大人になっても覚えてる
会いたい人たちは誰ひとり同窓会に来ていなかった。数少ない当時の友だちも、ちょっと気になっていた男子も。ほとんど記憶にない人々とわたしはお酒を飲み、タイミングを見計らって相づちを打った。話題がそれぞれの夫や子供のことに移ったところでわたしは中座して、トイレに向かった。
会場に戻る途中で、知らない男性に話しかけられた。この人も同窓生なのだろうか。二十代にしてはずいぶんはげ上がっていて、頭頂近くまでおでこがつづいているようだった。しかし顔だけはずいぶんりりしくて、眉は鋭く、目鼻立ちがくっきりしていた。
「長谷さんですよね?」
「ええ、そうです」わたしは軽く会釈をした。
「谷垣です。どうも、お久しぶりです。二次会はどうされますか?」
「そろそろ、おいとましようかと」
「そうですか」男は残念そうに言った。それが社交辞令なのか、本当に残念がっているのかは、まだ会ったばかりなのでわからなかった。
ネームプレートをちらりと見ると、「谷垣カズオ」とあった。カタカナで「カズオ」。今の時代、カタカナの名前の人なんて滅多にいない。昔なら「タヅ」とか「ツネ」とかいう名前もあったそうだが、いずれにしてもそれは女性の名前だ。男性でカタカナの名前なんて初めてだ。本当は漢字なのにカタカナで書いただけなのかもしれない。和夫、和男、一雄、一男、一郎、数夫――、わたしはカズオを脳内で次々と辞書変換してみた。しかし、どうしても思い出せない。
「谷垣さんはどうされるんですか?」わたしは訊いてみた。
「僕も引き上げようと思っていたところです。話せる人がいないもので」谷垣は言った。
「僕」という一人称は大きなヒントだ。当時の男子たちはたいてい「俺」で、「僕」を使い続けていたのは少数派だった。そう考えると、確かにこんな人いた気もしてきた。りりしい顔で、「僕」が一人称のカズオ君。そしてわたし同様に友だちは少ない。
カズオ君と話したことはないかもしれない。少なくとも、わたしの記憶には残っていなかった。でも、彼が教室の片隅にいて、わたしの視界の端っこに毎日ひっそりとたたずんでいたとしても、あり得なくはないことだ。
そういえば、あのときクラスでは何を飼っていただろう? 教卓のそばに水槽が置いてあった気がする。その生きものも、わたしの視界に毎日入っていたはずなのに、記憶が像を結ばない。
もう帰るつもりだった。でも、もう少しこの谷垣カズオという男と話をしてみたかった。彼に興味があるというよりも、わたしの記憶のあり方をもっと点検してみたかった。
「そういえば、教卓のそばに水槽がありましたよね?」
谷垣カズオは不思議そうな顔をしたあと、何を言われているかやっとわかったという顔で答えた。「ああ。そういえばあった気がします。ずっとあぶくを上げていましたね」
「あぶく?」
「濾過装置ですよ。テストのとき、あぶくの音だけがポコポコ教室に響き渡るんです」
全く覚えてなかった。
「あそこで何を飼ってましたっけ?」わたしは訊いてみた。
「メダカではないでしょうか」
そんな小さい生きものだったろうか。たしか、ザリガニとかタガメとか、もっとゴツゴツした感じの生きものだったと記憶していたのだが。名前もうっすら覚えている。
「きゅーちゃんっていませんでした?」
「きゅーちゃん」
「水槽の中の生きものに、誰かがきゅーちゃんって名前をつけたんです。きゅーちゃん、きゅーちゃん、って餌をあげてる子がいた気がします」
「メダカにきゅーちゃんか……」谷垣カズオは眉にしわを寄せた。眉毛もまたりりしく、はげ上がった額の下に鮮やかなラインを描いていた。「もしかしたらメダカでなかったかもしれませんね。メダカにきゅーちゃんは少しへんだ」
「ザリガニだったのかも」わたしは言ってみた。「ザリガニにきゅーちゃんもへんだけど」
「毎日見ていたはずなのに、案外覚えてないものですね」谷垣カズオはりりしい顔のままで笑った。
わたしもほほ笑みを返した。
「ここは騒がしいから、もう少し落ち着ける場所に移りませんか? 昔のこと、じっくり思い出してみたいんです」
少し考えてから、「ええ、いいですね」とわたしは答えた。
谷垣カズオに何か他意があるかもしれない、とちらりと思ったが、彼はアルコールがまったく入っていないようだったし、顔がりりしくても特に色気もオーラもなかった。
