あなたのことが好きでした
三咲みき
忘れもの
橘慎二は大あくびをしながら、今し方ホームに滑り込んできた電車に乗った。頭を掻きながら空いている座席に腰を下ろし、リュックから文庫本を取り出す。
大学最寄り駅に着くまでの20分間、何か自分のためになることがしたいと考え、たどり着いたのが、ショートショートを読むことだった。短編よりも少ないページ数なので、本を読むの苦手な慎二でも、通学中に一編は読むことができる。
後期授業が始まって数週間。長期休暇でなまった身体に1限目の授業は辛い。慎二の学科は午前中に必修の科目が多く、そのせいで週に何度かは1限の授業に間に合うように起きなければならない。
電車が次の停車駅に停まった。
毎日憂鬱な授業。しかし通学時間が早くなったことで、一つ良いことがある。慎二は文庫本からチラッと目線を上げ、先程乗り込んできた向かいの席に座る女性を見た。
今日は会えた………。
長い黒髪に、切り揃えられた前髪。今日は白の清楚なワンピースに紺色のカーディガンを羽織っている。その女性もまた文庫本を読んでいる。文庫本には白ベースに葉っぱのような花びらが印字されたカバーがかけられている。
慎二はこの女性に密かに想いを寄せていた。
慎二が本を読むのも、本当のところこの女性に見栄を張りたいからだったりする。あなたと同じように、自分も本を読んでいると。
どこかミステリアスで物憂いげな雰囲気のある彼女。自分のことなどきっと眼中にないだろうと思いつつも、慎二は本を読むことで自分に興味を持ってもらえないかと考えていた。
彼女の姿をこっそり見ていられるのは、ほんの数駅分。慎二が降りる駅の一つ前で降りる彼女は、何の未練もないように、颯爽と降りていった。
***
土曜日の昼下り。まだまた暑い夏の日差しが店内に降り注いでいる。慎二はブラインドを途中まで閉めた。
「すみません。注文お願いします」
「はい、ただいま」
慎二は今しがた自分を呼んだお客さんの元へ足を運んだ。
店内はガランとしている。大学最寄り駅の近くにあるこのファミレスは、平日は学生たちで賑わっているのだが、休日は一気にお客さんが減る。お昼のこの時間であってもだ。
「ご注文お伺いします、あっ………」
なんと、そのお客さんは慎二が密かに想いを寄せているあの女性だった。
「カルボナーラお願いします」
驚いている慎二をよそに、女性は注文を口にした。
まさかこんなところで会えるなんて。彼女を案内したのは別の店員。この席はちょうど死角になる位置なので、慎二は今の今まで彼女が座っていることに気づかなかった。
彼女の姿を目にしただけで、憂鬱なバイトもやる気が起こる。
今日来たということは、また来るかもしれない。そんな期待と喜びで、慎二は胸を踊らせていた。
料理を運んだり、お客さんを案内したりするたびに彼女の姿を盗み見た。彼女はあの本を読んでいた。葉っぱの花びらのような模様が描かれたカバー。
一体何の本を読んでいるんだろう。見たところそれほど分厚い本ではない。彼女ももしかしたらショートショートを?どんな本が好きなんだろう。彼女と本の話をすることができたら………。お互いに好きな本を教え合ったりして。そうしてプライベートの話をしたりして。
そんなときはきっと訪れない。だけど、もし彼女とお近づきになれたらと、どうしても妄想してしまう。
***
「ありがとうございました」
帰ってしまった。彼女がいたのは、ほんの1時間ほど。あっという間にその時間が過ぎてしまった。また来てくれるだろうか………。
少し悲しい気持ちを残しつつ、慎二は彼女のいたテーブルを片付けた。
「うん?」
彼女が座っていた壁際のソファには、あの葉っぱの本が置いてあった。慎二はそれを手に取った。
「忘れもの………」
取りに戻ってくるかもしれない。でも………。
慎二はその本をエプロンのポケットに入れた。そして急いでバックヤードに行って、自分のロッカーに入れた。
