アメは雪が好き
大雪の日に遠くで花火の音がして、少女はひとりで家を出た。兄は毛布にくるまって本を読んでばかり。一緒に行こうという少女の誘いを断った。母には夕飯までには帰ると言い残したが、この雪では少し遅れるかもしれないと思った。
夕方に雪かきしたばかりなのに、もうブーツの足首のあたりまで積もっていた。雪に足を差し入れ、しっかり踏みしめ、そしてもう片方の足を前に出し、雪に足を差し入れ、またしっかり踏みしめる。そんな単調な作業をくり返している間も、雪は無言のまま天空から降りつづけていた。
遠くからまた花火の音がした。少女は顔を上げたが、降りしきる雪しか見えなかった。向こうの黒い空がうっすら赤く染まったように見えたが、それは花火ではなく、目の中を走る血の流れだったのかもしれない。
雪かきをしている人たちが大勢いた。こんな雪の夜にひとりで歩く少女を見ても、老人は少しも驚いた顔をしなかった。今日はお祭りなのだ。近所に住んでいても、お互い名前も知らなければ言葉を交わしたこともないが、今夜くらいは、心を開いてもいいかもしれない。少女は思い、こんばんは、とつぶやくように言った。向こうに届いているようには思えなかった。しかし老人は静かな声で、こんばんは、と少女に返してくれた。お互い無表情だったし、それ以上何も言わなかった。そのまま老人の横を通り過ぎてから、少女はうつむいたまま、小さなほほ笑みを浮かべた。
少女はなるべく広くてまっすぐな通りを選んで歩いた。このあたりの方が雪かきする人の数が多く、裏道よりもずっと歩きやすかった。彼らはときどき手を休めては、スコップにもたれて黒い空を眺めた。花火の音は確かにその空の向こうから聞こえていた。しかし、降りしきる雪のせいで何も見えなかった。
女の人に声をかけられた。おばさんのようだったが、フードをかぶっていて顔がよく見えなかった。もしかしたらまだお姉さんだったかもしれない。
「花火を見に行くの?」と女の人は少女に訊ねた。「はい」と少女は答えた。そんな言葉を交わしただけでも、今日はお祭りなのだという楽しい気分が少女の中でいっそう強くなった。
「道はわかる?」
「はい。夏によく行くので」
「そう。じゃ、気をつけてね」
女の人の声は少ししわがれているように聞こえた。やっぱりおばさんだったかもしれない、と少女は思った。
少女は姉がほしかった。五歳上の兄は少女に無関心だった。それは、兄が兄だからかもしれない。しかし兄が姉になったからといって、少女に関心を持ってくれるという保証はない。少女より五歳も上の人は、根本的にちがう生きものなのではないか。だからせっかくのお祭りの日に、家で毛布にくるまっているのだ。自分もまた、五年後にはあんな風になるのだろうか。そんなこと考えたくもない。それに、そんな先のこと考えようもなかった。
夏の日の花火よりも、冬の日の花火の方が少女は好きだった。雪のせいで音も光も複雑に乱反射して、花火との距離感がつかめなくなる。すぐそばのようでもあるし、ずっと遠くのようでもある。少女は去年も花火を見に行った。そのとき、足元の雪が鮮やかな緑色に輝いていたのを覚えている。顔を上げても花火は見えない。でも光だけがそこにある。その光は、雪から雪へと幾度も乱反射して、少女の元までたどり着いたのだ。少女はそのときそう信じたし、今もそう信じている。その夜、橋の上にたどり着いて直接目で見た花火よりも、その緑色に輝いた雪の方が、少女の記憶のなかでは大切な宝物になっていた。
T字路に近づいたところで、向こうから手を振る人の姿が見えた。雪のせいで顔は見えないが、誰だかすぐにわかった。少女と同じくらいの身長で、赤いコートを着て、耳当てのついた毛糸の帽子をかぶっている。少女は雪を蹴散らしながらその人のところまで走った。その人もこちらに近づいてきた。ぶつかる寸前にふたりとも足を止めて、残った勢いでお互いの体にしがみついた。ふたりの笑い声がした。
「遅ーい! 凍えるかと思ったよ」
「ごめん」
「お兄さんは来ないって?」
「うん」
「うちもみんな寒いから嫌だってさ」
いいよ、マルとふたりきりの方が。少女は思った。しかし言わなかった。「リュック、何入ってるの?」
「ココア。あとで一緒に飲もう」
「うん」