幹事には何も言わずにわたしたちは会場を後にした。会費はもう払っているし、あの居心地の悪い会場には戻りたくなかった。クロークでネームプレートを預かってもらい、コートとバッグを受け取ると、外に出た。思ったより寒かった。考えてみたら会場ではあまり食べていなかった。当時ほとんど関わりのなかった同窓生たちに囲まれ、わたしは終始、接待モードで話を合わせていた。緊張で、食事する余裕なんてなかったのだ。
谷垣カズオがスマホで店を一所懸命探していた。真剣そのもので、りりしい顔がますますりりしくなっていた。はげ上がった頭にちょんまげが似合いそうだ。仕事のときもこんな顔をするのだろうとわたしは思った。
「すみません。お酒を飲まないもので、どういう店がいいかわからなくて」と谷垣カズオは弁解した。
「あ、大丈夫です。わたしもお酒飲まないので。ファミレスとかでもいいですよ。たしか近くにありましたよね?」
「いや、それではあまりにも」
「気を張らなくていい場所で、温かいものを食べたいんです」
それでも谷垣カズオはしばらく店を探していた。しかしとうとう諦めて、「すみません。それじゃあ近くのファミレスにしましょう」と言った。
信号をふたつ渡るともうファミレスについた。席に案内されて谷垣カズオと向かい合わせに座り、わたしはハンバーグと食後のコーヒーを注文した。谷垣カズオも同じものを頼んだ。彼も会場ではほとんど何も口にしていなかったのだ。
ハンバーグが来るまで、お互いのことを少し話した。ふたりとも平凡な大人になっていた。わたしは小さな私大の事務をしていて、彼は区役所の農林課職員だった。お互い離れた土地に住んでいた。わたしは明日の午前中、美術館を見てから帰るつもりだったが、彼は始発で帰ると言った。猫が家にいるので、あまり長い時間空けられないのだという。
ウェイトレスがわたしたちのハンバーグを運んできた。紙エプロンをして、ハンバーグにソースをかけると、鉄板の上でわざとらしくじゅうじゅうと音を立てた。音はすぐに静まった。わたしたちは黙々と食べた。本当におなかがすいていたのだ。とくにおいしいハンバーグではなかったが、緊張していた身体がほぐれ、温まっていくのを感じた。
慣れないおしゃれをしていた。二の腕が不必要にむき出しになっていて、高い位置で留めたベルトがちょっと苦しい。本当な猫背なのに、むりやり上半身が引き起こされているようだった。でも、接待モードをオフにして黙々とハンバーグを食べていると、気持ちが少しずつ安らいでいくのを感じた。まるで、もう家に帰ってこの窮屈な服を脱ぎ、お風呂で体を伸ばしているような気持ちだった。
気がつくとハンバーグをすっかり平らげていた。そしてもちろん谷垣カズオはまだ目の前にいた。人前でこんなに無心になって食事をしたのは久しぶりだ。彼もちょうど食べ終わったところで、紙エプロンをはずそうとしていた。わたしも紙エプロンをはずした。
「実はわたし、谷垣さんのこと覚えてなかったんです」わたしは言った。正直に言っても構わない気になっていた。
「やっぱり」谷垣はほほ笑んだ。「しかたありません。地味な人間ですから」
「わたしだって同じようなものですよ。友だちは少なかったし、今日も、話せる人が誰もいないからずっと愛想笑いしてたんです。高い会費を払って、似合わない服着て、せっかくの休日に何してるんだろうって。いたたまれなくなっちゃいました」
「僕は長谷さんのこと覚えてましたよ。今でもときどき思い出すんです」
それはどういう意味なのか。谷垣の顔は相変わらずりりしく、そして色気がなかった。照明に照らされて、頭の地肌が目立っていた。頭部の毛穴には産毛も生えていなかった。
「一度だけ、僕たちは隣同士の席になったんです。そのときも、今みたいにいろいろお話してました」
「そうなんですか」わたしは少し驚いて言った。「ごめんなさい。ぜんぜん覚えてなくて」
「いいんですよ。わたしも何を話したかはあまり覚えてません。でも、ひとつだけ、はっきりと覚えてることがあります。そのときの長谷さんの言葉が印象的で、それで今でもときどき思い出すんです」
「わたし、何を言ったんでしょう?」
