おまけ

「……ということがあったそうなんですよ」

「まぁ……あの子はまたそんな無理をして」

 高市王たけちのみこの言葉に、十市女王といちのひめみこの美しい顔が曇っただろうことは、女王が顔を隠しているさしば越しでもよく分かった。

 近江大津宮のすぐそばに、大友皇子とその正妃むかいめ十市女王の住む邸宅はあった。

 広大な敷地の邸宅には、寝殿とは別に客をもてなすためだけの区画があり、客殿と中島が設けられた池のある庭を有していた。

 高市王と十市女王は、その客殿にある吹き抜けのひさし(テラス)の板間に二人して円座わろうだ(藺草で丸く編んだ敷物)を敷いて座り、話し込んでいた。

 女王が胡座の邑を離れて一週間もしないうちに、情報は京に届いていた。

 女王の道行きについては本来極秘事項なので、皇族であっても耳に入れることは難しい案件なのだが、高市王は何とかして情報を手に入れては毎回わざわざ女王の下に出向き、自分の口から女王に報告しているのだった。

 大来女王の前の御杖代であった十市女王は、過酷な役目を引き継ぐことになった大来女王のことを殊の外心配しており、そのことを高市王もよく分かっていた。

 ただ、高市王は報告のためだけに赴いているわけではなく、「才あり」と認められた高市王は、「もう一人」と共にここ大友皇子の邸宅で方術を学ぶことが本来の目的だった。

 あくまでも話は「ついで」なのだが――

「わぁー!亀さん!」

 女王の息子である三歳の葛野王は、乳母や多くの侍女達と庭園にある池の縁にしゃがみ込み、楽しそうに笑っている。

 葛野皇子の微笑ましい振舞いを眺めながら、表向きは二人とも和やかに話をしていたものの、内心は相変わらずの過酷な旅程に心臓を掴まれるような苦しい思いをしていた。

「大津の奴には聞かせられない話ですよ。まさか大来が潜き女だなんて……!?」

「や!」

 高市王がふと視線を庭園の隅の方に向けると、そこに大友皇子が舎人達と共に立って微笑んでいる。

 高市王は慌てて傅いた。

 大友皇子はニコニコしながら黙って客殿の方を指さす。

 高市王は体を伸ばして、大友皇子が指差す方を見た。

「!!」

 庇の縁の下に隠れるようにして、「もう一人」が、両手いっぱいに人形ひとがたを握りしめた大津王が座り込んでいた。

「あー大津!?いつの間にそこに!?」

「……姉様の乳を見た者は何人ですか!?すべて吾が殺します!!」

「だー!!大后の前で何を言い出すんだ汝は!」

 顔が赤くなった高市王は素早く地面に降りると、大津王を縁の下から引きずり出して慌てて口を塞いだ。

「うむー!!」

「ワナワナ震えながら言ってるんじゃないよ!汝は力があるんだから、それ使ったら駄目って師父にも言われてるだろうが!本当に相手が死ぬんだぞ!大体、汝は大来の……を見たことあるんじゃないのぉ!?」

「ぶふっ……当然ありますとも!!」

 大津王は口を塞ぐ高市王の手を払うと、胸を張って答えた。

「じゃあ真っ先に汝が死ぬことになるだろうが!何やってんのもうやめやめ!」

 高市王は大津王から人形の束を取り上げた。

「あああおいたわしや姉様ー!!吾にもっと力があれば!!いくらでも姉様をお助けすることができますのにー!!」

 大津王は大泣きして叫ぶ。

「泣きたいのは吾の方だよ、まったくもう」

 高市王はため息をついた。

 いくら己や大津王に神通力があっても、大来女王の代わりにはなれない。

 天照大神を託けることができるのは女だけなのだから――

 別に女になりたいわけではない。

 だが、皇族の中でも最強と称される神通力を持ちながら、なぜ女として生まれてこなかったのか。

 その方がすべてにおいて円満だったのではないか?

 と、高市王が一時考えを巡らせた隙に、大津王は高市王の脇をすり抜けた。

「あ!?こら大津!」

 そして、止めようとする高市王を振り切って、面白そうに二人のやり取りを眺めていた大友皇子の前に駆け寄った。

「大王!!どうか姉様の願いをお聞き届けください!!今の吾には何もできませぬ!!どうか!!」

 大津王はその場にひれ伏して懇願した。

「姉様?……あぁ、あのことかぁ。汝の願いは聞き届けよう。志摩の民を悪いようにはせぬ。だから頭を上げなさい」

「いいえ!確約して下さるまで大津はここを動きませぬ!」

「……分かった分かった、案ずるな。大友の名に懸けて確約しよう」

 大友皇子は苦笑して答えた。

「誠にございますか!?」

 頭を上げ、袍の袖で顔を拭いた大津王は泣きながら満面の笑みを浮かべていた。

「ありがとうございます大王!!」

「もう泣き止みなさい。ほら、衣が涙と洟でべちょべちょじゃないか。それと……吾はまだ大王ではないし、できればここでは昔のように『伊賀』と呼んでくれないか」

「?はい!伊賀皇子!」

 大津王の顔に涙はなかった。

「叔父様と呼べ!……しかし彼奴の行動力すごいな。相変わらず」

 高市王は思わずつぶやいた。

 今までに何度も京を抜け出して姉に会いに行った大津王である。

 直訴など朝飯前というものなのだろう。

 己にもこの行動力があれば……と羨ましく思うと同時に、その度にわざわざ出向いて大津王を連れ帰っていた高市王は、

「大来の旅が終わるまで彼奴の尻拭いし続けんのかなぁ、吾」

 と、げんなりした顔で再びつぶやいた。

 大友皇子は終始優しそうな笑顔を崩さない。

 父亡き後、有象無象が蠢く京の内外で一人大王として立ち上がらなければならない大友皇子だが、片付けなければならない事案が沢山あり、簡単に吾こそ大王と宣言できる状態にはなかった。

 日々の激務の中で、この邸宅内での家族や古くから付き合いのある仲間との語らいだけが大友皇子の心を癒している。

 周りの人間にはそう見えていた。

「大津!修練の前にたがねでも如何です?」

「頂きます!」

 大津王は十市女王に手招きされると、あっという間に客殿まで走り、板間によじ上って水飴を貰って食べ始めた。

 高市王も大津王の行動の早さに呆れつつ元の席に戻り、水飴を頂戴している。

 大友皇子は葛野皇子も混じっての和気藹々とした様子を幸せそうな笑顔を浮かべて眺めながら、傍らの舎人に小声で指示を出した。

「法興寺に使いを出せ。大海人の叔父様が動く前に女王を回収しろ」

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鹿神 遊鳥 @D_inDeep

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