黒髪の背中

柴田 恭太朗

撃ちたい黒髪の背中

 場末のバーの店内には男の他に客はない。かすかな音量で流れる古くさいジャズ音楽のほかは物音すらしない。カウンターの中のバーテンダーも男に話かけるそぶりもみせず、柔らかい布を手に黙々とグラスを磨いていた。


 男の名は東堂とうどう。もちろん本名ではない、コードネームである。彫の深い横顔と太い眉、それに長いまつ毛の大きな瞳。彼を一瞥した者に日本人ばなれした印象を与える美丈夫ナイスガイだ。


 伸ばしたつややかな黒髪は背を流れて腰まで届き、女性がうらやむほどの白くなめらかな肌をしている。長い髪と端正な顔立ちは女性的ですらあった。が、鍛え上げ、引き締まったボディは男性のそれそのものであった。東堂が愛用するスーツはイタリア製。一見、彼の鋼の体躯にフィットしているものの、詳しい者が見れば脇のあたりの布地がそれと気づかれない程度に膨らんでいることに気づくはずだ。彼は脇のホルスターにP365を吊っていた。P365はシグザウエル社が開発したコンシールドキャリーハンドガン。小型の拳銃ハンドガンだ。


 東堂の手には琥珀色のバーボンで満たされたクリスタルグラス。彼は氷を浮かばせたバーボンを楽しむでもなく、ただ一人ゆるやかにグラスを回し、もの思いにふける。東堂は人を待っていた。


 ◇


 若者は人を待たせていた。合成革の安ジャンパーを引っかけて、霧雨の降る新宿の裏道を小走りに抜けてゆく。茶髪の若者は十代半ばを超えたぐらいか。路地の水たまりをバネのきいた脚で飛び越える。ときおり生意気そうに口もとをゆがめるが、幼さを残す黒目がちな瞳は年齢を隠せない。


 若者の名はケンジ。コードネームに姓は不要だから、ただのケンジ。ケンジがジャンパーの下にひそませた獲物はリボルバー、小型軽量のスタームルガーLCR。どうせターゲットの背中に押し付けてトリガーを引くのだ。命中精度なんてはなから気にしていないし、弾は小口径の.22LRでいい。肋骨の間から心臓に向けて全弾撃ちつくす、それであの世へ旅立たないヤツは一人もいなかった。


 裏道を抜けると丁字路にでた。ケンジは突き当たりの雑居ビルに張りつき、目でビルとビルの間の隘路を探る。暗がりの中で非常階段はすぐに見つかった。サビの浮いた金属のステップを踏み、野生動物の素早さで駆け上がる。柔らかいゴム底のスニーカーは、耳ざわりな音を立てなかった。ケンジのしなやかな動きはターゲットに悟られることなく、背後へと回ることができるだろう。

 ケンジはましらの敏捷さで目的の階に達する。彼は口もとをゆがめ、犬歯をむき出し、ターゲットが待つバーの扉にそっと手をかけた。


 ◇


 扉の向こうでグラスが割れる音がした。「申し訳ございません」と丁重に詫びるバーテンダーの声。手がすべって、磨いていたグラスを落としたのだろう。


――だが、それは予定通りの合図。


 バーの重厚な木製扉をそっと押し開ける。扉のすき間から、バーのカウンターに向かい、高いスツールにかけた黒髪の男が見えた。上手い具合にヤツはこちらに背を向けている。銃を片手にドアを開け、中へスルリと忍び込む。足音はクッションの効いたじゅうたんが完璧に吸収した。ヤツの背中はすぐ目の前だ。広い背を滝になって流れる艶やかな漆黒の髪。間違いようがない。ターゲットの東堂である。


 バーテンダーは事前に示し合わせた通り、落としたグラスを拾う振りをして床に伏せている。ここから東堂に銃弾を浴びせかけて、すぐさま終わりジ・エンドにしてやってもいい。だがしかし、できることならあのひとすじの乱れもない髪の中へ、できれば生きたままの髪の感触を楽しみつつ銃口を背中に突き当てたい。しっとりとした生命感にあふれた髪をかき分けて、銃口をヤツのスーツの背にこじり、上等な布地に押しつけながらこう言うのだ。