ふたりは歩き出した。端に雪が積まれて歩道が狭くなっているので、並んで歩くことはできない。マルが先頭で、少女が後ろについた。ふたりのあいだに降る雪がマルを遠ざけてしまうような気がして、少女はマルの後ろにぴったりくっついていた。
「歩きにくいよ!」マルは叫んだ。それでも、少女はマルから離れられなかった。
晴れた日なら、そろそろアーチ型の大きな橋が見えてくるころだったが、雪のせいで何も見えなかった。今ごろ、橋には大勢の人々が詰めかけているだろう。橋はサイクリングロードの一部で、車も通らないし、花火を眺めるにはうってつけの場所なのだ。
「毎年こんなだよね」マルが振り向かずに少女に言った。「天気悪くて、橋まで行かないと花火見えないの」
「天気、悪くないよ」少女は小さな声で言った。
「え?」マルは帽子の耳当てを持ち上げて聞き直した。
「天気、悪くない」
「ああ。そうだね。アメ、雪、好きだからね」
アメと呼ばれた少女はほほ笑んだ。マルは振り返らなかったけれど、マルもほほ笑んでいることはアメにはわかっていた。
アメはアメなのに雪が好き。そんな冗談は、ふたりのあいだで何百回、何千回くり返されたことだろう。マルにそう言われても、アメは嫌ではなかったし、むしろ少しうれしかった。他の人に言われたら嫌だったかもしれない。でもマルに言われると、自分が小さな子猫になって、優しく毛繕いしてもらっているような温かい気持ちになれるのだ。
短い急坂を下っているときに、アメは滑って小さな声をあげた。転ばなかったが、マルが振り返って「ここらへん滑るから気をつけて」とアメに声をかけた。マルの足取りはゆっくりになった。アメはマルのつけた足跡にそっと自分の足を置いていった。雪国育ちのアメにとって、雪道はそれほど苦ではないが、それでも、先を歩いてくれる人がいるのは心強い。
アメにとって、マルはお姉さんのような存在だ。同級生だけど、初めて会って友だちになった日から、その関係性はずっと変わっていない。いつまでマルはお姉さんでいてくれるのだろう、とアメは時々考える。以前、社会見学のとき、アメとマルが別々の班になってしまったことがある。前日の準備のとき、自分の班での話し合いから心が離れて、アメは遠くのマルの方をじっと見つめていた。マルはアメの方を一度も見なかった。放課後にはいつもの通り、一緒に帰ってくれた。どうして見てくれなかったの? と訊きたかった。ずっとマルのこと見てたのに、どうして話し合いなんかしてたの。わたしのそばにいてくれなかったの。
そう言いたかった。しかし心の中にとどめておいた。マルは本当のお姉さんではないからだ。本当の姉妹ではない。姉妹ごっこをしているだけ。班で真面目な話し合いをしているときに甘えようとしても、マルはごっこ遊びにつきあってくれない。きっと、「アメちゃん、どうしたの?」なんて言って、アメを不思議な目で見るのだ。普段は「アメ」と呼び捨てなのに、人目を気にしてるのか慣れない「ちゃん」づけで。そんな場面を想像すると、マルに甘えるのを躊躇してしまうのだ。
「アメ、どうしたの?」
マルの声がして、アメは雪の世界に戻ってきた。マルはこちらを振り返りもせずに歩き続けていた。
「なんでもない」アメは小さな声で言った。小さすぎる上に抑揚もなくて、声というよりただの吐息のようだった。
マルは答えなかった。アメもそれ以上訊かず、マルの後ろを歩いていた。
横断歩道を渡り、森林公園に沿って歩いて行った。住宅地を外れるととたんに雪が深くなった。公園ももう閉鎖されて雪置き場のようになっている。マルは雪に足を取られて、明らかに歩きにくそうだった。マルがつくってくれた足跡の上をアメは歩いた。しばらくするとマルの息が荒くなってきたので、「交代する?」とアメは訊いた。いいよ、と返事が聞こえたが、マルは足を止めた。そして、公園を囲う木の柵から雪を払って寄りかかると、リュックを降ろして中から水筒を取り出した。アメも真似して柵の雪を払い、マルの隣で柵に寄りかかった。
マルは水筒の蓋にココアを注いで、アメに渡した。マルの方が疲れてるのだから先に飲めばいいのに、とアメは思ったが、いつもの習慣なので順番は変えられない。ココアは熱く、雪はその湯気の立つ水面に触れる前に溶けてしまった。息を吹きかけて、アメはココアを少しずつ飲んだ。半分くらい飲んで、マルに渡した。マルはぬるくなったココアを一気に飲み干して、水筒の蓋を閉めるとリュックの中にしまった。
