理はいつものことだ。気にせずいただく。

「あ、てか今日悪魔がうちにやってきたでしょ!」

「うん」

 咀嚼している最中だったので片言。

「道理で、お姉ちゃん書く気満々だったわけだ。これでまた取材だなんだと奔走して、結果知らない誰かが不幸になるのよ」

「うん」

 うんとしか言えない。

「にいさんが甘王だからあの悪魔にお姉ちゃんを好き勝手されちゃうのよ」

「うん、うん」

「ねえ、私けっこう真面目にハナシしてるんだけど?」

 キッと睨まれてしまったのだが、ノルマを処理している最中なのでやはりうんとしか言えない。兄に助けを求めてチラ見する。

 弦吾君はそれに反応してくれた。

「兄貴、さっき美琴から面白い話聞いたんだけど、兄貴も知っておいた方がいいよ」

 謎めいた発言。だが気になるのはその薄笑いだ。悪巧みの分かりやすい合図。

 僕は慌ててギョーザを味噌汁で流し込んだ。

「別に面白い話なんかしてないよ」

 美琴ちゃんがツーンとして言う。

「それが、俺と兄貴と姉ちゃんにとっては面白い話かもしれないのさ」

「何のこと?」

 僕は僅かな警戒心と共に美琴ちゃんに真意を問うた。あの兄の薄笑いは看過できない。

「さっき、よくテレビに出てるあの人のことお兄ちゃんと話してて。ほら、オバサン」

 ピーンとくるものがあった。

「相沢百合子?」

「そう! オバサン!」

 相沢百合子と言ってるのに。

「相沢百合子がどうかしたの?」

「兄貴、あのオバサンってシングルマザーなんだって」

 またぞろ弦吾くんの何かを面白がる声が飛んできた。

「それは知ってるよ」

「子供がいるってことだよ」

「知ってるって」

「うちの学校にいるのよ。そのオバサンの娘が」

 美琴ちゃんのその呑気な声が、何故か僕の心臓を蹴りつけた。

「え? 相沢百合子の娘?」

 そこに僕は多いなる破滅の予感を感じた。一体何故だ。

「そ。同級生よ。てか普通に仲良いし」

 美琴ちゃんと仲が良い……。

「兄貴はその人と近々対談する予定なんだよ」

「え! そうなの! それは奇遇ね!」

「奇遇……」

 僕はどうしてか、この時、美琴ちゃんの学校で近々行われるであろう三者面談のことを思い出していた。そこに赴くであろうあの人物のことも……。

 不意に僕の目に映る、意地の悪い義弟の消えない薄笑み。

そして弄ばれる猫。

 さっきからギョーザの山が減らないのは、食事が喉を通らないから。嫌な予感しかしないから。

 多分、この嫌な予感は当たっている。

 異世界の空気を読むことに関しては随分とうまくなったのだから……。



 4


 校舎の取材と称して美琴ちゃんの学校に潜り込み、そこでモンペ捜索をやろうと目論んでいた私たちを、他でもない美琴ちゃんが止めた。

 まあ、正確には止められてはいないのだが。

「止めたって止まらないのがあなたたちなんだから、私は止めない! けどやるなら私の目の届くところでやって!」

 なんと信頼されていることか。監視付きで許されることになるとは。美琴ちゃんとしてはただ白石君に復讐したいだけなのかもしれないが。

 こうして冒険に旅立つ前に強力なメンバーがパーティに加入することになったわけだ。聖林高校に侵入しようとしている我々にその在校生が手を貸すというのだから。

 来たる三者面談の日、私は日向家の親戚筋として同席することが許された。もちろん本当の親戚などでは全然ない。そしてモンペ探しはその面談の日に限り許された。どうせ学校へ悪魔の侵入を許すのならいっぺんにやってしまえということだ。三者面談の直前に音々のポケットに盗聴器、もしくはICレコーダーでも忍ばせようとしていた私に美琴ちゃんがそう提案してきたのだ。

「うち両親いないし、保護者代理のお姉ちゃんはまだ若いから、親戚も同席させるって言えば多分あっさりOKしてもらえるはず」

 どうしても自分の視界の中に私と姉を置いておきたいのだろう。一人で二人の人物を同時に監視するとなると、どちらとも視界の中に入り込ませるようにするしかないのだから。

「ただし条件があります」

 美琴ちゃんは姉とそっくりな顔をしているくせに、姉にはできない険しい表情で顔を近づけてきた。

「あら何でしょう。楽しみ」

「カンナさんは先生から質問された時以外は何も喋らないこと。飽くまで付き添いを通すこと。お姉ちゃんが火を吹いて暴走した時はそこに油を注がないこと。火薬を投げ入れないこと。むしろ消火活動に専念すること」

 この可愛い顔をしたJKは私の仕事をことごとく的確に奪い去っていく。悪魔(エクソ)祓い(シスト)の才能があるかもしれない。

 まあそれでも同席できるだけよしとするか。音々が炎上させたその火の揺らめきをそばで眺めているだけでも私は生を実感できるのだから。

 そしてその日の放課後、私と音々は面談時間よりも一時間はやく校内に上がり込んでいた。三者面談の時期に保護者が校内を徘徊している様子はさほど珍しくないのだろうが、音々ほど若くて美しい保護者はかつてなかったのだろう。通り過ぎる生徒のほぼ全員が音々を均等に二度見してきたのだ。特に男子。王侯貴族の社交界にもこれほどの上玉はいないのだろう。

 聖林高校は校舎の真新しさからすると少なくとも築十年以内の若造なのだろうが、合理的になりすぎたせいか、玄関も廊下も校舎の外見もただ白いだけの殺風景にしか見えなかった。学校よりも病院に近い。

 必要の無いものを削りに削った結果なのだろう。だが必要のあるものだけを残しても、それは機械か動物のどちらかになるしかないのだ。不必要なものに心血を注いだ挙句滅びの運命を選んだ崇高な生命体こそ人間なのだから。

 我々勇者一行は面談まで教室で待機することになっている美琴ちゃんと合流し、学校側に無断でモンペ捜索を開始した。モンペ捜索というか、これは白石君捜索だ。本日、彼の母親が三者面談で学校に来ているという情報を事前に美琴ちゃんがキャッチしてきてくれたのだ。なんと協力的なことか。いや、消し去ることのできない復讐心ゆえか。

 まず美琴ちゃんは白石君のクラスに残っていた女子二人に声をかけた。二人とも美琴ちゃんと同じ可愛らしいブレザーを着ていた。こうして同じものを着せられると、必然的に人々は残酷な現実を突きつけられてしまう。美琴ちゃんがいかに恵まれた容姿をしているのかがよく分かるのだ。

 二人とも、机に向かって参考書を読みながらタブレットを指でなでているようだった。目がその二つのアイテムの間を忙しく移動している。その動きに合わせて両手の指も動いている。進学校の上位連中はこうやって空いた時間も必死に勉強しているのだ。ああ、やだやだ。

 こいつらの表情の無さが人生における遊びの無さをそのまま表しているのだろう。もちろん私の偏見でしかないけど。

「あの」

 教室の外から遠慮がちに二人に声をかける美琴ちゃん。ものすごく申し訳なさそうにしているのは、本当にそう思っているからだろう。

 二人が一斉に、不快そうな目つき顔つきを隠すことなく美琴ちゃんの方に顔を向ける。この反応を予期していたからこそ美琴ちゃんは殊更申し訳なさそうに声をかけたわけか。美琴ちゃんは家でも学校でも気苦労が絶えない。

 声をかけられた二人は何か用、とも訊かない。ただじいっと鋭く冷めた視線で話しかけてきた対象を見るのみ。

 怖っ。

「あの、白石君どこにいるか知らない?」

 それでも質問する健気な美琴ちゃん。

「知らない」

「さあ」

 言うと同時に美琴ちゃんから視線を外すその素っ気なさ。こいつら、知ってたとしても知らないって言うんじゃないか。

「白石君、今日、三者面談だよね?」

 めげずに確認する美琴ちゃん。

「さあ……」

「……」

 返事をした方もハナっからこちらを見ておらず、これ以上日向美琴などと会話を続ける気はさらさら無いということを言外にアピールしているようだった。

 おそらく、彼女たちは美琴ちゃんのことを知っているのだろう。こんな美人なのだから校内での認知度は相当のはずだ。そして彼女たちは必ずその人物の成績を気にする。それだけで日向美琴という女子生徒を値踏みしてしまうのだ。美琴ちゃんが下位だと知れば付き合う気も失せる。加えて美人は女の敵なのだからこういう反応にもなる。

 そういう人間性と引き換えに彼女たちは将来、弁護士やら官僚やらになるのだろう。彼女たちに気を遣っている側の美琴ちゃんの方が大人であるという考えは彼女らにはないのだろうか。

 美琴ちゃんがバレないように舌を出しながら顔を引っ込めようとしたとき(なんと可愛らしい!)、彼女の後ろに突っ立っていた恐怖の姉が動き出した。

「美琴、あの二人は美琴のお友達ですか」

 気遣いのできる妹とは違い、その遠慮の無いよく透る声。

 美琴ちゃんに対する敵愾心を分かりやすく示すためだけに先ほど意図的に視線を参考書に移した二人が、反射的に、今の発言を認めないという姿勢をアピールするために、さっと顔の向きをこちらに戻した。

 気遣いのできる妹はこの事態に狼狽。私はわくわく。

「お友達ではないのですか?」

 質問に答えないと先へ進めない恐怖の音々ルール。

「いや、お姉ちゃん、全然、そういうのじゃないから……」

「お友達ではないのですか?」

 本当に恐怖だな、これは。

「違う。違います。私は、ほら、そんな成績良くないし。頭の出来が全然違うから。人民だから」

 両者ともに聞こえる位置にいる気遣いの少女は必死に言葉を選んでいる。姉の質問攻めという関門をクリアしつつ、後ろからの視線も気にする。地獄のサンドイッチ。それよりもなんだ人民って。

「頭の出来」

「そう」

「美琴はあのお二人より料理が上手だから嫌われるのですか?」

 その一瞬で教室の中の二人の視線が嫌悪から憎悪に変わる。

 妹の頭の良し悪しをただ料理の腕前だけに集約するこの姉の頭はどうなっているのか。自分の生活に関係あることだけを気にして生きているのかこいつは。

「そうじゃないのよお姉ちゃん! 勉強! 勉強ができるかそうでないか!」

 必死の美琴ちゃんと無風の姉。この対比。

「では、美琴は勉強ができるから嫌われるのですね」

「逆! 逆だから! できないの! 私!」

「できない方が嫌われるのですか? 踏んだり蹴ったりではないですか。逆の方が平等になりますよ」

 何だその理屈は。思わず笑ってしまう。

「ではお友達を作るためにみんな必死で勉強しているのですね」

「はあ?」

 音々が一人で納得してしまう。そして勝手に友達作りに励んでいることにされた教室の二人。めちゃくちゃこっちを睨んできている。

「いや、そうじゃなくて、みんな将来、医者とか、弁護士とか、国家公務員とかになるために必死で勉強しているわけで……」

「お友達を作るためではなく?」

「ためではなく!」

「では他に何のメリットがあるのですか?」

「はい?」

「その医者とか、弁護士とかになることに、一体何のメリットがあるのですか?」

 本当に分からないことを訊く時の無垢な音々の瞳が困惑する妹を見つめる。人々が目指して止まない、いわゆる「上級職」には何の旨味があるのかを本気で問うているのだ。  

 これの完璧な答えなど、そういえばあっただろうか?

「何してんの……」

 沈黙を破ったのは男の声だった。

 背の高い、髪が長めの、少し世を皮肉ったような冷笑の顔付きが固定された男の子。その視線が我々三人を順繰りに、蔑むように眺めまわし、最後に美琴ちゃんのところに止まった。

「し、白石……」

 いかにも歓迎していない表情と声で美琴ちゃんが相手の正体を告げた。彼こそが噂の少年だったのだ。

「美琴のお友達ですか?」

 雰囲気など一切察しない女が、突如現れた少年にも同じ質問を繰り返した。

「え? いや……」

 美琴ちゃんが白石君と姉に目線を転じながら分かりやすく混乱していた。

「違(ちげ)えし……」

 不機嫌さをアピールするかのように視線を横に投げ出しながら、白石君は吐き捨てるようにそう言った。彼は右側の口角の機微で態度を表明するのが好きらしい。なんともいやらしいその口の形が絶妙に彼の心の中を表してくれている。

「お友達ではないのですか?」

 白石君ではなく、音々は飽くまで美琴ちゃんの返答待ちなのだ。

「ち、違います」

「では、彼も勉強ができるのですね?」

「それはもう、かなり」

「では、彼も医者やら、弁護士やらを目指しているのですね?」

「ええと……」

 美琴ちゃんはチラリと白石君に視線を向けた。

「医者志望だけど、何? つーか、何これ?」

 上から目線で、少しキレ気味に美琴ちゃんを見据える白石君。この態度から推測できることは、彼にはどうしてこんなわけの分からん時間を取られないといけないのか、という不満がまずあり、その見下すべき女に対し高圧的にその不満を放つことで、お前が俺をこんな不快にさせているのだぞということを当人に分からせてやりたいのだ。

 まあ、ガキの感情図だ。

「いやあ、ちょっと三者面談で……」

「どうでもいいけど、こっちの邪魔すんなよ。お前と違うんだからさ」

 しかめっ面で、吐き捨てるように言う白石君。

 こっち。

 お前とは違う。

 短い文章の中にこうも差別表現を詰め込めるとは。しかも恐らくはわざとであろう。

「ああ、うん、ごめんなさい……」

 しゅんとなる美琴ちゃん。口角をわずかに持ち上げてそれを見据える白石君。彼としてはこの構図が何よりも好きなのだろう。

 だが、彼は甘かった。

「医者になるメリットとはなんですか?」

 外の世界の動きをまるで気にしない女は止まらないのだ。何故なら外の世界の動きをまるで気にしないから。

 質問の内容も先ほどと同じ。自分の頭に浮かんだ疑問をただ処理したい。それだけの動機。

「は? 何?」

 常に相手に非を押し付けるような、お決まりのうざったそうな顔をしながらも、やはりどこか困惑の色を隠せていない白石君。化け物との初遭遇。

「医者になるメリットとはなんですか? 何かメリットがあるからこれほどまでに必死で勉強しているのでしょう?」

 真っ直ぐな音々の視線。そこから逃げるように、白石君は人民の方に目をやる。お前がなんとかしろと言わんばかりに。

 今度はその視線から逃げるように、美琴ちゃんがフォローに必死になる。

「あ! お給料! お医者さんはいっぱいお金がもらえるよ、お姉ちゃん!」

「私や響さんの方がきっともらってますよ」

「う……」

 即答。妹までバッサリと斬り捨てる姉。

「本気でお金が欲しいのであれば、創作物の売り上げで得られる印税、動画配信による広告収入、株の配当、権利使用料、等々、正攻法ではない方が儲かりますよ。今の時代はお金を稼ぐ手段がたくさんあるのです。わざわざ青春時代をすべて勉強に注ぎ込んでまで医者になるメリットがお金稼ぎだとは思えません。美琴、ちゃんと医者になるメリットを教えてください」

 何故か注意されてしまう美琴ちゃん。二次被害者でもない、謎被害者。

「必死に勉強してまでなりたいと思えるそのメリットとは何なのでしょう」

 美琴ちゃんが考えあぐねていると、我慢がならなかったのだろう、白石君が入り込んできた。

「それは医者にしかできないことがあるからだろ。手術とか、薬の処方とか、医者以外にやっちゃいけないことで、同時に誰かがやらなきゃいけないことが山ほどある。病気やケガで困っている人たちを治せるのは医者だけだからな。誰かがやらなきゃいけないなら、医者を目指してずっと勉強してきた人間がやるしかないだろ」

 強いプライドを胸に秘めた白石君が高らかにそれを宣言してきた。

 この白石君の主張は実に筋が通っている。これは彼を褒めねばなるまい。非の打ちどころのない立派な社会貢献である。しかもこれは弁護士や官僚なんかにもあてはまる汎用性の高い理念でもある。

「……だからメリットがどうとかは全然関係ないんだよ。みんな病気で苦しんでいる人を治したいって想いだけでやってることだ。そのためだけにみんな必死で勉強してんだから」

 珍しく真顔の白石君だった。自分は本気でそう思っていると顔中に書いてある。この時だけは彼の譲れぬプライドが感じられた。

 どうやらこの白石君は困っている人を医療の力で救うために勉強しているらしい。

 おそらく、これが全国にいる立派なお医者様たちの正体であろう。ただそのためだけに彼らは必死で勉強して医者になったはずなのだ。ただ困っている人を救いたいその一心。

 そしてなぜかしゅんとなる美琴ちゃん。立派な目標を胸に頑張っている白石君を前にし、成績だけではなく、人としての圧倒的な差を感じてしまったのだろうか。

「なるほど、偉いですね。いわば自己犠牲の人生ですか」

 音々が感心して言う。

「そうだよ。悪いかよ」

 冷静に真顔で勝ち誇る白石君。己の中の格好の良い矜持を見せつけてやれたのだから当然か。

「それだからさんざん利用されても何も言わないのですね。偉いですね」

 音々が事も無げに言う。

「は?」

「は?」

 私を含め、これを聞いていた全員が「は?」である。

「利用、とは?」

 これは私が訊いた。

「美琴は彼ほど必死に勉強しなくても、痔とか盲腸とか脱腸とか膀胱炎とか痴呆とかになっても彼に治してもらえるんですよ」

 どこか嬉しそうに音々はそんなことを言った。病名を口にしている時は特に嬉しそうだった。

「いや、まあ、それが医者だからね」

「彼、または彼のような人が幼少の頃より多大な時間を費やし、必死に勉強して医者になってくれるのです。人体の治療に関することは医者にしかその実行を認められていないというのであれば、その方々が青春時代を棒に振ってまで得た資格を利用するしかない社会ということです。これを換言すると、彼が必死にためこんだ知識をみんなが利用できる世の中であるということです。これは医者でなくてもそうですね。小さい頃から強制労働のような勉強をさせられ、医者になったらなったで勉強など何もしてこなかったような手合いを治療してやらなければならない。こんな散々な人生は誰だっていやでしょう。それなのに文句の一つも出ないのは、やはり困っている人を助けたいという社会奉仕と自己犠牲的な精神がそうさせているのではないでしょうか」

 感心している。

 変人が独特の理由で感心しているのだ。

 まるで医者志望は青春時代をすべて搾取されるかのようなその考え方。しかも勉強してこなかった人間に自分の人生の大半を利用されるような逆転の構図。

 そして恐ろしいものに気付いたような表情で口を半開きにして固まってしまう白石君。そしてそして同等の表情を浮かべる教室の中の二人。

 音々のこの極端な視点からの意見は、意表を突かれることはあるかもしれないが、それでも別に正解でも正当でもなんでもない。

 音々の吐く暴論や極論やは、それがすべて正しいということでは決してない。これは当然である。何故ならそれは暴論であり極論でありでしかないのだから。常識を一つも知らない女からもたらされる意見など悉皆(しっかい)この三つのどれかになるしかないのだ。

 ただ、音々の視点からもたらされたその極端な意見というものが往々にして否定し切れるものではないことが多いのだ。いや、多いではなく全てそうなのかもしれない。

 正しくは決してないが、全否定することもできない。音々の口にする意見の大半がこういった特色を持っているのだ。

 その否定し切れない部分にこそ常識人たちは毎度混乱させられてきた。

 きっとそこに埋まっているのだろう。

 常識人たちが触れることを恐れてひた隠しにしている真実とやらが。

 今しがたの利用する、されるという考え方に対しても、実のところ効果的な反論はないのではないかと私は思う。学生時代にただただ遊び惚けていただけのやつらの病気も治さないといけないのが、勉強漬けの人生を歩んできたであろうお医者様の役目だからだ。そして白石君はついさっきまでその言い分で満足していたはずなのだ。自己犠牲と社会貢献の精神で医者を目指してますよと。それで納得していたはずなのだ。

 ではなぜその通りだと言い切ることができないのか。

 その言い切ることのできないところに埋まっているものこそ……。

 私はふと、その埋まっているものを掘り出してみたくなった。

「じゃ、音々。、そいつらは実のところ全員利用されるだけの可哀想なやつらということね」

 私はわざと大き過ぎる声量で音々に問うた。

「それはそうでしょう。青少年期の貴重な時間を勉強だけに潰してしまい、その後もあらゆる種類の人々に医者として利用されるだけの人生を歩むことになります。お金を払って治療してもらっている以上それほど感謝する人もいないと思います。それは当たり前のことと思われてしまうのです。果たしてこれで人の上に立っているといえるのでしょうか。私はそれだから医者やら弁護士やらになることに何のメリットも無いと考えていたのです。もちろん、みなさんは社会貢献と自己犠牲の精神で医者を目指していると思うので、

 音々は首を傾げて白石君の方を見ていた。そうですよね、と脅迫しているのだ。

「そ、それは、そうなんだけど……」

 白石君は明らかに混乱していた。

 なぜ何も言えなくなるのか。目の前にいる人外に「はいそうです」と言い切ってしまえばいい。自己犠牲だけが理由ならたとえ誰に利用されようがその人の病気を治せるのなだからそれでいいじゃないか。

 ということは、そうではないということ。

 白石君の目はどこも見ていなかった。もしかしたら彼はその目で初めて自分というものを見つめているのかもしれない。

 すっかり謎の解けた音々はそれでも何やらブツブツと呟いていた。

「もし本当にそのような職業差別的な理由で医者を目指している人がいるのなら、やはりどうして彼らが勉強しているのかが分からなくなりますね。どうせその先に待っているのは搾取され続ける人生です。それは上位ではなく下位の人生です。何のメリットも無いというのにどうして必死に勉強などをするのか……」

 どうやら追い打ちの爆弾をミサイルに詰め込んでいるようだ。

 耐え切れなくなった美琴ちゃんは力任せにそんなイカレた姉を押し出し、引っ張り、その教室から距離を取ろうとした。

 私もそれについていった。白石君の口角は二度と動かないかもしれないと思いながら。

 ひと気のないところでくどくどと姉に説教をする美琴ちゃんだったが、姉が聞いているはずもなく、ぶっちゃけ美琴ちゃんの白石君に対する溜飲が下がっていることもあり、本気の説教とはならず、ただただ無駄な時間が流れていくのだった。

「にしても、モンスターペアレンツなんてそこら中に溢れているけれど、身近にはいない存在なのね」

 説教も終わった空白の時間に、私の空白の脳がぼやいた。

 欲しい時に無い。会いたい時にいない。でも確実に遠くに見えている。そんな例はいくつもある。

「ここにいるじゃん」

 妹はどこか落ち着きのない姉の方を指差した。

「あ、ホントだ」

 などと納得してしまったが。アレは別枠扱いだろう。

「まあコレは特殊例だから。カウントしなくていいでしょ」

「いや待って。そういや、石像にはバレてるんだった」

 美琴ちゃんは少しだけ肩を落とした。なんだかよく分からないけど漏れがあったようだ。

「顔の形が直方体の男性教諭を見かけたら注意して。お姉ちゃんを見かけた瞬間、石になって崩れ落ちるかもしれないから」

 それは是非とも見てみたいので、できればその石像なる者とエンカウントしたいものなのだが。

「てかあんた何さっきからキョロキョロしてんのよ」

 私は音々の様子が気になっていた。

「昔、こんなところにいたような気がするのです」

 音々は要領を得ないような顔でそう言った。

「お姉ちゃん、それ学校ってところじゃなかった?」

「そうです」

 私と美琴ちゃんは顔を合わせた。

「じゃ、問題解決ね。ちなみにあんたここに何しに来たか分かってる?」

 そういえばこの確認がまだだった。

「モンスターペアレンツなる者を探しにです」

「正解。よく分かってるじゃない。それが難しくなりそうだから邪魔しないでよってこと」

「ですが、先程の話ですと、私がそうなのではないのですか?」

 とても無垢な音々の瞳。

 またまた目を合わせる私と美琴ちゃん。

 こいつ、聞いてやがったのか。

「私がそうなのであれば、その石像とかいう存在が私のことをよく知ってらっしゃるというではありませんか。その石像なる存在を見つけて私のことを訊ねた方が効率的ではありませんか?」

 何だこのアホな提案は。それに何だこの真顔は。アホなのか。

「で、その石像の話を他でもないお前が聞くと」

「はい。目的は果たされます」

 私は何故かドッペルゲンガーを思い浮かべた。何故だ。

「はあ、面談が心配……」

 美琴ちゃんは姉のこのいつにも増してのアホっぷりに、ついつい暗い未来を想像してしまったらしい。

 そういえば、我々は白石君のお母さまに用があったのでは?

 私がそんなことを思い出した時、廊下の向こうから友好的な声が響いてきた。

「美琴ー。何してん?」

 この学校では珍しい、茶髪の子。スカートも短め。

「あら、カレン。地獄の三者面談よ」

「え? そもそも天国って無くね?」

 このカレンと呼ばれる少女もおそらく人民なのだろう。美琴ちゃんとの砕けた会話がそれを如実に物語っている。

「てか、そっちの廊下で面白いもん見たよ」

 少女は悪そうな笑みを浮かべながら今下りてきた階段の方を指さす。

「なにそれ? 校長のカツラでも落ちてた?」

「えぇ? いっつもハゲなのに? 違います。石像大先生よ。めっちゃオバサンに詰められて石になってた。あれきっとモンペよ」

 私たち三人はハッとなり、その階段の方向を見た。

「そうだ! 白石のクラスの担任、石像だった!」

 美琴ちゃんがそれを思い出す。当初の目的の人物、白石母の可能性大。

 というわけで、カレン何某を置き去りにして階段を上る私と美琴ちゃん。音々を忘れてきたので、途中で私が戻って、回収し、無造作に引っ張っていった。

 教えられた廊下には誰の姿も見えなかった。しかし数学準備室と呼ばれるマイナーな一室の中から穏やかではない声が聞こえてきたので、私たちはそこに近づいた。

「石像は数学の先生なんだよね」

 移動しながら美琴ちゃんが教えてくれる。つまりそのマイナーな部屋は石像なる数学教師のホームということになるのだろう。廊下でモンペに急襲された石像が、すぐ近くにあったホームに慌てて引きずり込んだというところか。人の目のあるところで騒がれてはたまらないだろうから。

 というか、その前に石像という謎の呼び名の説明をしてほしいのだが。

「ミヤマ先生。去年から何度も言ってるじゃありませんか」

 険のある女性の声がドア越しに響いてきた。どうやら石像なる数学教師はミヤマというのが本当らしい。

 私たち三人はピタリとドアに張り付いた。三匹のメスの出歯亀。

「私はね、もう何度も言いましたよ。何度も。なのにそちらは改善する様子など一切見せない。無視ですよ、無視。学校側は保護者の切実な訴えを聞いてくれないのですか。それはとても傲慢な態度だと思いますよ」

「いや、そうはいってもですね。カリキュラムを変えるなどというのはさすがに……」

「無理だというんですか? こちらは大事な大事な息子をあずけているんですよ。そちらの授業の方針に不備があるのなら、改善を要求するのは当然のことじゃないですか。あんな授業計画では受かる大学も受からなくなります。私はね、ちゃんと他の学校のカリキュラムも調べてきているんです。いろいろ勉強してきているんですよ。その上で、聖林の授業計画では物足りないと申しているんです。むしろ、私はあなたたちに教えてあげているんですよ」

 なるほど。これはモンスターだ。モンスターペアレンツだ。

 これがそうなのかと瞬時に理解させてくれる存在なのだ。

「ああ、これ。懐かしい声」

 この母親のことを中学の時から知っている美琴ちゃんが感慨にふけっている。

「しかしですね、そのために学校行事をいくつか取り止めにするというのはいささか突飛すぎるというか……」

 抵抗するミヤマ、もとい石像。声からして腰が引けている。

「どこがですか!」

 一喝。

 怒るタイミングがちょっと急な気がする。

「要らないイベントを無くして足りない授業の穴埋めにしろと言っているんです! そのどこが突飛なんですか! うちの子が受かるよりも年間の行事予定を変えないことの方が大事とでも言うんですか! もう二年生ですよ、二年生! 一年生の時からずっと訴え続けてきたのに、結局二年生になってしまったではないですか! 今すぐ変えてください! 今すぐ!」

「いや……」

「それにね、前に言いましたよね! あの日本史の先生を替えてくれって! どうして優秀な進学校として名高い聖林高校があんな教師を雇っているのですか! 見ましたか? あのテスト問題! 全くバカバカしい! あんなレベルの教師が授業やってるようじゃ生徒もみんなバカになってしまいますよ! 一体いくらあなた方の学校に学費を払っていると思っているんですか!」

「いや、ですが、人事権は私には……」

 声量も小さく、私には涙声にしか聞こえない。もう石像先生は風化しきった後の石くれになっているのかもしれない。

 しかし日本史の教師の更迭などというピンポイントの要求に何の意味があるのだろう。

「白石ね……」

 と、美琴ちゃんがウキウキした口調で話し出した。

「この前のテストもその前のテストも、日本史だけ悪かったみたいよ。そのせいで学年二位に落ちちゃったんだって。ずっと一位だったのに」

 このように美琴ちゃんが嬉しそうに内実を暴露してくる。

「美琴、美琴」

 ここで音々がニヤニヤするのに忙しい妹の肩を叩いた。

「これは一体何をやっているのですか?」

 これ、とはこの出歯亀行為のことだろう。盗み聞き、盗聴、傍聴ともいう。

「あんた忘れたの? 私たちはモンスターペアレンツを取材に来ているのよ」

 これは私が答えた。私の仕事の範疇でもあるからだ。

「それは覚えていますが、それとこれと何の関係が?」

「だから、さっきからこの中で喚(わめ)いているオバサンが、私たちが狙ってた獲物だって言ってんのよ」

「ああ、モンスターペアレンツ?」

「そう。モンスターペアレンツ」

 ガチャと、いきなり。

 本当にいきなり、音々が中に入っていったのだ。

 もう本当に、いきなり。

 私はもちろん、美琴ちゃんも凝視しながらの停止。現実に追いついていけていない哀れな子羊が二匹。

 ドアの向こうには、すでに石と化している三十代くらいの朴訥な男性教師。そしておそらく五十手前くらいの、化粧の濃い、フォーマルスーツを着込んだオバサンが一人。

 数学の参考書で埋め尽くされた棚が並んであるだけの、少々狭苦しい殺風景の部屋の中で、顔の形が直方体に限りなく近い男性教師が明らかに奥の方まで押しやられており、オバサンの方はそこまで攻め込んだだけでは我慢ならず、さらにその先生に指さし詰め寄ろうとしていたのだった。

