白狐タクシー

あじみうお

1

五月最後の日曜日、風子は駅前からタクシーに乗り込んだ。

ピンクの車体に白い狐のマークが描かれている。

『ゆめほどき神社へは白狐タクシーで』というキャッチコピーでおなじみの白狐タクシーである。

顔の長い運転手がふりかえり、愛想よく行き先を尋ねてきた。


「ええと、ゆめほどき神社へ・・・。」


風子は緊張して、無意識に両手を組み合わせた。

運転手は車を発進させると、さっそく気さくに話しかけてきた。


「宣伝の効果かねえ。近頃は、ゆめほどきの女神さんも大繁盛で大喜びよ。お客さんは、どんなゆめ捨てに行くの?」


風子は、あまりにも遠慮のない運転手にたじろぎながらも、なるべく平静を装って答えた。


「ゆめというか・・・。心残りを消してくれるっていうのは本当なのかしら?」


運転手は、待っていましたとばかりに大きくうなずくと、神社の宣伝文句を口ずさんだ。


「人々を見果てぬゆめから解放します。あなたならもっとうまく生きられるはず」


ゆめほどき神社とは、心にしみついて離れない困った未練を取り去ってくれるという一風変わったご利益で近頃話題の神社だった。神社の絵馬に過去形で未練を書いて奉納すると、きれいさっぱり楽になれると評判なのだ。


「ご利益は確かみたいだよ。でも、普通はさ、ゆめを成就させたいからお願いに行くんじゃないのかい?逆だよね。ゆめを捨てに行こうってんだからね」


運転手は首をひねり、「近頃、なんでも捨てちゃうよね。断舎利とかデトックスとか?貧乏性のあたしにはどうも馴染めないけどねえ」と、つぶやいて、何がおかしいのだか、くっくっと笑った。

風子は組んだ手をみつめたまま、顔をしかめた。

しかたないじゃない。いつまでも何かにこだわっていたら、世の中に取り残されちゃうもの。周りに後れをとって、みじめになるなんて、ごめんだわ。

運転手は、黙ったまま、むっとしている風子の様子など気にすることなく話し続ける。


「ところでさ、きれいさっぱり未練を消すと、どうなるのかな。消したくても消えないほどの強い思いでしょ?その人にとってよっぽど重要な核みたいなものなんじゃない?それを消しちゃうと、こう・・・なんていうのかな、生きる道標みたいなもんを失くしちゃうようなことに、ならないのかなあって考えちゃうんだよね。お客さんはどう思う?」


風子は顔を上げて、バックミラー越しに運転手をにらみつけた。


「未練を捨てたら自由になれるの。そして目の前の必要なことに全力で頑張れるようになるんだわ」


運転手の無神経なおしゃべりなど聞き流そうと思っていたのについ、きつい口調で答えてしまった。


女性誌のインタビュー記事で読んだのだ。竹林の奥にたたずむ小さいながらも華のある神社の写真とともに、何人かの体験談が載っていた。

「小さい頃からの夢に縛られて、就職活動に身が入らず悩んでいたのがウソのように楽になり毎日が充実している」「人を恨む気持ちから解放されてほっとしている」「昔の失恋から立ち直れた」など、中には「何だか虚しくなった」というコメントも小さく紹介されていたような気もするが、概ね「楽になった」「自由になった」と、未練から解放された喜びを語っていた。


運転手は、「ははあ、なるほど」とうなずいた。


「そういえば、この間のお客さんもそんなこと言っていましたねえ。食えないゆめはさっさと捨てて、今の仕事に集中して、家族をよろこばせたいんだってさ」


家族のためにゆめを捨てる。賢明なことだと風子は思った。叶わぬ夢、追ってはいけない想い。人はなんで、こんなものにとらわれて苦しまなければならないのだろう。こんなものにとらわれなければ、誰もが「もっとうまく生きられるはず」なのに。


「まあ未練なんて当人にとっては重い荷物だとは思うよ、でも本当に捨てちゃっていいものなのかなあ。心にぽっかり大穴があきそうじゃない?もったいない気もするしね」


運転手は、「やっぱり貧乏性かなあ」とつぶやきながら、バックミラー越しにまたチラリと風子を見た。

風子が睨み返しても、運転手は全く気にするそぶりがない。それどころか、


「お客さんそれ、婚約指輪でしょ?」


風子は思わず左手を隠した。


「あらら、お幸せなはずなのに、さっきからずっと浮かない顔。やっぱり未練のせいなのかな?」


風子はいよいよ、運転手の無神経なおしゃべりが不愉快でたまらなくなってきた。風子は左手に重ねた右手に力を込めた。

頭に血が上ってくらくらする。


ただ単に、結婚前にすっきりしておきたかっただけなのだ。

もう何年も会ってない学生時代のクラブの先輩に、どういうわけだかもう一度会いたいという、漠然とした思い。何てことない、ただそれだけの思いが、心の奥底に染みついて、どうにもすっきりしないのだ。そのせいで、熱心にプロポーズしてくれる婚約者にも、どこか上の空になってしまう。

結婚が具体的になって以来、理不尽にもその思いはどんどん色濃く存在感を増してきていた。先輩とは、今でも年賀状のやり取りだけは続けているのだけれど、今年の年賀状を見て、風子は一瞬凍りついてしまった。 

『子どもが産まれました』と書いてあった。

風子は、なかなかハガキを直視することができなかった。

決心して文面をよく読んでみると、ペットの犬が子どもを産んだという内容だったのだが。

風子は、そのハガキを見たときの、心が瞬間冷凍されるような感覚を忘れることができなかった。ドライアイスでやけどをした時のような、いまだにひりひりとうずく感覚。


婚約者はいい人だ。勤めもしっかりしているし、何より風子のことをとても気に入ってくれている。このおかしな想いさえなければ、すべては丸く収まって、彼も私も一片のくもりもなく幸せになれるはずなのだ。


風子は窓の外を見た。タクシーは繁華街を抜けてどこかの住宅街をはしっていた。


「お客さん。そろそろで着きますよ。あと少しで困った未練ともさよならだ。でも、いざとなると。どう?寂しい気がしない?」


風子ににらまれても、運転手は懲りた様子もなく、相変わらず軽い口調で話しかけてくる。風子は無視した。運転手はお構いなしで、ご機嫌に鼻歌をフンフン歌いだした。陽気にリズムまでとりながら、変な歌まで口ずさみはじめた。


しみつく思いは道標

すっとばしても迷うだけ

せっかくだもの、寄ってきな

女神にやるなど

ああもったいないつまらない

さあ今日も

大事なお宝おあずけで

女神が怒るぞさあ逃げろ


気のせいだろうか、運転手が軽くリズムをとるたびに、車もカタンコトンと跳ねているような・・・。風子が微かな違和感を感じながら、顔をしかめていると、運転手が唐突に歌いやめて、言った。


「ねえお客さん。その未練、消す前に一度正直に向き合ってみようとは思わない?」


ふいに、車が大きくがたんとはねた。風子は驚いて外を見た。

いつの間にか、見覚えのある土手沿いの道を走っていた。学生時代、熱気球クラブでよく訪れていた場所だった。


土手の向こうから、大きな熱気球が、大空に浮き上がっていくのが見えた。

土手の上では、数人が気球を見上げて手をふっていた。風子はその中の一つの背中に、目を止めた。黒いシャツをきた背中。学生の頃よりも、こころなしか、少し頼もしくなった背中。目が離せなくなっていた。もう、周りの景色は何も見えない。

タクシーはすっと止まり、ドアを開いた。                

風子は、はじかれるようにタクシーを飛び出した。

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