アメは足元の雪を見た。ふたりの足跡だけがあって、その周りにはまっさらな雪が積もっていた。
「これ、花火かな」アメは言った。
「どこ?」
「雪にちょっと色がついてる」
マルはアメの足元を見た。
「アメには何色に見える?」
「緑」
「そっか」マルは言った。「あたしも、緑に見える」
アメはマルの顔を見た。マルもアメの顔を見た。
「これ花火の光なんだ。街灯だと思ってた」
「街灯じゃないよ。ずっと遠くから反射して、ここまでやってきたの」
「あ、消えた」
アメが足元を見ると、本当に光は消えていた。
「行こう」マルはそう言って、アメの頭に軽く手を置いた。「もっと近くに行けば、もっと見えるよ」
そしてふたりは歩き出した。またマルが先頭で、その後をアメがついて行った。
花火の音は少しずつ大きくなっていた。人々の歓声もだんだん聞き取れるようになってきた。しかし花火は見えない。アメは雪の表面を注意して見ていたが、花火の光は届いていないようだった。
公園に沿ってつづく長いカーブを歩いて行った。一度、男の人とすれ違った他は、誰にも会わなかった。男の人は手に白いビニール袋を提げていた。花火を観に行ったのではなく買い物の帰りのようで、無表情だった。この人にとってはこんな日もいつもの一日なのだ。アメの兄と同じように。
ふたりが橋に着く前に花火が終わってしまわないか、アメは少し不安だった。あるいは、せっかく着いてもすぐに終わってしまうかもしれない。マルは何も言わず、ただ歩き続けた。急ぐでもなく、ただ、アメが転ばないように、一歩一歩、しっかりと道を踏みしめて。でも、もう少し急いだ方がいいかもしれない、とアメは思っていた。
サイクリングロードに入るスロープを降りていくと、橋の方に向かって人々が歩いて行く姿が見えた。ひとりの人もいるし、家族連れもカップルもいる。みんな帽子やコートが雪まみれなのに、少しも苦にせず歩いていた。向こうからみればアメたちもそんな風に見えるのだろう。表情は見えないが、ときどき笑い声がした。そして、花火の音がだいぶはっきり聞こえるようになっていた。
サイクリングロードをふたりは並んで歩いた。たくさんの人が歩いたおかげで雪は十分硬く踏み固められ、歩きやすくなっていた。さっきまで歩いていた道路をくぐるトンネルを抜けると、向こうの空が明るくなって、少し遅れてから花火の音がした。
「光ってるの、少し見えたね」マルが言った。
「うん。赤くなって、それから黄色くなった」
「あの落ちてくの火花かな」
そう言われてアメは降る雪の向こうをじっと見た。黄色い粒がいくつかゆっくり落ちていき、やがて消えた。
「そうかもしれない」
「それとも雪が光っただけかな」
「でも、それも花火だから」
「雪も花火?」
「うん」
マルは少し考えた。そして、「そうかもね」と言った。
マルは話を合わせてくれているだけなのかもしれない。アメは一瞬そう思ったが、そんな風に疑った自分が恥ずかしくなった。今日は、今日だけは、マルは本当のお姉さんなんだ。
ふたりで冬の花火を見に行くのはこれで最後かもしれない。今年の春、ふたりは中学生になる。中学生になると人は変わってしまう。兄も、小学生のころはアメとよく遊んでくれたのに、中学に上がるとアメのことを無視するようになった。マルもそうなってしまうかもしれない。そう考えると、アメは胸が締めつけられるように痛くなった。
ふたりは手をつないで歩いていた。このあたりは滑り止めの黒い砂みたいなのが蒔かれていて、滑って転ぶ心配はなかった。ふたりとも分厚いミトンをしているので、うまく相手の手を握ることはできない。それでもアメは、自分の手をつかむマルの手の力をかすかに感じることができた。
次第に光が見えてきた。雪空の向こうがさまざまな色に光り、あたりの雪も同じ色に照らされ明滅していた。道は緩やかな登り坂になっていた。道の脇にぽつぽつと露店が出ていて、甘酒やホットドッグや焼きそばを売っていた。ふたりとも温かいものが欲しかったが、少し遅くなってしまったので、先に花火を見てからということにした。
「初詣のときみたいだね」とマルが言った。「甘酒飲んであったまってる人たちがいて。あたし、こういうの好き」
アメは黙ったままうなずいた。
