人間不信な御曹司には夢がある

第27話 俺は普通が欲しいだけ

「────それで? 何か弁明はありますか? お兄様」


 帰宅早々、俺は家の前で正座させられていた。アパートの廊下は冷たく、ザラザラした表面が皮膚に突き刺さる。


「己の責任を放棄し、現地妻とイチャコラするのは楽しかったですか、と聞いているのですよ」

「現地妻言うな! 親父の呼出を無視したのは申し訳ないと思ってるけど、副会長としての仕事だって、責任を持ってやってるんだ。途中で投げ出すわけにはいかない」

「へぇ……そうですか。それは会社より重要なことなのですか?」


 陽依の顔からは感情が読み取れない。表情筋が完全に死んでいて、言葉を発するために口が最低限の開閉をするのみだ。だがその奥からは凍てつく冷気が漏れだしていて、少しでも気を抜けば体の芯まで氷漬けにされそうになる。


「今は……そうだ。この三年間だけは、学校のことを優先するって親父にも事前に伝えてある。その上で許可を貰ってるんだ」


 陽依がどれだけ暴力的なプレッシャーを放とうと、俺が兄であるからには妹相手に日和ってなどいられない。

 俺は彼女の視線を正面から受け止め、力強く答える。……とはいえ、地べたに正座しながらでは格好つかないが。


「それは呼出を無視しても良いと言われたわけではないでしょう。会社関係なく、親に呼ばれたら普通は出向くものだと思いますがね」

「……はい」


 完敗だった。

 陽依の正論を前に俺は何も言い返せず、正座を崩さぬまま俯く。


「仕方がないので、私が代わりに行ってきました」

「え、お前が?」

「そこで、お父様から伝言を預かっています」

「で、伝言……?」

「お父様、かなりお怒りのご様子でしたよ? お兄様がちゃんとしないから、会社に迷惑がかかっていると」


 全身の血の巡りが悪くなり、急速に体温が低下していくのを感じる。

 親父の逆鱗に触れるということは、冗談でも誇張でもなくそのままの意味で社会的な死を意味する。実の息子だからといって容赦してもらえるとは思えない。


「そ、それで、親父はなんて?」


 俺はさながら、判決を待つ被告人のように固唾を飲んで陽依の言葉を待つ。


「では、そのままお伝えしますね。『お前、引っ越す時にちゃんと住所移しとけよ。お前当ての郵便物がこっちに届いて邪魔なんだよ。サッサと引き取りに来ないと全部処分するぞ』だそうです」

「……え、それだけ?」

「はい、伝言は以上になります」


 思ったより大したことないというか、想像していたのと全然系統が違ったなぁ。

 俺はてっきり、会社の経営に関する重大な話かと思ってたのに、どこの家庭にでもありそうなちょっとした面倒事の話だったんだなぁ……。


「驚かせるなよ……全く。お前、わざと大袈裟な前フリしやがっただろ」

「これぐらいの罰は受けておくべきかと」


 そのために兄を玄関前で正座させるなんて、恐ろしい妹だ。陽依が俺の排除を目的としているわけではないことはわかったが、それでも彼女が危険であることは微塵も揺らいでいない。

 平穏な学校生活を送るために、是非とも出て行っていただきたいところだ。そうすれば部屋だって倍に広がるのに。


「どうしました? お兄様。私の顔をジッと見て」

「いいや、別に何も」

「鬱陶しいから早く帰って欲しいとでも考えてるんでしょう?」


 何なんだよこの勘の鋭さは。エスパーかよ。こういうところが怖いんだよ。


「その狼狽えようを見るに図星ですか」

「うぐ……」


 こいつ相手に隠し事は、鼻の利く犬を相手にかくれんぼを挑むようなものだな。何から何まで全てお見通しときている。


「お兄様。私にはお兄様が一人前になるまで見守る義務があります。鬱陶しいと言われても、迷惑だと言われても、お兄様がここに留まる限り私もここに留まります」

「なんでだよ。俺は普通を望むとは言ったが、会社を見捨てるつもりはない。お前に監視されずともちゃんと後を継ぐさ」

「その言葉に何の意味があるのです? 私はお兄様の妹ですから、言葉だけで他人を信用したりしません。お兄様が立派な跡継ぎに成長されるまで、近くで見守らせていただきます」


