ひび
竜崎彩威
プロローグ(1)
「寒いな・・・」
慎は‷送別会〟に行ってきたはずだった。だが、蓋を開けてみれば、会社の都合で転勤する女性に同期の男性が涙の公開プロポーズをする会であった。彼はお酒に弱い自覚があるのに、いつもより飲みすぎてしまった。そのため、帰り道はいつもより寒く感じた。
「―ったくよぉ・・・。俺は早く帰って、明日の用意をしたいのによぉ」
明日の彼には大事な会議が待っている。その資料の整理を今日中に終わらせなくてはならなかったが、その時間を‷送別会〟に充てたのだった。―その選択は、予想外にも程がある失敗だったと、振り返ってそう思った。
世間は間もなく冬のピークだ。この時期になると、真夏の猛暑はどこへいったという当てもない怒りを持つ。毎年思うことなのに、本当にどうしようもないことなのに、今日は特にそう思った。なるほど、俺はイライラしているのか。とても見慣れた街並みになってきて、やけに冷静になってきたので、そう片づけることができた。―というよりも、そう片づけるしかできなかった。
赤く火照っている自分の顔に当たる風が徐々に強くなっているのを感じ、足取りも早くなる。そんな時、携帯から通知音がした。長らく疎遠になっていた三つ年上の姉からメッセージが来た。姉である香織は都内の大学へ進学するため、実家のある山梨県の田舎を出て行った。それから八年間、慎は姉と会ってもいなければ、連絡も取っていない。慎は珍しいなと思いながらメッセージを開いた。
『母さんが倒れて病院に緊急搬送されたの。出来る限り早く来て。今回こそはもうダメみたい…。病院は〇△病院、実家から一番近い大きい病院ね』
突然の凶報に一瞬頭が固まった。だが、明日が大事な会議があること、年末だから忙しくて急には休めないということの二つを思い出して返信をした。
『急に言われても年末だから休み取れないよ。四日後の土曜とかなら行けるかも・・・。容体が分かったら連絡して』
突然の凶報に言葉を選ぶ余裕を奪われていたため、少し鋭い文章になってしまった。このことに後々気付き、少しばかり後悔した。
『出来る限り早く来てね』。この言葉で母親はもう助からないのだろうと慎は思った。母親は今までも十回近く緊急搬送になったことがあり、元より肺が弱いことから、医師からも先は短いと言われていたからだ。しかし、当の本人である母親の秋子はと言うと「自分の子ども二人とも自立できているから安心して死ねるわ。」なんて寝ぼけたことを言ってくるものだから、慎や香織、周りの人が心配してもしょうがないと思っていた。いつかは死ぬものだ―。そう思って母親の意見を尊重しようと心に決めながらも、どこかで母親が死んでしまうことを受け入れられない自分がいることに気づいていた。そんなことを考えていると、自分の白い息が段々と見えなくなっていくことに不思議と違和感を覚えた。
一人暮らしをしている家に着いてからはとにかく早く寝ることを目標にせっせと動いた。帰宅直後に水をコップ一杯飲んでから風呂に入った。元から長く風呂に入るのが苦手だったのもあって、適当に体を流して風呂から出た。湯舟は冬であっても毎週月・木・日曜日の三日間と決めている。もちろん、お金の節約のためだ。風呂を出た後、会議の資料整理をしようとしたがほとんど何も出来ず、帰宅してから一時間半ほどで床に就いた。布団に入る時にはもう意識が朦朧としていたが、幸いなことに、目覚まし時計をつけることだけはできた。
高校時代、所属していたバスケ部の朝練が七時開始と早く、目覚まし時計で起きる習慣は今でも継続できているため、目覚まし時計が鳴っても起きないことはほとんどない。―そうして起きたのは目覚まし時計が鳴ってから一時間後。このままでは会社の朝礼には間に合うものの、会議の資料整理をしている時間はない。