 そんな中に入っていった破壊神音々。そしてドアの開く音がしてから音々が彼らの近くに寄るまでの数秒でようやくこちらに視線を移した二人。それほどまでに音々の動きはあっという間だったのだ。

 切羽詰まった顔の石像先生は音々の姿を視認した瞬間、もっと名状しがたい表情になってしまった。どうやら美琴ちゃんの言った通りになったようだ。

 オバサンは困惑というよりも邪魔されて心外だという、無軌道な怒りの視線を音々にぶつけていた。

 このあたりでようやく私も美琴ちゃんも我に返った。

 音々は上から下へとその怒りのオバサンを眺めまわしていた。もはや無礼とか無遠慮とかの次元ではない気がする。無頓着が一番近いかも。

「なんですか、いきなりあなた……」

「声から察するに、こちらがモンスターペアレンツですね?」

 声を張り上げようとしていたオバサンを全く無視して、音々はあろうことか、その恐るべき確認を、オバサンの目前に手の平を差し出しながら、私の方に顔を向けて迫ってきたのである。

 突然すぎる衝撃のせいでオバサンは絶句してしまったようだ。

 美琴ちゃんは自分には当てられていないとばかりに目を強く閉じてじっとしていた。

 さて、私はどうするか――。

 などと考える前にすでに私の頭は縦に振られていた。自分でも気が付かなかった。

「やはりこちらの方がモンスターペアレンツでしたか」

 と言いつつ、何故か横から、あるいは後ろから、何かを探すかのようにオバサンを見渡す音々。

 こいつ、さては角やら牙やらを探してやがるな。

「だ、誰がモンスターペアレンツですって!」

 オバサンは予想通り、烈火のごとくブチ切れた。

「絶対許さない! あなたいったい何のつもり! 今の言葉、取り消して謝罪しなさい!」

 オバサンは標的を石像から破壊神に変えて再度詰め寄ったようだが、音々は詰め寄られたところで、他者の反応というものを一切気にしない女であるので、ピンと直立したその姿勢を崩すことなどまるでなく、表情も特に変化するでもなく、詰め寄ったオバサンの方が何故か不思議な間を空けた後でわずかに距離を取ってしまうのだった。

「では、奥さまはモンスターペアレンツではないということですか? カンナさんはそうだと仰っているのですが」

 などと丁寧に確認する音々。

 おい、私の名前を出すな。

「断じて違います!」

 拳を握り込んでこれを否定するオバサン。あんたもあんたでよく否定できるな。

「違うのですか? しかし、本で読んだモンスターペアレンツの特徴と奥さまは、ほぼ一致しているようですよ」

「な、なんですって?」

「傲慢で、わがままで、短気で、自分の主張を通すこと以外目に入らない。中年の女性に多い。モンスターペアレンツと呼ばれると一段と怒る。日本語がまるで通じない。あ、通じてますか?」

「いい加減にしなさい! 何よその言い草は!」

「私ではありません。私の読んだ本にそう書いてあったのです。カンナさんも先ほどお認めになったことですし」

「その本が間違ってるのよ!」

 白石母は怒りに目を燃やして叫んだ。

 それよりも、さっきからアイツは意図的に私の名前を出しているような気がする。

「私はね、子供のために筋の通った要求をしているだけです! 学校側の間違いを正してあげているのよ! それをモンスター呼ばわりするなんて、悪口にしても筋違いだわ!」

 などと自分を正当化するセリフを堂々と大声で読み上げる白石母。

「それはつまり、学校という教育のプロの集団よりも、奥さまがお子さんを指導なされた方がお子さんのためになる、ということですか?」

 音々がこれまでに入手した情報を整理した上で確認を取る。この言い分は間違っていない。さっきまでそこのオバサンはそのような主張を石像にしていたのだから。

「ええ、そうですよ。私は母親ですので、私が一番あの子のことを分かっています。もちろん学校の先生方よりも遥かに分かっているのです」

「それは仰る通りだと思います。母親ですからね」

「ええ。ですので、学校側は私の言うことを真摯に聞く必要があると言っているのです」

「つまり、奥さまはお子さんのためにしていることであると? そのためだけに学校側に色々と要求していると?」

「もちろんです」

 なんの臆面もなくこのオバサンは……。

「そうですか。では母親が全員、一人一人、奥さまと同じようなことを学校に要求すればよいのですね」

 音々が妙案を思いついたようにその暴論を発した。

「はあ?」

 と、しばらくぶりに声を上げた石像。それも音々の暴論に対する非難を表明するような声だった。母親が全員モンペになればいいと言っている女に対し、その一番の被害者になるであろう教師側は文句を言わないわけにはいかないのだ。

 この音々の意見には白石母も目が点になってしまっていた。

「子供のことを一番よく分かっているのは母親です。学校でも先生でもありません。それは先ほど奥さまが仰ったことです。その一番よく分かっている母親が子供のために考え、その意見を学校側に受け入れてもらうというのは至極真っ当なことであると思いますよ」

 あっさりとモンペ側の主張を受け入れてしまう怪物音々。むしろモンペ側が戸惑ってしまっている。

「ええ、まあ、でも、そういうことなのかしら」

「しかしそうなると問題が生じてしまいますね。もちろん奥さまはそれに気付いてらっしゃると思いますが」

「え?」

 さらに戸惑う白石母。

 奥さん、しっかりと音々の脳味噌についていかないと異世界に置き去りにされてしまいますよ。

「先ほどまでこの部屋の中で奥さまが先生に仰られていた要求は、他のお子さんにも影響を与える要求でした。奥さまのお子さんだけではなくです」

 音々はモンペがひた隠しにしている急所をこうやって簡単に突いてしまうのだった。

 モンスターペアレンツは無理な要求をする生き物である。その「無理」の具体的な説明を音々は今披露したのだ。お前のとこの子供だけでなく学級、学年、学校全体もその要求に付き合わないといけなくなるぞと。

 先ほどこの奥さまが要求していたのは、学校行事の短縮等による授業計画全体の変更。そして日本史教師の更迭。どちらも白石家の息子一人だけの問題では全然ない。

 分かりやすく苦虫を噛み潰したような顔になる、怒れるオバサン。

「それは……」

 教師に対してはそれでも無理を押し通してしまうのだろうが、音々はオバサンにとって立場的に何のアドバンテージも無い存在である。無理には踏み込んでこないようだ。

「この場合、奥さまは他の保護者全員に許可を取る必要があると思われますが、それはもうお済みですか?」

 真っ直ぐな目で何を訊いているのかこの女は。全員の署名を取るような手続きをきちんと踏んで改善を要求してくる女はクレーマーでもモンスターでもない。それはもうやり手の活動家である。

 それでも音々の言い分は間違ってはいないのだ。全員に影響を及ぼす要求なのだから全員の許可を取ってこいよと。これは間違ってはいない。

 だが間違っていないのに間違っているように見えてしまうこの感じは何なのだろう。恐らく、モンスターペアレンツの要求を、それも恫喝や脅迫などという卑怯な手段を用いないそれを、なんとか肯定的に受け入れようとすると、唯一こういった手順が正しいというだけの「正しさ」がそこにあるからだろう。

 恐るべきは音々が持つ究極の客観視だ。世の中のあらゆる先入観を排除して物事を見る力。それにより導き出される、モンペは関係者全員に許可を取ってくればよいというその異質な結論。

 正しいわけでもないが否定し切れることでもない。これぞ音々にしかできない音々風の変論。

 毎度毎度、私はこれが面白いのだ。

「許可なんて、そんなもの、何のために……」

 痛いところを突かれっぱなしのモンスターは見るからに先ほどの烈火のごとき勢いを消失してしまっていた。

「え? 取ってないのですか?」

 本気で驚く音々。

 おいおい。許可はきちんと取っているものと思っていたのかお前は。ずいぶんとモンスターペアレンツは音々に信頼されているものだ。

「しかし、母親である奥さまの要求を何としてでも学校側に通さないことには、お子さんのためにはならないというではありませんか」

 もはや何も言えなくなるモンスター。このオバサンの言い分のみを参考にするならば、音々のこの発言は圧倒的正論となる。母親こそが子供のことを一番に理解している。だからこそ子供のためになるような要求を学校側にする。そのための手続きを踏んでいないのであれば結果子供のための改善要求もおじゃんになる。それでは子供のためにはならない、という理屈。

 総じてアホか。

 美琴ちゃんが先ほどから小刻みに震えているのだが、いつから彼女は笑いを堪えていたのだろうか。

「では、お子さんは学校を辞めた方が良いようですね」

 音々の暴論は続いた。それも先ほどまでの暴論を遥かに凌駕する暴論。

 学校を辞めた方がいいだと?

 がんばらないと私もどんどん追いつかなくなってくる。

「あなたは、あなたは何を……」

 奥さんは完全に追いついていないようだ。

「奥さまは学校側が間違っていると言います。その学校側に要求した改善案が通らないとなると、お子さんのことを一番理解している奥さまが指導、教育なされた方が良い、という結論に辿り着くのは自明の理のような気がしますが」

 これもまた白石母の言い分のみを採用すると導かれる解答なのだろう。採用するわけにはいかないし、導く必要のない解答なのだが。

「義務教育はもう終えているので、それは可能なはずですよ?」

 目線を合わせ、親切ぶってそんな基礎的な助言をしてしまう音々。お前の親切は常に他者の心の奥底をえぐることを知れ。

「こ、こんな学校でも、辞めてしまうと、それはそれで志望校に合格するのが難しくなるのです!」

 なんとか反論を見つけ出したような白石母だったが、むしろその理由が全てだろうと私は言いたくなる。

「なるほど。辞めることもできないと。つまりは八方塞がりということなのですね」

 何やら一人でよく分からん理屈に納得し、それならばどうすればよいのかと思案する音々だった。なぜお前は先ほどからモンスターに親身になろうとするのか。類友というやつか。

「奥さま。奥さまに残された選択肢はどうやら四つだけのようです」

 また目線を合わせて親切ぶる音々が指を四つ立てた。

「一つめは保護者全員を無視して要求を通す。二つめは保護者全員の許可を取って要求を通す。三つめは大人しく学校側に従う。四つめはお子さんが学校を辞める。このどれかから選ぶしかありません」

 指を順番に折っていき、グーになるとともにそう言い切った音々。何も言えなくなっている目の前の女性を無視して音々はさらに続ける。

「四は志望している大学に行けなくなると言いますし、三は間違った学校にお子さんを通わせることとなるので、オススメはしません。お子さんのことを思うのならやはり一か二ですね。保護者全員と法的に争って勝つか、保護者全員に頭を下げるか、どちらかということです。どちらもお子さんのためになることだと思うので、頑張ってください」

 圧倒的に不可解な結論で締めくくった音々。

 だがこのグチャグチャの結論こそ、モンペの歪(いびつ)さを形を変えて表したような気がしないでもない。彼らの無茶苦茶な要求の、その無茶苦茶の部分を取り出して内容を細分化するとこんな滅茶苦茶なものになりますよと、当人に提示しているかのようだ。

「カンナさん」

 目の前にいる目の焦点の合わなくなった女を無視して、音々が私の名を呼んだ。

「何よ、モンスター」

「この方はモンスターペアレンツではないようですよ」

 もっと驚愕の結論が待っていた。

 何故か奥さんの方が驚いた顔をしているではないか。

「ええと、どうして?」

「私の読んだ本の中では、真のモンスターペアレンツは己のことしか考えておらず、自ら子を滅ぼす存在と書かれてありました。しかしこちらの奥さまはお子さんのために厳しい道を歩まれるようです」

 この決めつけのような発言を聞き、もっと驚いた顔になる奥さん。一か二の選択肢のことか。

「子を思う気持ちの強い、こんなにも自己犠牲的な母親がモンスターペアレンツなどとは思えません。そうですよね、奥さま」

 真っ直ぐな眼差しで、狼狽と困惑と驚愕を同時進行でやっている女性を何の思惑もなく見つめる音々。狼狽しているのも困惑しているのも驚愕しているのも、根っこには自分で自分のことをちょっとはモンペであると自覚している故であろう。それに見て見ぬふりをしてクレームをつけまくっていたのがこのちっぽけな女の正体なのだ。

 だが音々にその内実をことごとく暴かれ、その暴いた女がこともあろうに宇宙一純真な瞳を向けてきて、はっきりとモンスターではないと言い切ってくるこの名付けようのない感情の淀み。

 一体彼女はこの時、己の中の何に気付かされたのだろう――。

 白石母からの返答は無かった。無かったことが答えだと私は思う。これまで刻ませたことのないであろうしわを刻ませ、したことのないであろう表情をして、ただ言葉を詰まらせていた。

「やはり角も牙もないようですし、火を吹くこともなかったです。カンナさんは間違った決めつけをしてしまったということです。今のうちに謝った方がいいですよ」

 音々の中で白石母はモンスターペアレンツではないという結論に至ってしまったようだ。これは自分の取材対象ではないと。どうでもいいが不必要に私に話を振ってくるその悪趣味なやり方はいい加減改めてほしい。

「カンナさん。他にモンスターペアレンツを見つけないと取材ができません」

 そう言い募ってくる音々。違う違う。せっかく見つけたそれを、お前が何故かモンスターペアレンツだと認めなかっただけだ。

 本気で角も牙も生えた何者かを用意しないとコイツは納得しないというのか。

「あのね、音々……」

 ここでタイミング良く、あるいは悪く、校内放送がかかった。

「二年、三組、日向美琴さんと、その保護者様。二年、三組、日向美琴さんと、その保護者様。二階、進路相談室までお越しください」

「あ!」

 呼び出された美琴ちゃんが何かを思い出した。

「時間! 三者面談の! とっくに過ぎてた!」

 というわけで、破壊された石像と、魂を抜かれたモンスターを置き去りにして、私たちは三者面談の場である進路相談室へと駆け足で向かった。

「石像なる人に私のことを訊かなくてよろしいのですか?」

 理解する必要のない質問が、廊下に響く足音に潰され消えていった。



 5


「――以上が僕の考える生涯学習の今後についてでした」

 頭を下げ、壇上を後にする僕を万雷の拍手が襲った。僕はそれから逃げるように観客から視界を隔てているステージ横の幕の中へと逃げ込んだ。マイクをスタッフに預け、空いているパイプ椅子に落ち着いたところでようやくため息を吐けた。

 名前が売れ、注目度が上がると要らぬプレッシャーが発生してしまうことを最近知った。あの夢路響の講演だということで見ている側の期待度も勝手に上がってしまうのだ。

 あの拍手喝采は一体どういう意味なのかを考えることだけはしたくない。

「よう、人気者」

 横のパイプ椅子に座っていた男がニヤニヤしながら声をかけてくる。カエルによく似た男だ。

「弦吾君、まずはお疲れ様でしょう」

「え? なんだって? 拍手が大きすぎて全然聞こえないや」

 下手くそな演技で嫌味を継続するカエル。

「勘弁してほしいよ。本当に客寄せパンダだよこれじゃ」

「またまた。困ったふりしちゃって」

 彼はどうやら僕のため息を本当の気持ちの現れとして捉えてくれないようだ。

「どういうことですかね。僕がこの状況を喜んでいるとでも」

「喜んでいないのですか?」

「喜んでない。楽しんでもない。嬉しくもない」

「どうしてこう、立て続けに嘘を申すかねこの男は」

「申してない」

「あの客層を見ろよ、兄貴」

 弦吾君が幕に手を伸ばして少しだけ横にずらす。

「妙齢の女、女、女。こんな堅苦しいだけの講演会にはまず興味のない種族。ありゃ全部夢路響目当てだ」

「偏見だよそれは。どうして妙齢の女性がみな堅苦しい講演に興味がないと考えるのかな。意見があるならその根拠を示さないと。カエルではない、社会学者として意見するなら」

「兄貴は目の付け所がなってないね」

 何故か呆れ果てる弦吾君。

「なんだって?」

「根拠ならあるよ。見ろよあの女ども、全員美容院行ってからここ来てんだよ」

 適当なことを言う弦吾君。

「ははは。なんだそりゃ。勝手な想像でものを言うのはよくないよ」

 僕は一笑に付したのだが、弦吾君は本当に呆れ果てた表情でこちらの様子を窺ってくる。しかもその後、さっきの僕のよりも深い溜息を吐いたのだ。

「じゃあなんで全員あんな濃いめの化粧してんだよ。あんなおしゃれまでしてさ。講演会を見に来ることとおしゃれしてくることに何の関係があるんだよ。下心があるからそういうことしてくるんだろ」

 弦吾君は茶化すでもなく本気で説得するように言ってきた。

「ダメダメ。騙されないよ弦吾君。僕を困らせようとしても無駄」

 すると今度は諦観の視線で僕を見つめてきた。なぜかこちらが責任を感じてしまいそうになるその冷めた視線。

「こいつは姉ちゃんだけじゃないな。旦那も立派な異常者だ」

 はっきりとそう言ってきた弦吾君の声は確実に何かを憂いていた。

「しかも悪いのは全部この男ときたもんだ」

「え? 僕? 何が?」

「結婚していることを公表していない。なのに自分に寄ってくる女の下心も見抜けない。奥さんからしたら危険極まりない旦那だ」

 なるほどと思った。彼の言っていることが間違っていないのならそういう結論になる。

「じゃあ僕はどうすればいいんだい? どうやったら女性の下心とやらが見抜けるようになるのか、ちょっと僕に教えてみてくれよ」

 僕が諮問してみると、弦吾君は持ち前のニヤニヤを見せつけながらこう言った。

「もっと悪意を持って世の中を見ることだね、社会学者の夢路響先生」

「ほう。なるほど。そりゃ言うほど悪くない答えだよ。そういう視点でしか見えないものもたくさんあるからね」

 僕は頷きながら言った。

「真面目かよ」

「いいや、不真面目だから真面目なふりができるんだよ」

 今度はこちらがニヤニヤしながら言った。

「おっと、こりゃ一本とられましたな」

「勉強が足りないね弦吾君。もっと悪意を持って僕を見なきゃ」

「おっと、こりゃ一本とられましたな」

「それじゃ二本になるじゃないか」

「おっと、こりゃ三本とられましたな」

「君、さては算数ができる子だね」

「夢路先生」

 男の声が頭上から降ってきて、僕は思わず立ち上がった。義弟との悪ふざけを楽しんでいた不真面目な時間の中声をかけられると、何故か悪事を咎められた気分になってしまうのだった。

「発表、お疲れさまでした」

 白髪の混じり始めた長めの七三分けが特徴のメガネ男が、どこか皮肉っぽい微笑を浮かべたまま、形式だけの挨拶を述べてきた。

 初老メガネこと斎藤准教授である。きちっとしたスーツを着ているが、体が痩せすぎていて似合うことなど永遠にない。

「あ、斎藤先生。これから出番ですか」

 僕はなるべく腰を低くして話すようにした。罪人の気遣いである。

「ええ。夢路先生のおかげでずいぶんと会場も温まったようですし、あの通り席も埋まってます。非常にやりやすいですよ」

 感謝しているとは思えない侮蔑とも思える視線を突き刺しながらそんな感謝の弁を述べてくる斎藤先生。裏の顔と表の顔を使い分けることを忘れたのだろうか。

 いやいや、悪意を持って見るとそう見えるというだけのことなのだろう。

 ここでアナウンスが入り、斎藤先生が登壇していった。僕は心の中でアナウンスに感謝を述べて再び椅子に座った。

「兄貴、初老メガネの心の声は録音できたかい?」

 初老メガネが去るまで存在感を消していた姑息なカエルが、脅威が去ってから活動的になる何の不思議もない生態。

「あいにく僕にそんな機能は無いので」

「夢路響め。余計な客集めやがって。お前目当てで集まった聴衆どもはどうせ俺様のありがたい話を聞きやしないんだ。相変わらず気に食わない野郎だ。よおし、今度また雑用を押し付けてやる」

「弦吾君。器用だね。メガネのジェスチャーしながらたまに髪の毛を七三に分けるなんて」

 こうなるともう弦吾君自体が悪意の塊である。

「兄貴、つうわけで俺は寝るから」

 いきなり椅子に体の全体重を預けて腕組みをする弦吾君。

「こらこら、君ら学生は発表者の話をレポートにまとめて提出するように言われているだろう。ちゃんと聞かないと」

「いやいや。兄貴がちゃんと話を聞いておけば、後で俺に内容を伝えることができるじゃないか」

「それは非効率的だね。伝聞でレポートをまとめるより直接君が聞いておくべきだよ」

「そうじゃないんだよ兄貴。どうせ真面目に話を聞いたところで俺は眠っちゃうんだよ。アイツの話が面白かったことなんて一度だってなかったじゃないか」

「君ね……」

「だったら初めから無駄だと割りきって寝てしまえばいい。兄貴はこういう要領の良さがないから気苦労が絶えないのさ」

「面白くないかどうかまだ分からないじゃないか。聞いてみないと」

「性善説者め。自分がいかに損な生き方をしているのか、三十分後に思い知るといいよ。お休み」

 そして三十分が経過した。

「おはよう」

 きっちり目覚めるのがカエルのすごいところだ。

 そしてタイミングよく講演を終えた斎藤先生が通り過ぎていった。

「斎藤先生、お疲れ様です」

 僕はきちんと挨拶したはずなのだが、何やらもの言いたげな視線を僕に投げかけ、斎藤先生は去っていった。

「それじゃ、今の彼がどんな発表をしたのか、要約してみてくれよ」

「え、うん……」

「あれ!? 兄貴、なんだか眠くなってない?」

「あ、いや別に。そんなこと全然ないよ」

 弦吾君が素早い動きで幕に手を伸ばし、ちょっとだけ開けてみた。

「おいおい! 今目が覚めましたよっていう欠伸混じりの女がほぼ八割じゃねえか。たった三十分間で何をやったんだか」

「いやいや、全然、そんなことないよ。発表自体はすごく面白いものだったんだから」

「テーマは?」

「え? 現代社会における大学進学の意義」

「なーるほど。睡魔の原因はそれか」

「ええ? とても興味深いテーマじゃないか。だって、今現在、僕の奥さんと君の妹が何をしているのかというと……」

「あ。そういやそうだな。ちょうどこのテーマに関することを田口とかいう先生と喧々諤々(けんけんがくがく)、談論風発しているかもしれないということか」

「いや、うん……」

「なんだよ?」

「いつものように、弦吾君の稚気から出たその二つの四字熟語を否定しようと思ったんだけど……」

「姉ちゃんがその場にいるとなると、無いわけではないと?」

「うん。ただの話し合いにはなっていないような……」

 自分で言っていて不安になる。

「大学進学に意義なんてあるのですか、とか実際に言ってそうだな。コテコテの進学校の教員に対して」

 悲しいことに、僕はその音々さんを簡単に想像できてしまう。

「それじゃあ、俺が今どうして大学に通っているのか、その意義を聞こうじゃないか」

 どこか嘲るような笑みを浮かべて弦吾君が僕に試問してきた。弦吾君も十分姉に毒されていると思うのだが。

 とりあえず僕は先ほどの講演を思い出し、弦吾君のレポートのために尽力することにした。

「斎藤先生が仰った大学進学の意義。まずは就職が有利になること。というか就職に関して大卒がもはや前提になってしまっているということ」

「ほう」

「大企業なんかはどこもそうなってるんだけど、採用条件の中に大卒という項目が入ってきてしまっているんだ。まともな企業に就職したいならちゃんと大学受験に合格し、ちゃんとそこを卒業してこいという社会からの要求みたいなものがあるんだね」

「そいつが真面目に生きてきたっていう証拠がほしいんだろうな。雇う側からすれば」

 悪意のカエルが真実を見抜く。

 要するにふるいにかけるということだろう。若者全てを募集対象にし、そこから使える人材を見分けるための選定作業を行うとなると時間も人員もいくらあっても足りない。ましてや学歴に関係なく人の資質を見抜く目を持っている人間がどれほどいるのだろう。何らかの基準を設けて、その基準に達しない人間をばっさりと切ってしまっても有用な人材の残る確率はそれほど変わらないだろうし、かえってその少数に選定の目を注力することができればそっちの方が良い結果になる、ということだ。

「音々さんならこの大学進学の意義に対してどんなことを言うかな?」

 僕は思わず悪意の弟に訊いてみた。就職に有利という味気ない進学理由に対し、あの異世界の住人はいったいどんな意見を持つのだろう。

「俺に訊くなよ。俺はもう懲りてんだよ。俺がいくら頭を打とうが姉ちゃんと同じ思考になるのは無理だと分かったんだから」

 弦吾君が苦い顔をして僕の疑問に砂をかける。これは相沢氏の著書に対し弦吾君が反論を並べ立てた時のことか。弦吾君のどの反論よりも音々さんのなんでもない感想の方が遥かに毒々しかったのだ。

「今日、帰ったら美琴に三者面談の様子を聞いてみろよ。姉ちゃんがどのようにして大学進学の意義を否定したのか、きっと詳細を語ってくれるはずだから」

 まるでそれを楽しみにしているような顔をしている弦吾君を見て見ぬふりし、僕は続けた。

「あと斎藤先生はこうも言っていたよ。高卒と比べると、大卒の就職の選択幅が広いというのは厳然たる事実としてあるということ。賃金や待遇が良いというだけじゃないんだ。これは人生の幅が広がるか広がらないかという問題だ。少ない選択肢から人生を選ぶより多い選択肢から選んだ方が得でしょ、という感じ」

「何が人生の幅だよ。言いたいことはさっきと同じで、結局は就職に有利だってことだろ。相変わらず面白くもなんともない意見しか言わない准教授だな」

「でも事実でしょ」

「面白くもなんともないってことが?」

「大卒は高卒と比べると選択肢が多いってことが!」

 カエルめ。

「まあ悲しいくらい否定できない事実だよな。学歴社会とはこのことかと痛感させられる。しかしながらその後の離職率の高さはいったい何を物語っているのか」

 嫌味を絶対に忘れないカエル。社会全体に対してもそうらしい。

「弦吾君、そこまでうがった見方ができるのなら、音々さんが何を言うのかも分かっているはずだ」

 またしても僕は弦吾君を試すような真似をした。弦吾君は今度こそ乗り気になったのだろうか、阿呆のように目を見開いて真っ直ぐ前を向いた。

「私、小説家ですけど、小説家は大卒だろうと中卒だろうとなれるのでは? ですので、大卒にメリットなんてありませんよ」

 下手くそな物真似はともかく、音々さんが言いそうなことではある。

「可能性としてはなくはないだろうね」

「いや、当たってると思うよ。今回は自信ある。美琴の報告を待とうか」

 向こうも同じ内容の話になっている保障などないのだが、弦吾君はもうその気になってしまっているようだ。

「他にもいろいろ言っていたよ。資格を取るのに有利だとか。対人コミュニケーションのスキルがアップするとか」

「でも結局どんな資格にしろスキルにしろ職と絡めてくるんだろ。人生を豊かにするとかじゃないんだよ。就職を有利にするため、あるいはそれ自体が就職に必要なため」

「大学進学の意義といったらもはやそれなんだよ。みんな四年後就職するために大学に入ってくるんだ」

「じゃ、今度は兄貴が姉ちゃんの真似してそれを否定してみてよ」

 僕は阿呆のように目を見開いて真っ直ぐ前を向いた。

「私は小説家ですが、小説家に資格は必要ありませんよ?」

「全然違う。絶対そんなこと言わない。あの人はもっと狂ってるって」

 なんという弟だ。

「続いて、聴衆からの質問に斎藤先生が答えるパート」

 僕は数秒前の物真似を闇に葬って話を進めた。

「そんなイベントがあったのかよ。先生、人気者じゃねえか」

「元々そういうプログラムだったんだよ。僕の発表した生涯学習なんかより一般の人と関わりの深いテーマだから」

 といっても時間が無く、二三人しか質問を振れなかった。その中でも意味のありそうな質問は一つだけだった。

「ある女性からの質問。自分は将来、子供を光政大学のような難関大学に入れたい。大学受験を乗り切るにはどうすればいいのか……」

「それこそ聖林の教員にでも訊けよ。うちの斎藤さんの範疇じゃないでしょ」

 弦吾君が冷笑を浮かべて「やれやれ」のリアクションを取った。

「まあまあ、弦吾君。美琴ちゃんに置き換えて考えてみなよ。彼女、来年受験生なんだからさ、お兄ちゃんとしても不安でしょう」

「美琴は光政大学志望なんだっけ?」

「まだ迷ってるみたいだけど、一応はね」

「アイツ、ここ目指せるほど成績良くないって」

「それでも入りたいと思ってたら何をしてやれるのって話さ」

「斎藤大先生はなんと? 僕は大先生の意見に従いますよ。全幅の信頼を彼には……」

「へえへえ。まずは三年間、計画的に勉強をさせてくれる質の良い進学校に入れること。そして家族全員で協力して家庭内でも勉強に集中できる環境を整えてやること」

 とにかく勉強することが第一と言いたいのだ。間違ってはいないのだが……。

「そういうやつが若者の自殺を後押しするんだよ。学校でも家庭でも勉強勉強って。やってることはブラック企業と変わんねえよ。二十四時間、やりたくもない勉強なんつう強制労働をどいつもこいつもさせられてんだから」

 弦吾君は本心から毒を吐いたようだ。大先生の意見に従うのではなかったのか。

「じゃあもし美琴ちゃんが本気で光政大を目指すのだとしても勉強勉強にはさせないと?」

「うちは学校で勉強、家で介護が基本だから」

「こっちもこっちでブラック企業じゃないか」

「先生、美琴が自殺してしまわないように、うちでは勉強をやめさせますね」

 弦吾君がいつのまにか阿呆みたいに目を見開いて真っ直ぐ前を向いていた。

「ま、姉ちゃんの言いそうなこととしてはこんなところですかね」

「あ、わざわざ、ありがとうございました」

 別に頼んではいないのだが。

「今日を境に美琴が一切勉強しなくなってるかもしれないぜ、兄貴」

 そうだといい、みたいな笑みを浮かべて弦吾君がそんな予測を立てる。 

「はいはい。楽しそうでいいですね。とりあえずレポートは自分でやってね」

 だが弦吾君と話しているうちに三者面談の様子が気になってきたのは事実。はやく帰って二人に話を聞いてみたい。弦吾君や僕の物真似なんかよりも収拾のつかないことをしていそうで少し怖い。

 僕は何の変哲もない明日が大好きなのに。



 6


 進路相談室に入ると、フォーマルスーツを着込んだネズミのような顔のオバサンが、作り笑いであることが一目瞭然の笑顔で出迎えてくれた。

 コイツとは話が合わない。一瞬で私はそれを悟った。

 笑顔を見せると人とのコミュニケーションがスムーズになるというのは本当だろう。ただし極端に作為的な笑顔の場合は話が別だ。作為的であると私が判断してしまうほどに演技の度合いが強い笑顔、と言い換えてもいい。他者とコミュニケーションを図るときに、相手を嫌な気持ちにさせないための礼儀として見せる笑顔ならば全然許せるし、むしろオススメしたいくらいだ。アレを他者への気遣いと呼ぶのだ。だが極端に作為的な笑顔は気遣いなどではなくただの印象操作なのだ。

 この田口とかいうネズ公は気遣いではなく、確実に戦略として使ってきている。コイツの嘘っぱちの笑顔は明らかな印象操作だ。どうやらこれも教師の仕事の一つであるらしい。

「どうも初めまして。わたくし、美琴ちゃんの担任を務めさせていただいております田口と申します」

 すでに椅子から立ち上がっていたネズ公は貼り付いた笑顔で何度か会釈してきた。音々が会釈をお返しするはずもなく、私もすっとぼけてシカトしていたら、私と音々に挟まれる形で立っていた美琴ちゃんが両手を駆使してそれぞれの背中を前に倒そうとしてきた。JKらしからぬものすごい膂力(りょりょく)を感じた。

「美琴、痛いですよ。背中を前に倒そうとしないでください」

 野暮な姉からなんとも的確な状況説明が入った。その瞬間、背中を押す妹の手がグーに変わるのを私は見た。

 そんなコメディが繰り広げられる中、平然とネズミが口を開いた。

「お姉さまも、付添いの御親戚の方も、お忙しい中わざわざ御足労なさってありがとうございます。さ、どうぞお座りになってください」

 私たちの目の前に椅子が三つ並んでいた。長机を挟んだ向こう側にネズミの席があった。

 このネズミは前担任からすでに音々の危険性を聞き及んでいるということだった。今しがたの異様なやり取りの際にもその持ち前の作り笑顔が乱されることがなかったのは、すでにこの程度の異様や異変を覚悟していたからにほかならないのだろう。

 百戦錬磨の学校教員であるこの私なら、どんなイカれた保護者が来ようとも取り成してみせる。

 そんな自信が見え隠れしている。

 しかし彼女は異世界を知らない。このお上品な貴族専門の進学校という狭い範囲内で人間の全てを把握したような顔をするのは命取りである。

 私たち三人は美琴ちゃんを真ん中にして席に着いた。それを確認してから向こう側のネズミも座った。

「この方もモンスターペアレンツですか?」

 突如として音々が口を開いた。平手で田口教員を指し示し、真っ直ぐな目を美琴ちゃんに向けている。

 あまりにも見事な不意打ちに自信満々のはずの田口教員も目を丸くして驚いてしまっていた。私は何とか溢れ出てくる笑みを抑え込みながら、心の中で爆笑し、同時に喝采を送っていた。

 いいぞ、もっとやれ!