 そう言われてしまえば、もう何も言い返せない。陽依のことは信用できないと散々言って来た手前、俺のことは信用しろなどとは虫が良すぎる話か。


「……わかった。わかったよ。これからもここに住んでいいから。だから、なあ、もういいだろ? 勘弁してくれよ」

「そうですね。今日はこれぐらいにしておきましょう。あまり長くこうしていると、ご近所から不審がられてしまうかもしれませんから」


 親子ならともかく、妹が兄に正座をさせ説教している様なんて、見るのも見られるのも地獄だ。

 恥ずかしい場面を人に見られて興奮できるレベルの高い奴も世の中にはいるらしいが、幸運なことにそんな才能は俺には無い。


「さて、ではお夕飯にいたしましょう。時間も遅いですし、今日は私がご用意しますね」

「待て、お前には任せられない。俺がやる」

「なぜです? 料理対決に勝利したのは私ですよ? なぜまだ私の料理の腕を信じていただけないのです? あの女の料理は食べていましたよね?」

「いや、まあ……そうなんだが」

「それともなんですか? あの女は良くて、私は駄目な理由が何かあるのですか? 愛情ですか? 私の料理には愛情が籠っていませんか?」

「そうは言ってないだろ? ほら、なんというか、お前はちょっと怖いし」

「怖い? 怖いとは?」

?」


 質問の意味がわからない。感情を知らない人工知能みたいなセリフだな。


「仕方ないな……もう、この際全部正直に言っておこう。お前は何でもかんでも強引に押し通してくるから、極力主導権を渡したくないんだよ!」

「それぐらい力づくでやらないと、お兄様は何も了承してくださらないではありませんか!」

「当たり前だろ! お前怖いし! 一歩も妥協したくないね!」

「お兄様は何もわかっていませんね! 私の恐ろしさは、まだまだこの程度ではありませんよ!」

「……え? そっち?」


 思ってた反論と違うな。普通怖いって言われたら、怖くないって言い返すものじゃないのか? 怖いのはもう公認なのか?