〝圧倒的にヤバい―。〟
そこで彼は、出来る限り早めに会社に着き、家でやろうとしていた資料整理を周りの人に助けてもらいながらやることにしようと考えた。
〝もう・・・昨日の夜から忙しいな―。〟
昨日の夜よりも足取りが重く感じた。
彼の家は都内の会社から四十五分ほどの場所にある。電車の乗り換えは1回。家は主要線から少し離れた駅にあるので、少し乗ってから乗り換えて三十分弱。その間はある程度のパソコン上での仕事が出来る。いつもの時間なら、そこは満員電車であるので仕事なんかできないが、いつもより三十分ほど早く家を出発したため席に座り、Word上の資料整理をすることができた。そこまではよかった。会社に着いて出欠席表の自分のネームプレートを”出勤”の枠に移動する時、やけに赤色が多いなと思った。赤色のネームプレートは”出張”を意味する。
〝うわ、マジかよ―。〟
頼みにくいこともあって本当は先輩の力を借りたくはなかったが、自分の周りにいた10人程度の社員(先輩後輩関係なく)に手伝ってもらい、始業直後の九時三十分からの会議に何とか間に合あわせることができた。
この会議は会社の株主に来年の商法戦略を紹介する会議であった。慎が勤めるこの会社はさほど歴史は長くないものの、IT産業では急成長を遂げた、最近注目されつつある会社である。「まだまだ成長を遂げると目されているこの会社の株を手放す者などいない。むしろ欲しがる人がいるぐらいなのだから。」そのように考えていた彼は無駄な緊張もなく会議を迎え、特に何事もなく会議を終えた。
〝一段落着いたな―。〟
そう思いながら、ふとスマホを見ると、丁度会議の始まった九時半頃にラインが来ていたことに気づいた。昨日に続き、姉からのラインだった。見る前に内容は想像できていた。
『母さんが亡くなったよ。週末に葬儀をする予定だからそれなら来れるでしょ?』
簡単な内容だったため、少し寂しく感じたが、昨日の飲み会、今朝の忙しさからの疲れもあってか、今のこの状況を慎はまだ飲み込めていなかった。昼休憩の時に、ようやく姉にラインを返し、上司に週末休むことを伝えた。流石に親が亡くなったからという理由をもってしては、急遽だが容易に休みをとることができた。
慎はその後も通常通り仕事を終え、昨晩よりも何時間も早く帰宅した。
帰宅後、慎は手洗いもせず、着替えもせず、ベッドに倒れてスマートフォンを長時間眺めていた。普段も見ているツイッターを開いたり、インスタグラムを開いたりしても、どの投稿も彼の気を引くものではなかった。それでもいつもより長めに見続けていた。そして、ふとした時にスマートフォンを手放し、ベッドに投げつけた。環境音が心地よく感じ、自然と目を瞑った。すると、ふとしたときに母親の声が聞こえた気がして、ベッドから飛び起きた。しかし、そのあとすぐに現実ではないことを思い出す。彼は再び目を瞑り、ベッドに横たわる。そして彼は、幼い頃の思い出に触れ始めた。
幼い頃、趣味だった昆虫集め。実家はほぼ山の中にあるような村。
そして迎えた週末。
金曜の深夜にはもう実家がある地方へ出発しており、約3時半かけて向かう計画だ。
迫る年末にかけて大忙しなのは金曜の勤務まで変わらない。
やはり疲れがずっしりとかかり、眠たくはなったが、外を見ていると何だが眠気がなくなってきた。
東京駅からの新幹線を降りても、まだ電車旅は続く。
こんなに時間がかかるものだから、大型連休といわれる時でさえ帰郷することができないのだ。実際に今回が上京してから4回目なのだから。
徐々に見慣れた景色になっていくことに安心感を覚えながら、目を閉じた。
目を閉じると、頭の中には子どもの頃の思い出が蘇った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます