日記の中身

8月18日(木)

 今日から日記をつけることにした。少しでも気を紛らわすために。

あの人のことを忘れるために。


8月19日(金)

 今日も病院に行った。こんなの、何の意味があるのだろう。薬なんかでは治せない。これは私の問題なのに。


8月20日(土)

 病院に行かない日は一日中家で過ごす。退屈な一日。何もすることがない。することがないとあの人のことを思い出す。あの人はもう私の手の届かないところへ行ってしまった。会いたい。どうしたって会えない。いいえ、会う手段が無いことはない。でも、それをするとどうなるかわからない。そこまでする勇気が私にはない。私だって自分の身が大切だもの。

 不思議ね。あの人が近くにいたときは何だってできたはずなのに。遠くへ行ってしまった途端に臆病になった。


8月21日(日)

 これまでの日記を読み返した。あの人のことを忘れるために日記をつけ始めたのに、あの人を忘れるどころかどんどん恋しくなってしまう。日記をつけるのは、今日で止めにしよう。また書きたくなったら再開したらいい………。





 慎二は日記を読む手を止めた。


 この日記の持ち主には想い人がいる。もしかしたら、結婚していたかもしれない。そしてその想い人は遠くへ行ってしまった。きっと単身赴任や遠距離恋愛といった類いではない。もっと深刻な………例えば死別とか。

 その人のことを忘れようと苦しんでいる彼女に対し、自分は彼女の日記を盗み読んでいる。そんな浅ましい自分にひどく嫌気が差した。


 3週間分くらい空白になった後、また小さな字でつらつらと書かれていた。





9月15日(木)

 今日、電車であの人に似た人を見つけた。どきっとした。あの人よりも若いけれど、本を読む伏し目がちな顔がそっくり。


9月16日(金)

 今日もその人と電車で一緒だった。この日記帳を見るふりをしながら、彼のことをちらちら見た。バレてないかな………。


9月17日(土)

 彼に会いたくて、今日は通院じゃないのに、電車に乗った。彼は乗っていなかった。


9月18日(日)

 今日も彼は乗っていなかった。もう、会えないかもしれない。私は彼のこと、何も知らないんだもの。あの人とは違う。わかってる。でも本を読むその顔にあの人の面影を重ねてしまう。私はこんなにもあの人のことが好き。ああ、会いたい。


9月19日(月)

 気づけば名前を知らない彼のことばかり考えている。電車に乗るたびに、彼の姿を探してしまう。あの人を失ってから、またこんなに胸がときめくなんて。電車で見かけた彼のことを想うたびに胸が高鳴る。世界に色がつく。もっと彼の姿をこの目にとどめたい。そして私のことを見てほしい。触れてほしい。明日も会えるかしら………。


9月20日(火)

 今日の夕方、帰りの電車で彼を見た。この時間帯に会うのは初めて。疲れているのか、本は読まず眠っていた。新たにみる彼の一面にどきりとしてしまう。もっといろんな表情がみたい。笑顔も、怒った顔も、泣き顔も。すべて私だけに見せてほしい。彼のすべてを独り占めしたい。気づいたら彼が降りる駅と同じ駅に降りていた。ちょっとだけ、彼の生活を覗き見てみたかった。彼が向かったのは二階建ての小さなアパート。部屋は二階の端から二番目。彼の部屋の前まで行って、ドアに耳を寄せると、中から音が聞こえた。扉を隔てて感じる彼の気配に、吸い寄せられる。もっと感じたい。危うく扉を開いてしまうところだった。急いで引き返した。

 私は何をやっているの?こんなところまで彼をつけてきて。彼はあの人じゃないのよ。


9月21日(水)

 今日は一歩も家から出なかった。もう彼のことは考えないようにしよう。そう思うのに、彼のことで頭がいっぱいになる。気づけばSNSを開いて、昨日ドアプレートで見た彼の名前を検索する。下の名前は、郵便受けの郵便物で、知った。SNSで彼の名前を調べても何も出てこなかった。彼のことを知るには、後をつけるしかない。


9月22日(木)