人出が多くなってきた。露店の前で立ち止まる人もいるので、少し歩きにくくなっていた。並んで歩くのをやめて、またマルが先頭になり、アメの手を引いて長い坂道を登っていった。露店の屋根の向こうで花火の光が見えた。まだ形ははっきり見えないが、空気も雪も、そして人々の顔も、花火の色に染まっていた。赤や黄色や緑の雪がとめどなく降り続けた。空の光が消えた後も、雪粒は舞い落ちる火の粉のように、長いこと輝き続けていた。
交通整理がされているものの、人波はすごい力で流れ続け、立ち止まることはできない。波に押されるままに歩き続けなければならなかった。
「手を離しちゃだめだよ! アメ!」マルが声を張り上げたが、周りがうるさくて、声はかき消されそうだった。声の小さいアメは、黙ったままこくんとうなずいた。しかしマルはこちらを見ていなかったので、マルの手を強く握った。すると、マルも強く握り返してくれた。
マルが振り返って何か言った。聞こえなかったが、何を言っているのかはわかった。花火が見えたのだ。橋から少し離れた河川敷の上で花火が楕円形に咲き、しばらく同じ場所できらめくと、白い光が緑色に変わり、やがて消えた。ここまで来ると光と音のずれはほとんどなく、雷のような轟きが周りの空気を震わせるのが全身で感じられた。
マルはアメの手を強く引いて、足早になって坂道を登っていった。アメもまた、マルに追いつこうと必死で歩き続けた。その間も花火はいくつも雪の向こうに姿を見せた。降りしきる雪が様々な色に染まり、人々の歓声と花火の音が大気を震わせた。マルも他の人たちと一緒に叫んでいた。アメもまた、小さな声で叫んでいた。もう少しも寒くなかった。暖かい部屋の窓辺でマルと並んで向こうの景色を眺めているような、近さと遠さがあった。
坂道をほとんど登り切ったところで、ふたりは花火を見物する人々の後ろに立った。橋のアーチの平らなところはかなり混雑していたので、その手前の少し斜度のついたところで我慢するしかなかった。マルがリュックから水筒を出して、また蓋にココアを注いでアメに渡した。ココアはまだ熱かった。息で冷まして半分まで飲むと、アメはマルに蓋を返した。マルは残ったココアを飲み干し、水筒をリュックに戻した。
前の男の人の背が高くて、これでは何も見えないのではないかとアメは思った。しかし花火はそれよりずっと高いところまで打ち上がり、咲いた。マルが声を上げた。アメも声を上げた。マルが顔を近づけてきて、一緒に声を合わせた。耳元で聞こえるマルの声が、アメには暖かく感じられた。マルの匂い。マルのぬくもり。マルは少し鼻水が出ていて、ときどきすすり上げていた。それはアメも同じだった。帽子もコートも雪まみれで、周りの人たちも同じような格好だった。寒くて震えている人、足踏みして温まろうとしている人、カイロを頬に押し当てている人がいた。しかし誰も立ち去ろうとはしなかった。花火が上がり、光を浴びた人々の顔は暖かい色に染まって、少しも寒そうには見えなかった。
花火の間隔が少し長くなっていた。待っているあいだにマルが「そろそろ終わっちゃうのかな」と言った。後ろの方でも、これで終わり? という女の人の声がした。アメはマルに身を寄せた。「寒いね」とマルは言って、アメの肩を抱きしめてくれた。アメの頬がマルの頬に触れた。ひんやりしたけれど、そうしているとすぐに温かくなった。
「終わるの、やだ」とアメはささやいた。いつもよりもさらに小さな声で、ひとりごとのつもりだった。でも、マルにははっきり聞こえていた。顔が触れあっているので、アメの声が頬を伝わって響いてきたのだ。
「あたしもやだよ」マルは言った。マルもいつもより小さな声だったが、アメにはちゃんと聞こえていた。「アメ、今日の花火ずっと楽しみにしてたもんね」
「花火が終わったら、冬が終わっちゃう」
「まだまだ寒い日はつづくよ」
「寒いだけだと、冬じゃないから」
「クリスマスが終わって、お正月が終わって、花火が終わって」
「あとは、寒いだけ」
「そして、気がついたら春になってるんだよね」
小さい花火がひとつ上がった。タンポポみたいだな、とアメは思った。春のお日さまみたいなタンポポ。光はしばらく同じところで留まっていたが、やがて音もなく消えた。
そして次々と花火が打ち上げられた。空一面が色とりどりの花火で埋め尽くされ、昼間のように明るくなった。アメとマルは声を合わせて叫んだ。