――手を挙げろマヌケ、と。


 ああ、なんという陶酔。優越感という名のエクスタシー。

 いま東堂黒髪の命は、この俺の手の中に握られている。


 空想を実行に移す。俺が片手の銃を東堂の背に押し付けようとした瞬間、右ももに熱い衝撃があった。続いて左ももにはじかれたような衝撃。


 見れば、東堂は俺に背を向けたまま、いつの間に取り出したのかシグザウエルP365を片手に握りしめていた。後ろ向きのまま、器用に銃口だけをこちらへ向けて撃ったのだ。身じろぎひとつすることなく。


 どうしてこうなった? 勝ち誇る立場から急転落した俺は、大いに混乱しあたりを見回す。カウンターのガラスの中に東堂の鋭い眼差しがあった。からみ合う俺の視線とヤツの視線。すべてを悟った瞬間、俺の眉間は東堂に撃ち抜かれていた。俺の姿はバーに入ったときからずっと、ヤツにはまる見えだったのだ。マヌケは俺の方だ。東堂黒髪には最後まで勝てなかった。


 ◇


 バーの中で銃声がした。始まったようだ。

 非常階段で待機していたケンジは、ふところのスタームルガーLCRを取り出すと、肩で裏口の扉を押し、バーの中へと侵入する。


 カウンターの向こうに黒髪の東堂、カウンター手前の床でうごめくバーテンダー。

 状況を瞬時に察し、ケンジはバーテンダーの背にスタームルガーLCRの銃口を押し当て、全弾発射する。パンパンと乾いた音が8回響いた。ケンジは背を赤く染めて絶命したバーテンダーを、足で転がし仰向けにする。バーテンの手には消音器サイレンサーを装着したベレッタM92Fが握りしめられていた。


「おっとー、ベレッタじゃん。でっかい銃だな、いまどき流行はやんねーよ」

 ケンジが手にした小型軽量のスタームルガーLCRと見比べながら、吐き捨てるように言う。

「ケンジ、オーバーキルやりすぎ

 グラスのバーボンをすすり、東堂がケンジの行動を評価した。

「へいへい。で、俺は合格ですか?」

 東堂は新入りのケンジが使えるかどうか、つまり自分のバディとして務まるかどうかを試していた。良いタイミングで、東堂をつけ狙う暗殺者の情報たれこみがあり、敵対勢力のバーテンダー先兵とともに葬ったというのが本事案の概要だ。


「私をおとりに使うとは、いい度胸だ」

 今回のプランを立てたのはケンジである。

「東堂さんは付きまとうファン暗殺者が多いから、このプランがベストだよ」

 シレっと答えるケンジ。実際、ケンジもエージェントとしての東堂の能力、それに女性だけでなく男性をも虜にする彼のルックスに、惹かれていないといえば嘘になる。整った容貌、白く滑らかな肌、そして東堂の象徴アイコンである夜の光に濡れて輝く髪。殺しの後はひときわ艶めく長い黒髪に。


「まあ良いいだろう、一応合格にしてやる。ほかに何か質問は?」

「質問? あるある! 東堂さんの髪って、どうやって手入れしてるの? 溶いたタマゴで洗ったりするの?」 

 ケンジは思ったことをそのまま口にし、行動する若者である。東堂は思わず吹き出し、手を伸ばして黒髪を触ろうとしてくるケンジの手を払いのけた。

「このツイストスパイラルパーマでは、どう手を尽くしても私のようにはならない」

 東堂が手を伸ばしてケンジの髪をつまむ。 

「これはパーマなんかじゃねーって。可愛い俺に嫉妬した神様がやらかしたイタズラだっつーの」

 生まれついての巻き毛をからかわれたケンジは、カウンターに置いてあった東堂のバーボンを奪い取る。グィッとひと息で飲み干した。


「まさか、そのバーボン飲んだのか? 毒を仕込んであるのに」

 真顔で東堂がグラスを指す。

「げぇっ」、両手で喉を押さえるケンジ。

「来いよ。解毒してやる」

 素早く手慣れた動作で東堂がケンジを引き寄せ、口移しにテキーラを流し込んだ。


 急速に体をまわってゆく強い酔いにケンジは、今夜、東堂の髪の手入れ方法を知るのだろうと、密かに期待した。


 完

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黒髪の背中 柴田 恭太朗 @sofia_2020

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