 今朝、いつも乗る車両の隣の車両に乗って、ずっと彼のことを見ていた。私に気づいていなかった。本を開けて真剣な表情をして読んでいた。彼のその横顔に胸がときめいて、ずっと見ていられる。彼は私がいつも降りる駅の、次の駅で降りた。私も一緒に降りて、気づかれないように、後をつけた。彼は、駅から10分のとこにある大学の学生だった。彼が出てくるまで、じっと待った。彼は夕方に出てきた。そのまま後をつけると、電車に乗らずに近くのファミレスに入っていった。外から中の様子を伺っていると、エプロンをつけた彼がしばらくして出てきた。お客さんに愛想よく微笑む彼。その横顔に胸が高鳴る。あの笑顔を私にも向けてくれたら………。


9月23日(金)

 どうやったら彼を自分のものにできるのだろう。もっと色んな表情を見たい。私だけに。他の人に向けるのなんて嫌。私だけを見つめてほしい。ほかの女に取られる前に、彼を自分のものにしなきゃ。方法は一つしかない。あの人のときは、急ぎすぎたの。大丈夫、今度は失敗しない。必ず私のものにしてみせる。待っていてね………。


 橘慎二くん。





 慎二は日記帳を放り投げた。唐突に出てきた自分の名前に、驚きを隠せない。


 彼女にずっと見られていた。つけられていた。知らないところで、彼女の影が自分に忍び寄っていた。


 しかも、日記を読む限り、彼女がそういったことをするのは初めてではない。過去にも同じようなことをしている。想い人とは死別したのではと思っていたが、どうやら違う。


 日記はまだ続いている。慎二はおそるおそる読み進めた。





9月24日(土)

 行動に移す前に、彼が私のことをどう思っているか、確かめなきゃ。気持ちが一方通行だなんて、こんなに惨めなことはない。でもきっと大丈夫。きっと彼も私のことを好きでいてくれているはず。電車の中で、ときどき彼からの視線を感じるもの。どうやったら彼の気持ちを確かめることができるのかしら。


9月25日(日)

 良い方法を思いついた。彼のファミレスに行って、この日記帳を忘れてくる。そして次の日にもう一度ファミレスへ行く。あそこは、ホールが2人くらいしかいないから、忘れものをしたら、どちらかが気づいてくれるはず。次の日に確認しに行って、もし「忘れものはなかった」と言われたら、それはこの日記帳が忘れものとして店に報告されていないということ。すなわち、従業員が持って帰っているということ。わざわざ好きでもない人の日記なんて持って帰らないでしょ?私のことをなんとも思っていなかったら、この日記帳はちゃんと店の忘れものとして保管されているはず。

 もしすべてがうまくいったら、その日に彼の家に行こう。実行は次の週末。それまで、この日記帳とはさようなら。





 彼女がここへ来る。こうしていられない。早くここを出なければ。何をされるかわからない。


 今や彼女への想いは完全に消え失せていた。もう恐怖しか感じられない。


 すべて、彼女の計算だった。彼女が店に来たことも、日記帳を忘れたことも。


 彼女のことを好きになってはいけなかった。日記帳なんて持って帰ってくるべきではなかった。


 玄関に向かい、ドアノブに手をかけようとしたそのとき。


 ―――ガチャ。


 ゆっくりとドアノブが回った。


 「あっ」と思ったときにはもう遅かった。ビリリと首に痛みを感じ、足の力が抜ける。バランスを崩し、近くの壁にぶつかった。そのままズルズルと崩れ落ちた。


 霞がかった視界に彼女がうつる。その顔には薄っすらと笑みが浮かんでいた。


 そして彼女は、あの透明感のある美しい声で言った。


「ダメじゃない。ちゃんと鍵を閉めなきゃ………」


 慎二の首筋にまたビリリと痛みが走る。そして、微笑む彼女の姿を捉えながら、慎二の視界は暗転した。





10月2日(日)

 今の私はすがすがしい気持ちでいっぱい。こんなに満たされた気持ちになる日がくるなんて、あの人から引き離された日には思いもよらなかった。彼、慎二くんの寝顔がこんなにも愛おしい。こんなに簡単に彼を手に入れることができるなんて。


 あなたのことが好きでした。あなたは私だけのもの。絶対に離さない。

 

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