アメは、去年の夏マルと一緒に森林公園を歩いたときのことを思い出した。木々の間から太陽の光がこぼれ落ちてきて、森は虹のように無数の色を放って輝いていた。あのときの森が、この冬の日に、再び目の前に現れたようだった。あのときと同じように隣にマルがいる。アメはマルの手をぎゅっと握った。マルも握り返してくれた。この時間を少しでも長続きさせるように、アメは決して手を離さなかった。
花火が形を失ったあとも、しばらくは雪が火の粉のようにちかちかと輝いていた。しかしそれも消えると、あとには色の無い空に、色の無い雪だけが降り続けていた。人々のざわつく声が聞こえ、そして止まっていた人波が再び動き出した。マルはアメの手を引いて、帰る方角に進む人波に飛び込んだ。そしてまたマルが先頭に立ち、坂道を下っていった。ふたりはずっと無言だった。
サイクリングロードを出ると、だいぶ人の姿がまばらになってきた。行きにマルが踏みならした道はまた雪が覆い隠そうとしていた。一度だけ休憩を取って、公園の柵にふたりは寄りかかり、またココアを飲んだ。最後の一杯だった。
「屋台で何か買えばよかったね」とマルが水筒をリュックにしまいながら言った。
「わたあめとか」
「アメ、わたあめ好きだっけ?」
「あったかそうだから」
「ええー。それなら甘酒の方があったかいよ」
アメは黙っていた。風が強くなって、マルはフードをかぶった。
「でも、わたあめもあったかいかもしれないね」マルは言った。「風よけになってくれそう」
アメはうなずいた。
色の無い夜の町をふたりは黙って歩いた。いつしか雪はやんでいて、雲間から小さな星々が見えた。透明な空気の中に、アメは自分が次に言うべき言葉を探した。しかし、何かを言いたいという気持ちがあるばかりで、気持ちは言葉にならなかった。
T字路に戻ってきて、そこでマルとお別れになった。じゃあね、とマルは言った。じゃあね、とアメは言った。しかしアメはマルの手を離さなかった。マルは笑って、どうしたの、と言った。なんでもない。アメは言って、マルの手を離した。
「ねえ、マル」アメはマルの顔を見据えながら言った。「来年も、一緒に行ってくれる?」
「花火のこと? もちろん、アメと一緒に行くよ」
「来年も、一緒にいてくれる?」
ちょっと間があって、アメが何を言っているのかやっとわかったという顔で、「うん。アメと一緒にいるよ。だって、同じ中学に上がるんだし」とマルは言った。
アメはしばらく黙っていたが、マルの手を離して、「じゃあね」と言った。少し歩いて振り返ると、マルは大きく手を振ってくれていた。アメは小さく手を振り返した。気がつくと雪はやみ始めていて、ふたりの間には透明な色のない空間が広がっていた。その空間は少しずつ広がっていって、気がつくとアメはひとりで町を歩いていた。雪かきする人たちはみんな家に戻っていた。町は命を失ったように静かだった。
雪かきが終わった歩きやすい道をひとりで歩きながら、アメは泣こうとした。なぜだか胸が痛かった。泣けば、痛みの正体がわかる気がした。しかし泣けなかった。乾いた痛みだけが胸に残った。
明日もマルに会えるだろう。明後日もマルに会えるだろう。それでも、その奇跡みたいな偶然はいつか途切れ、やがて、会わないことが普通になる。自分が奇跡の中に生きていることを、アメは知っていた。そして奇跡はいつか終わることも。
雪が緑色に光っているのを見つけて、アメは小さく声を上げた。しかし近づいてみると、それは花火ではなく、街灯の光だった。アメは雪を見つめ続けた。じっと見ていれば、また花火の音が聞こえるかもしれない。しかし、何の音もせず、緑色の光は静かに雪を照らしつづけていた。自分の呼吸の音だけがきこえた。空気はあまりにも透明に澄んでいて、まるできれいな水のようだった。アメは深呼吸した。大きく吸って。長く吐いて。大きく吸って。長く吐いて。やがて体の中の空気がすっかり入れ替わり、胸が透明な水で満たされた。しかし穴の開いた水風船のように、水が少しずつ漏れ出ている部分があった。そこが痛んだ。アメはやっと泣くことができた。
「お姉ちゃん」
アメは言った。
「行かないで」
緑色は消えなかった。
【短編集】ホチキス姉妹と父の国葬とその他 残機弐号 @odmy
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