 悲運の妹は冷静に姉を睨みつけながら、その話は終わったでしょと、押し殺すような声で一言。これまた絶妙な切り上げ方を見せてくれたのだ。

 音々はというと、そうなのですかと不満気な言葉を残し、お馴染みの無表情を貫いた。

 なんとか作り笑顔を取り戻したネズミは先ほど逸した何かを挽回しようとしてきた。

「なんだかずいぶん、面白そうなことをお話しされていたようですね。ここに入ってくるまで」

 このように、当たり障りのないやり方で毒にも薬にもならない会話を継続しようとしてくるネズミだった。

「はい、まあ、お姉ちゃんとは普段から色んなことをおしゃべりするので」

 こちらはこちらで会話を継続する意思の無い者の返しだと私は直感した。

「お姉さまも、こんな可愛らしくて楽しそうな妹さんがいて、羨ましい限りですね」

 あろうことか、ニコニコ顔のこのネズミはノンレム睡眠中の獅子をわざわざ揺り起こそうとしてきたのだ。これを身の程知らずと呼ぶ。美琴ちゃんの愛想笑いが一気に崩れた。

「私に仰ったのですか?」

 真っ直ぐに訊き返す音々。

「え? ええ、お姉さまに……」

「私が聞かなければならない話だったのですか?」

「うーんと、聞いてませんでしたか?」

「はい何も。私が聞かなければならない話であるのなら、これからそのようにします」

 まず強烈なジャブが入った。

 音々としてはただ本当に聞いていなかっただけなのだろう。別に嫌味でも嫌がらせでもなんでもない。

 それでもネズミは少々崩れた微笑を浮かべるしかなくなってしまった。

「お姉ちゃんは忙しいので、早く話をと……」

 妹の投げやりなフォロー。何をどう取り繕っても無駄だと思っている悲しげな顔。

「……そうですか、それでは早速本題に入りましょう」

 一応の笑顔を継続したまま、ネズミは資料を机の上に並べた。

「まず美琴ちゃんが光政大学を志望しているということは御家族では……」

 共有しているのかと、順繰りに私と音々に目で訊ねてきた。

「私は何も知りません。響さんは御存知かと」

 音々が何の引け目もなく知らんと言った。ネズミのにこやかな口許から「知らない……」という驚愕の言葉が漏れ出た。

「あ、えーと、響さんというのは、お姉ちゃんの旦那さんです」

 先生の驚愕を無かったことにしたい美琴ちゃんは間髪入れずに説明を入れ込む。

「あ、ああ。はい。御結婚なさっておられるんですものね」

 既婚であることが信じられないとばかりに、わざわざその事実を口に出してしまっているあたり。音々に対する強い偏見と不信感が表れている。だがそれは無理もないこと。むしろ正当な感情の発露である。

「今日も本当なら私の義兄である響さんに来てもらう予定でした。でもちょっとお仕事が入って来れなくなってしまったんです。私が光政大学を志望していることは義兄と兄には話しています」

 美琴ちゃんが弁解した。それでもネズミの疑念は消えていない。

「お姉さまには?」

「忙しいので、迷惑かと」

 するとネズミは改まって日向さん、と声をかけた。

「お姉さまを想う気持ちは分かりますけど、やはり進路のことを相談していないのはどうかと思いますよ。お姉さまだって知っておきたいでしょうし、何より日向さんの将来を決める大切なお話です。お姉さまにも、ちょっとくらい時間を割いてもらわないと、それはいけません。こういうケースはわたくしも何度か経験がございます。お母さまに何の相談も無しにご自分で進路をお決めになって、後々話がこじれてその意向が御破算になったケースも何度か見てきました。ですので、お兄さま方にはすでにお話は済んでいるということですが、やはり家族全員で共有することが大事だと私は思いますよ」

「ごめんなさい……」

 美琴ちゃんは本当に申し訳なさそうに謝り、縮こまってしまった。夢路音々のことを知らない人間にそんな共有など無意味であると説明できない限り、こうしてただ相手の正論を受け入れるしかなくなってしまうのだ。これを繰り返して美琴ちゃんは強くなっていった。

「でもね、日向さん。先生はあなたの気持ちも分かるんです」

 友好的な笑顔と親しみのこもった声が美琴ちゃんに向けられた。それが何故これほどまでに鼻につくのか。

「あなたのご家庭の状況を考えると、色々難しいこともあるのかなと、先生は思ってるんです。お姉さまはなんせお若いですし、お仕事もある。辛いことを思い出させてしまうかもしれませんが、ご両親を亡くしたあなたを引き取ってくれて、その上養ってくれているという負い目もあなたにはあるのでしょう。これ以上迷惑をかけたくないというあなたの気持ちも、先生はよく理解できます」

 その優しげなお言葉に、美琴ちゃんは殊勝なふりをして「はい」と返事をした。こちらの芝居に関しては全然鼻につかない。むしろよくやっていると褒めたくなってくる。

「お姉さまも……」

 懲りないネズミはまたしても音々に話しかけた。しかもどこか勝ち誇ったような笑顔で。

「できればもっと美琴ちゃんの話を聞いてあげてください。お忙しいのも迷惑なのも分かるのですが」

 すると音々は相手の方を見ながらパチパチと瞬きをした。

「別に忙しくもありませんし、迷惑でもありませんよ」

「は?」

 固まるネズミ。

 音々はあっさりと美琴ちゃんが音々に進路のことを伝えていない理由の論拠となる部分を否定してしまったのだ。妹の努力をこいつは……。

「そう、でしたか。ではこれは美琴ちゃんの思い違いということでしたか」

 驚きつつもこれで一つ解決したという安堵の呼吸をネズミはやってみせた。何かをごまかすために。

「それならやはり、お姉さまの方も、進路の話などは美琴ちゃんからもっとよく聞いてあげてください。家族で共有することが大切なので」

「別に聞きたくはないです」

 音々がはっきりとそのご意向を申し上げると、またしてもネズミの笑顔が歪んだ。

「聞きたくない?」

「私の進路の話ではないですよね?」

 謎の確認をぶち込んでくる音々。私は笑いを堪える為、少しだけ身構えることにした。

「あの、お姉さまは一体……」

「これは私の進路の話ですか?」

 また一瞬石になるネズ公。この質問に答えない限り先へは進めないという音々ルールを知らないのならここで多少手こずることになるかもしれない。と思っていると、

「お姉ちゃん、違う。私の」

 健気な妹が小声でフォローした。苦りきった顔をしてはいるが。

「そうでしたか。では、私が聞く意味はないです」

 音々が断言した。本当にそう思っている者にしか出せないこの。いつ聞いても爽快である。

 ネズミはまたひきつった表情を浮かべていた。彼女はそろそろイップスを発症するかもしれない。

「お姉さま、そんな考えではいけません。受験というのは家族が一丸となって乗り切るべき壁なのです」

 ネズミは熱を帯びた口調で捲し立てた。

「いいですか、お姉さま、家族全員で美琴ちゃんを助けてあげないと受かるものも受からなくなってしまいます。受験生をフォローしない無責任な家族がいる環境というものはいかがなものでしょうか。やはり受験生にとって望ましいものではありません。どうか協力して美琴ちゃんを勉強だけに集中させてあげてください。そのためにはまず美琴ちゃんがどのくらいの大学を志望しているのか、どのくらい勉強する必要があるのか、家族全員で共有することが大切なのです」

 などと毅然と言い放ったネズミ。顔をキメてきているのは気のせいか。

「美琴が私に協力してくれと言ったのですか?」

「は?」

「美琴が私に、受験勉強に協力してくれと言ったのですか?」

「それは言うまでもないことだと申し上げているのです!」

「美琴、私に何か力になれることがあるのですか?」

 ネズミの返答を完全に無視して美琴ちゃんに問いかけるその様子に私は心内で大爆笑していた。自分の質問の答えとして該当しない発言をするネズミを、音々は思いっきり無視したのだ。音々は相手の主張を受け入れようとしているわけではなく、ただ答えを知りたいだけなのだから。

「いやあ、お姉ちゃんには何も……」

 苦しい表情で正直なことを言う美琴ちゃん。家事も含めて姉には何もできないと悟っているのだ。

「日向さん、遠慮することはないですよ。これは日向さんの進路のことなのですから」

 キレ気味のネズミがキーキー言う。ここで美琴ちゃんに否定されてしまったら音々による暴挙がまかり通ってしまう。自分の常識を信じているネズミにはそれが絶対に許せないのだろう。

「光政大学に受かりたいと思っているのなら、その気持ちをご家族に分かってもらえるよう伝えないといけないのです。絶対に受かりたいという強い想いを」

「ええと……」

 絶対に受かりたいとは思っていない反応を示す美琴ちゃんだった。強い想いが無いのだろう。

 それなのに意志を強制してくるということが果たして学校側の正義になりうるのかどうか。私は少し疑問に思った。

「私は今まで通りでよろしいのですか? 何か言ってくれれば協力しますよ?」

 妹に確認する音々。

 そして美琴ちゃんは何かを諦めるかのようにこう言った。

「お姉ちゃんは、これまで通りで………」

「日向さん!」

 ネズミが見たこともない顔をしている。

「そうですか。先生、どうやら受験というのは家族一丸となって乗り越える壁ではないようですよ」

 謎が解けたようなすがすがしい顔つきでネズミに声をかける音々。ネズミの主張が坦々と否定されていく。

「そんなわけありません! なんということを仰るのですか!」

 ネズミが牙を剥いて激怒した。先ほどまでの笑顔の彼女をもう思い出せない。

「先生、あまり怒らないで上げてください」

 何故かこれを音々が制した。ネズミの目が大いなる謎を目の前にした時のようにカッと見開いた。

「あ、あなたに言っているのです! あなたにっ!」

 鋭い眼光のネズミが口角泡を飛ばしながら音々を指差した。

 私はもう限界だった。私の肩が大きく揺れている。よく見ると美琴ちゃんも唇を噛んで耐えているではないか。

「そうでしたか。どうすればお怒りが収まるのか、先生はご存知ですか?」

 真顔でこれを訊く音々。もう限界だ。笑うなという方が無理だ。

 呆気にとられたネズミではあったが、めげずに怒りを取り戻し言い返した。

「それは、あなたが私の話を理解してくれればこれほどまでに厳しく注意することもないのです!」

「先生のお話? どのあたりのですか?」

「ですから、妹さんの受験に際し、あなたに無責任になってもらっては困るということです! あなたを含むご家族のご助力が絶対に必要になってくるからです!」

 ネズミは毅然として主張した。

「ですが、それはすでに美琴に否定されています」

「えっ? 私にぃっ!?」

 美琴ちゃんは思わず自分に指を差して叫んでいた。

「はい。どうやらこちらの先生はそれが気に喰わないようでして」

 もう駄目だ。どれだけ栓を閉めようとも目から涙が溢れ出てくる。

 責任転嫁とも違う謎のロジック。しかしよくよく考えると、姉に何も望んでいないという美琴ちゃんの発言が色々な引き金になっているようにも思える。

 困惑する美琴ちゃん。攻めあぐねる先生。不動のバカ。

 音々の周りにいる人々が、音々の発する異次元空間に引き込まれて身動きが取れなくなるということはよくあることだ。

 ここで私は美琴ちゃんの熱い視線に気付いてしまった。泣きそうな目で私を見てくるではないか。姉がこうなった時にはフォロー(消火活動)することを条件に参加を許されている身としては、このような救援要請があった場合に必ず助け船を出さなくてはならない。本当はもっとやれと思うのだが。

「先生、ここで揉めてても意味ないですよ」

 私は涙を拭いながら言った。ネズミが私を見てくる。

「美琴の姉はこういう人間です。それを知っているこちらとしては、どうせこうなるだろうと予想しておりました。だからこそ親戚の私がついてきたわけです。大事なお話は私がお聞きしますので、話を先に進めましょう。美琴は光政大学志望なんですよね」

「え? ええ、そうです」

 我を取り戻したネズミが慌てて姿勢をただし、資料を探し出す。

 その隙に美琴ちゃんがキラキラとした熱視線を私に送ってきた。感謝の意のつもりなのだろう。可愛すぎるので抱きしめてナデナデしてやりたい。

「こちらが美琴ちゃんの一年次と二年次の成績の推移を表にしたものです。そしてこちらがそれを基にした光政大の合格率予測です」

 資料には学部ごとの合格率が小数点まで記載されている。こりゃ便利だ。

 しかし美琴ちゃんの合格率の低さたるや。本気でこんなとこを目指しているのだろうか。

「正直言って、かなり危ういラインです。日向さん自身はこのことについて、どう感じていますか?」

 この時点でネズミは作り笑顔を取り戻していた。ああ、こういう顔だったなと私は思い出した。

「はい。ちょっとまずいですね。これからもっと頑張らないといけないなあと」

 美琴ちゃんも美琴ちゃんで、先生を不快にさせない謙虚な生徒像を取り戻していた。

「そうですね。まだ一年以上あるから、努力次第では全然挽回できると思います。でも本当に光政大を狙うつもりなら、早急にギアを上げる必要はあるわね。できる?」

「はい。この資料を見るとサボってる時間は無いなって実感できます。あと、やっぱり苦手な教科はちゃんと数字として出てしまいますね」

 資料に目を落としながらを浮かべる美琴ちゃん。

「それが分かれば上出来です。自分でそれが理解できるなら、あとは目標を立ててしっかり勉強するだけです。各教科のサポートは私たち教師陣が全力でやるので、そっちもどんどん頼ってきて大丈夫よ」

「はい。心強いです。私一人の学習じゃきっと他の受験生たちとの差はずっと埋まらないって思うし」

「このままだとそうでしょうね。でも日向さんには聖林の教師陣がついてます。私たちを信じてくれれば絶対に日向さんの合格率は上がります」

 信じてくれて問題ないというキラキラした目を美琴ちゃんに放つネズミ。

「そう言われると、なんか安心できます。ずっと一人で勉強してきたので」

「任せてください。一人で勉強することも大事ですが、これからはどんどん頼ってくれて大丈夫です」

「そうですね。私もこれまで以上に頑張らないといけないかもしれないけど、先生方もこれまで以上に頑張ってもらいますね」

 悪戯っぽい笑顔をこれみよがしにネズミに見せつける小悪魔。

「ええ、もう、どんどん利用しちゃって」

「はい。遠慮なく」

 そしてとどめに可愛らしさ全開の美少女スマイルが炸裂。

 恐るべき女子である。

 という大人を手玉に取る秘術を、すでにして彼女は完璧に体得している。ネズミなどは簡単に操られてしまっている。ネズミの中ではもう美琴ちゃんは勤勉な受験生なのだ。

 しかし人間としてすでに優秀な人材であることが確定している美琴嬢がベンキョウガンバルと言っておきながら、実際は成績が伸びているわけではないというところが気にかかる。少なくとも光政大学をずっと狙っていたとは考えにくい。ということは、もしかしたら彼女は適当に進路志望を書いて提出しただけなのかもしれない。何故なら光政大学とは、私と、そこの音々と、そこの音々の旦那が通っていた大学でもあり、実の兄も現在通っている大学でもあるからだ。適当に書こうとするなら耳慣れている大学の名前であろう。ならば彼女にとってそれは光政大学しかない。

「美琴は勉強しなくてもよいのではないですか?」

 ここで先ほど遠ざけたはずの変人が再び舞い戻ってきた。

「なんですって?」

 分かりやすく戸惑いながらネズミ先生が問い返した。

「私は妹のことがとても可愛いです。美琴が嫌だと思うものは極力やらせてあげたくないのです。美琴が勉強することを嫌がっているのなら、私はその気持ちを優先させてあげたいと思うのです」

 どこか真摯な口ぶりで妹に対する歪んだ愛情を語る狂った姉がここにいた。

 当然、進学校の教員としては、家庭で勉強させないなどという見当違いの了見など言語道断であろう。

「誰が勉強したくないなどと言ったのですか?」

 無表情よりもわずかに厳しい顔。生徒に説教する時の顔はこれかと私は思った。

「言ってませんでしたか? 今。美琴が。先生に」

 言ってない。言っていないし、お前は恐らくだが例によって話を聞いていなかったはず。

 そしてそれなのに当たっているという……。

「言ってません。美琴ちゃんはむしろ逆のことを言ったのです。それをお姉さまがそのように勘違いされるなど……」

ネズミは深くゆっくりと呼吸をした。恐らくは自分を落ち着けるために。その後、キッと睨みつけて説教するみたいにネズミは言った。

「……いいですか、お姉さま。大学受験に際し、家庭の役割の重要性というものをお姉さまは理解されていますか? 学校だけではなく、家庭の中でもお子さんの継続的な勉強を支える環境づくりがいかに重要であるかを、家族全員で理解していただけない限り……」

 などと、くどくど。

 要するに難関大学に受かるためには学校と家庭の両面で勉強させよと訴えているのだろう。その上予備校に通わせるケースもあるのだという。とにかく二十四時間体制の勉強という苦役を子供に強いてくれとお願いしているわけだ。

 そういえば今日は我が母校の大先輩、斎藤大先生が大学進学の意義について一席ぶっているのだとか。受験には家族のバックアップが絶対に必要、かわいい子にはとにかく勉強させよとか、あのガリメガネがいかにも言いそうな普遍的意見ではないか。いや、絶対に言っているに違いない。そして聴衆を夢の世界へといざなっているに違いない。後で響に確認してみよう。

 しかしこのネズミにしろあのメガネにしろ、学校でも勉強、家でも勉強とは。そのような過酷な環境の中でも家族がきちんとフォローしてやれば自殺することはないとでも言いたいのだろうか。私なんかは本末転倒に思えて仕方がないのだが。

 さて、このメガネ&ネズミのありきたりな意見に対し、普遍性皆無の音々はどのような反応を示すのだろうか……。

「先生、美琴は勉強したくないと言っているんですよ。いくら環境を整えようが、勉強をしたくないという美琴の意志に介入することは家族とてできないことです」

 どこまでも美琴ちゃんの不勉強を信じる音々。

「ですから、美琴ちゃんは一言もそのようなことを申しておりません!」

 ネズミは目を剥いて怒った。

。それは一緒に暮らしている家族だからよく分かります」

 圧倒的事実が同居人からもたらされてしまった。妹は勉強したくないと言っている、という先ほどからの音々の主張はこれが理由であったか。

 この悲報により完全に停止してしまうネズミ先生。

 そして思いっきり目を逸らす美琴ちゃん。その際姉に対する呪詛の真言を唇の動きだけで呟いていたのは私の気のせいではあるまい。姉の告発はどうやら事実だったらしい。

 それでも美琴ちゃん本人が「勉強したくないと言った」という部分は音々の創作か思い込みであろう。本当は逆のことを言っていたのに音々にはそう聞こえたということは往々にしてあることなのだ。女性総体への悪口とか何とか言われていた書籍もある通り。

「美琴は勉強したくないのですよ先生。ですのでその美琴の勉強したくないという意志に介入することは誰にもできないことだと私は述べているのです」

「そ、それならなおさらお姉さまには妹さんを説得してもらって、今すぐにでも日常生活のルーティンを勉強中心に変えていかないと。日向さんの学力ではまだ志望校の合格ラインに手が……」

「まさか、先生は御存知ないのですか……?」

 ハッと何かに驚く音々。絶対にその驚きは音々にしか理解できない驚きのはずだ。

「何が、ですか?」

「勉強には時間がかかるのですよ?」

「何を……」

「何かを学ぶということはそれなりに時間がかかってしまうものなのです」

 聞くまでも無いことを連発する音々。

「そして勉強とは、何かを学ぶということは、今じゃなくてもいつでもできるものなのです」

 ああ。変論。これは変論だ。

「ですので、私は勉強を放棄している美琴の姿勢には大いに賛成したいと思っているのです。

 変論の出現に際し、人は一時停止したのち感情を爆発させるということを私は良く知っている。

「な、な、な、何を言うのです! 今やらないと何の意味も無いでしょう! 受験は一年後に迫っているのですよ!?」

「大学受験に年齢は関係無いはずですが?」

「それは……」

 そう言えばそうだったなと、つい思ってしまうくらいに盲点だった。

 受験は高校三年次の冬から春にかけて。そういう先入観が誰しもにあるのだろう。

「そんなことよりも、私は美琴から日々失われる子供でいられる時間の方が大切に思えてなりません」

 たじろぐ相手にも変論の手を緩めようとしない音々。

「先生、美琴が子供でいられるのは今しかないのです。その時代しかできないことをするということは、などよりもはるかに有意義なことなのではないでしょうか? 子供の時しか感じられないもの、目に映らないもの、聞き取れないもの、心が動かないもの……、我々は大人になってしまったからこそ、それらの価値を知っているのではないですか? 子供から時間を奪うことの罪を、本当は大人が一番実感しなければならないのです。勉強するということは、時間を費やすことと同義です。限りある時間の中で、どうして勉強などというを優先させて、二度と戻らない感性の時代を無駄にするのですか?」

 当然のことを申し上げていると言わんばかりの音々の態度。

 思わず言葉に詰まってしまうネズミ先生が印象的だった。

「で、ですから、日向さんには受験が迫っているから、勉強せざるを得ないと、何度も言っているでしょう!」

 これはネズミ先生、音々の変論を喰らい混乱していることをなんとか誤魔化そうとして、同じ主張をボリュームだけ上げて繰り返すという、私が何度も見てきた音々の被害者たちと同じ状態になってしまっている。

「つまり先生は、勉強する意義は受験にこそあるとお思いなのですね?」

 ようやくそのことに気付いたような頷きを見せる音々。

「はい? あなたは何を……」

「先生は、勉強する意義は受験にこそあるとお思いなのですね?」

「そんなのは、だって……」

「お思いなのですね?」

 催眠術にかかったみたいに、他人から見ても無意識だと分かる動きでついに首を縦に振ってしまうネズミ先生。これは仕方がない。

「やはりそうでしたか。だから先ほどから訳の分からない主張を繰り返されていたのですね」

「なんですって?」

「要するに、大学側はどのくらい勉強してきたかを見て合否を決めるということですか?」

「言うまでもないことです! 合格するためにみなしのぎを削っているのです!」

「なぜ合否の判定基準がそのようなものになっているのですか?」

「それは……」

 これはとてつもない原点回帰だ。

 誰も答えられない問い。答えがあったとしても誰も納得しない問い。

「数教科数科目、希少で貴重な時間を割いてまでを修学してきた子供たちは、一体それで何を計られるというのですか?」

 今更そのようなタブーに口を突っ込む人間などこの世にいるはずがない。いたとすればそれは異世界からの来訪者のみ。

「ど、どのくらい努力してきたかを見ているのです! 努力の量を平等に数値化し、それを審査するために試験があるのです!」

 間違いなく模範解答の一つ。

 ただしそれは音々にとってのタブー。

「試験など、ある程度までは努力という要素も絡んでくるでしょうが、残り半分はただの運否天賦(うんぷてんぷ)ではないですか」

 ああ。

 こういうの。

 こういう面白い意見をもっと聞きたい。

「受験時に実際に出題される問題と同じような問題が載っていた参考書を偶然購入していたかどうか。あるいはそれを一年前ではなく直近で目にしていたかどうか。学習塾で同じ解き方考え方の問題を取り扱っていたかどうか。自分がそれを覚えていたかどうか。問題Aは覚えていたけれどBは忘れていた。その逆の人もいるでしょう。Bは忘れていたけれどAを覚えていた人が合格してBを覚えていてAを忘れていた人が失格するなどという単なる運任せの不条理が、果たしてこの国に生きる子供全体にまかり通ってよいものなのでしょうか」

「あ、いや、しかし……、その、効率よくたくさん勉強してきた人は、当然そういった取りこぼしも少なくなるわけで……」

 音々以外に同じことを言われたらもっと強気で反論できるのだろう。むしろ生徒には日頃から同じことを言い聞かせてきているはずだからだ。だが今はこんなタジタジ。

 気付いているからだろう。

 目の前にいるのが誤魔化せない怪物であることに。

「取りこぼしを無くすために膨大な時間をかけて勉強するわけですか。なるほど。では先生のその論理で言うと、受験科目に関わる天文学的な量の知識を全て網羅することこそ勉強なるものの最終目標ということになるのですね」

音々は地頭が良いので、相手よりも早くその論理の深層に気付くことができる。

「え? いや……」

「しかしそんな大層な知識を三年間で身に付けろと? それとも六年間で? 残念ながら必要範囲内全ての学を修めるにはもっと時間が必要ですよ。しかし運任せではなく努力だけでも十分合否を何とかできるという先生の論理に則れば、これは確実に受験の前までにできなくてはならない修学であるはずです」

「それは……」

 怪物に論理的に黙らせられるというこの屈辱。煮え湯。苦虫。ザマア。

「では仮に、小中高の十二年間でそれが可能ということにしましょう。十二年間フルに使ってあらゆる大学を満点で合格できる脳を獲得するのです。ですが本当にそうなるでしょうか? 子供たち全員が一律にそうなるとお思いですか? 全員同じ道を辿ったとして、全員が同じ結果になり得ますか?」

「ど、努力したことは、裏切りません」

 いや個人差はあるだろうと、つい心内でツッコんでしまう私。

「それは機械の国の話です」

 やはりあっさりと斬って捨ててしまう音々。

「人間である以上、バラつきは出ます。そしてバラつきがある以上、確実に運要素が絡んでくるということです。ABCD、どの知識を覚えているかは人それぞれに異なるということです。大学側はそんなもので合否を判断してしまうのですか?」