お客さんの忘れものは、ちゃんと店の奥で保管しなければならない。間違っても個人が勝手に持ち出していいものではない。慎二もそれは充分わかっている。
だけど、もし自分が直接この忘れものを彼女に渡すことができたら、彼女とお近づきになれるかもしれない………。
下心満載だし、自分が気持ち悪いことをしているのは、慎二もわかっていた。だけど、こんなチャンスはきっと二度と訪れない。せっかく彼女と関われるチャンスを見す見す逃したくなかった。それくらい慎二にとって魅力的な人だったのだ。
***
翌日の日曜日も慎二はシフトに入っていた。昨日と全く同じ時間に。結局、彼女の本は持って帰った。ロッカーに入れっぱなしにしておくのは、危険な気がした。別に他の従業員に本を見られたところで、その本がお客さんの本だとバレやしない。そうはわかっていても、自分でやましいことをしている自覚があるから、ここに置いておくのは憚られた。
「橘、ちょっと」
今しがた会計を終えたテーブルを片付けていると、先輩バイトが慎二を読んだ。
「はい」
先輩の近くまで行って、彼の横にいる人の姿を目にしたとき、慎二の足は自然と止まっていた。
彼女だ。
「橘。お前、昨日シフトに入ってたよな。本の忘れものとかなかったか?こちらのお客様の本がなくなったらしく、最後にここで読んだと」
「あっ………」
慎二は背中に冷や汗をかいた。持って帰ったなんて絶対に言えない。バレたらバイトをクビになるかもしれないし、第一、この人に何て思われるだろう。見ず知らずの男に自分の私物を持ち帰られていた。気持ち悪くて仕方ない。
「そのような忘れものは無かったかと」
そう答えるしかなかった。それを聞くと彼女の目が一瞬揺らいだ。
「本当に、ここにありませんでしたか?」
彼女が慎二に聞いた。その目はまるで、嘘を見抜こうとするような、最後に念押しするような目だった。
「ほ、本当に、ありませんでした」
「そうですか………」
彼女は数度うなずいて見せ、「わかりました」と言った。
「もう一度、お家の中をよく探してみます。お手を煩わせて、すみませんでした。ありがとうございました」
小さく会釈をすると、彼女は店を後にした。その後ろ姿を見たとき、慎二の心には罪悪感が広がっていた。
***
20時。バイトから帰った慎二はベッドにダイブした。彼女の声を思い出す。見た目通りの透明感のあるきれいな声だった。
彼女が帰ってから、ずっと彼女のことが気がかりだった。あの時は自分のことしか考えられなかったが、彼女は忘れものをわざわざ店に取りに来た。もしかしたら大切な本だったのかもしれない。少なくとも、忘れたことに気づくぐらいには。
自分の下心のせいで、自分の嘘のせいで、彼女の大切なものを奪ってしまったかもしれない。慎二はあれからずっと後悔の念にかられていた。
やっぱり、この本はちゃんと返すべきだ。謝罪とともに。そして、もう彼女とは関わるべきではない。毎朝の電車の時間も変えよう。もうこれっきりだ。
慎二は起き上がって、テーブルにのせた彼女の本を見た。それを手に取り、何となしにページをめくった。
「あれ?」
慎二の目に映ったのは白紙のページだった。全くの白紙というわけではなく、ページの右上に日付が記されている。これは本に見せかけた日記帳だった。
まだ新しい日記帳なのだろうか。何も書かれていない。ページをパラパラめくっていくと、半分くらい来たところで、小さな字で書かれた文章が出てきた。
慎二は見てはいけないものを見てしまったかのように慌てて日記帳を閉じた。
見たい。でも中身を見てしまったら、いよいよ人として最低だ。だけど、これを返したら、もう彼女とは二度と会わない。彼女が普段、何を思い感じているのか、知りたい。
これを読んだら、彼女の一切は忘れる。もう二度と近づかないと誓う。
慎二はおそるおそるページをめくった。
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