過去の自分の発言なんて、普段なら耳をふさいでしまいたくなるところだ。しかしお腹が膨れて緊張がほぐれると、聞いてみてもいい気がしていた。まるで、霧に覆われた朝の森の中で珍しい茸を探す少女のように、無責任な好奇心があった。
「今日のこと、あたし、大人になっても覚えてるよ――長谷さんはそう言いました」
「その日、何かあったんですか?」
「いいえ。何も」
「唐突に言ったんですか?」
「ええ。とても唐突でした」谷垣カズオは言った。食後のコーヒーを一口飲み、少し間を置いてから、目を細めて言った。「よく晴れた秋の日のことでした。窓から暖かい日ざしが入ってきて、わたしたちの席を照らしていました。ひなたぼっこをしているようないい気持ちで、誰もカーテンを閉めようとはしませんでした」
「授業中ですか?」
「さあ。そこは覚えてません。授業中だったのか、休み時間だったのか。午前だったのか、午後だったのか。いや、でも午後だったかもしれない。適度な疲労感があって、身体も心も落ち着いていた記憶があります」
「そしてわたしが言った。今日のこと、ずっと覚えてるよ」
「今日のこと、あたし、大人になっても覚えてるよ」谷垣カズオは訂正した。「すみません。でも、あのときの長谷さんの言い方の方が好きなので」
「今日のこと、あたし、大人になっても覚えてるよ」
「そうです。あなたはそう言いました。僕の耳元で、あなたはそうささやきました」
谷垣カズオは夢見るような顔でささやいた。一瞬、わたしもその夢に引き込まれるような感覚に襲われた。しかし彼のはげ上がった頭部を眺めていても、その向こう側で見られている夢にわたしの心は届かなかった。
「残念ですけど、やはり覚えてません」わたしは言った。「そう言った記憶もないし、そのよく晴れた秋の日の記憶もありません」
「そうですか」
「たくさんの記憶のなかに混じってしまって、その一日が、どの一日なのか、見分けがつかないんです」
「そうですか」谷垣カズオはコーヒーを一口飲もうとした。しかしもう空っぽのようだった。
「ごめんなさい」
「謝ることではありませんよ」
「でも、その日のことずっと覚えてるって、自分で言ったのに何も覚えてないなんて」
「代わりにわたしが覚えてますから。もしあのとき長谷さんが何も言わなかったら、わたしもあの日のことを忘れてしまっていたと思います。長谷さんがああ言ってくれたから、わたしはあの日のことを今も覚えているんです。そして、長谷さんのことも」
わたしはもう少しがんばってみた。良く晴れた秋の日の、ひなたぼっこしているような午後のひととき。隣にいる谷垣カズオ君に、わたしはささやく。今日のこと、あたし、大人になっても覚えてるよ。
しかしそうして思い描いた場面は、過去の記憶というよりも、古い映画のワンシーンのようだった。日ざしを浴びるわたしをカメラが斜め前から捉えていて、その隣にいる谷垣カズオの顔は見切れてしまっている。この映画と谷垣カズオの記憶とが地続きにつながっているという確信は得られなかった。
ふたりともコーヒーをおかわりして、ほとんど黙ったまま飲み干した。他にも点検したい記憶はいろいろあった。当時の先生のことや、わたしが気になっていた男子のこと。谷垣カズオが教室でどんな風に過ごしていて、わたしと彼とはどんな関係だったのか。しかし、一番大切な記憶が思い出せない以上、他のすべてはつまらないおしゃべりのようにしか思えなかった。
わたしたちは話すことが無くなり、店を出た。会話が完全に途切れてしまっていた。わたしは谷垣カズオと並んで歩きながら、別の話題を懸命に探した。しかしそんなもの無かった。わたしは彼のことを何も覚えていないのだ。それどころか、彼が覚えている当時のわたしの言葉さえ覚えていなかった。わたしから見れば谷垣カズオは完全な他人だ。自分の底の底に眠る記憶に触れることができれば、彼は他人ではなくなるのかもしれない。しかし、どんなに手を伸ばしても、その記憶の井戸の底には触れられなかった。
わたしたちは交差点で別れ、それぞれのホテルに向かった。「今日は楽しかったです」と社交辞令で言葉を交わしただけで、連絡先の交換もしなかった。もう二度と、わたしは谷垣カズオに会わないだろう。それは悲しいことのはずだったが、彼のことを思い出せない以上、悲しいと思うことはできなかった。