「わ、私が決めたわけではありません! そうなっているものなのです! そこから逃れられない以上、あなたが何と言おうと受験生は勉強することこそ唯一の血道なのです!」

「つまり、先生も不確かな合否判定の試験であることを知ってらっしゃる、すでにお認めになってらっしゃる、ということですね。その上で子供たちに勉強を強要していると」

「そ、れは……」

 たしかにこの先生の言う通りなのだろう。何もこの先生が悪いわけではない。もはや社会全体でなのだ。それに大学側だって修学に必要な基準を設けているに過ぎないのだ。このくらいの学力が無いとうちの講義についていけないですよ、という。

 それでも、その判定をする唯一の方法が学力試験などという不確かな手段しかないのはいかがなものかと私も思う。運要素が半分は別に音々の言い過ぎではない。

 日本という国は、きっと人を見るのが苦手なのだろう。だから数字に頼る。不正確なデータしか採取できなくともそれに頼る。真に頭の良さを計ることを考えず、それを模索することすらせず、昔ながらのそれに頼る。

 楽だから。

 かつ、昔からやってきたもので誰も文句を言わないから。

 そのいい加減さ、恣意的怠惰さ、あるいは無思考的怠惰さの最たる犠牲になっているが……。

「そのような運任せの不確かな、何を計っているのかも不透明な試験のために、美琴の貴重な時間を割くのは、私としてはとても心苦しいことです」

 そう、貴重な子供時代の時間なのだ。今しかできないことの塊をガリガリと削っているのだ。誰も説明できない謎の常識に従って……。

 音々は真摯だった。

 生まれたての赤子よりも透明で直線的な、あまりにも純粋なその瞳。

「先生はそれでも、その限られた時間を学校でも家庭でも勉強に費やせと仰るのですか?」

 見つめられ、固まるネズミ。

 いや、これは全員固まってしまうやつ。

 誰も触れてはならないパンドラボックス。

 いわゆる常識。

 音々はそれを揺るがしてくる。

 子供のうちから勉強しないと良い大学に行けないと急かされて生きる無辜の子たち。

 しかしながら、人生の役に立つ「頭の良さ」とは本当のところ何なのか……。

 受験を乗り越えるために鍛え上げる頭脳などではないことは確かだ。

 私なんか不埒者は年を重ねてから成功者然として遊び回るよりも、何事にも無知で何事にも経験不足でかつエネルギッシュで感受性が強い若い時分に遊び回った方が何倍も人生楽しいと思うのだが。また同じ理由から、年を取ってからだと何をしても楽しみ半減になってしまうと思うのだが。その上、半生を勉強に費やしてきたそいつらには若い頃の良い思い出があまり無いことになる。そう考えると、人生の勝者とは果たしてどちらなのかと考えたくなってくる。

 人を計るにはあまりにも不正確な、そのくせ人の人生を決定的に左右してしまう試験などというもの、受験などというもの。

 そのために消費させられる膨大な勉強時間。

 失われていく今しかできないことの数々。

 大切な時間を全て勉強で塗り潰してしまうこと。それを正しいと思うこと。

 この国に生きる人々の前に相も変わらずに横たわる謎の常識。

 そう、「謎」なのだ。なぜそれが常識なのか。

 ネズミ先生は音々の真っ直ぐな眼差しの中、そのことに気付かされたのかもしれない。

「だ、だからと言って、日向さんが光政大学を志望しているのは事実です!」

 魔法の解けた先生は大慌てで遅れを取り戻そうとしてきた。

「今のままでは絶対に志望校に受かることはできません! それでもよいというのですか? あなたは妹さんの希望を何でも叶えたいのではなかったのですか?」

 さすが百戦錬磨のネズミ先生。すぐに立ち直り別の手段を講じてきた。これはいわゆる誘導尋問というやつだろう。音々を言葉巧みに操り、別の角度からうまいこと丸め込むつもりらしい。一度敗北を喫したことで正攻法を捨てたのだろう。

 ネズミはさらに音々を追い詰めようとする。

「私が問題にしているのは現実の話です! 理想の世界の話ではありません! 妹さんが光政大学に無事合格するためには学力の向上が必須なのです! 今、勉強しなければならないのです! 今の成績のままでは決して受かることなど出来ません。あなたは妹さんが可愛いのではなかったのですか? 妹さんの希望を無視するおつもりですか?」

 奥の手、「妹さん」の連発。

 追い詰められた窮鼠は音々の妹愛を利用しようとしているのだ。

「それでしたら、別に進学しなくてもよいのでは?」

 ネズミの誘導もむなしく、いきなり場を凍りつかせてしまう音々の澄んだ声。

「あなた、あなたは一体何を!」

「もしや先生は……」

 このネズミの憤慨を見て何かに気付いた音々。

「大学進学のことをどうでもよいとは思っていないのですか?」

 訊くまでもない質問を、何故か真相に辿り着いたと言わんばかりに目を見開いて音々は訊ねるのだ。これには当然ネズミも怒りのボルテージを上げるのだが。

「当然でしょう! どうでもよいなどと誰が思うものですか!」

「そうですか。ですから先ほどから必死に妹に勉強させようとしていたのですね。私にはそれがさっぱり分からなかったもので。先生は進学というものを重要視している、ということですね」

 心底納得したように頷きながらそんなことを呟いてやがるのだ。怪人物による怪現象である。

 なるほど。これが音々を不勉強の宣教師みたいにしている理由だったか。どうしてネズミ先生が大学受験を重要視するのかが分かっていなかったのだ。何故なら大学進学することの価値を音々は知らないから。

「では具体的にお聞きしたいのですが、先生が美琴を大学に入れようと考えてらっしゃるその理由は何ですか? 何か美琴の得になることがあるということですよね?」

 ネズミの怒りを意に介さず、音々が純粋な気持ちで訊ねる。大学進学の意義を。

「理由? 得? あなた、何を言ってるの? 彼女が入りたいと願っている志望校なのだから、それを後押ししてやるのが教師としての私の仕事でしょう!」

 最高潮の熱量を取り戻し、ネズミが怒った。

「ではなくて、どうしてそれが美琴にとってプラスになるのか、そのことで美琴にどんな利益が生じるのか、そこのところを訊いているのです。もしかしたら私の知らない、先生しか知らないものすごい理由があるのではないかと期待しているのです」

「も、ものすごい理由? 何よそれ? どうして教師が生徒を志望校に入れてやりたいと思う気持ちに理由が必要なのよ。どうして!」

「となると先生はとりあえず生徒を志望校に入れてやりさえすれば生徒の為になるとお思いになっているということですか? そういった不確かな考えだけで受験を重要視しているということですか?」

「は? あなたは、何を……」

 このネズミの困惑を、音々の黒く透明な瞳がただ真っ直ぐに見つめている。

 自分は正しいはずである――。

 まだそうやって信じているネズミの顔が段々と青ざめていく。信じているからこそ。

 音々のこれは決して責めているのでも詰め寄っているのでもない。いつもの音々の興味本位の問答に過ぎないのだ。ただ謎が浮かんだので、その答えを知ってそうな人物に疑問をぶつける。そこには害意も嫌味も一切無い。

 それなのに謎を投げかけられたその人物が害意も嫌味も感じ取ってしまうとすれば、それは感じ取ってしまう側の心に問題があるのだろう。

 常識の中に隠れている矛盾点や後ろめたさを興味という触手で引っ張り出してしまう異世界の住人。その際に剥がれてしまう常識という名の生皮からの出血量など気にも留めないその女。その驚異を私は何度も目の当たりにしてきた。その度にいつも誰かしらが意識改革を強制させられてきた。

「先生は美琴が大学に入ることの意義を知ってらっしゃるんですよね。私は一つも知らないので是非ともお聞かせ願いたいです」

 追い詰める意志の無いハンターが、なぜか手を緩めずに獲物を追及する。

「あなたはじゃあ、大学に入らなかったのですか」

 鼻の穴を膨らませながらネズミが攻撃に転ずる。

「入りました。カンナさんと同じ大学です。光政大学です」

 わざわざ私を巻き込んで答える音々。ただ光政大とだけ言え。

「ならばどうしてあなたは光政大に入ろうと思ったのですか! 光政大に入ったというのなら、あなただってそれなりに頑張って受験勉強したはずでしょう!」

 質問に答えることよりも、ネズミは相手を非難することの方が先決になってしまっているような気がする。

「付属の図書館の蔵書が興味深かったからです。閉架書庫や一部の図書はその大学の学生証が無ければ閲覧することも借りることもできなかったのです。私は本を読むくらいしかやることがなかったのでそれに心血を注いだまでです。進学する意義も大学としての魅力もよく分かりません」

 あっさりと、そして坦々と答えた音々の表情には一点の曇りもなかった。目の前の教師は再度呆気にとられていた。

 そういや音々はあの大学で本しか読んでなかった。本を読みに大学に通っていたのだ。いや、本を読むためだけに生きていたのだ。

 今もなお、音々は本を読むためだけに生きているのだろうか。

「先生は図書館の品揃えという魅力の他に大学に入ることの意義を知ってらっしゃるんですよね?」

 音々はいつでも、真っ直ぐに訊きたいことを訊く。

「それは、将来、就職が有利になったり、様々な資格を得ることができたり、なんというか、とにかく色々と将来の選択の幅が……人生の幅が広がるでしょう!」

 人生の幅……。

 ややしどろもどろだったが、それでも真っ当な意見ではある。斎藤メガネ大先生もきっと今頃同じことを壇上で述べていることだろう。

 要約すると、就職に有利ということ。

 これ一本。

 大学生の本分である研究等は八番目くらいの理由にしかならない。

「ほとんど何を仰っているのか分からなかったのですが、とにかく就職に関わるメリットがあるということですね?」

「そうだと言っています! 良い大学に入らなければ人並みの生活すら手に入らない! 今はもうそういう時代なのです! だから子供達はみな幼い頃からその運命と必死で戦っているのです! 怠けたりする者がいれば、その人は残念ながら報われない人生を歩むことになります! 今の時代は何としてでも良い大学に入り人生の幅を広げ、選択肢を増やさなければ生きていけないのです! そうでもしないと生き残れない世の中なのです!」

 これは紛れもなく社会全体の代弁であり、同時に不変の事実でもある。

「人生の幅? 選択肢? 本を読むことが学生の第一義ではないのですか?」

「違います!」

 ネズミ先生、あっさりと否定したものだが……。

 音々の今の見解は、実のところそのように捨て置かれるものではないのでは?

「そうですか。しかしながら、そもそも大学とは本を読み勉強する場であって、研究を除いたらそれ以外に役割など無い場所のはずです。読みたい本も学びたいこともなければ、大学など無用の長物です」

 もの凄い偏見のようにも聞こえるが、これに一理あるのも事実だ。

 大学というものに対する音々の捉え方。それは一貫して本を読み勉強する場であるということ。。いつしか別の役割が付与され、社会全体でその付属品の方に神経を傾けるようになってしまったのだ。

 資格取得と就職支援と学歴。

 この巨大な三つのアタッチメント。進学校などはこれだけを進学のメリットとして捉えているはずだ。そして音々は逆にこれらの付属品に大学としての価値など見出してはいないのだ。だからこそ大学受験など「どうでもいい」ことなのだろう。

一方、その三つに最大の価値を見出しているネズミにとっては「どうでもいい」わけがないのだ。

 この議題での両者の話が噛み合うはずなどないということ。

「おかしなことを仰らないでください! あなたは現実を知らないだけです!」

 ネズミの真っ当なる反論。

「本を読み研究に没頭するだけで報われる社会などないのです! 社会に要求されたものを身につけた人のみが就職を有利にできる社会なのです! 現に企業側の採用条件の中に大卒というものが当然のように入ってきています! 大学を卒業していないと仕事に就くことすら難しい! 今はもうそういう時代なのです!」

 続、ネズミの真っ当なる正論。

「ですが、それと大学が何の関係があるのですか?」

 音々の暴論。

「はあ……?」

「大学を出たとしてもみな素人ではないですか」

 音々の……暴論か?

 この段階では彼女が何を言いたいのかまだわからない。

「四年間、デスクワークの修練でもするのですか? それとも外回り営業のノウハウを徹底的に四年かけて学ぶのですか?」

 なるほど。

 そういうことか。

 音々の言いたいことがだんだん分かってきた。混乱しているところを見るとネズミはまだ理解できていないようだが。

「四年間、専門的でニッチな学術分野の研究に没頭し、その分野の卒論を書いただけの人間がどうして就職に有利になるのですか? ? そのような役に立たない人材が就職に関して有利になるはずがないと私は思うのですが、違うのですか?」

 音々の客観視と偏見が導き出した破滅的結論がこれだ。

 大学は別に職場体験や技能習得の場ではないということ。学術研究が第一義。それなのに四年間学術研究に費やしてきたような、仕事に関してはずぶの素人をどうして企業側が受け入れてしまうのか。

 音々にはそれが分からないのだ。 

 では私たちには理解できるのかというと、全然そうではない。高卒者との違いを訊かれたところでせいぜい「色々な経験を積んできている」などというありきたりで不確かな返答しか思いつかない。つまりそこに世の中の隠された欺瞞のようなものが埋もれているということだろう。

 大卒者を無差別に賢く優秀な者とみなす、

 一体いつからこうなってしまったのだろう。

 Fラン大学と呼ばれる五流私大が乱立していったことの要因としてこの偏見が挙げられるのではないかと私は思っている。この偏見から逃れるためにもどうにかして大学に行きたい。だが試験を突破できるほど優秀ではない。そういう状況に立たされている人の数が需要と供給、つまり商売を生むのだ。学費さえ出せばどんなバカでも通えるような大学が横行する条件がこうして整ったわけだ。大卒者以外に対する蔑視や差別から逃れるために若者はこれを選択してしまう。ちゃんと中身が詰まっているかどうかは疑問の、とりあえずの「大卒者」がこうして出来上がってしまう。

「先生は就職に有利になるから大学へ行った方がよいと言う。ですが大学へ行ったところで就業するのに必要な能力が鍛えられるのかといえばそうではない。これだと根拠薄弱のまま進学を斡旋しているようにしか聞こえません。それとも、先生はまさか教員免許や医師免許のような、大学でしかその資格取得を認められていない職種のみについて就職に有利などと仰っているのですか?」

 音々の真っ直ぐな視線がネズミを追い詰める。

「そ、そうではありません! あなたが何と言おうと、企業側が大卒者を求めている以上、選ばれる側の若者たちはみなその条件を満たさなければならないのです!」

「では企業側がおかしいということですね」

「な……」

「そのおかしいものに大人しく追従している大学側も、そこに学生さんたちを送り続ける進学校も、それでよしとしているご家族も、あるいは社会全体も、みなおかしいということになります。そのおかしさに気付かないのも無理はありません。美琴にはおかしくなってほしくないので進学はさせたくありません」

 もう何度目の絶句になるのだろう。

 ネズミはまた気付かされたのだ。

 自分もこの世界にはびこる欺瞞の膜の中に、すでに取り込まれていたことに。

 ネズミ先生の言う通り企業側としても大卒者に優秀な人材が多いという確固たるデータがきっとあるのだろう。だが、突き詰めればそれもデータでしかないものなのかもしれない。どう足掻いても実際的な確認はできないのだ。第一、データデータというのなら新卒採用者の一年後の離職率や定職に就かずニート、引きこもり、フリーターになってしまった者の割合、二線級の企業に就職した者の割合、派遣社員になった者の割合などなど、大卒者にあるまじき結末を迎えた者たちのデータも添えて大卒者の優劣を判断すべきだろう。やはり「大卒者は就職に有利」という一般の認識に確固たる根拠など無いということになる。みんなそう思っているしデータもあるにはあるが、本当のところはどうなのかは誰にも分からないという曖昧な現実がそこにあるのだろう。

 そして曖昧な部分には常に都合の良い解釈を入れ込んでしまうのが人という種の変わらない悪癖なのだ。何を考えているのか絶対に分からないペットの思考を都合良く解釈して、お人形遊びの延長をする大多数の飼い主さまのように。

 ネズミはもう何も言わなくなっていた。。そう気付いてしまった以上何も言うことがないのだ。

 こうして音々はあらゆる観点から妹の大学進学という未来を剥ぎ取ってしまったのだ。

 同時にネズミから進学校の教員としての意義をことごとく奪い取ってしまった。

 ネズミは完全に負けたのだ。こんな頭のおかしな女の変論に、自分の信じていた何もかもを絡めとられてしまって。

 使える手が他に無いのならもうネズミは手詰まりである。

「あなたは、たとえ、妹さんが、大学へ行けなくなっても、それでいいと?」

 いよいよ本当にネズミの呼吸が狂い始めた。

「美琴に学びたいことが何もなければ、行く必要は無いと考えております。受験勉強もやらなくていいのではないでしょうか」

「あなた……、あなた、正気ではないわ!」

もはやはっきりと音々を非難する、ひきつった顔のネズミ先生。

「美琴、光政大で何か研究したいことでもあるのですか? 社会学ですか?」

 ネズミを眼中からどけた音々が妹に訊ねる。もし美琴ちゃんに勉強する理由があるのならそれは何だろうと思っているのだ。最後の一言だけは私や響に対する嫌味なのだろうが。

「いや、研究したいことは、特にないけど……」

 申し訳なさそうに、あるいは今展開されている現実から目を背けるかのように、消え入りそうな声で美琴ちゃんが応じた。

「では読みたい本があるのですか? 光政大は蔵書の優秀さという点では保証しますよ」

「いやあ、ないかな」

「おや。それでは美琴はどうして光政大を志望しているのですか? 先生は美琴が絶対に受かりたいと思っていると仰っていましたが」

 今度は妹に詰め寄る鬼姉。ネズミに対する嫌味も忘れない女だ。

「大学に入りたいというのは本当ですが?」

 音々はそこを疑っていた。

「うん。大学には行きたい……」

 これは本当らしい。

「日向さん! その気持ちをもっとお姉さまに強くお伝えした方がいいですよ!」

 やぶれかぶれのネズミがそう訴えた。

「では美琴はどうして光政大学に入りたいのですか?」

 ネズミを無視する形で姉が妹に問いかけた。

 そしてこれには無言になる美琴ちゃん。

 そこに理由が無いのだ。

 あるいは人には言えない理由なのか……。

 私は答えあぐねている美琴ちゃんを助けるべく笹舟を手配した。それが今日の私の役目だ。

「そりゃ、音々さんよ。学校から進路希望書けって言われたら取り敢えずでいいから書くっきゃないでしょうに」

 この私の声に強く反応したのはネズ公だった。彼女は無言のまま美琴ちゃんに強烈な視線を浴びせた。美琴ちゃんは私に真相を射抜かれたのか、腹痛時の表情であらゆる者の視線を避け続けていた。

「なるほど、大学へ行きたいというのは美琴の意志ではなかったのですか。ではもう受験勉強などしなくてもよいということですね。よかったですね」

 場違いなほど優しげなその口調。実の妹に対する姉としての気遣いとでも思っているのか。どこまでも勘違い女である。

「いい加減になさい! この時期に受験勉強を放棄するなど自殺行為です!」

 やはりネズミが吠えた。あれはチューとしか鳴かない生き物のはずでは。

「ですが、放棄するなら早い方が良いのでは?」

 音々の異世界はネズミが吠えた程度では揺るがないらしい。

「大学入試に合格する為だけの勉強に三年間費やすとなれば、大学にそれ相応の見返りを求めるのは当然です。ですが、この子には特に学びたいことが無いようなので、見返りはゼロです。そうなると受験勉強に費やす膨大な時間が無駄になってしまいます。若いのになんともったいない」

 音々の音々による暴論。

「見返りならあります! 何度も言ってるでしょう! 資格を取るのにも有利! 就職にも有利! 採用する側も大卒が当たり前! その上に出身大学の質を見られてしまう! それが学歴と呼ばれるものの正体です! これなくば真っ当な生活など保障されない、厳しい時代なのです!」

、それが理由であるなら美琴はそうだと言っています。でも美琴は大学に入りたいことは入りたいのですがその理由が無いと言っているのです。就職のことなど一言も言っていません。先生はちゃんと人の話を聞いておられましたか?」

「何を……! あなたは、私に……!」

「美琴に入りたい理由が無いのなら、家族が無理に入れさせることもないでしょう。勉強を支援するなどもってのほかです」

「なんてことを……!」

「あのっ!」

 と、ここで美琴ちゃんが叫んだ。

 ネズミはキッと美琴ちゃんを睨みつけ、音々はやんわりと妹に視線を移した。

「私、やっぱり大学に行きたいです」

 恐る恐る美琴ちゃんがそれを口にした。

「それはどうしてですか? 美琴にとっては無用の長物なのですよ?」

 一片の疑いもなくそういう言い方をするところが実に音々っぽい。

「あの、その、楽しみたいから」

 美琴ちゃんは言った。

 

「楽しみたい?」

「うん。キャンパスライフとか。同い年の子とサークルで活動したり、学祭で出し物したり、自由に課外活動したり、とか。社会人でもないし、子供でもない、何の責任もないモラトリアムの中で自由に生きるのって、ものすごく楽しいだろうなあって……」

 私は大いに納得した。

 就職がどうのという進学理由よりもずっとだ。

 美琴ちゃんのこれは世の学生諸子の隠された本音の立派な代弁である。

 これはこれで嘘の無いものすごく正直な意見なのだ。というか、大学進学を目指す若者の動機の半分以上はキャンパスライフをエンジョイすることに集約されるのだろう。

 これもまたみなが隠してしまった世の中の欺瞞の一つなのだ。どこもかしこもブラックだらけの今の時代に本気で就職活動したいと思っている人間などいるはすがない。仕方なくそうするしかないというだけの話なのだ。だが社会人になってしまう前に、まだやんちゃのできる若いうちに、しかもちゃんと大学に通ってますと豪語できるモラトリアムな時分に、思いっきり遊びたいと考える人間なら大勢いるだろう。それもできるならFラン大学と呼ばれる通っている生徒も環境も底辺の私大ではなく、将来学歴として役に立つ上位の大学を狙いたいと考えるのが普通だろう。一石二鳥を狙うわけだ。

 だがそちらの純粋な邪気の方は志望動機として口に出してはならぬというのだ。進学校は就職に有利になるからと子供たちを大学に送り出すのだが、そのうちの半分以上が実は遊ぶことしか考えていないかもしれないのにだ。

 学校側と子供たちの認識には大いなる差がある。そして真実はどちらかということ。どういう人間がこの国の中で大学生を名乗っているのかということ。

 妹を追い詰めてまでその欺瞞の薄皮を無理やり剥ぎ取るような姉は万死に値するのだが。

「ああ、そうでしたか」

 音々は感心したような声を上げた。

「それなら納得できます。楽しいことのために美琴は受験勉強を頑張る必要があるのですね。それならば努力と苦労に見合う対価もあるというものです。対価と代償が過不足なく提示されてあります」

 とても満足そうに音々は言うのだった。妹の成長が嬉しいと言わんばかりのウキウキ感。

「先生」

 音々はネズミの方に視線を合わせた。それだけでネズミは蛇に睨まれたネズミ状態になっていたのだが。

「どうやら美琴は社会的に許された状況の中大っぴらに遊ぶために大学進学を希望しているようです。それで勉強をする必要があるというのなら、運任せの試験に挑むにしろ、それはとても筋の通った動機となります。私はやはり妹の進学を応援しようかと思います。美琴には幸せになってほしいです。とりあえず家庭でも勉強させればよいのですね。お任せください。どうにか丸め込んでみせましょう」

 このトリッキーな思考回路にネズミは一切反応することができなかった。ただ茫然と急転回する目の前の事態を眺めているだけ。

 そして、音々からのトドメの一言。

「それで、三者面談とやらはいつ開始するのですか?」

 ネズミの心は折れ、項垂れた表情で今日はお開きですと白旗を振った。

 我がアイドルの講演の、アリーナ最前列観戦ツアーはこれにて幕引きとなってしまった。

 おもしろいものを見せてもらったので私は満足しているが。

「お姉ちゃん、やりすぎ」

 誰もいない廊下の一角で、美琴ちゃんが姉の不始末を詰った。

「美琴、やりたいことが見つかってよかったですね」

 表情に変化はないが、音々は嬉々としてこれを言っているのだ。

 どこの世界に遊び目的で大学に行こうとする子を褒める親がいるのか。モンスターペアレンツ界広しといえども、このような手合いは音々しかいないのだろう。

 しかし家庭でも勉強させようとするネズミの意志は叶ったわけか。なんだろう、この不思議な世界は。

「私、明日も明後日も、担任は田口先生なんですけど」

 口を尖らせジトリと相手を睨みつけながら文句を言う美琴ちゃんはただの愛らしい少女であるので、その睨みに効果など無い。

「あら、美琴は先ほどの先生が嫌いなのですか? 声が大きかったから?」

 的外れの極致である。

「怒りで声が大きくなったの! もう! どうせこうなるだろうとは思ってたから、こうして私が怒るところまで予想の範囲内でしかないんだけどさ! だからそんなに激怒してるわけでもないんだけど!」

 本当にたくましい娘さんだこと。自分の感情すら先回りして機先を制しておくことができる能力の持ち主はそれほど多くない。この姉を持ってしまったことで身についた特殊能力の一つなのだろう。

「美琴がやりたいことを見つけられてよかったです」

 やはり何も聞いていない音々。当然それも予想していた美琴ちゃんは外国人みたいなリアクションをとってから話を打ち切った。打ち切るのが最善だということを学んでいるからだ。

「美琴ぉ」

 廊下の向こうから先ほどのカレンとかいう女子生徒が歩いてくるのが見えた。

「あれ? あんたまだいたの?」

 美琴ちゃんが気楽に応じた。

「美琴モンペ探してるって本当?」

 一瞬目を見張る私と美琴ちゃん。

「なんでそれを……」

「石像が言ってた。つーか、私に気を付けろって言ってきてさ」

 なんのこっちゃわからん説明である。

「なにそれ? どゆこと?」

「美琴は高校からの付き合いだから知らないんだよね、私のこと」

 どこか我慢するような笑みを浮かべて彼女は言った。

「うちの母親もモンペなのよ」

「ええ? あの人そうなの?」

「まあねえ、最近はそういうイメージ無いからね」

 そうやってにやにやと笑う茶髪の少女の名前が相沢華蓮であると知った時、私は何故かミサイルに核弾頭が積まれる気配を感じた。



 7


 ドアを開けると、そこにはテレビで見たままのその人がいた。アラフォーには見えない中年の美人。

「あら、テレビでお見かけするよりスマートなんですね」

 逆に向こうから言われてしまった。

「失礼します」

 僕は勧められた椅子に座り、弦吾君はドアの前で待機していた。カメラマンや編集者もその辺の位置についている。

 部屋の中はテーブルクロスやカーテンのがやたらとよく目につき、四方八方からエレガントな雰囲気が顔を覗かせていた。テーブルの上には西洋の花が生けてあり、紅茶の注がれたティーカップにもこだわりが感じられた。室内をパッと見ただけでこの部屋の主がどのような人生を求めているのかがよくわかる。洋風のエレガントさに高尚さを見出す人は結構多いのだ。我は崇高なる知識人であり、世間の平均値よりもずっと徳の高い存在である。自分は健全で清廉潔白な存在であり、社会の側は無知で汚らわしい存在である。中高年の女性によく見られる性向である。

 あまり綺麗で気品ただよう部屋を見せつけられると、僕はそこに住む人の「嘘」を感じてしまうのだ。この状態は決して彼らの「ありのまま」ではないのだと。

 僕の妻の部屋など、僕らが片付けをしないと彼女の動いた軌道を表すような散らかり方で部屋中が本やら筆記具やらで散らかっているのだ。それに、恥ずかしげもなく引き出しにびっしりとお菓子を貯めこんでいる。真の「ありのまま」とはアレのことを言うのだろう。

 いちいち部屋を見ただけで住人のあれこれを想像してしまう僕は、音々さんのように嘘の無い振舞いで苦労させられることの方が気が楽なのかもしれない。

 今はでも、この作られたエレガントさは本人の内なる性質とは何ら関係の無いものであると信じよう。そうでないと対談などできやしない。

 セミロング気味のふわっとさせた髪形に、真っ白のカーディガン、黒いブラウス、黒いスカートという取り合わせ。恐らくは彼女のお気に入りのスタイル。アラフォーには見えない若々しさは感じられるのだが、化粧は濃いめなのかもしれない。むしろそれでアラフォーらしさを打ち消しているのだろう。中年と妙齢。そのギリギリのライン上。

 紅茶の置かれたテーブルの椅子に僕が座ったところで、早速対談は開始となった。編集者がそれではレコーダー回しますと一声かけ、僕はそれをきっかけに取り敢えずの挨拶を交わした。僕の斜向かいに相沢百合子が座っている。

「どうも、初めまして」

「こちらこそ、初めまして。夢路先生には前々からお会いしたかったんですよ」

 猫背気味の僕とは違い、相沢さんは椅子に座っているだけでも行儀の良さが際立って見えていた。彼女の背筋の伸びが僕を後ろめたくしている。威圧とは違う圧迫感。

ドアの前では弦吾君がニヤニヤしていた。僕の卑屈さがそう見せているだけなのかもしれないが。

 ――助手として俺も連れて行くこと。

 義弟が今と同じニヤけ面でそれを提案してきたことを僕は思い出した。あれは講演会が無事終了した直後のことだ。

 会場となった大学の厚生会館の後片付けをしていると、講演を見にきていた対談の責任者、つまりは雑誌のライターが対談場所が変更になったことを伝えにきたのだ。

 当初はこじんまりとした喫茶店を借り切ってやる予定だったのだが、相沢氏本人がどうせならうちでやりませんかと、自宅で対談することを提案してきたのだという。僕としてはそれなら嫌ですと言うこともできず、ましてや向こうの御自宅にお邪魔するからといって別に嫌だということもないので、はい分かりましたと了承するほかなかった。

 この時、パイプ椅子を片付けるふりをしながら適当にサボっていた義弟が運悪く近くにいて僕らの話を聞いていたのだ。ちなみに僕は一労働力として一生懸命真面目にパイプ椅子を運んでいた。