「今夜はたっぷり教えてさしあげましょう。私の本当の恐ろしさを」

「ま、待て。何をするつもりだ? 殺しは駄目だぞ?」

「へえ、ではそれ以外なら何をされても良いと?」

「そんなことは言ってな……なんだお前、なんで近づいてくる?」

「困ったお兄様を少々大人しくさせようかと」


 陽依の真っ白な手が俺の首筋目掛けて伸びてくる。それに伴って彼女の顔が俺の顔に接近し、互いの吐息がかかるほどの距離まで詰め寄る。

 キスでもするのかという近さなのに、陽依の顔には相変わらず無表情の仮面が貼り付いたままだ。この距離で見ても何を考えているのか全く読めない。


「この際です。もう二度と悪い虫がつかないようにしておきましょう」


 そんな囁き声が耳元で聞こえ────


「────ドア全開でなにしてるの? 近所に公開してるの?」


 突然の来訪者に、俺と陽依は揃って咄嗟に畳の上へダイブする。


「……本当に一体なにしてるの?」


 扉の前に立っていたのは松波だ。両手に大きなビニール袋を抱え、心底困惑した様子の彼女は、俺と陽依の顔を交互に見て訝しむ。


「あ、あなたこそ、何なんですか? こんな時間に突然やって来て、人の家に無断で上がり込むなんて非常識では?」

「上がり込んでないじゃない。ここはまだドアの外よ。あなたたちがドアを開け放ってるのが悪いんでしょう?」


 全く持ってその通りだった。流石の陽依もこれにはケチのつけどころがないようで苦虫を噛み潰したような顔をして押し黙った。


「……それで、こんな時間に一体何の用なのですか? あなたはもう二度とお兄様には近づかないという話ではなかったのですか?」

「約束を守りに来たのよ」

「約束?」

「そ、料理を教えてくれって言ってたでしょう? だから、食材を買ってきたの」

「え、今から⁉」


 確かに具体的な日程などは決めていなかったが、だからって普通はこんな時間にアポなしで来ないだろ。しかも既に買い出し終わってるし。


「何ですか? お兄様、料理を教わる? そんな約束をしたのですか?」


 クソ、そりゃ当然こうなるわな。あの陽依が見逃してくれるわけもない。だからもうちょっと事前に計画を練って根回しをだな……って今さら言っても仕方ない。


「や、約束はしたぞ。でもまさかいきなり来るなんて……」

「へぇ、約束したのですか。料理を教わると。この女から。そんな約束を。へぇ。夜遅くに。私たちの家で」

「ちょ、陽依? 文法が消滅してるぞ?」


 それはどういう感情なんだ。どういう感情の時にする反応なんだ。


「悪いわね。広政君には私が必要みたいだから。あなたじゃなく、この私がね」

「……お兄様?」

「落ち着け。陽依、一旦落ち着け」


 いつ爆発してもおかしくない爆弾を前に、震える手でコードを一つ一つ切断していくような感覚だ。

 とにかく今は陽依を抑え込み、この場を穏便に済ませることだけを考えろ。もし失敗すれば、この場に最低二人の死体が出来上がることになる。


「え、えっと、松波。料理を教わるとは言ったが、今日はちょっと……」

「私が必要なんでしょう?」

「え」

「それとも、私は必要なかった?」

「いや、そんなことはない。そんなことはないぞ。うん、滅茶苦茶必要だ。どれぐらい必要かと言えば、地球にとっての太陽の存在ぐらい必要だ」

「よくわからないわ」

「……じゃあ言い方を変えよう。うーんと……あれあれ、魚にとっての水ぐらい必要なんだ」

「土の中に住む魚類もいますよ。お兄様」

「お前はちょっと黙ってろ」


 松波は俺の言葉がいまいち響かなかったようで、哀れな道化を眺めるような目で俺を見てくる。


「ともかくだ。料理はまた明日からにしよう。ほら、うちにはあんまりちゃんとした調理器具がないから、まずは器具を揃えるところから始めたいんだ。だから明日買いに行こう」

「……やれやれ、仕方ないわね。私に教えを乞うなら事前に準備しておきなさいよ」


 ため息を吐く松波だったが、どうやら引き下がってくれるようだ。爆弾は無事に解除された。これで一安心といったところだな。


「────でも、今日はもう暗いからここに泊まるわ」


 平和が訪れたのも束の間、あっという間に次の危機が襲来する。


「ここに泊まるって……見ての通りだ。客間なんてないぞ⁉ それどころかもう一枚布団を敷くスペースすらない」

「広政君と同じ布団で寝れば良いじゃない」

「何が良いんだ⁉」


 それは考え得る限り最悪の選択だろ。膨れ上がった爆弾が一番ド派手に大爆発を引き起こすぞ。


「こんな時間に歩いて帰れっていうの? 夜は危ないのよ?」

「じゃあなんで来たんだよ……」

「それは約束を果たすためよ。私が必要って言ってくれる人がいるんだったら放っておくわけにはいかないじゃない」


 真面目なのか不真面目なのかよくわからんな……全力で約束を果たそうとしてくれていることはわかったが、ちょっと暴走しすぎだ。こちとら思いっきり撥ね飛ばされてるんだよ。


「黙って聞いていれば、いくらなんでも増長しすぎではありませんか?」


 我慢ならないとでも言うように、松波の前に陽依が立ちはだかる。


「来てしまったものは仕方ありません。不用意な約束をしたお兄様にも責任はあります」

「マジかよ」

「そして帰宅が困難であるというのも、百歩譲って良いとしましょう。しかし同じ布団で寝るというのは看過できません」


 陽依にしては結構譲歩したな。てっきり問答無用で叩き出すかと思ったのに。


「だったらどうしろって言うのよ。外で寝ろとでも?」

「そうは言いません。それでは近所の方々に迷惑がかかってしまいますからね」

「なら、広政君の布団で寝るしかないじゃない」

「いいえ、布団は二つあります。どうしてもというのなら、私の布団で眠ればいいでしょう」


 いやいや、マジでどうした? お前そんな親切な奴じゃないだろ?


「なんで私があなたと寝なくちゃならないのよ」

「身勝手な人ですね。これが嫌だというのなら、どうぞそこらで野宿でもなさってください。近くに公園がありますから、そこのベンチでどうぞ」

「……仕方ないわね。いいわ、野宿するぐらいならそれでいい」


 それなら俺と陽依が同じ布団で寝て、松波には陽依の布団を貸せばいいのではないかと思ったが、これは言わないでおこう。

 兄妹とはいえ、一緒の布団で寝たことなんかないし、そんな状況では寝られる気がしない。厄介者二人がまとまってくれるというのなら、それに越したことはない。


「でも、勘違いはしないでくださいよ? あなたは勝負に負けたのです。お兄様に手出しをすることは許しません」

「料理を教えてほしいって頼んで来たのは広政君の方なのよ? 広政君のことを第一に考えるなら、彼の意思を尊重するべきではないの?」

「そんな屁理屈は通用しませんよ。どうせ、あなたがお兄様をたぶらかしたのでしょう?」

「どうしてそういう発想になるのかしら。あなたが普段から似たような手段を使っているからじゃないの?」


 二人は額を突き合わせ、お互い一歩も引かずに激しい口論を繰り広げる。両隣と下の階からドンドンと抗議の音が響くが、そんなものは一切お構いなしだ。


 常識と良心を兼ね備えた極々一般的な倫理観を持つ女子と付き合いたいと言ったが、やはりそれは叶わぬ願いだったかもしれない。


「……俺は普通が欲しいだけなのになぁ」


 荒ぶる二人の少女を目の前にして、己の夢の険しさを改めて痛感するのだった。

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普通のヒロインが欲しいだけ! 司尾文也 @mirakuru888

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