チェックインは先に済ませてあった。カードキーで部屋に入ると、わたしは履き慣れないハイヒールを脱ぎ、窮屈な服も脱ぎ捨てた。そしてお風呂にお湯を張り、洗面台でメイクを落としてから浴槽に身体を沈ませた。
身体の中が冷え切っていた。さっき谷垣カズオとハンバーグを食べていたときは温まっていたのに、いつの間にか熱がどこかに消えていた。わたしは目を閉じて、ハンバーグを思い出した。ただのファミレスのハンバーグなのに、なんであんなにおいしかったのだろう。肉汁やらソースやらがどうこうというのではない。あのハンバーグが含んでいた熱がおいしかった。あの熱はエネルギーそのものだった。しかしそれはもうわたしの身体から逃れてしまっていて、何の痕跡も残していなかった。
その夜、わたしは昔気になっていた男子の夢を見た。
おとなしくて地味なわたしに、彼はよく声を掛けてくれた。プリントが足りないとか、教科書を忘れたとか、困ったことがあるとよく助けてくれた。彼はわたしの隣の席にいた。谷垣カズオもわたしの隣だったというが、もちろん、同一人物ではない。わたしの片想いの男子と隣同士だったのは秋ではなく冬だ。しんしんと雪が降り積もる薄暗い日に、わたしは彼の隣に座りながら、バレンタインチョコをつくってあげようと決意した。
その日のことを今でも覚えている。家に帰るとチョコを鍋で溶かし、ハートや動物の様々な型に熱いチョコを注いだ。冷やした後、何度も失敗しながらラッピングしてリボンを結んだ。でも、結局わたせなかった。二月十四日の朝、カバンにチョコを入れるとき、急にばからしくなったのだ。自分なんかが、なんで女の子みたいなことをしているのだろう。それに、渡したとして、それがいったい何になるのか。つきあってくださいと言えばいいのか。男子とのつきあい方なんてわからない。あまりに無謀なことのように思えた。それでチョコは机の引き出しにしまい込んで、学校から帰ってからひとりで食べた。なんだか水っぽかったのを覚えている。
あれからもう二十年近く経つのに、夢の中で、わたしはまだ彼のことが好きだった。わたしたちは手をつないでいた。そっか、これでいいんだ、とわたしは思った。つきあうとか、そんな難しいことを考える必要はなかった。ただ、好きな人と手をつないでいればいい。授業中でもわたしたちは手を離さなかった。わたしたちは先生の板書を書き留めるのをやめ、ふたりのあいだに広げられたノートで筆談していた。
「チョコ あげなくて ごめんね」わたしは書いた。「ちゃんと じゅんびしてたんだよ」
「いいよ」彼は書いた。「わかってる」
「らいねんは ぜったい わたすから」
「たのしみにまってる」
「わたしたち ずっといっしょにいようね」
「うん ずっといっしょにいよう」
「今日のこと あたし 大人になってもおぼえてるよ」
「おれもおぼえてる 今日のこと ぜったい」
「本当だよ」
「うん わすれない」
そして目が覚めた。
そこが自宅ではなくホテルだということを思い出すのに少し時間がかかった。自宅と言っても、今住んでいるマンションではなく、実家の子ども部屋で目を覚ましたのだとかんちがいしていた。
時計をみるとまだ起きる時間には少し早かった。しかしわたしはベッドから出て、顔を洗った。そして簡単に身支度をすると、小さなバッグだけ持って部屋を出た。
わたしは駅に向かっていた。彼は始発で帰ると言っていた。早足で行けばまだ間に合う。スーツケースに入れておいたスニーカーを履いていた。昨日のハイヒールよりもずっと歩きやすい。服装も、地味な紺のカーディガンに地味なブラウス、ベージュのコットンパンツの、いつものわたしだ。
駅に着くと、券売機で入場券を購入して、彼が乗るはずの新幹線のホームに向かった。たぶんその便で合っているはずだ。わたしは階段を駆け上り、ホームに出た。
新幹線はまだ来ていなかった。ホームに並んでいる人はまばらで、少し早く来すぎてしまったようだ。わたしはホームの端から端まで歩いて彼の姿を探したが、見つからなかった。まだ来ていないのか。便は間違っていないはずだ。彼の住んでいる場所に始発で帰るのならこれでまちがいない。それでも、まちがっているのではないかと不安だった。もしまちがっていたら、もう二度と会うことはできない。
本当に会いたいのかどうか、自信がなかった。自分がばかげたことをしているという気が拭いきれなかった。チョコを渡すのを諦めた、あのバレンタインの朝のように。しかし、まだ夢の感触を覚えている。細部はすっかり忘れかけていたが、自分がノートに書いたあの言葉を覚えている。
アナウンスがあって、向こうから新幹線が入ってくるのが見えた。ゆっくりと減速して、長い車体がホームにその全身を見せたところで、わたしは隣に気配を感じた。谷垣カズオが立っていて、わたしを見下ろしていた。今気づいたが、彼はわたしより頭ひとつ分高かった。
「昨日はどうも」谷垣カズオは言った。
「ええ、こちらこそ。ごちそうになってしまって」
「いえ、わたしから誘ったのですから当然です。それに、ただのファミレスの食事ですし」
なんだか夢を見ているような気分だった。本当なら会うはずのないところで会っているのに、そのことにお互い触れず、社交辞令のような会話を交わしていた。自然すぎて、あまりに不自然だった。
そしてわたしたちはしばし黙った。新幹線のドアが開き、人々がのろのろと乗車していった。わたしは彼らの様子を気にしていた。しかし谷垣カズオはわたしから目を離さなかった。
「これから美術館ですか?」谷垣カズオは訊いた。
「ええ。ホテルに戻って荷物をとってきてから、行こうと思ってます」
「そうですか。では、どうしてここに?」
やっと訊いてくれた。しかし、わたしは答えられなかった。わたしはなぜここにいるのだろう?
ただ、来ようと思った。来なければならないと思っていた。ただ来て、こうして谷垣カズオに会ってみたかった。しかし面と向かうと、何を話せばいいのかまったくわからなかった。
「美術館、ご一緒してもいいですか?」谷垣カズオは言った。
彼が何を言っているのか、理解するのに数秒かかった。
「そんな。だって、もう新幹線が来てますよ」
「ええ。もう来ています。でも、キャンセルします。何も始発で帰ることはないんです。猫だって、帰りが数時間くらい遅れても問題ないでしょう」
わたしは何も言わなかった。そして、やがて発車のアナウンスがあり、ドアが閉まると、新幹線はゆっくりと動き出しホームから姿を消した。それを見送ってから、わたしたちはホームの階段を降りた。
混雑する駅の構内で前を歩く谷垣カズオの背中を、わたしはじっと見ていた。彼はときどき振り返り、わたしがついてきているのを確かめると、何も言わずにまた前を向いた。わたしは彼の背中を見ながら思った。この背中を、わたしはずっと覚えているだろう。彼には見えなくても、わたしには見える。わたしだけがこの背中を見ていて、ずっと、死ぬまで覚えている。
三年後、わたしと谷垣カズオは結婚した。つきあい始めて最初の一年は何の進展もないままで、大人の恋愛とはとても思えなかった。それでも、一年もつづけると、少しだけお互い素直になっていった。軽口もたたけるようになった。しかし、何もかも話せるわけではない。
あの日、ホテルで見た夢のことを夫には話していない。たぶん、一生話すことはないだろう。あの夢に出てきたのは彼ではなく、わたしが当時好きだった男子なのだ。そして夢の中で、わたしはその男子のことが本当に好きだった。あんなに満たされた幸福な気持ちは、夫とつきあっていた三年間のあいだも、そして結婚してからも、一度もわたしの中に生まれなかった。それでも、わたしは彼といる時間にささやかな幸福を感じていた。そこに多少の物足りなさがあってもしかたない。それが、わたしと夫の関係なのだ。
わたしはまだ、昔同級生だったあの男子のことが好きだ。でも、その「好き」を大事に隠し持っていれば、その先には夫が待っている気がする。あの男子のことを好きだったのと同じくらい、夫のことが好きでたまらなくなる瞬間がいつか来る予感がある。そんな瞬間が、わたしにも来る気がする。
今日のこと、あたし、大人になっても覚えてるよ
わたしはずいぶん年を取ったのに、まだ自分が大人だとは思えない。いつか、大人になれる日が来るのだろうか。もしそのときが来たら、あの夢のことを夫に打ち明けようと思う。そして、数十年遅れのバレンタインチョコをわたすのだ。
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