「兄貴、こりゃ決まりだね」

 弦吾君は背後から声をかけてきた。

「弦吾くーん、パイプ椅子一脚ずつ運んでるの君だけだよ?」

 僕はわざと大声で言った。

「おいおい兄貴、俺にそんな態度とっていいってのか?」

 余裕ぶってはいたが、マジで慌てていたのを僕は見逃さなかった。とても面白かった。

「え? いいんじゃないの? 僕、一応君の後見人だし」

「ほうほう。そうきますか。じゃあ、今日の夜さっそく姉ちゃんにこのことをお知らせするとして……」

 僕はその場を去ろうとする弦吾くんの腕を慌てて掴んだ。両手に持っていたパイプ椅子が床と激突する音がしたが知ったことではない。

「え? 何、弦吾君、どういうこと? 何をどうするって?」

「夢路さーん。大学の備品を床に叩きつけて憂さ晴らしするのはやめてくださーい」

 大声で仕返しされた。

 私は叩きつけたと目された二つの椅子を抱え、再度悪しき義弟に詰め寄った。

「音々さんに、一体何を言うって?」

「そんなに慌てるってことは、ちょっとはそういう自覚があるってことじゃん」

 人間の心理の溝に埋まっている何かを看破する能力は、残念ながら悪しき心の持ち主の方が高いという不条理。

「ちょっと何言ってるのかよく分かんないです」

 思わず芸人さんの持ちネタを口走ってしまうあたり、相当焦っているのだ。

「昨日テレビでサンドウィッチマンの漫才を見てたことを差し引いても、ちょっとくらい何言ってるのかは分かるでしょう」

 実に楽しげな表情のカエルが慌てる僕の目に映る。

「え? えーと。僕が仕事で相沢さんの御自宅にお伺いするって話かな。仕事で」

 僕は労働であり強制であるということを強調した。

「仕事だと思ってるのは兄貴だけだってことを、今日帰ったら姉ちゃんにお伝えしようかなと……」

「弦吾君!」

 僕は二つのパイプ椅子を片手で持ち上げながら、もう片方の手で弦吾君の手を掴んだ。

「ちょっと話そうか! 君の誤解が解けるまで!」

「なんで俺だけが誤解なんだよ。兄貴と同じこと考えてたはずなのに」

「いやいや、何言ってるか分からないな。なんだい、僕が考えてたことって」

 弦吾君の言うとおり、僕はこの時点で二人の意見が一致していることに気が付いていたのだが、絶対にそれは自分の口から言いたくなかった。

「そりゃもちろん、本が売れて有頂天のオバサンが、今度は男を漁りにきたってことだよ」

 弦吾君は「男」という箇所で思いっきり僕の顔に人差し指を突き立ててきた。

「ただ対談する場所を変更してきただけじゃないか」

「その変更先が自宅って、もうその気満々じゃないですか。兄貴は飛んで火にいるアホボケカスだよ」

 ひどい言われようである。

「より親密になるために家に男を上げんだよ、女性(にょしょう)ってやつは」

「にょしょう……」

「で、兄貴はそれに気付いていたくせに断らなかったと」

「だから、断ったら角が立つんだってば!」

「対談はやるとして、場所の変更だけ受け入れなかったらよかったじゃん」

「そんな要求をするほど大事(おおごと)でもないでしょ」

 一体これは何の板挟みなのだ。何に焦り何に困っているのだ僕は。

「ここで姉ちゃんに黙っていたとしても、いずれカンナあたりから話は伝わっちゃうよ。妻に明かしていない男女の逢瀬がこっそりと伝わったときの破壊力たるや、もう……」

 実に実に嫌なことを言ってくるこのカエル男。しかし一理どころか七理くらいある話だと僕は思ったのだ。

「じゃあ今日の夜、僕の口から音々さんにお伝えするよ。それで万事解決だ」

「どうしてわざわざそのようなことをお知らせしてくるのですか?」

 全然似てない音々さんの声真似。だが僕はひるんだ。

「兄貴、姉ちゃんに常識を説いても無駄だということはよく御存じのはずだろ。たとえ兄貴が正当な主張をしたところで、あの人の頭の中でそれがどういう結論に生まれ変わるのかは神ですら知り得ないことなんだから。これは浮気ではないですよという主張も回り回って、自分の夫は一夫多妻制を重んじる稀なタイプなのだとハチャメチャな解釈に行きつく可能性だってあるんだから」

 何てことだ。一見これは破綻した推理なのだが、その対象となる人物があの人であるならばものすごく理解できてしまうのだ。

「かといって兄貴は隠し事がド下手くそ。なので黙殺という選択肢も危うい。今兄貴は進むことも戻ることもできない切羽詰まった状況に陥っているということさ」

 大げさな極論のはずが大げさに感じないのが、この大荒れの台風の目に音々さんという大いなる存在がいるからだろうか。

「僕は、ではどうすれば……」

「まずは俺の分のパイプ椅子を運ぶこと」

「あ、ああ」

「それと……」

 僕は何故か了承してしまったのだ。

「助手として俺も連れて行くこと」

「あ、ああ?」

「監視役を一人立てるだけで問題の全てはクリアされるってことさ。だって俺は被害者たる妻の弟なのだし」

 言うに事欠いて被害者とは。

「いやいや、それなら……そうだよ!」

 僕は思い出した。

「別に向こうのご自宅で二人っきりで対談するわけじゃないんだから。ライターもカメラマンもいる。やましいことなんか一つもない!」

「馬鹿だなあ。仕事が終わればサヨナラする奴等なんか監視役にならないだろ。仕事外のところで兄貴とオバサンの間に何かが無い保証はない。だから俺が監視役を買って出てるんじゃないか。俺ならその日いってきますからただいままでずっと兄貴と一緒なんだから。俺の口から姉ちゃんに明日兄貴と一緒にオバサンの家に行くって言や、これは済む話なんだから――」

 焦りがあった僕はあの時彼の提案を受け入れてしまった。

 冷静に考えれば突っぱねてもよかった提案だったが、僕は音々さんに誤解されることをひどく恐れていたのだ。彼女に対し一度も裏切ることのない夫でいたかったからだ。

 音々さんには味方が少ない。だから僕が裏切るわけにはいかないと強く思うのだ。

 それにしてもあのドアの前にいるカエル男。今思えばカンナさんと同じ動機でついてきただけなのだろう。面白い見世物を観たい。ただそれだけ。

 ただそれだけのためにわざわざあんな駆け引きを仕掛けてくることに、何故か僕は情熱めいたものを感じて感心してしまうのだ。

 どうかカエル君を喜ばせる展開にはなりませんように。

 僕は平常心という文字を脳裏に刻みつけて対談に臨んだ。

 まず薄っすらと紅を引いたオバサンこと相沢百合子の唇が微笑の形のまま上下した。

「これから先生のことはなんとお呼びすればすればいいのでしょう。夢路さん? 夢路先生?」

 気軽な感じでそう話しかけてきた。気品を保ったまま、気軽さを失わない。そのラインを心得ている人だと思った。海千山千。百戦錬磨。色んな言葉が不意に浮かんできた。

「僕は先生、もしくは相沢先生と呼ばせて頂きますので、先生の方もどうぞご自由に。呼び捨てでも、君付けでもさん付けでも僕は構いません」

 できるだけフランクな笑顔で対応した。心の中では最も距離のある「先生」か「夢路先生」と呼んでくれと祈っていたのだが、それは少々生意気であるか。

「そう。じゃあ、夢路さんと呼ばせてもらうわね」

「ご随意に」

 何故かそう決められると「先生」呼びに対する願望が生意気とも傲慢とも思えなくなるこの不思議。「夢路さん」を嫌がる正直な自分がいるのだろう。

「私ね、夢路さんの書いた本を何冊か読ませていただきましたの」

「ああ、それは嬉しいです」

「それと、テレビにお出になっている先生の姿も拝見いたしました。それで感じたのが、このお若い先生は今時では珍しいくらいに純粋な心を持っていらっしゃる方だなということです」

「え? 僕がですか?」

「自覚が無いのがまさにそうですよ。裏表のない人。嘘を吐かないというより、嘘を吐けない人なんですね。ですので、とてもお人柄の良い印象を持っているんですよ。先生の書いた本を読むととても賢くて知的な方であることも分かります。ですから、いつかお目にかかりたい思ってたんですよ。今日それが叶って本当にうれしいんです」

「いやあ、そんなことないですよ。人格的にも学者としてもまだまだ修行中の身です」

「あら、御謙遜。夢路さんは御自身の社会的地位を御存知ないんですよ。わたくし、夢路さんのことを悪く言う人に会ったことがないですもの」

 義弟、義妹、カンナさん。僕はほぼ毎日会っている。世界は広いということだ。

「社会的地位なら先生が今一番じゃないですか。女性代表。女性の代弁者。みんな先生のことを生きる社会正義みたいに思ってますよ」

 僕が過剰に褒めちぎると、彼女は手を振って否定してきた。気品は崩さずゆったりと。

「そんなことないですよ。わたくしはただ許せなかっただけです。女性だけが下手を見る世の中が。それでその想いを本にしてみただけのことです」

 僕は世間話を長々するよりもさっさと本題に入りたかった。余計なことを話さず必要な仕事だけを済まして帰る。この場はこれに尽きる。

「先生の本、僕も読みました」

 僕は終わりの始まりと言わんばかりに、対談の主目的たる『未来への不安』に関する議論へと歩を進めた。

「当たり前のことが分かっていなかったんだなあと、反省いたしました。何か叱責にも似た罪悪感を先生の著書からは受けました。これは僕が男だからですかね」

 すると相沢さんは笑顔を自然と消し、二度大きく頷いた。

「あの本は女性よりも、私は男性の方にもっと読んでほしいんですよ」

「そうでしたか」

「女性はあの本を読んでも、結局のところ共感しかしません。女性だけが読んでも世の中は何にも変わらないのです。私の本で世の中を変えるとなると、その対象となるのは男性側の意識にほかなりません」

「たしかに、あれを読むと女性に対する配慮の意識ががらりと変わりますね。むしろ今までこんな苦しんでいる人に何も手を差し伸べてこなかった自分を恥じるくらいの」

「夢路さんのような若い男性の方にそう言ってもらえるととてもうれしいです。例えばどのあたりが一番気になりましたか?」

 本当に嬉しそうにこれを訊いてくるのだ。ということは僕の言っていることを信じて、具体的な感想を求めているということ。

 予習が役立つ時が来た。

「まず大前提の部分ですね。女性は妊娠と出産のために長期間社会生活からリタイアすることを余儀なくされてしまうということ。あるいはそういう可能性を孕んだ、敢えて悪い言い方をするならば社会にとって使い勝手の悪い人材であること。その弊害の種を持って生きるしかない女性は男性側が思っている以上に生きづらい存在なのでしょう」

「はい。世の男性にはそのことを是非覚えておいてほしいです。この国の女性は常にマイナスからスタートしているということ。ハンデを背負って生きているということ」

「問題は、男性側にどれほど丁寧に女性の生き方を説明したところで、絶対にその全てが伝わることなど無いということですね。せいぜいちょっとくらいなら理解できるといったところでしょう。何故なら男性は男性としての人生を何年も歩んできているからです。女性側の気持ちを100%理解することなんてできないんですよ。それができるのは同じ女性だけだということ。少し悲観的かもしれませんが……」

「そうでしょうか」

 やや食い気味に反論されてしまった。

「何度も何度も世の中に訴えかけていけばいつかは理解してくれると私は信じています。私の本を読むことで男性側の意識も少しは変化してくれるものと私は思っています。だって、夢路さんがそうではないですか」

「……そういえばそうですね」

 などと言いながら僕はやはり悲観していた。この女性には男性側からの視点を考慮する意識は無いのだということが判明したからだ。彼女の本を読んでみてもそれはなんとなく伝わってくるものなのだが、それが今確信に変わった。一つの視点からしか物事を見ない作家は、それでもヒットするのだ。そして当然ながらハマらない人間も多くいる。こういう本を読んだ男性の半分はきっと色々考えさせられるのだろうが、もう半分はおそらく反感を抱くのだろう。それは書き方が女性側のみの視点に終始してしまっているためだ。

 だがそこを突いて議論を深めようとしても、そういう視野の持ち主とは大概議論にならず、何より感情が先に出てきてしまい面倒臭くなることの方が多い。それだからこそ一方向の視点からしか物事を描けないのだろうが。

 これでは対談の意味が無い。書いてあることをただ確認し合い、肯定し合うだけの対談に何の意味があるのだろう。

 ここで僕は弦吾君がゾーン状態になってまで絞り出した例の反対意見を入れ込んでみようかと思った。

「しかし、女性が妊娠と出産のため、子育てのためといって長期間仕事を離脱してしまった場合、一労働力に離脱されてしまう職場の人間はどうなってしまうのでしょう。先生の言い分も分かるのですが、もし自分が妊娠して職場を離れることになってしまったらそのしわ寄せを食う同僚たちに非常に申し訳ないと思ってしまいます」

「それは、どういうことでしょうか?」

 目つきが彼女の感情を物語っている。この時点でかなりの警戒色を出されてしまった。

「昨今の日本の情勢から鑑みて、どこの職場も常に十人でやる仕事を五、六人くらいで回しているのが実情です。その中の一人、あるいはそれ以上が長期に亘って職場を離れるとなると、残された人間はそれこそブラックと呼ばれる状態になってしまうのは必至です。いつか戻ってくるということを理由に人員の補填など企業は考えてくれません。女性の出産前と出産後のいわゆる産休は法律で保障されており、その後も育児休業として最大二年延長することも可能です。女性側が安心して二年も職場を離脱できる反面、残された側は二年間過労を強いられることになるのです。保障されている側と保障されていない側。この待遇の差は仕方のないことと、誰もがそうやって受け入れてくれる状況がこの国で確立されているとは思えません。さらには女性が働きやすい社会づくりの一環として、企業の側もどんどん女性を受け入れている状態です。これは全然悪いことではないのですが、多くの場合、企業側はそういうキレイごとを受け入れるだけ受け入れて、それにより発生するマイナスの後始末は全て現場の人間にやらせているのです。産休で人が減っても現場の人間だけでなんとかしろという無言の圧力です。企業側にそれをカバーする余裕などないという悲しい事実もあるでしょう。強制的な女性優遇。それも間違ってはいないのですが、人間の感情はそう簡単なものではありません。納得の無いところで無理を通そうとすると必ず問題が生じます。過労により身体を害する人もいるでしょう。このような問題に対し相沢先生はどのようにお考えですか……」

「夢路さん」

 僕が質問を完全に出し終わる前に声を重ねてきた相沢さんの感情は、どうやら説明不要らしい。発言者の僕に怒りの全てをぶつけるかのようなその非難の眼差し。

「もし今夢路さんが仰ったような問題を抱えている企業があるとしても、そこにいる女性の休職者には何の落ち度もないことです」

「ええ、もちろんです。それでも……」

「そんなものはみな逆恨みと同じです。相手にする必要などありません。そのような状況を放置している企業側が悪いのです。わたくしにしてみれば、いちいち問題にするようなこととは思えません」

「そうは言ってもですね。実際に逼迫している状況があり、その状況の引き金となっているのが女性の妊娠や育児等による休職という事実がある限り、女性の側としても座視できない問題なのでは……」

「それは間違っているわ!」

 急に真剣な顔になり、相沢氏は声を荒げた。僕はテレビの討論番組で何度かこういう光景を目にしたことがあるなあと思っていた。

「そうやって妊娠することに申し訳なくなる必要など一切ありません! 子供は日本の未来そのもの! 子供がいなければ国は滅びます! そして子供を生めるのは女性だけです! その能力を重宝したり尊重したりすることはあっても卑下し厄介がることなど一つもありません! 夢路さん、その場合は迷惑がる同僚が間違っているのです! それを受け入れなければ成立しない社会なのです!」

 まあ正論なのだけれども、正しい事のみを採用できるのは機械や動物であり人間ではないということを分かっていないのだなあとも思う。人間はいろんな視点や都合で生きているのだから、そこでは一つの正しさなど意味を成さないのだ。公共の利でも益でもない優先事項がみんなにあるのが人間なのだから。

 取り敢えず相沢さんが他者の視点を考慮しない人間というのは確定だ。そんな人の意見を擁護するのも嫌だし、正直に反論して感情論で捲し立てられるのも厄介である(まあ世間ではそういう姿が好印象なのだが)。僕も弦吾君みたくゾーンに入ってしまえば、弦吾君張りの暴論も言ってやれるのだが、そんな勇気は僕には無いので、正直な感想を黙殺して選択肢Aの同調でいこうかと思う。

 ああ、相沢さんと同じく他者の視点を一切採用しないはずの音々さんと話している方が気が楽なのはどうしてだろう。

「夢路さん。結婚し妊娠した女性のみなさんには毅然と、何の後ろめたさも感じることなく職場を離れていただきたいと私は思っています。そんなことで気後れしている女性には、むしろ堂々と休職するのが当然なのだということを是非とも知っていただきたいです」

「なるほど。ですよね」

 などという適当な相槌が脳を介さず口から出てしまうほどに、僕は心を閉ざしてしまっていた。

 相沢さんの言い分は現実に即していない。どこか理想論に近いものがある。それもすべて女性視点からの理想論、いや、感情論だ。

 妊娠して長期離脱することになった女性が堂々と、何の気遣いも無しにそこを去った時、の考慮が相沢さんには一切無いのだ。残された側の感情を一切配慮していないその考え方。そうすることが実は正しいのかもしれない。その女性は何も悪いことをしていないのだし、子を生むということは国の未来を守ることにもつながることなので、むしろ誰からも褒められるべきことのはずなのだ。

 しかし現実そうはなっていない、という問題があるのだ。

 、残される側はどういう感情を抱いてしまうのか。それを分かっていないのだ。

 僕はとても重要な問題だと考えている。下手をすれば殺人事件にも繋がりかねない事案であると。

 出産と育児を最優先する社会は正しいし、そこを目指すべきではある。しかし現実にまだこの国はそうなってはいないのだ。。人々が女性の職場離脱をきちんと理解してくれる。そんな社会にはなっていないのだ。

 その逃れられない現実をキレイごとの理想論で煙に巻いて、自己満足の正義を誇る人を僕は受け入れたくはない。

 だが残念な気持ちも少しはある。せっかく現実的な急所を突いてくれた弦吾君の意見だったのに、こんな結果に終わってしまうとは。これをきちんと論破すれば、論破はできなくても理解のできる反論を見せてくれれば、感情論だけの著書の欠点を穴埋めしたことにもなり、もっと著者の論が深まるというのに。もったいない。

「結婚に関しても女性は相当気を遣ってますね」

 僕は嘘の上塗りを避けるため話題を変えた。

「ええ。世間の目を気にし過ぎているんです。日本に昔からある結婚観は今の女性の人生を大いに邪魔してしまっているのです。早く結婚しなくては。そんな焦燥の中で選んだパートナーなど、きっと長続きしないのです。私もそうでした」

 しまった。やぶへび。

「若い頃は親戚からご近所さんまで、あそこの相沢さんちの娘さんはそろそろいい年なんじゃないとよく噂していたようです。当時の私が住んでいた地域の女性観として、女性は就職よりも結婚が優先でした。女性の大学進学など道楽と思われていたのです。私も適齢期に入ると、どうしてなのか、何かに対し申し訳ない気になってきて大急ぎでお相手を探してしまったのです。その結果、披露宴まで催した結婚相手とは五年で離婚することになりました。シングルマザーとなってからは苦労した記憶しか残っておりません。娘と二人、爪に火をともすような生活をしてきました。あの子にも随分苦労をさせてしまいました。今でもそれは申し訳ないと思い後悔もしております。私は娘の世代にはそんな邪魔くさいだけの不自由な結婚観などなくなっていてほしいと思っております」

 彼女は真剣な眼差しで喋り続けた。弦吾君ならこの真剣な訴えを自己正当化の一言で片付けてしまうのだろうか。僕もほんのちょっとそう思っているのだが。

「たしかに、今の時代にそぐわない価値観ですよね。女性は結婚しなければ生きている意味は無いみたいなあの感じ」

「ひどい考え方です。男尊女卑をまだこの国は引きずっているのです」

 ぴしゃりと彼女は言った。目の前の僕ではなく、世の中全体に毒を吐いているような感じだ。

「そういう考え方を助長しているのは意外と高齢の女性だったりするんですけどね」

 僕がそう言うと、意外なまでに相沢さんは同意の反応を見せた。

「そうなんです! 夢路さんはきっと分かってくれると思ってました! こういう昔ながらの女性観や結婚観を支えているのは、実は男性側ではなく、古い時代を生きた女性の方なんですよ!」

 ぐぐいと距離を詰めてきた相沢氏。理解してくれたことがとても嬉しかったのだろう。これは僕にとってやぶへびだったかもしれない。

 僕は何かを喋らないといけない空気に押され、続けて口を開いた。

「それでも彼女たちは彼女たちで、自分たちが苦労を強いられてきたこと、一生懸命になって戦ってきたことが間違っていたなどとは思いたくないし、やがてその歴史は彼女たちだけの勲章になります。たとえ間違っていたことであっても、自分たちが受け入れてきたものを冷静な視点から否定できる人間は少ないんですよ。逆にそれができる人間は尊敬に値します」

 冷静な視点から自分を否定できる人間に対する賞賛は、それができない人間への非難につながる。僕がこの賞賛に込めた相沢氏に対しての皮肉に気付いているのはこの場では弦吾君のみかもしれない。

 相沢氏はこれに毅然と抗議してきた。

「しかし夢路さん。間違っていることは間違っています。その悪しき慣習によって苦しんでいる現代女性が大勢いるという事実は否定できません。昔の世代の女性の全てを否定することはありませんが、昔の女性たちがその娘や孫の世代に押し付けているような困難しか生まない風習など、もはやこの国に必要ありません」

 厳しい言葉で彼女ははっきりと非難した。

 僕が思うのは今と昔、どちらが女性にとって幸福なのかということ、女性側が結婚を最重要事項に思っていた昔は離婚率は低かった。離婚も独身も最重要事項に反する「恥」だったからだ。一方、女性の権利が向上し、その分結婚というものの価値が下がり、離婚率が増加し、シングルマザーが貧困に喘いでいる現代。一体どちらが不幸でどちらが幸福なのだろうか。

 本来ならばそういうことを議論したいのだが、この人とは絶対に無理だ。

 おそらく、彼女に結婚を急かした親戚とやらもご近所さんとやらも、昔の世代の女性の一員なのだろう。だから相沢氏はこんなにきつくその人たちを非難しているのだ。

 自己正当化。もはやこの人の九割がそうなのかと思えてきてしまう。

 僕はそろそろ弦吾君考案の反対意見を入れ込んでみようかと思った。お互いがお互いのイエスマンになってしまう対談記事など、社交辞令と予定調和の廃棄物でしかない。そう表現していたのはカンナさんだったのだが。

「女性にとって悪しき慣習があるなら、同時に女性に有利になる慣習もあるはずです。女性だから許されていること、あるいは男性だから許されないこと。男性、女性、それぞれにプラスとマイナスの偏見があると僕は思います。女性としての女性観を語るなら、良い面、悪い面、両方取り上げるべきだと僕は思います。そして同時に日本における男性観の良い面、悪い面も取り上げて平等に論じるべきです。そうしないと平等じゃないところで正しさを主張していると思われかね……」

「いいえ、夢路さん。そんなことは考える必要がないことなんです」

「え?」

 考える必要がない――?

「ええ、もう、その点に関しては圧倒的に女性が不利です。それは間違いないことなのです。なので夢路さん。そのことに関してはすでに不平等なのです。だからこそ全国の女性が悲鳴を上げているのです。この訴えの数々が何よりの証拠です」

「それでも条件を平等にして論じることに意義が……」

「残念ですが、夢路さん。男性側の不利だと思っている点は女性側からしてみれば大したことではないことが多いのです。そして女性側の不利な点は男性側にはまったく気付かれない、辛く厳しいものが多いのです。条件が同じになることはないのです」

 長く続く感情論を我慢して話を聞いて、最後に少し反対意見を述べてみると議論する気もなく一方的に話を打ち切ってしまう。それは男性になってみないと分からないことであるはずなのに、説明もなく決めつけて否定してしまう始末。

 弦吾君の反論は興味深かっただけに非常に残念だ。

 こういった感情論での鉄壁を突破するのは非常に難しい。説き伏せるためにはまず相手にこちら側の言い分を聞き入れてもらう必要があるのだが、彼女のような人はそこがまず無理なのだ。文字通り聞く耳を持っていない。戦う前から負け試合確定のようなものだ。

 少なくとも僕ごときに彼女は落とせない。

 それが少し悔しい。いや、かなりストレス。

 相手の正しさすらシャットアウトしてしまう人は、相手にしない以外に対症療法が無いのだから。

「ええ、そうかもしれませんね」

 情けないがとりあえず無難な受け答えで済ませる。ゾーン経験者のカエルがいかにもな冷笑を見せてきたのは、僕が相沢さんの意見に同調したことへの抗議のつもりなのだろう。

 続いて話はシングルマザーの項に移った。先ほど話に出てきてしまったので、触れないわけにはいかなくなってしまったのだ。

「十年ほどの間で一生分生きた感覚でした」

 相沢さんは悲しげな表情を浮かべ、僕に何かを訴えかけてきた。その何かを受け取ろうとは思わないのだが。

「当時まだ娘は四つになったばかり。仕事と家のことと娘の面倒、全て私がやらなければいけませんでした。この無理難題を押し付けられて分かったことは、たった二十四時間でこれらのことを全て済ませることは実質不可能だということ。女手一つで子供を抱えながら生活を維持していくことはそれほど困難なことだということです。水商売をやっているシングルマザーが我が子に対する監督不行き届きで学校側から注意を受けることなど、今の世の中ざらにあることです。ああいうのを世間様は物凄く厳しい声で叩きますよね。しかしシングルマザーがそうなってしまうのは仕方のないことだと私は思うのです。元々不可能なオペレーションを完璧にやり遂げろと言われているようなものだからです。どうしてその親は子供をほったらかしにしていたのか。どうしてその親は水商売という特殊な職種を選んでしまったのか。選ばざるを得なかったのなら、それはどうしてか。誰も目を向けないところに私は彼女たちの絶望の声を聞いたのです。私は地獄のような日々の中、常に思うことがありました。独力のみで自分と子供の生活を維持してゆくのは不可能に近いことだと」

 神妙な表情の相沢氏が更なる苦労話を語り出した。

「シングルマザーにとって一番の問題は収入です。一人で自分と子供の生活を維持できるほどの収入を得続けなければなりません。つまり仕事です。一定以上の月給プラス安定していること。これだけでも子持ちの女性にとっては非常に難しい条件なのです。そもそも子持ちという時点で労働力としてはマイナスです。大卒でもなく資格もない女性は水商売に走るよりほかありません。私も夫と別れた当時は必死で会社員の口を探しました。多くの企業は女性に優しい職場を謳っているのですが、本当に優しかったところなど一社もありませんでした。働き口があったとしても、それは給料の低いパートナーやアルバイトがほとんど。とても子一人養うことのできる収入は得られません。私は途方にくれました。もしかしたら同じ状況で心中を考えてしまう親子がいてもおかしくないと思いました。子持ちの親は厄介がられる社会なのです。どこへ行ってもそうでした。ですが私は思うのです。子持ちの親こそ保護しなければいけないのではないかと。そこには単純に生活できていない人間がいるのだから、そこに手を差し伸べるべきなのです」

「相沢さんは確か、塾の講師をなさっていたんですよね」

「ええ、そうです。ですが、とても私と娘が最低限暮らしていける収入には届きませんでした。他になかったから仕方なくそうしたまでです。しかしそうなると、あとはもう生活のレベルを下げるしかなくなります。衣食住、どれをとっても人間らしいものの無い生活。数年前まで私もそこにいました。本当に、毎日が大変でした。毎晩不公平を恨み歯を食いしばって寝ていました」

 相沢氏の拳に力が入っていることに気が付いた。僕はそれの期待に応えるような問いかけをすることにした。

「相沢先生のようなシングルマザーの方たちは一人で仕事も子育てもやらなきゃならない。それを一人の力で完璧にこなすなんて不可能と仰りましたけど、それだとやはり子育てという面が、先程の水商売のシングルマザーの例のように疎かになってしまうこともありうるのではないですか」

「ええ。それはですが不可抗力に近いものがあるのです。独力で全てを賄うことができない以上、それは防ぎようのない事でもあるのです。だからこそシングルマザーに対する適切な支援と世の中の深い理解が必要だと私は訴えているのです。かつては私も何度となく泣きを見ました。仕事が忙しいせいでネグレクトを疑われたこともありました。懇親会にも出席できず、ママ友と呼ばれる隣組社会に娘ともども睨まれる日々を送ったこともありました。娘がクラスメートとケンカした件で学校に呼ばれた時も、ほとんど善悪の価値観や真っ当な理由など無い子供のもめごとであるはずなのに、シングルマザーであるからと私が元凶のような扱いを受けたことも何度もありました。我々はそういう目で見られるということです。これらは全てシングルマザーという存在に対する不理解によるもの。今と違い、当時はもっと理解が足りなかった。ただのダメな女扱い。味方になってくれるママさんたちは一人もおらず、学校も私を不安視、疑問視するばかり。あの頃は本当に一人でした」

 この後も永遠とも思える苦労話はずっと続いた。これは対談ではなかったのだろうか。僕はふとそう思った。さっきから自宅に招いた側だけが饒舌に話し続けている。

 この苦労話こそ自己正当化の発露なのだろう。

 自分が正しかったと思いたいのだ。自分が苦労させられたのはそこに間違った世の中があったからで自分自身には何の落ち度もない。間違った世の中に不満を持ち不平を抱いていた自分が正しいのであって、自分は何も間違っていない。

 この感情を昇華させると、やがては自分こそが正義だという勘違いも起きるのだろう。それが今の相沢氏ではないだろうか。

 とにかく彼女の苦労話及び自慢話はまだまだ続いた。

 いちいち同調の反応を続けるのも飽きてきた頃、注意が散漫になった僕の目に弦吾君の僕以上に退屈そうな顔が映り込んだ。

 僕は強制的な同調に対する反抗心からか、弦吾君がゾーン状態にあった時の発言が脳裏によみがえってきた。

 曰く、収入が減って困るのが目に見えていたくせに何故旦那と別れるなどという愚挙を犯したのか。離婚理由が慰謝料の請求できない薄い理由であるなら、我が子の為にもそれは我慢できることではなかったのか。結局は自分の感情を優先して被害者ぶっているだけなのではないのか。

 ダメだ。絶対にこれは言えない。すまない弦吾君。僕も命は惜しい。

 二度も反論を試みたことでさすがに僕も学習している。あの二つで無理ならばこれはもっと無理だ。これ以上に彼女の感情を逆撫でする文言が見当たらない。間違いなく逆鱗に触れる。

 さらに曰く、子供の面倒を見るのが困難になることを知っていたくせに何故旦那と別れるなどという愚挙を以下同文――。

 無論、そんなことも言えるわけがないのだが。

 ああ、言えないことが多すぎる。

 彼女はきっと僕の反論を反論として受け止めてくれない。議論がしたいという僕の願いは最初の一文字すら聞き入れてくれない。確認作業もしないまま「敵」として破壊してしまうのだ。言うだけ無駄だと、僕がそう思い込まされている。相沢氏による見えざる言論統制。

 これが次第にストレスになってくる。フラストレーションが膨張していく。一辺倒な意見というのは宗教に近いものがあってあまり好きになれない。やんわりでもいいので反論を聞き入れてほしい。特に今回は弦吾君が同席していることもあって、反論できていないことをいつもより強く意識してしまうのだ。

 このまま一つの視点から見た一つの見解のみを採用した意見交換会で対談を終えてしまってもよいのだろうか。これが社会学者のやることかと自問してへこんでしまいそうだ。

 いつしか苦労話を終えていた相沢氏から恐怖の問いかけが。

「はい?」

「夢路さんはまだ経験がないから分からないこともあるでしょうけど、それでも結婚というものに何を望んでいるのか。未婚の男性の結婚観を聞いてみたいわ」

 先程までの憤怒の顔つきから一転してニコやかな表情をしている。

「えーとですね」

 未婚。

 弦吾君が興味深そうにこちらを見ている。

 僕は未婚という文言には目を瞑り、正直に質問に答えることにした。

「僕は妻となる女性には特に望むことはありません。ああしてほしいこうしてほしいということはないです。僕は自分で自分のことができるし、何なら妻の面倒を見る余裕もあるかもしれません。逆に妻に何かさせてしまったら悪い気がするんです。妻には僕の分も自由に、楽しんで生きてくれればいいです」

 これは願望ではなく、単なる現在進行形の事実である。

「素敵! 夢路さんは女性を大切に思ってらっしゃるのね」

 えらく感動されたものだ。目がキラキラと光って見える。

 女性というか、大切に思っているのは音々さんのことなのだが。

「ええ、まあ。妻となる女性はそのくらい大切に扱いたいなあと。そう思える人と結婚したいですね」

「とても素敵な考えだと思います。それなら夢路さん。子供についてはどうですか? 子育てをどのように思っておりますか?」

 わずかに顔を近づけてきて問いかけてきた。

「いや、まあ、なんでしょう、僕はきっとなめられますね。厳しくできないですから。人に厳しくするの苦手なんです。冗談めかしてふざけ合っている方が気が楽というか。不真面目なんですよ。根が」

「また御謙遜ですか。そんなことないのに。夢路さんは本当に謙虚な方ですね」

 微笑んで僕を立ててくるこの女性には、やはり僕の意見は通用しないみたいだ。本気でそう思っているのに流されてしまう。

 フラストレーションの風船はすでに臨界点を突破していた。同調に次ぐ同調の後に妙なアプローチを仕掛けられたからだ。

 このままだとゾーンに入ってしまうかもしれない。まずい。

「夢路さんはとても面白い人ですね。一度お会いしただけでは何だか物足りないですわ。今度は雑誌の対談ではなくプライベートでもお会いしたいですね」

 そう言って微笑みかけてくる僕の不調の元凶。目の端で弦吾君がニヤけているのが見えた。

 プライベート?

 お会いしたい?

 僕はハッキリとした恐怖を感じた。

 その後に何故か理不尽に対する怒りのような感情も体中を駆け巡った。

 ああ、もう駄目だ。

 もうゾーンに入ってしまう――。

 その時、ふいにインターホンが鳴った。

 二度鳴った。

「変ねえ。来客は予定していないのに」

 相沢氏がいぶかしがる。

 弦吾君が目でスタッフに僕が出ますというメッセージを送り、玄関まで飛んでいった。すると弦吾君の聞いたこともないような声が響いてきたのだ。

 そしてこの後、ゾーン間近だった僕の目に信じられないほどの驚愕の光景が飛び込んできた。

 部屋に入ってきたのはなんと、音々さんだったのだ。

 スタッフも驚き、身動きが取れなくなってしまっていた。僕も後ろめたさからか、すっかり石化してしまっていた。やましいことなど何も無いというのに。

 音々さんの後ろからカンナさんと制服姿の美琴ちゃんがついてきた。そしてもう一人、美琴ちゃんと同じ制服を着た見知らぬ女子高生が。

 相沢さんだけはこの謎の展開にも動じず、怖い顔を維持していた。

 音々さんが相沢さんに近づいてくる。相沢さんのすぐ隣にいる僕など目に入っていない様子だ。そして相変わらずの無表情だ。

「どちらさまですか?」

 音々さん一味に対する相沢さんの毅然とした誰何(すいか)。

 その先頭をひた走る音々さんが口を開いた。

「突然お邪魔してしまって申し訳御座いません。わたくし小説書きを生業としている者です。あちらにおります娘さんを通して先生に取材に上がらさせていただきました」

 一瞬、相沢氏の眼光が鋭くその娘さんを射抜いて、また元に戻った。

「取材ですか。わたくしの著書に関することですか?」

「いえ。モンスターペアレンツの取材です」

「はい?」

「私はモンスターペアレンツの方々にお話を聞いて回っているところです。お手数ですが相沢さんにも是非お話をお聞かせ願いたいのですが」

「はい?」

「鋭い牙と角を持ち、口から火を吹く化け物を見つけ出してはこうしてお話を伺っているところなのです。相沢さんも見たところそれに間違いないようなので、是非ともお話をお聞かせ願えたらなと思いまして」

 常に毅然としていたはずの女性が瞬く間に石になった。

 何故だろうか、僕の身に蓄積されていた抑圧が、この瞬間すうっと消えてなくなった。



 8


 相沢華蓮は母親の百合子に辟易していた。

「もうホント勘弁してほしいよ」

 斜陽差し込む教室の窓際。三者面談の後のことだ。

「自分の本の中じゃあ女性はこうでなきゃならない、みたいな決めつけは敵だとか言ってるくせにさ、自分の娘に関しては「自分の娘像」をハッキリ押し付けてくんのよね」

 窓の傍に立つその茶髪の女性に茶色い光線が容赦なく突き刺さり、髪の色を無かったことにしている。

 しかめ面が似合う女は嫌いではない。ただしこの年齢でその特性を身に着けてしまっていることにどこか悲愴を感じてしまう。恐ろしいバイアスがかけられて育ったに違いない。

「初めて聞いたんだけど、カレンのそんな話」

 誰のでもない席の椅子に勝手に座っている美琴ちゃんが少し不満そうにツッコんだ。大人二人は適当な机の上に勝手に腰かけていた。行儀は全然良くない。

「そりゃあそうよ。だって友達との会話の中に登場させたくないもの。あんな母親なんか。別に嫌いってわけじゃないけどさあ……」

 もっとしかめ面になって、言葉を濁す華蓮ちゃん。

 一応女手一つで育ててもらったことに感謝している故に、ハッキリと嫌いとは言いたくない。そんな葛藤が読み取れた。

「正直うざい?」

 これは美琴ちゃんが訊いてあげた。

 華蓮ちゃんは目を細めて小刻みに頷いた。

「あの人が思う「理想の娘像」って、多分私の「嫌いな娘像」と大体かぶるんだよね」

 その悩みにぶちあたっている女の子は結構いるから、君は一人じゃないと言ってあげたかった。

「お行儀の良い?」

「そうそう」

「嘘を吐かない?」

「そうそう」

「賢い?」

美琴ちゃんが次々と指を折っていく。

「そうそう。だからってこんな頭のいい学校に娘入れんなよ、マジで。青春どっか行っちゃったよ」

 きっとあの賢そうな母親に相当スパルタ的な家庭学習をさせられたのだろう。そういや、塾講やってたって聞いたな。

「あと何あるかなあ。理想の娘像」

「品」

 ひん。

 華蓮ちゃんは蔑むようにそう言ったのだ。

「でもカレン、あんた、全然品が無いじゃないの」

 いつも通りの辛辣な美琴ちゃん。

「でしょう? 私にそんなもん求められても困るっての。大体、私、上品ぶってる奴ら全員嫌いだし。嘘吐いてますわよって顔に書いて生きてるようなもんじゃん。私は品が無くても正しいことやる方が好き」

 美琴ちゃんといい、この子といい、最近の若い子のなんと優秀なことか。大人世代があまりにも不甲斐ないやつばかりだからだろうか。それを楽に生きるための見本にせず、技を盗むような真似もせず、ちゃんと反面教師にして、かつ彼らを頼ることなく自力で生きていこうという意志を持って育った。そうに違いない。

「カレンちゃんのお母さまはじゃあ、同じように嘘吐いているってこと?」

 これは私が訊いてみた。

「もう、大嘘吐き!」

 いーの形に口を変形させてこれを言ってきた。

「アレはアレで理想の自分像になりたいのよ! 世間からもそう思われるのが気持ちいいから、ずっと仮面かぶっていい気になってんのよ!」

「何でそう思うの?」

 美琴ちゃんが訊いた。

「え? だって私知ってるから。本当のお母さん。不完全な女性としてのお母さん。てかもう、私しか知らないんじゃないかな。あの人と一緒に暮らしてたの私だけだし」

「ふーん。どの辺が嘘だと思う?」

「全部」

「はやっ」

「私が中学入ったあたりからさ、あの人本書き始めて、それがものすごく売れちゃって、世間からの受けもよくて、お金もがっぽり入ってきたもんだから生活にも余裕が出てきて、それが全部言いたいこと言うエネルギーに変換されちゃうのよ。今まで辛かったもんだからそれを取り返そうとしてんのよ。ただの復讐心のくせに使命感感じちゃってさ。女性代表みたいな顔するのが板についてやんの。お前はもっと心の狭い卑しい女だっただろうが」

 娘がこんなにつらくあたるのは、成功し変わった母親が娘の生活態度にまで干渉してきたからだろう。これがただ成功し変わっただけならば、これまでの苦労を知っている娘からすれば母親が報われる姿はきっと喜ばしいことのはず。しかし自分の領域にまで踏み込んでくるとなると話は別だ。その瞬間成功し変わった母親は、虚栄の塊に成り果てる。

「てことは、学校側とも相当揉めたの?」

「だからモンペだって言ってんの。私が小学校の頃からモンペ。完全に誰がどう見ても私が悪い場合でも差別だ贔屓だって喚き散らしてさ。視野狭窄のレベルじゃないよ。思い込みの勘違いの被害妄想の自己洗脳。危険思想よあんなの」

 めちゃくちゃ言うな、カレンちゃん。

「それ、完全にカレンが悪かったことなの?」

「うん。だって図工の時間にクラスのやつが作った紙粘土の作品の腕ちぎって捨てたんだもん。クラス委員みたいなことやってたやつの。ちなみにその子には何の落ち度もなかったわ。完全なる悪女Kの憂さ晴らし」

 なるほど、それは完全にK(カレン)が悪い。そしてそして、似たような記憶がK(カンナ)にもあるのはどうしてだろう。

「暴走したあの人は、私が罪を認めて、ゴメンナサイを言ってもなお止まらないで暴れ続けたのよ」

 どこかで聞いた話だと思ったら、これは音々がモンペをモチーフに想像していた怪物の生態そのものではないか。止まることなく暴れ続けるという野蛮な怪物。

「それ以外にも、とにかくなんかあるたびに学校に電話入れたり、直接殴り込みにいったり、マジで面倒くさかった。全部私がやったって白状してんのに全然矛を収めてくれないのよ。私には真相が分かってるわって顔で、被害者面して戦い続けるの。もう完全なる被害妄想の塊。母子家庭の自分たちは可哀相って思い込んで、他は全部「敵」。自分らの身を守る為とかいって何の罪もない「敵」と思われる人たちに噛みついて、身勝手な正義を誇ってんのよ。バカみたい。痴漢冤罪と同レべだよあんなの」

 私はまたしても音々が思い描いていた例の怪物を思い出した。鋭い牙と角を生やし、口から火を吹き、言語を解せず、行く手を阻む者は全て破壊する。大暴れの最中に娘を踏み潰してしまったとしても、それさえも誰かのせいにして暴れ続けるとのこと。

 こうして踏み潰されてしまった娘が実際に訴え出てきたのだから、音々の想像の再現率はやはり伊達じゃない。そこは天才売れっ子作家としての才覚だろうか。

 あとは理性を植え付ける伝説の魔法がどこかにあれば面白いのだが……。

 この後も母親の暴走譚を嬉々として語るカレンちゃんへの取材は続いた。

 相沢氏の著書がヒットし始めた時分、すなわち華蓮ちゃんが中学生だった頃が一番暴走がひどかったらしい。ただのモンペとは違い、人気作家として見えざる権力のようなものを身に纏っていた相沢氏に異を唱える教師はいなかったとのこと。モンペの要求がまかり通る環境をそのモンペの娘たる華蓮ちゃんは一言こう評した。

「不快だった」

 この少女はきっと止めてもらいたいのだ。社会正義イコール母親という今の世の中の図式を。娘にとってはペテン師の養成学校に母親を取られたような感覚か。そこから取り戻した母親が結局は心の狭い卑しい女でしかなかったとしても、自分にとっての母親像がそれならば娘にとって取り戻す価値があるというもの。

 だがおそらく、彼女のこの殊勝さは動機全体の一割未満というところで、本当は悪戯(いたずら)心と出来心と復讐心がその九割を占めているのだろう。なぜならこの少女、おそらくは思いつきを深く考えずに実行してそれを楽しむことのできるタイプだろうからだ。肝が据わっていて、それでいて投げやり。

「でもいいの? モンペの取材に来たって知ればお母さん激怒するんじゃない?」

 すると華蓮ちゃんは、意地の悪そうな笑みをおそらくわざと浮かべた。

「いいのよ。有名になってもう三年くらい経つし。そろそろ身の程を思い知った方がいい頃だわ」

「激怒されるのはあなたではなく、お姉ちゃんたちなんですけど」

「それが取材料ね」

 私は窓の外を興味津々で見つめている女に一応訊いてみた。

「あんた、なんか訊いておきたいことないの? 怒られるのあんたなんだから」

 すると音々は私の方に顔を向けてこう言ってきた。

「何も怒られるようなことをしていないので、問題はありません」

 この音々の発言で二人の少女が大笑いしていた。

 この後、実際に取材させてもらう日時を確認し合い解散した。どうやら相沢氏が確実に家にいる日があるらしい。華蓮ちゃんは家に男を連れ込む日などと冗談めかしていたのだが、まさかこういうことだとは――。

 インターホンを押して待っていると、予期せぬ人物が出迎えをした。私は完全に虚を突かれてしまった。

「え? カンナと美琴!? 何してんの!?」

「え? なんでお兄ちゃんが?」

 知己のカエルの登場である。ここで私は察した。ということは、今まさに対談中の野郎というのは……。

 リビングに入っていくと、やはりあの無味無臭の男が相沢氏と椅子を並べていた。そして驚愕の表情。そりゃそうか。

 私より先にリビングに入っていった音々が、すでに相沢氏を見下ろす格好で彼女に何かを言っていた。そしてそれを聞いた相沢氏は瞬く間に石と化した。何を言ったのかは大体想像がつくので気にしない。

「ねえ、何これ? どういうこと?」

 後ろからカエルも入り込んできた。

「一体何なんだ、君らは」

 カメラマンが不審げな目で私たちを睨みつけてきた。

「スタッフの皆さん、ちょっと緊急事態ですのでこちらへ」

 華蓮ちゃんが娘の立場を利用して場を仕切る。何故だか堂に入っている。

「学校のことで急用入っちゃって。すぐ済みますので、あちらの部屋で待機していてください」

 学校という効果的な紋所を使用するところが実に狡賢(ずるがしこ)いではないか。これを言っときゃ大人が黙る禁断の呪文「学校」。これぞ子供たちの伝家の宝刀。向こうのスタッフたちも言われるがまま待機所へと押し込められるのだった。

「あんた無茶苦茶するわね」

 戻ってきた友人に美琴ちゃんがツッコむ。

「どうせ無茶をするなら法に問われない年齢のうちにしてやろうと思って」

 同感である。

 ふとドアのところを見ると、弦吾君だけは残っていた。

「あんたも引っ込んでれば?」

「においでわかるのさ。事情は知らんが、これから面白いものが見れると」

 同感である。

 ふと気付くと部屋中の空気が張り詰めて震えていた。 

 その中で、一人の美しい年配の女性がみるみるうちにおどろおどろしい怪物へと変貌を遂げていた。

 牙が生え、角が生え、爪が伸び、口は裂け、目は釣り上がり、人であった時の面影は一つ残らず消失していた。これぞ音々が語った想像上のモンスターペアレンツの姿に相違ない。娘の話の中で合致しただけではなく、現実でもやはり合致していたのだ。もしこれでこの怪物が火を吹いたのならもう確定である。音々の想像は現実となり、止めることの叶わない恐怖のモンスターがここに誕生することになる。

 理性を植え付ける伝説の魔法とやらは全然見つかっていないのだが、結末や如何に。

 いよいよ石化の解けた怒髪天の怪物がまずしたことは、怒りの対象となっている者と目線の高さを合わせること。見下されているのが我慢ならないのだろう。立ち上がり、肩を怒らせて吠えた。

「あなた、一体どういうつもりなの? 人を唐突にモンスターペアレンツ呼ばわりするなんて! 無礼にもほどがあります! それに、火を吹くだのなんだのと人をバカにして! 私を貶(おとし)め、やり込めてやろうと考えている不穏な輩がいることは知っていますが、あなたもそういう方々の一員なのですね! 娘をたぶらかして!」

 母親はそう吐き捨てた。火の粉が四方八方に舞う。彼女の口から業火が吹き上がっているのが間違いなく確認できたので、いよいよモンペ確定ということになる。私は私で「たぶらかして」なんて久しぶりに聞いたなあと感慨にふけってもいた。

 音々が何を言うのか期待して待っていると、今度は石化の解けた旦那が慌てて立ち上がり割って入っていった。

「ちょ、待ってください! 待って!」

 本気で混乱しているアイツを眺めるのもまた面白い。

「まあ、夢路さん。あなたにはご迷惑をかけるわ。こんな無礼な方々が押しかけてくるなんて思いもよらなくて……」

 おや、と思った。

 響が介入してきた一瞬、怪物の牙も角も引っ込んだのだ。

「でも、安心してください夢路さん、すぐに帰らせますので!」

 このセリフは音々に向かって吐き捨てた。この時はすでに牙も角もにょきっと生え出ていた。

「あら響さん。ご苦労様です」

 相沢氏の発言をガン無視した音々が旦那に向かってペコリと頭を下げた。

 キョトンとする相沢氏と、どう反応すればよいのか分からないバカ旦那。にしてもあの男、やけに焦ってやがる。

「今日の対談は浮気みたいなものだって、ずっと発破かけてきたからな。あの反応はそのせいさ」

 義弟の嬉しそうな悪巧みが聞こえてきた。

「アホらし。お姉ちゃんに浮気の概念なんて無いわよ。本当に浮気の最中だったとしてもお姉ちゃんにはそれが分からないんだから、あんな焦る必要なんかないのに」

 義妹が追撃ともフォローともとれる考察を披露する。

 だが必要以上に焦っている男がああして現実にいるのだから、人間など冷静な考察通りにはいかない存在なのだろう。あの男は見事にカエルの術中にはまってしまったのだ。ベストセラー作家だろうが社会学者だろうが女性問題に関しては中坊以下の解決能力しか持ち合わせていない男があの夢路響なのだ。

 そして音々はというと、そんなことで勝手に慌てふためいている旦那にでも遠慮なしにいつものペースで話しかけようとしていた。妹の言う通り浮気の概念など一切無い妻なのだろう。

「響さんもお仕事でこちらに?」

「ん? うん、そう! 仕事! お仕事です、これは!」

「あら、では響さんもモンスターペアレンツの話をご本人から直接聞くために?」

 音々による絶妙の勘違い。相沢氏の表情の変化が実に面白い。

「いや、それは別に……」

「夢路さん!」

 恐怖で身構える響。

「そこの女性は、夢路さんのお知り合いですか?」

 殺気立った目でそれを確認する相沢氏。

「いやあ、なんというか、その……」

「はい、お知り合いですよ」

 音々からの機械的な事実確認。嫌味などではなく、音々による他意のない事実確認だ。

 それに後押しされる形でようやっと旦那が答える。

「そうですね。知り合いといえば知り合いです」

 頭を掻きながらの作り笑い。下手くそな詐欺師かお前は。

「あら、社会学者さんは顔が広いのですね」

 そう言って響を立てながらも、モンスターが音々を上から下へと眺めまわす。それも敵意を満面に浮かべながら。そんな顔してジロジロ見ても絶世の美女がスキャンされるだけだろうに。いや、むしろそれが憎いのか?

 モンスターのこの確認作業はどういう意図を持った反応なのだと私は思案した。

 思案している間に、義弟や義妹からの辛辣なコメントが私の耳に飛び込んでくる。

「あのオバサン、きっと姉ちゃんが兄貴の知人女性ってだけで対抗意識燃やしちゃってるんだろうぜ」

「でもお姉ちゃん闘争の概念も無いから」

 色々と概念の足りていない女はただじいっと怪物の行動を見守っていた。その無垢な目のまま器用に人を怒らせ傷付けるのがこの女の本領なのだ。

「響さんの取材はまだ続くのですか?」

 飽きたのだろうか、音々がしどろもどろの旦那に訊いた。旦那の葛藤もそこのオバサンの怒りもどうでもよく、とにかく自分の仕事を優先させたいというなんとも社会性の無いこの生き様。集団生活が基本の縄文時代では生きてはいけないだろう。

「え? 取材? いやその、どうだろう」

 チラリと視線を移し、この優柔不断の男は対談相手にその確認を投げた。

「取材ではなく対談です!」

 日本の女性代表がハキハキと言い放った。すでに音々を不倶戴天の敵とみなしているらしい。

「対談? なるほど、対談するなら両者で考え方に違いが出る方がいいですからね。響さんは生徒の保護者としてまともな方です。モンスターペアレントでは全然ないですからね。モンスターペアレントと対談させるとしたら響さんのようなまともな方がいいでしょう」

 早速だが私は気合を入れて笑いを堪えることになった。音々の持つ爆薬はその火薬量だけが特徴ではない。火の気が無くとも一瞬で爆発してしまうのが最大のメリットでありデメリットなのだ。私だけだろうか、唐突に目の前が焼け野原になっていくこの澄み渡るような感覚が病みつきになってしまうのは。

「ですから! あなたは先ほどから、どうしてわたくしをモンスターペアレント呼ばわりなさるのですか! 訂正して謝罪してください!」

 こちらの爆薬にはとっくに火が点いていたようだ。化け物が目を剥いて音々に詰め寄る。

「まあまあ、相沢先生、落ち着いて下さい、落ち着いて……」

 落ち着きのない響が相沢氏の腕をやんわりと掴み彼女を制した。脅威が妻に近づかないようにしたのだろう。可愛い奥さんが灰になってしまってはたまらない。

「夢路さん、ですが……」

「冷静になりましょう、冷静に」

 響がこう言うと、また彼女の持ち味たる牙も角も引っ込んでしまうのだった。

 私はこの時、恐るべき可能性に思い至った。

 もしやこれは、古文書に記された伝説の魔法……!

「先生がモンスターペアレントでないとなると、一体どんなテーマで響さんと対談をしたというのですか?」

 茶番など気にも留めない音々からの痛烈な一撃。他に何かありますかと言わんばかりのその態度。爽快である。

 そしてプライドに障ったのか、響のお陰で一旦は怒りが納まったはずの相沢氏が響の手を振り払い怒声を上げた。

「なんて無礼な人! 夢路さんとは、わたくしの著書について大変有意義な意見交換をさせていただいていたのです!」

 火の粉が舞う。短気な人間のことを「瞬間湯沸かし器」と呼ぶようだが、昔の人間はよく言ったものだ。

「著書とはどのようなものでしょう?」

「私のもとに取材に来たわりにはご存じないのですね! こう見えてわたくし、『未来への不安』という本を出しておりまして、本日はそれに関する対談ということで夢路さんにこうしてお越しいただいたのです!」

「ああ、あの本の作者でしたか」

 音々のことだ。本気で今それを思い出したのだろう。『未来への不安』の作者の家に取材に来ているという認識は無かったのだ。飽くまでこれはモンペの取材。我がままで身勝手な保護者の家に取材に来たのだと彼女は割り切っていたのだ。

「私も拝読させていただきました」

「あら。知ってらしたのですか。お読みになっていただけたのであれば、それはとても光栄なことです」

 全然光栄とは思っていない表情で何を仰るか。牙も角も残したままで。

「先生は女性全体がお嫌いなのですか?」

「ん?」

 この時私は旦那がすぐ横で石になるのを見逃さなかった。

「嫌い? 女性全体を?」

 本当に訳が分からないという顔を相沢先生は見せた。

「違うのですか? その割には女性に対する誹謗中傷がとてもお上手で。世にあまねく女性という存在を見事な太刀筋で切っていました」

 本当に訳が分からない感想を聞いた顔になる相沢氏。

「あなたは一体、何を仰っているの?」

「ですから、『未来への』ナントカを読んだ感想です。女性の悪癖を皮肉ってこきおろした風刺と笑いの文学ですよね?」

 活火山からマグマが上がってくる気配をみなが感じた。

 音々は私を裏切ることを知らない。毎度期待通りの働きをしてくれる。私は顔を俯けてお腹だけで笑っていた。

「修羅場の幕開けだな」

「つーか、にいさん石になっちゃって。何やってんだか。あんたが止めろあんたが」

 弦吾君や美琴ちゃんも口々に囃し立てる。

「なんですかそのひどい物言いはっ!」

 天地が揺れた。

「私を中傷するのがあなたの目的ですか! 本当にあくどい! 誰がそんな本書きますか! 私は真剣に、切実に、世の苦しんでいる女性の為に文字で力になろうと本を書いたのです! それをあなたは本当にひねくれたひどい解釈でバカにして! 曲解にもほどがあります! 私に対するはっきりとした悪意を感じるわ! あなたのように、真剣に女性問題を語る人間を指差して笑うような人がいるから、いつまで経っても女性の負担は減らないのです!」

 口角泡を飛ばしながら、その品のあるはずの女性は狂乱していた。その化け物じみた容貌が更なる変化を遂げて一段と化け物じみてきている。

「一体あの本のどこが女性への誹謗中傷になるというのかしら! 是非ご意見をお聞かせ願いたいわ!」

 相沢氏は挑戦的に音々を睨みつけた。怒り狂う野獣と化したこのオバサンと違って、音々はいたって冷静だった。猛る野獣を目の前に、そのキレイな小顔をただただ澄ましているのみ。私にとってはそれは芸術的な風景画に等しかった。

「と申されしても、それほど記憶に残るようなものではありませんでした。響さん、『未来への』ナントカはお持ちですか?」

 牙の伸びた口をあんぐりと開けた相沢氏の横で、響が何かに突き動かされるかのように手元に置いていた荷物の中をガサゴソとまさぐり出した。そしてそこから力任せに渦中の本を引っ張り出した。いやいや、本を取り出す前にすることがあるだろうに。妻を止めたり怪物をなだめたりはやらんでいいのか。完全に音々の勢いに押されてしまっているのだ。

「ありがとうございます」

 音々は平然とそれを受け取り、ペアペラと捲る。周囲の目を気にせず読書に没頭する姿をみなが沈黙の中見守っていた。それもまた滑稽な光景だ。

「ああ、これこれ。……女性とはその体に子を宿す機能を備えた生き物であり、それを現代社会の言葉で言い換えるとすると、社会からの長期間の離脱を余儀なくされるということにほかならない」

 音々は本文をそのまま読み上げた。

「それのどこが中傷になるのですか!」

 相沢氏が喚き、これに音々が答えた。

「女性は労働環境的にいずれ邪魔になる存在であるから社会進出するな、という趣旨の文章ではないのですか?」

 音々の極端な客観視がそう解釈したということだ。

「休職すると迷惑がかかることが分かりきっているのに、それでも平気な顔で抜けていってしまう非常に自分勝手な存在が女性であると」

 音々の罵言は続いた。

「おお。あの本を読んだ姉ちゃんの素直な感想が、そのまま俺がゾーン状態の時に考え出した反論になってやがる……」

 何かに驚愕するカエルがいるのだが、一体何のことだろう。

「兄貴は全然ダメだったが、姉ちゃんならもしかして……」

 どこか楽しそうにニヤニヤするカエル。一体何のことだろう。すごく気になる。すごく楽しそうな気配がする。

「それが曲解だと言っているのです!」

 私の目移りをよそに相沢女史はすでに叫び声を上げていた。

「わたくしは休職する女性が社会的に邪魔な存在になるとは一言も言っておりません! 邪魔になるからといって子供を生むことを否定してしまう社会は良くないと言っているのです! むしろそれをみなで支援していく社会にならねばと願っているのです!」

 あの本を読んだ普通の人間の解釈はそうだろうなと私は思った。普通はだ。

 その普通の基準も誰が決めたかよく分からん「普通」なのだが。

「でも実際邪魔ですよ?」

 食い下がる音々。これを人は無神経と呼ぶ。

「それは仕方のないことでしょう! 妊娠ですよ? 子供が生まれるのですよ? あなたはそういう経験が無いからそういうことを言ってしまえるのではなくて?」

 これもまた「普通」の感覚からすれば当然の怒りに思える。女性など社会的に邪魔であると言われて腹を立てない女性がどこにいるか。先生の怒りもご尤もだ。

 するとまた安易に口を開こうとする音々。

「先生はもしかして、算数はできない方なのですか?」

 などという突然の謎かけ。音々にとってはこれも正常な思考回路の賜物なのだろうけど、音々以外の人間にとってはさっぱり意図が分からんのだ。ただし私にとっては「普通」よりも全然こちらの展開の方がよろしい。

「は? 算数ができるか、ですって?」

 相沢氏は眼球が膨張したような表情で固まってしまった。

 近くからカエルの押し殺したような鳴き声(笑い声)が聞こえてくるのは気のせいか。とにかく音々は続けた。

「三人で仕事を回している職場、あるいは組織の中で、もし一人が抜けたら残り二人の負担がどうなるか。このくらいは理解できますよね? 小五で習う比率の問題ですよ」

 子供塾の講師のような口ぶりである。なわなわと怒りで体を震わせるオバサンを目の前にためらいなくそういうことをしてしまう「普通」ではない、いわゆるアホ。

「そんなことは百も承知です! そうなった場合の補填を職場で保障してあげなければならないと言っているのです!」

 当然こういう反論をしてくるはずだ。

 しかし企業の側にそんな余裕など無いと、現サラリーマンの私は思うのだ。不景気。インフレ。スタグフレ。失われた三十年。

 それに実際、万年人員不足の職場で産休なんか取ろうものなら、強力な念の込められた後ろ指をさされてしまうに決まっている。裏も表も平穏無事にいくわけがない。

 

 

 それなのに女性の産休も育休も法律で保障されてしまっているところに、いまだ顕在化されていない問題が潜んでいるのだろう。

「職場で補填ですか。ということは、女性を雇う場合は補填人員も同時に雇わないといけない計算になりますね」

 音々は平然とこれを言った。

「え? ええ。そうですね。それが時代に即した企業側の努力というものですから……」

 相沢氏は音々の発言の意味をすぐには理解できなかったのだろう。返答を口に出した後でそれが正しいのかどうかを判断している。分かりやすい混迷の顔をしているのだ。

「そうですか。では最初から男性を雇った方が効率的ですね。必要な分だけの人件費で済みますから」

 音々の筋の通った意見が炸裂した。

「そ、それは違います! あなたはなんということを! それは時代に逆行する考え方です! 女性が安心して働ける環境を社会全体で協力して作り上げていかなければ……」

「しかしすべて先生が仰っていたことですよ。女性が安心して休職するためにも企業側が人員を補填する態勢を整えておくべきだと」

「それは……」

「そのような余裕のない企業は当然、男性のみを採用すればいいわけです。強制力が無い限り、今の時代はどこの企業もそうすることでしょう。それとも無理をしてでも、負担になったとしても、赤字に目をつむってでも、女性を絶対に雇えという法律を作った方がよろしいということでしょうか? そういった強制的な女性優遇社会を先生は目指してらっしゃるのですよね?」

「わ、わたくしは別にそのような強硬なことをしたいとは……」

 見るからに焦り出す相沢氏。

 女性を雇用する際の補填人員など、女性と同数ではないにしろ、正規雇用ではないにしろ、それが面倒なのは変わりない。

 蟻の習性を思い出す。

 蟻は働き者のイメージがあるが、実は彼らの三割ほどは巣の周りをウロウロしているだけで仕事をしない怠け者なのだとか。最近の研究でこれらは巣を維持するのに必要な労働力が事故や何かで失われた際に、すぐさま同じ数の労働力、つまり働き蟻にとって代わることのできる補填人員であることが分かってきたのだ。

 無駄を嫌う現行社会においてそんな怠け者を雇うことなど許されるものではない。それこそ企業側も雇われた側も内部からの糾弾の対象となるであろう。

「無理をして女性と補填人員の両方を雇うことを強制はしないというのですか? それでも女性の雇用も休職も保障してくれと? それならばやはり先生は算数ができていませんよ。いずれ休職してしまう女性がマイナス一です。残りは二しかありません。しかし本来は四か五くらい必要です。それなのにプラス一の補填すらありません。二はいずれ死にます。こんなことになるくらいなら初めから男性を雇えばよいという社会を先生は否定なさってらっしゃるんですよね? しかし強制的に女性と補填人員を雇うようなこともしたくないと。いったい、先生の頭の中に女性の居場所はどこにあるのですか?」

 音々の刀が真っ直ぐに振り下ろされる。

 完全に面食らってしまった先生は相手に今にも噛みつきそうな顔のまま、そのまま、後に続く反論は出てこなかった。

 相手の中に無理やり矛盾を発生させて、それを爆発させて相手を殺してしまう。これを計算なしでやれてしまう。異世界のモンスターである。

 隣で弟が小さくガッツポーズしている。今まさに何らかの鬱憤が晴れたようだ。

 女性の産休と育休によるこの職場離脱の問題に関しては、結局のところ相沢女史も、彼女と意見を同じにする全国の女性も、女性が都合よく生きていける社会を想定した場合の主張をしているだけなのだろう。その都合のよい社会の中で迷惑を被る人たちの意見を見事に無視した主張でしかないのだ。それでもかわいそうな女性が救われるならお前たちの方が我慢すべきだろうと。

 しかしながら、我慢するかどうかは我慢する主体の意志で決めるしかないこと。それは女性の側が決めることでは永遠にないという制約を無視しているのだ。いや、見なかったことにしているのか。法律で決められているのだから我慢せよ、と投げやりに言っているような気もする。これはけっこう危険な考え方なのかもしれない。休職する側、される側、両者ともに穏当な結末だけが残されることになるとは到底思えない。どこかで事件化し、血も流され、社会問題にまで発展する可能性のある事案だと私は思っている。相沢氏の主張はきっと人間に感情というものが存在しない場合に成立する考え方なのだろう。

 そんなことで丸く収まる人間など、人間社会など、どこにもないですよと、音々の人間に対する客観視は訴えているのだろう。それなら音々の言う通りである。。キャッチャーはまだミットを用意していない。それなのに女性の権利向上という剛速球が投げ込まれる。当然キャッチャーは大怪我をする。外からその様子を見ていた音々は、特に深く考えずに怪我をするからやめた方が良いと言った。ただそれだけ。そしてそれにまともな反論ができなったピッチャー、相沢先生。

 彼女の負けである。

 こちらには勝利の凱歌を上げるカエルがいる。だが相沢氏は腕を一本折られたくらいで止まるタマではないようだ。

「あ、あなたの仰っていることは、女性の実情の、ほんの、そう、一部でしかないのです。わたくしは、違います。女性の不遇を訴えて、女性全体の地位を向上させたいだけなのです」

 徐々に威勢を取り戻していった先生。理屈はむりくりのような気もしないでもないが。

「あら、そうでしたか。てっきり著書には女性休職者を糾弾する意図があるのだと思っていたのですが、そうではないということですか?」

 自分本位のまま話を続ける音々。

「当たり前です! 女性の産休や育休は社会全体で救援すべき問題なのです!」

「ということは、先生はもしや、社会全体よりも女性を優先すべきという立場なのですか?」

「女性が子供を生みにくい社会よりは全然ましでしょう!」

 すると音々が不思議そうな面持ちでその野獣を覗き込む。何事だこれは。

「著書には女性を邪魔者扱いしているという趣旨はないと?」

「あ、あるはずないでしょうっ!」

 慌てふためきながらも牙を剥きだしにしてブチ切れる相沢氏だった。

「まさか先生が女性側の立場で語ってらっしゃるとは思いませんでした」

「どういうことですか!」

「いえ、著書に女性を邪魔者扱いする趣旨があったと先生が仰るならば私にも異論はなかったのです。何故なら著書には間違いなく女性にまつわる数々の耳を覆いたくなる性向が厳然たる事実として記されているからです。たとえそれが女性に対する悪口であったとしても、もともとそういう趣旨であるならば、全体として至極真っ当なことを仰っておいでなのだなと納得できるのです。ですが、どうやらそうではないのですね」

 音々の脳みそがまた不可思議なことを喋り出したようだ。

「も、もちろんです! 一体あなたは何を仰っているの!?」

「そうですね、もし先生の仰る通りに、この本の趣旨が本当に女性の救済を願うものであるならば、そこには少々の説明不足が生じるものと思われるのです」

「説明不足? 何の説明が不足するというのです?」

「現代女性が邪魔者でもなく面倒な存在でもなく、救済されるべき存在であるということの説明がです。この本はまずそれが前提にあって初めて成立するものだと思われるからです」

 あまりの衝撃に、相沢氏はまたもや目をひん剥いて固まってしまった。だがこれで音々の脳内が少しは知れただろうか。

 相沢氏は思ってもみなかっただろう。女性としての自分の半生を肯定するような内容のその本。あるいは女性への救済という目的を借りてそう主張している本。それらは女性は助けてもらって当然の善なる存在であり社会と人類に益する存在である、という大前提が必要となってくる。おそらく誰も気にしていないであろうその大前提が。

 人外の視点を持つそこの女以外誰も。

 音々は初めから『未来への不安』を、女性に対し性善説的でも性悪説的でもないフラットな視点で読んでいたのだ。その視点から『未来への不安』を読むと、女性は社会にとって邪魔者である、人間として面倒な存在である、という結論が浮かび上がってくるらしいのだ。それは相沢氏の書き方がそうさせたこともあるのだろう。自分の苦労や不幸を誇りたいだけのくせに社会奉仕を装う低次元の感情先行人間は大勢いる。彼女もその一人であるということは言うまでもない。それが祟ってか知らないが、あの本には女性とは畢竟(ひっきょう)不幸な存在である、ということを指し示した描写があまりにも散見しているのだ。横行と言ってもいい。

 女性に味方する、あるいは同情するような視点でそれを見た時、それは女性に対する味方意識のようなものを生む有効的な描写となるのだろう。

 だが音々特有のフラットな視点で見た時、それはただ女性の悪い部分が浮き彫りになっているだけの悪印象的な描写に見えてしまうのだ。

 音々にとって『未来への不安』の中の女性像は傍迷惑な存在でしかなかった。本の内容もその傍迷惑な存在の紹介程度に思っていたのかもしれない。だがここにきてその著書の本懐は女性への救済にあると告げられているのだ。これは明らかな錯誤であると言いたいのだ。

 相沢氏の言うを音々は想定していないのだ。だから救ってやれとも思わない。

「どうして女性は救ってやるべき存在だとお考えになっているのですか?」

 音々の純粋無垢な質問が、相手の理解の追いつかない間にも飛んでいく。

「どうして……。どうしてって、それは……」

 混乱。正論を述べていた側が何故か混乱してしまう音々の魔術。

「それは、そうよ、女性は子供を生まなければ、ならないから。子供を生めるのは、そう、女性だけです。そして子供の無い国は滅びます。それが彼女たちを守らねばならない最大の理由ではないですか」

 正論中の正論。だがそれは音々の前ではタブーに等しい。

「あら。私は子供を生んでいないし、これからも生むつもりはないですけど、私のような女性は保護の対象外であるということですね」

 ほら、バッサリ。

 即行で先生の顔が濁ってしまったじゃないか。

「子を成さなければ国が滅ぶという一大事が女性共通の使命としてあるなら、女性はほとんど出産を義務付けられているようなものではないでしょうか。それは少々怖い考え方ですね。時代錯誤な女性差別とはこのことですよ」

 返す刀でズバッと相手の首をはねる音々。

 ここでカエルくんが肩を揺らして笑った。

「さすがだな。兄貴とは斬れ味が違う。たとえ無茶苦茶に聞こえたとしても、真っ向から反対できることでもない。絶対に折れない刀の斬れ味があるんだ」

 当然だ。免許皆伝の剣聖、音々流の初代だぞ。こいつで終わりだけど。

「そ、そうは言っておりません! 女性は別に、子を生むこと以外にも守るべき理由のある存在なのです!」

 何かを振り払うかのように声を張り上げる先生。

「そうでしょうか。それを除いたらもう、女性は文句の多い面倒な存在であることしか残されていないのでは?」

「なんという酷い偏見を!」

「いえいえ。これは飽くまで先生の著書から受けた印象ですので」

「わたくしはそんな書き方などしておりません!」

 顔を真っ赤にして相沢氏は怒鳴った。

「文句が多いような描写に見えたのは、世の女性がそれだけ不満を抱えているからです! その不満の多くは不平等やその場しのぎの政策からきているものです!」

「私は別に社会に対し何の不満も抱いていないのですが」

「割合の問題を言っているのです! そりゃあなたのような女性もいるにはいるでしょう! しかし苦しんでいる女性も多くいることは紛れもない事実なのです!」

「それはでも自業自得で苦しんでいるのでは? 先生の本を読む限りではそのような印象を受けざるを得なかったのですが」

 音々のこの追及にわずかな躊躇を見せた相沢氏。著書が著者自身の生き様をなぞっているものだとすれば、音々のこれはストレートな本人批判にもなるので、それが嬉しくて楽しい私は心の中で音々に拍手を送っていた。

「違います! 自業自得などではありません! 彼女たちの苦しみはみな外圧によってもたらされた悲劇に他なりません!」

 彼女たち。

 自分とは分けて考える言い方だなと感じる。もしもの場合に責任を持ちたくないのだろうか。

「例えば! こういう苦しみは全然自業自得ではないでしょう!」

 何かを誤魔化すように相沢氏は言葉を継いだ。

「その本にも書きました! 女性観の問題です! この国には呪縛があるのです! 女性とはこうあるべきという要求があるせいで、女性は生き急がされてきました! そしてそのまま人生につまづいてしまう女性も多くいるのです! 女性は常に不利な立場に立たされているのです」

「別に不利ではありません。むしろ有利です」

 音々お得意の、真っ向からの否定。バッサリと斬った断面が実にキレイだ。

「いい加減なこと言わないでください! 有利なわけないでしょう!」

「たしかにこの本にはそういうことが書かれていますね。思い込みの激しい被害妄想の女性を見事にこきおろしています」

 音々がどこか愉快そうに本を捲っている。何故この状況を楽しもうとしているのか。

「思い込みの激しいですって!?」

 信じられないと言わんばかりの先生。

「ええ。女性はこうしなければならないああしなければならないだの、自分が勝手に作り上げた仮想敵と勝手に戦い続けて勝手に自滅していく、世にも愚かな女性を描いてらっしゃるのですよね?」

「どうして、どうしてあなたはそんなひどいことを! あなたは間違っている!」

 声を絞るように相沢氏は叫んだ。

「でも私は女性ですが、一度も女性としてこうあるべきなどということを迫られたりはしていません」

 おかしいですねと小首をかしげる音々。

「あなたが普通ではないからです!」

 今日一番の大絶叫。

 瞬間、弟と妹が、私の隣で大爆笑を押し殺すという器用さを見せつけてくる。

 いよいよはっきりと音々の人格を否定してきた先生。御自身の品について考えるのはもうよいのだろう。

「先生、落ち着いてください」

 ここでようやく石化の解けた役立たずが力無くではあるが制止に入った。

「そんな言葉を使ってはいけませんよ。感情的にならずに一度最後まで話を聞いてみましょう」

「夢路さん」

 急にしおらしくなる中年女性。この女はもしかして、響は自分の為に制止してくれたとでも思っているのだろうか。残念ながら彼が守りたいのは愛妻ただ一人である。

「すみません。わたくし、取り乱してしまいまして」

 まただ。

 また野獣であることを示すパーツが消失している。

 そしてその視線の先にあるのは冴えない男の横顔。

 理性を植え付ける伝説の魔法の正体、それはやはり……。

「話を戻してもよろしいですか」

 魔法を打ち砕く別のモンスターの一声。

 何故か旦那は大慌てになり、相沢氏は目を釣り上げて仇敵を睨みつけた。

「私が持つ女性観からいえば、私は女性の側が不利になっているとは思いません。むしろ女性にとって有利な社会であると思っています」

 音々はなんとも大胆な提言を持ち込んできた。隣ではカエルくんが小さな歓声を上げている。また俺の反論と同じだとかなんとか。

 そして当然これには相沢先生、激怒するわけだ。

「それが間違っていると言っているのです! いったいこんな差別社会のどこに女性にとって有利なものがあるというのですか!」

「結婚している女性は仕事をしていなくても何も言われません」

「はい?」

「ですが男性は色々と言われてしまいます。その点女性は有利なのです。働かなくても許されるのです。

 こいつ、まさか……。

 自分は仕事をしていない。だが誰からも何も言われない。ゆえに楽ができる。ああ楽ちん。

 そんなことを思っているというのか。だが、言われればなるほど、日本人はそこに何も違和を感じないような生き物である気がする。奥さんは、お母さんは、就労せずにずっと家の中にいても何の不思議もない国なのだ。そこが有利だ便利だとこの怠け者はのたまっているのだ。

 こいつが響と結婚したのも、もしやこれが狙いか。

 というか、こいつは物書きの仕事を「仕事」と思っていないのか。いや、前々からそんな感じはしていたのだ。趣味の延長くらいにしか思っていないのかもと。

 音々による女性有利の演説はまだ続いていた。

「女性は顔の造形の不満な部分を化粧という技術でごまかすことを許されています。これに助けられている女性は数知れないということは街を歩けば分かります。しかし男性はやはり許されていません。もし女性並みに化粧をすると奇妙な目で見られてしまいます。男性だって顔の造形の不満な部分はあるでしょうに。つまりこれもまた女性だけの特権ですね。とても有利な点であると私は思います」

 お顔を綺麗に見せるではなく、ごまかす、と言っている点に真実にしか目を向けない音々の特性が現れている。

 というかお前は街を歩きながらそんなことを考えていたのか。

 化粧の濃い相沢氏は、これに対しては何も言えなくなってしまった。言えば負けなのだ。

「おしゃれについてもそうですね。女性の方が割合多くの服を着ることが許されてます。外から彼女らを見ても違和感を持たない服装の割合が男性の場合よりも大きいということです。たまに私の妹が弟の服を着ていることがありますが、弟が妹の服を着ているのは見たことがありません。弟は肩身の狭い思いをしているのかもしれません。やはり女性の方が生きやすい社会のようです」

 すらすらと女性有利の点を挙げ連ねていく上機嫌の音々。

 弟が女装できない社会を音々は肩身が狭いと訳してしまうらしい。私はここでも笑いを堪えることになった。

「お兄ちゃん、ごめん、私スカートしか持ってなくて……」

 何故か泣きそうな顔で兄を見つめる妹。

「いや、似合わない俺が悪いのさ」

 なんだこいつら。

「力仕事も常に男性だけが駆り出されてしまう世の中ですよね。家で重たいものを持ち運ぶことがあれば私と妹は無条件で免除されます。私の部屋の本棚も全て男性陣に運んでもらいました。とても楽です」

 音々は思い出すようにこれを語った。

 なんだかこいつはさっきから自分の経験値から色々話のタネを引っ張ってきているような気がしてならないのだが、気のせいだろうか。ただ音々が自分で回想することに面白くなっているだけ、ということはないだろうか。

「た、たかだかそんなことで女性が有利な社会だなんて、あなたは……」

「戦争もそうですね」

 音々が事も無げに告げた。

「戦争!?」

「ええ。男性だけが出征し、男性だけが死にます。あるいは殺します。常にどこかで戦争が起こっている世の中です。これは女性にとってとても有利です。それとも先生は男女平等の精神を胸に抱き、剣林弾雨の激戦地に向かって殺人兵器を手に突撃したいとお思いですか?」

 これぞ音々の究極の客観視。

 まさか戦争にまで視野を広げるとは。フラットな視点というのは世界のあらゆる物事が考察の対象になってしまうのだろう。恐らく、そこには善も悪もないのだ。

 しかしやはり否定できることではないのだ。現にどこの国でも軍とは男性が圧倒的大多数を占めている職場なのだから。女性を兵士にしてはならぬという女性観があるとしたら、その根本は先ほどの力仕事の偏見と似たようなものなのだし、現実的な理由としては妊娠による兵役離脱を懸念して遠慮してもらっているというのが考えられるが、国家存亡をかけた戦争中でも遠慮なく産休を申し出ることこそ女性の権利を守ることだ、と言い切るバカはもはやお邪魔虫でしかない。

「私は、それでも女性が有利な社会であるとは思いません! あなたは先ほどから極論を並べているだけなのです!」

 どこか苦し紛れに吠える相沢氏だが、これはその通りである。極論だけで生きているのが音々なのだから。

 音々の言い分は。戦争に関しては実際に見たわけではないだろうが、見なくても分かることでもある。

 いわば音々の数々の体験談は生きた証言なのだ。

 それは女性が不利であると主張する相沢氏も同じことだろう。同じように見てきたもの、聞いてきたものに不満を感じ、それを本に書いたはずなのだから。

 音々の見聞と相沢氏の見聞。このどちらかが嘘ということはないのだ。

「先ほどからお話を伺っていると、すべて先生の意識の問題なのでは、というような気がしてきました」

 と、私が考えていたことを形を変えて言葉にしてくれた音々。

「なんですって?」

「私には先ほど述べたような女性に有利な女性観の方がよく目に付いてしまいます。実際に私は私が女性であることを利用して生きています。大変便利です。ですが先生は女性にとって不利な点ばかり目についてしまうようです。私にとってそれはどれをとっても新説でした。今でも先生の仰るような女性に対する不利な偏見があるとは信じていません。私が直面したことのないものばかりだったので」

 世間知らずの極致が何かを物申す。

「ということはですね、女性が不利だと女性は、女性の不利なところばかり目についてしまうだけ、ということではないでしょうか」

「なんですって?」

 相沢氏が再度驚愕の声を上げた。

「女性が社会的に不利であるというを先生は差別的な女性観と呼んで攻撃しているだけなのでは、と思ったのです。私は女性としてその不利と指摘されている点をまるで理解できないのです。何故なら私は世の中女性に有利なことばかりであると思い、それを利用して生きてきたからです。私はで先生は。要は女性一人一人が女性であることをどう思うかの問題で、私のように有利だと思っている人間には有利に見え、それをひっそりとほくそ笑むこともでき、不利だと思い込んでいる女性にとっては永遠に不利に見えるだけ、ということなのではないでしょうか」

 音々のこの長ったらしい文面を四字に約すと「被害妄想」となるのだろう。

「あなたは現実を知らない! 本当に苦しんでいる女性を見たことがないのです! 想像の中だけで語っているにすぎません! 女性のみなさんはあなたが思う何倍もの苦しみを耐えている……」

「それです」

 音々がいきなり指を差す。

「は、はい?」

 相沢氏は口を開けたまま固まってしまった。

 その心臓には綺麗なナイフが一本突き刺さっている。

「女性をそうやって惨めたらしめる。それもまたある一人の女性が勝手にそう思い込んでいる女性観の一つでしかないということです。その女性はどうあっても

 ここで音々はああと嬉しそうな声を上げた。

「きっとその女性は、女性が救済されるべき存在であることをそうやって主張したいのでしょう。いえ、そうやってしか主張できないのでしょう」

 それは疑問に思っていたことの解答をようやっと得られたかのような反応だった。

 

 女性救済を謳う相沢氏の主張の大前提には、その相沢氏独自の女性観があったというわけだ。

「このように一人一人に女性観はあるのです。ですからこれは一人一人の意識の問題でしかないのです。先生の女性観も何億分の一のものです。いちいち一つ一つ取り上げて議論するものでもないのですよ。本にまとめて全国に流布させるほど普遍的な考えでもありません。私は全然自分のことを不利だのかわいそうだのと思っていないし、そこのカンナさんも、妹も間違いなくそう思っていません。それなら私の意見の方がよっぽど女性全員に当てはまるものです。先生だって兵役と力仕事は免除されて、堂々と化粧をすることができているではないですか。めでたしめでたしです」

 胸にナイフが突き刺さったまま、相沢氏からの反論は出なかった。

 社会全体の問題ではなく、相沢氏一人の偏見。

 音々と相対すると自分では気付かない自分の先入観すら剥ぎ取られてしまうのだ。

それが相手のアイデンティティの一つであるとしても音々は容赦なく剥ぎ取ってしまう。音々が完全に正しいというわけでもないのに、何故か真実を暴かれた気になってしまうのだ。本人が気付かされる、という過程が何よりも大きな影響を生むのだろう。

 隣ではまたしてもカエルが小さく喝采を上げていた。これでツーアウトだとかなんとか言っている。

「しかし先生も不思議な方ですね。これほどまでに著書の中で女性の身勝手な面を浮き彫りにしてらっしゃるのに、口では逆のことを言う。何かお心変わりがあったのでしょうか」

 別に何ともない人間にカウンセリングのようなことをする音々。

「もしや、娘さんに説教でもされたのですか。お見受けするに娘さんは先生以上にしっかりした方でしたので」

 照れるぜ、と娘さん。

 音々の悪意の無い本音の急襲を受け、ようやく先生が自分の沸点を思い出した。

「あなたって人は! あなたこそ女性の敵です! あなたのような危険極まりない思想など排除すべきです!」

 元気を失っていた女が怒りで自分を取り戻したのだ。何をしても止まらずに全て壊し尽くすまで暴れ続ける怪物像がその姿と重なる。

「そうですね、続いてこれなんかどうですか?」

 烈火のごとき憤怒を見事に無視し、本を捲る音々。怒りを表明する人間というのは不思議なもので、相手がそれに対し反抗でも恭順でも消沈でもなんでもいいので、とにかく自分の怒りによる変化が生じていてほしいものなのだ。音々にはそれが一切ないものだから、怒った側がその強く踏み出した一歩の次の足のやり場に困ってしまうという、つんのめり現象が多々起きるのだ。そしてそれが今の相沢氏だ。

「シングルマザーの項です。ここに先生は大きくページを割いてらっしゃる。自業自得の最たる存在の生態を長々と説明されております。著書でこんなにも批判されてらっしゃるのに、それでも先生はそうではないと仰るのですか?」

「言うまでもありません! 私はこの国に溢れかえっているシングルマザーがいかなる艱難(かんなん)辛苦(しんく)を味わっているのか、それをこの国に生きる全ての人々に知ってほしいと思い大きく取り扱ったのです! あなたのような悪意のある見識でシングルマザーを侮辱することは私が許しません!」

 相沢氏は音々の言い分にはっきりと抗議を表明した。

はダメなんですね」

 音々からの、死角からの一言。

「は?」

「何の落ち度もない普通のマザーです。邪魔ですか? それは」

「なにを……、言ってらっしゃるの?」

「先生、もっとしっかりしてください。娘さんを見習った方が良いですよ。どんなことにも動じず、柔軟な思考をお持ちです。全然先生に似てませんね」

 文字通り言葉を失った相沢氏。

 華蓮ちゃんは「いやあそれほどでもありますよ」と照れ笑いを浮かべていた。苦笑いではないところが彼女の持ち味。

「普通の、マザー……?」

「ええ。シングルマザー優遇の社会になれば普通のマザーが割を食うのは当然のはずですが、それが分かりませんか? 待機児童にしても就職にしても、シングル保護だとかなんだとか言ってそっちばかり採用していると普通のマザーは常に後回しではないですか」

 音々が自分の脳内を説明した。

「普通に生き、普通に結婚し、夫君との関係も良好で子宝にも恵まれた何の落ち度もない女性が泣きを見る、あるいはそういう割合が高くなる社会を先生は望んでらっしゃるのですか?」

 音々の圧倒的客観視がここでも炸裂した。

 痛快の極みである。カエルが私の隣でその手があったかと感涙している。でも予想は大きく外れたとかなんとか言っている。

 シングルマザーの味方をする人たちは、およそシングルマザーのことしか考えない。シングルマザーの都合だけで改善を要求してしまい、それにより波及してしまう悪影響をあまり考えない傾向にある。しかし音々の言う何の落ち度もない普通のマザーはなぜその悪影響を被らねばならぬのか、それを説明せよと音々は言いたいのだろう。

 死角からの右ストレートを食らい顔面がひしゃげた相沢氏は、冷や汗を感じさせるような語気でへどもどと反論した。

「それは、別に、そういうことを言っているわけでは……。だからといって不遇の女性たちを放ってはおけないでしょう!」

「自業自得です。普通のマザーを苦しめる道理には至りませんよ」

「何てことを! あなたは最低です! 何て浅はかな!」

 ぱくぱくと呼吸しながら音々を指差す先生。普通のマザーを持ち出された時点ですでに彼女は敗北を喫しているのだ。

、シングルマザーはやはり邪魔な存在になるのですね」

「あなたは……!」

 絶句し、息を詰まらせる相沢氏。だが音々の弾倉にはまだまだ銃弾が残されている。

 お前こそ牙も角も火を吹く口も、止まることの知らないイカれた脳味噌も全て持ち合わせている真のモンスターではないか。

 私は悟った。モンスターを止める方法は理性を植え付ける伝説の魔法ともう一つあったのだ。それはモンスター以上のモンスターに食い殺させること。

「いない方がいいでしょう、あんなもの」

 シングルマザーに対するいっそ残酷なまでの物言いだった。

「あなたは……、本気でそう仰るのですね?」

 相沢氏は震える声でそれを質した。

「もちろん本気です。シングルマザーなどいない方が世のためです。先生はそのことを御存じないのですか?」

 ここでも音々は冷酷なまでにそれを告げるのだった。

「人でなし」

 どこか厳かに相沢氏が発した。

「あなたは人でなしです。許しがたいクズです。もうあなたの声など聴きたくありません」

 それは怒りですらない相沢氏の感情だった。顔面蒼白になっている。

「相沢先生」

 ここでまた存在感を消していた夫が割り込んできた。さすがに愛する妻を人でなしと呼ばれて黙ってはいられなくなったか。

 この響の呼び声に相沢氏が素早く反応した。

「夢路さん。世の中にはこういうおかしな考えを持った異常者がいるのです。何を言っても聞きやしない。自分の凝り固まった思想に囚われ、周囲に迷惑をかける愚昧な存在が」

 瞳の中にメラメラと怒りの火を燃やしながら響にそれを訴える相沢氏だった。私は誰のことなのだろうと考えていた。それと、この人の中ではどうやら響は完全に自分の側の人間ということになっているらしい。

「いいえ、相沢先生。彼女はきっとこう言いたいんですよ。シングルマザーなどいない方がいい」

「夢路さん?」

 裏切りに遭ったような驚愕の色を浮かべて、相沢氏は響の顔を覗きこんだ。

「つまり、シングルマザーありきで事を考える世の中を彼女は想定していないんです。そもそも女性にとってそんなポジションなど無い方が不幸が減るだろうという意識です。僕らにはちょっと無い視点ですよね」

 一億時間に一分間だけ頼りがいのある男に変身する男の、その一分間が今やってきたようだ。

「そうですよね? 音々さん」

「そう仰ったつもりでしたが、一体他にどのように聞こえるというのでしょうか」

 ポカンとする相沢氏。夫婦の間だけで理解があったようだ。

 音々が続けた。

「シングルマザーなどというものが大半幸福に見えないというのは、誰から見ても均等な事実であると思います。私もそう思います。ならば初めからそんなものにならなければよいと思うのは必定ではないでしょうか。それとも、もしかして世の女性の方々は、幸福追求の選択肢の一つとしてシングルマザーを目指しているとでもいうのですか? 仕方なくそうなった人がほとんどだと私は思っていたのですが」

 それが音々から見た「シングルマザー」だったわけだ。思わずなるほどと納得したくなる。

 アレは不幸に見えるので、避けて通ればいい。音々以外にこの当たり前の視点を有している人間がこの国にはいない。少なくとも姿が見えない。

「音々さんは、シングルマザーの増加傾向やその存在を社会がすでに認めてしまっていて、それを前提に対策を講じていること自体に疑問を持っているわけですね」

「だって、いない方がいいじゃないですか。本人は不幸なのだし子供にとっては良くない環境であるし、社会にとっては邪魔だし迷惑です。世のシングルマザーたちがそのことに気付きながらわざとやっているとしたら、それはただの社会悪です」

「社会悪……!」

 相沢氏が驚きの声を上げた。そうか。この人もまたシングルマザーだった。

「だって」

「だって」

 兄妹が同時に姉のその言葉遣いを気にしていた。

「お姉ちゃん子供になってるね」

 旦那の前で、ということだろう。美琴ちゃん、やけに嬉しそうじゃないか。

「音々さんはきっと、変わらなければいけないのは支援の仕組みや法律や国民全体の意識といった社会の側の何かではなくて、これに関してもやはり女性の意識の方だと言いたいんですよ。それは先ほどからずっと一貫している音々さんの主張のように思えます。そうですよね?」

 旦那が妻に問いかける。

「はい。女性がみな完全なる聖人君子で聖母で正義というのであるならば、社会全体が彼女たちに合わせて変化していくのもいいでしょう。ですが絶対にそうではありません。たくさんの至らぬところを持った人間のことです。社会の側に十割原因があって女性が不幸になっているのならそれは変えなければいけませんが、それも絶対にそうではありません。自分たちの意識を変えるだけで済むかもしれない小さな問題だというのに、何故自分たちが変わろうとするのを避けるのかがよく分かりません」

 いつものことながら、何でもないような顔で核心に迫る音々。たしかにそういった意味では音々の主張は一貫している。

 これはこの国全体でそういう傾向があるのかもしれない。女性の意識が変わらないうちは絶対に解決できない問題に際し、何故か社会の側を俎上にあげてしまっていることが多いのだ。相沢氏を筆頭に。

「シングルマザーの問題も同じく女性側の意識の問題だということですよね?」

 水を得た旦那が音々に確認する。

「そうです。貧困に喘いでいるシングルマザーをどうにかするのではなく、貧困に喘ぐことになるであろうシングルマザー候補をこれ以上増やさないような対策を講じるべきであり、その為に必要なのは社会の仕組みを変えることではなく、シングルマザー候補となる低年齢女性の意識の方を変えるべきだということです。元栓をいじるか小手先をいじるかの問題で、この国は何故か小手先の方ばかりいじくってきたのです。結局のところ何も変えられないそれをです。変えても無駄な小手先を変えることで何故か女性の側も納得してきたのです。いえ、それとも元栓に目を向けられることを避けていたのでしょうか……」

 音々にこう坦々と指摘されると、ものすごく当たり前のことを聞かされている気になるのは私だけではあるまい。

 音々は本当に当たり前のことしか言っていないのだ。

 それでもその「当然」はこれまで誰も持ち得なかった視点であり、指摘のはずなのだ。にもかかわらずこうして既視感を抱いてしまうほどに「当然」の帰結と感じてしまうのは、そうはなっていない現状がいかに不健康で歪んだ社会なのかを自然と体感してしまっているからなのだろう。

「音々さんの主張を補足するとこういうことになるのだろうね」

 乗りに乗っている旦那が妻の秘技を踏み台にしてきた。

「音々さんの言う元栓というのは無論女性の意識そのものであり、シングルマザーになりがちな女性の意識というものはある程度統計が取れるものでもある。結婚相手のことをよく知りもせず、結婚にこぎつけられるならそれでいいからと安易に選んでしまう。あるいは焦燥感に駆られ、年齢に追われ、情愛に流され、状況に迫られ、つまりは生き急いでこれを選んでしまう。これらの浅薄な意識の方をまずは改善すべきではないのかと、音々さんは言いたいのでしょう」

「はい。女性は社会の側から生き急がされる存在であると相沢先生は主張しておられますが、に強制も強要もありません。それを気にしない子供を男女ともに醸成する教育の改変の方が重要であり、支援の拡充を図る法整備などという事後の対策に傾注しても何も変えられません。シングルマザーが今後も発生することを前提とした終わりなき愚策であると私は思うのです。資金が湯水のごとく延々と投入され、割を食う無辜の人が延々と発生し続ける。まさに愚策です。元々そんな厄介な存在を発生させなければ誰も不幸にならないと思うのですが、何故この国は小手先をいじることばかりしたがるのでしょうか。まさか、そこに何か私の知らない旨味があるのでは……」

 無い。無いって。無いですよね、政治家の皆さん。それと、いじられると己の愚かさに気付かれる元栓のみなさん。

 それにしても、シングルマザーなど不幸であるので存在しない方がましであるというこの小学生でも分かる理屈。音々だけが持ち前の単純無比な視点でそれを見切っていたのだ。

 一方、相沢氏はシングルマザーの存在を許容した上でそれを保護すべきだと主張している立場だ。

 無論、音々の言い分通りに女性の側にほとんど原因がある、ということはない。行政の政策や時代背景、男性の側が原因である場合がきっと原因の半分以上であろう。それでも女性の側にも何か原因があるのではないかという程度のこと。

 とはいえ音々の暴論は相沢氏のような女性崇拝の権化の、そのガッチガチに凝り固まった意識にメスを容れるくらいの効果ならあるのだ。

「相沢先生の主張には明らかな見落としがあります」

 段々と活力を取り戻してきた響が今度は相沢氏に向かって言う。

 愛しの夢路さんに何かを指摘された相沢氏はまたしても信じられないようなものを見た目をしているのだが。

「見落とし……?」

「ええ。先生の著書ではシングルマザーはみな苦しんでいるという論調が一貫してあります。少なからず不幸になっているので助けてくれという訴えも一貫しています。もし本当にご自身にもシングルマザーとして苦しんだ経験があり、それをよりよい社会の為に生かそうとするのであれば、そもそもそんなものにならないように気を付けるべきという訴えの方が優先されるはずではないでしょうか。なのに先生は女性全体がそういう受難の存在となることを許容した上で論じているのです」

 相沢氏を見据える響の目が血走っているように見えるのは気のせいか。

「兄貴のやつ、この機に乗じて鬱憤を晴らしにきているな」

 義弟が何かを看破する。

 どうやらあの男には相沢氏に対し面と向かって言うことができずに溜め込んでいた反論があったらしく、それを音々の攻勢に乗じ、今ここで解き放つつもりらしい。卑怯者のヘタレ野郎である。

「シングルマザーと呼ばれる存在がみな仕方のない理由で不遇な立場になっているかというと、そうではない気がします。伴侶となる男性が全員裏切る世の中でもないでしょう。何かしら女性の側にも問題があるのは確かなはずです。不景気や男性の倫理違反だけでこれほどまでに短期間でシングルマザーというものが世を席巻するはずがありません。必ず女性の側にも問題はあるはず。どうしてそりの合わない男性を選んでしまったのか。色々と知った上で結婚を決めたはずが、思っていたのと違うからと別れてしまったのはどうしてか。そもそも自分が異性と共同生活するということに性格的に向いていたのか、向いていないのなら、やはりどうして結婚してしまったのか。女性の側にだってきっとシングルマザーになった原因はあります。それなのに論じられているのは社会批判か男性批判のいずれかしかないのです。目を背けたいことでもそれが真実であるならば真っ直ぐに受け止めるべきであると、僕は社会学者としてそう思います。それこそが唯一本当の解決につながる道であると僕は信じてます。社会学者として」

 響の口はよく回った。やたらと社会学者を押してくる。私たちが来るまで社会学者として何もできなかったことが想像できる。

「兄貴の目が……」

「え? 何?」

 私はカエルが何か言うのを気にしていた。

「兄貴の目、瞳孔がガン開きで瞬きを一切していない。俺と同じだ!」

 そう。二人ともお大事に。

「女性側の意識の向上で未来の不幸を回避できるということです」

 制御装置の壊れた響はボルテージを上げて演説を続けた。

「男性側の改善にそれを委ねるのではなく、自分たちの力で幸福をつかみ取ろうという姿勢です。そしてそこに訴えかけることの方が事後の対策よりも優先されるべきだと、きっと音々さんは言っているのです。消火よりもまず防火ということです。しかし『未来への不安』にはその事前の対策に言及した記述はどこにもありません。先生は無鉄砲な女性優遇というただ一つの視点からしか語っておられない。そんなことではいけません。そんなことでは解決できるものも解決できなく……」

「いい加減にしてください!」

 相沢氏が一喝し、響が黙った。顔が青ざめて、完全に口を閉ざしている。今の一瞬で。

「夢路さん! あなたが女性に対しそんなひどいことを言う方だとは思ってもみませんでした! 正直見損ないましたよ! なんですか、まるでシングルマザーが不幸なのはみな女性の落ち度だといわんばかりのあの言い草は! 夢路さんといえど、これには一切同意することはできません!」

 怒髪天のモンスター。一度殺されたはずが、怒りで彼女は復活するらしい。

 そして響からの反論はなかった。おそらく、彼はもう呼吸していない。彼の出番(ターン)はもう終わったのだ。あの情けない顔が全てを物語っている。

「あーあ。せっかく俺が考え出した意見だったのに……」

 カエルが残念な声を出した。敗北宣言である。

 この微妙な空気感を切り裂いたのは、機を窺っていたであろう娘の声だった。

「お母さん、どうせ自分のことが大事だったんでしょ」

 それはしっかりとした呆れ口調のカレンちゃんの声だった。お母さんがピンチの時でもどっしりと構えているしっかり者の娘さんだ。

「カレン……?」

「自分もシンママじゃん。だからシングルマザーになったらダメなんて言えなかったんでしょ。自分の人生否定することになっちゃうからね。それを避ける為にもまずはシングルマザーという存在を認めないことにはどうしようもなかったんでしょ。そりゃ、お父さんとそりが合わなかったってのもわかるし、結婚焦ったことにも同情するけど、結局お母さんの感情優先で先走っちゃって、言葉を持たなかった幼い私に断りもなくシングルマザーになるって決めちゃったってのは言い訳の通用しない罪だと思うよ。そこツッコまれると何も言えなくなるんでしょ。シングルマザーになったのは半分あんたが悪いんでしょって指摘されると何も言い返せないもんね。どうして離婚することになるような人を選んだのか。夫が浮気したわけでもないのに離婚したのはどうしてなのか。離婚すればお金にも苦労するだろうし、一人で全部背負わなくちゃいけなくなることを分かってたくせに離婚して、後になってぐだぐだ文句言ってるのはどうしてか。娘のために我慢することよりも、旦那が合わないからっていう自分の感情を大事にしまったのはどうしてか。他にもいっぱいあるよ。どれもこれも否定できないでしょ。てか今みたいに逆ギレするのが関の山でしょ。そのくせして社会にあれこれ偉そうに被害者ぶって要求するのって、みっともないって。それもさ、シングルマザーってみいんな、小さい我が子を人質にして社会に訴えかけてるんだよ? この子がカワイソウじゃありませんかって。大人たちを黙らせるそんな最低の方便使ってさ。確かにカワイソウねその子供は。だって、私はすっごく嫌だったから! ずっと!」

 痛烈に、ぐうの音も出ないやり方で母親を批判した自称カワイソウな娘。

 論旨自体は響がさっき言っていたのと何も変わらない。だが娘のこの反撃に対し、響の時とは違い、母親は反攻に出るでもなくただただ狼狽するばかりだった。

おそらくカレンちゃんは普段からこういう機会を狙っていたのだろう。そこで飛んで火に入る我々を利用したわけだ。さすがしっかり者の娘さん。表情も実にすっきりしている。

「兄貴のときは反撃してきたはずなのにな」

 またカエルが嬉しそうに何か言った。

「娘が言うと通用するのか。いや、この世で娘しか効果が無い言葉だったのかな。それにしても兄貴は全然ダメダメだな」

 これも何故か嬉しそうに言う。

「それと、もう一つ忘れてはならない視点として、この国はどうしようもないくらいの少子社会だということがあります」

 哀れ無残な社会学者が義弟の言葉をかき消すかのように声を張り上げ、真面目ぶって弁舌しようとしてきた。

「あえて乱暴な言い方をすると、女性が不幸なことになろうがシングルマザーが急増しようが、とりあえず女性たちに子供を生んでもらわないと国そのものが成立しなくなってしまう切羽詰まった状況が厳然として存在しているということです。そんな時代に女性の側に慎重になってしまわれると国としては大いに困ってしまう。そうなってしまうと当然、いや必然、子供の数は少なくなってしまうのだから。男選びに失敗してもいい、生き急いだ選択のせいで不幸になってもいい、とにかく子供を生めという社会なのです。それだからシングルマザーというポジションを世間も国も認めてしまっている。不平等だろうがなんだろうが保障も支援も進んでいる。これではまるで国のために子供を生んでもらう生贄のようなものです。このままだと女性が安易にシングルマザーとして生きることを選んでしまえる社会にもなってしまうのです。なぜなら、どうせシングルマザーは保護され、支援される立場であると認知されてしまうからです。それだと子供の数は増えますが、生贄に供される女性もまた増えることになってしまう。しかしながらそれらの保障を全て取っ払ってしまったら、近い将来子供の数など激減してしまうかもしれません」

 響の言う通り、シングルマザー保護の風潮の根っこには常に少子化という問題が横たわっているのだろう。誰もそのことを公言しないのは、子供の数が必要だからお前らの禍福は知らんけどとにかく生め、などと言うと倫理的にアウトだから。これはひっそりと進めるしかない政策なのだ。

「なるほど。国は子供が欲しい……」

 夫のまとめに妻が何やら納得している。

「経緯はどうあれ、子供の数を確保したいからシングルマザーは優遇されているということですね。なるほどなるほど。ということは、女性などやはり子供を生むことしか価値のない道具ではないかという古くからの偏見とイコールになってしまいますね。

 出た。

 音々の最終奥義。

 相手の中に矛盾点を生み、あるいはそれに気付かせ、内側から爆発させる矛盾爆弾。

 爆炎が燃え盛る中、音々の独り言はまだ続いた。

「これは相沢先生の著書からの引用なのですが、子供を生むことは素晴らしいと、女性全体が本気で思っていた時代が連綿と続いてきたようです。昔は今以上にそう思っていたようなのです。ですので、それが可能な女性のその機能を社会も女性たちも重要視していたということです。ですが今はそれが女性たちの足枷になっていると先生は仰っています。しかし、本当にそうでしょうか? 女性として有用なポジションを確保できて、かつそれが社会にとって家族にとって最も必要不可欠なポジションとして認識されてきたのです。それはそれで女性として間違いなく幸せだったのではないでしょうか。それを女性が子供を生む道具扱いされているだのと、よく分からないことを言うようになってしまったのは。女性に自由選択の権利をとシュプレヒコールを上げているくせに、そっちの幸福を選択することを許していないのは、一体どういった了見なのでしょう」

 二つめの矛盾爆弾が爆発した。

 これも実のところ、女性の数だけ女性像が乱立しているという先ほどの音々の言い分に帰結する話ではないだろうか。

 子供を生むことは何よりも素晴らしい、と昔の女性が言った。

 だがあまりそればかり言わないでほしい、と現代の女性Aが言った。

 でも出産に関することは社会全体で後押ししてほしい、と現代の女性Bが言った。

 しかし女性の選択肢として子供を生むということは最優先ではないということを分かってほしい、と現代の女性Cが言った。

 矛と盾がいくつあっても足りない。女性像の乱立。

 これらを踏まえて私がたどり着いた結論が……、なるほど。笑ってしまうな。

 

 音々が『未来への不安』を読んだ感想と同じではないか。西に進もうが東に進もうが、結局辿り着く先はブラジルでしかないわけだ。ブラジルがそこから動かない限りそれは絶対に変わらないことなのだ。元栓の正体がそこにあるというだけ。

 同時に私はがたくさんいることも知っている。『未来への不安』に出てくる各種女性像とは何ら関係の無い女性たちがこの国には大勢存在しているのだ。女性人口の大半が実はであると私は考えている。いわゆるサイレントマジョリティとか呼ばれている正当なる声無き大集団のことだ。この国の平和は常にそのたちが作り上げているのだ。彼女たちは何も問題を起こさないから目立たないだけで、実はあちらこちらに存在しており、誰に見られているわけでもないちょっとした親切をしながら生きているだけの善良優良物件なのだ。正義の味方が優先して守るべきは彼女たちの方ではないのか。この国の真の、そして最高の女性像がそこにあるのだ。

 がんばれ、そうではない女性たち!

「では響さん。これはお返しします」

 持っていた『未来への不安』を旦那に返した音々は、亡霊のような相沢氏の方に向き直り、こんなことを言った。

「それではモンスターペアレンツの取材を開始したいのですが、よろしいですか」

 あまりにも平然としたその声に、全員度肝を抜かれた。

「しゅ、取材?」

 震える声でなんとか訊き返す半死人の相沢氏。

「はい。その為に来ました。確認は不要かもしれませんが、相沢先生はモンスターペアレンツでいらっしゃいますよね?」

 坦々としたその確認。音々にとっては予定していた仕事であるし、作業なのだ。

 この様子を見た周りの人間が後に「死人に鞭を打つ」という言葉を生み出したのだろう。その意味は、死人にも坦々と鞭を打つ異常者は怖い、だったっけか。

 やはりモンスターを止めるのはモンスターを上回るモンスターに他ならないのだ。

 とにかく、せっかくの音々の暴走も相手が死んでいる以上私にとっては面白さ半減になってしまうので、ここで止めようかと思った。

「はいはい、音々。今日はもう終わり。取材は中止」

 私は柏手を打って音々の注意を惹きつけた。

「中止ですか?」

「うん、そう。だってもうモンペの取材も終わっているようなものだから」

 私は本気でそう思っていた。モンペとして聞き出したかったことはもうとっくに聞き出せている。

 別の場所で暴れていただけの、同じ怪物がいただけなのだから。

 社会問題の元凶となる人々はきっと共通しているのだろうと私は思うのだ。カテゴリーに分けて考えるより様々な問題の元凶となる個人を掴まえた方がよっぽど世直しになる。

 私の言い分が届いていないのか、目をパチクリさせてこちらを見ている音々。

「てなわけで、もうおうち帰れるよう」

「ではそうしましょう」

 意外なくらいあっさり引き下がりやがる。マジで仕事したくないのか。

「……ないくせに」

 背を向けようとした破壊神に、顔を俯けていた死人が吐き出すような、押し殺したような声をぶつけた。

「結婚もしたことないくせに……、子供を持ったこともないくせに……」

 音々は振り返り、目をパチパチとやった。

 そのタイミングで相沢氏は射殺すような目を持ち上げた。

「いいわねあなたは! こんなに美人で! まだ若くて! 手に職もお持ちで! 小説をお書きになってらっしゃるのなら、お金も相当持ってるんでしょう! でもね」

 またしても怒りで復調してゆく相沢氏。

 我が子による説得も無意味で、真のモンスターによる圧倒的破壊でバラバラにされても止まらないとは。

 それでも音々は丸い目を向けてじいっとしているのみ。

「結婚もしていない、子供もいないあなたに女性の苦労なんてわかりゃしないのよ! あなたにはそれを語る権利なんて微塵もないの! 子供のいない独身女性なんて楽して生きているだけよ! そんな女の意見に耳を貸す人なんて一人もいないわ!」

 死に体で立ち上がってきたゾンビ。死してなお面倒な女はどう退治していいかも分からない。すぐ近くで華蓮ちゃんがマジで恥の上塗りと嘆いていた。

 この傍若無人の怪物に理性を植え付けるには……。

「相沢先生、感情任せになるのはやはりまずいですよ」

 響が相沢氏の無謀な暴走を止めようとした。相沢氏は振り返り、睨むような、懇願するような目を響に向けた。瀕死の状態ではあったがその目だけは血走っていた。

「感情的になった時に良い結果を得られる人などあまりいません。これ以上先生が傷付く必要はないです」

 優しげなその声。

 案の定、相沢氏の目から鋭さが消えた。すっぱりと消えた。あの形相はなんだったんだというくらいハッキリと消えたのだ。

 この時の相沢氏の極端な変化を見て私は確信した。やはりそうか。

 化け物に理性を植え付ける伝説の魔法、その正体、それは……、

 ――男。

 もっと正確に述べるならば意中の異性。

 しかも彼女は何故か、自分が見初めた異性は自分のことも認めてくれている、分かりやすく言えば自分の味方をしてくれると思い込んでいる節があるのだ。だからこそ理性を植え付ける魔法にもかかりやすいのだろう。催眠術にかかりやすい体質とそうでない体質があるのと同じだ。要するに思い込みの激しさだ。間違いなくこの女のそれは群を抜いている。むしろ『未来への不安』からして彼女の思い込みの激しさを説明しているだけのものだったのかもしれない。本日ここで私が耳にした話を総括すると「思い込みの激しい女は損をする」ということになりはしないだろうか。

「夢路さん。取り乱してしまって申し訳ございません。わたくしはただ結婚し子を生むことの苦労をそうでない女性の方にも分かってもらいたかったのです」

 今にも泣き出しそうな反省めいた表情で相沢氏が響に言い募る。

「大丈夫ですよ。相沢先生の情熱はちゃんと世間に伝わってますよ」

 優しげな表情で真正面から思い込みの激しい女の声を受け止める響。やはりこいつは甘っあまの甘王である。

「ありがとうございます。夢路さんにそう言って頂けると救われます」

 微笑をたたえ、真っ直ぐに甘王の目を見つめるアラフォー女。完全に先程の憎悪と憤怒が消え失せている。伝説の魔法の効き目は抜群なのだ。響がそばにいる限り彼女は理性を保ち続けることができる。

 だがその時だった。

「響さん」

 悪魔の呼び声。

 音々は目をパチパチとやった後、旦那の方に顔を向けた。

「私は結婚していなかったのですか?」

 これは相沢氏の先程の糾弾を受けての疑問なのだろう。事情を知らない人からしてみたら謎の質問である。おそらくは婚姻届を出してはいなかったのかという意味だとは思う。

「子供もいるのではないですか?」

 これもまた謎の質問である。保護下、養育下の者という意味できょうだい間でも子供という言葉が適切かどうか判断しかねているということだ。

 これに響が照れ臭そうに答えた。

「はい。音々さんは結婚しています。子供も二人います」

 この言葉で相沢氏は心臓が止まったような悲劇の表情を浮かべた。音々のことを結婚もしていない子供もいないと見下していたのだから当然である。

 そしてその目は何かを訴えるように響の顔に注がれていた。

 何故あなたがそれを知っているの――?

 その視線に気付いた響は何を勘違いしたのか、人当たりの良い微笑を浮かべ、何の気なしにこう音々を紹介したのだ。

「そうです。彼女は僕の妻です」

 手の平で音々を差しながら、坦々と、何の悪びれもなく。鈍感の化身である。

「は? は!?」

 目ん玉が飛び出るくらいに相沢氏が目を見開いた。本当に驚きだったのだろう。その様子を見て娘がクスクスと笑っているのだが。

「妻? つま? じゃ、夢路さん、ご結婚は……?」

 放心状態で言葉を探している相沢氏。遠目で見ても目の焦点が合ってない。

 そんな相沢氏の様子に気付いていないのか、またもや何の気なしに響が答える。

「とっくにしてますよ。あまりそういうことを知られたくなかったので、関係者以外には話してないのですが」

「でもでも、指輪、してらっしゃらない」

 容量を超えた驚きの中で、何故か相沢氏はそのことを気にした。

「やっぱり目ぇ付けられてたんだ、兄貴」

 カエルがやけに楽しげに言う。

「こんなタイミングで指輪のことを訊くってことは、案外一番気にしてたことなんじゃない」

 妹も同意する。

「目ざとっ。そしてあざとっ。お母さん」

 華蓮ちゃんもまたやけに楽しそうなのはどうしてか。

「指輪ですか。なんか女性に対して首輪付けさせてるみたいで、僕はいやだったんです。妻が自分のものみたいなのが許せなくて」

 頭を掻きながら情けなく返答する響をその妻はじいっと見つめていた。

「響さんが言えばつけますよ?」

 覗きこむような目で男にそんな提案を述べるコイツは生粋の小悪魔だと思った。事実夫は顔が朱に染まってしまいバカさ加減を増している。その朱色こそが、二人の間には他の異性など立ち入ることができないことの目に見える証拠なのだが。相沢氏も刮目すべきではないだろうか。

 下手くそなさりげなさで、相沢氏は音々の左手をチラリとのぞき見た。当然音々の薬指は束縛無き自由の身である。

 そしてその相沢氏の盗み見に気付いた響が説明を付け足す。

「もちろん、結婚指輪自体はありますよ。結婚してるのは嘘じゃないんです。ええと」

 どうにかして結婚していることを相手に知ってほしい響は、ここで義弟と義妹の方を照れながら振り返った。

「妻の弟と妹です。彼らの親は亡くなりました。だから僕らが今の彼らの親です」

 少し誇らしげに二人を指し示した響。

「まあ、そう、だったのですか」

 ほうほうの体(てい)で了承の姿勢を見せる相沢氏だったが、もはや魂が抜けていることは確実だった。何か大事な希望が失われたような感じに見える。

 音々も本能でそれを感じ取ったのか、今度ははっきりと背を向けて帰ろうとした。それを響が追った。少しだけ、抜け殻となった女を気にしながら。だがしっかり者の娘が入れ違いにその女に近づいていったので、まあ大丈夫だろう。

「はいはい、お母さん、もう大丈夫だから」

 死に体の怪物を介抱する娘。

 相沢氏にはもう牙も角もないし火も吹けない。これから少しずつ人間に戻っていくのかもしれない。何故なら私は知っているからだ。伝説の魔法は最初から娘にも使えたということ。それを使わなかったのはきっと、使えるかどうかは状況と条件次第だからなのだろう。そしてその状況と条件が一番厄介なのだろう。

 弟らに近づいた音々は事実を確認するかのようにこう言った。

「お二人は私の子のようです」

 どこか嬉しそうでもあった。

 二人は照れているのか音々をバカにしているのか分からないような微笑を浮かべて目を合わせた。そして口々にこう言った。

「姉ちゃんは普通のマザーでもシングルマザーでもない新種のマザーだよな」

「クレイジーマザーよ」

 親しみのこもった呼び名ではなさそうだ。

「私への悪口は響さんに習ったのですか?」

「音々さん。僕のこと極悪人だと思ってません?」

 後ろから響が声をかける。

「普通以下のファザーだ」

「冴えないファザーだ」

「みなさん、僕のこと底辺の人間だと思ってません?」

 音々が振り返り、夫の顔を見る。

 少し笑っていた。

 ああ、笑ってやがると思った。

「家族四人いますね」

「あ、ホントだ」

「じゃファミレス行こうよ。お姉ちゃんファミレス好きだから」

「行きたいって顔、してるもんな」

「あ、ホントだ」

「音々さん、初めからそういうつもりだったんでしょう」

「行くというのであれば、早く行きましょう」

「俺たちが行きたいみたいなことにされちまった」

「それじゃあ行こうか。美琴ちゃん勉強はいいの?」

「普通以下のファザーさんはいちいち野暮ね」

「カンナさんも一緒にいかがですか?」

 微笑の音々が訊いてくる。

 この部屋の中に二組の家族がそれぞれに固まっている。

 私にはそのどちらも理想の形に見えた。

 私も一緒に?

 行けるわけあるか。

 次回作も面白くなりそうだ。

                                    ―了

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

怪物の冒険 @ak5051

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