小さなブルー

手紡イロ

小さなブルー


春眠暁を覚えずとはよく言ったものだ。男は苦笑に近い笑みを浮かべて、いい加減ガタが来始めた縁側を忍び足で歩み進む。朝食を食べ終えて仕事を終わらせるため篭っていた書斎から出て、妻の姿を探せば縁側で無防備に昼寝をしている、というのはこの時期ならではの光景だ。

いつまでもあどけなさを残す寝顔を覗き込んでから、静かに隣に腰を下ろす。座布団を敷かずに寝ていて大丈夫だろうかと毎度訊こうと思っては、昼寝を終えた妻の見た夢の話で盛り上がり機会を逃しているので、今日こそはと無意識に姿勢が正される。すると、必然的に視線は庭の方へ。妻がこの時期、縁側で昼寝をする理由が目の前に広がっている。

それは、小さな小さな、ブルーの花々。妻が愛でるこの花の名は何であったか、興味の無いことには一切疎い男は、無意味なことだとそれを思い出すのをすぐ止めた。

暫く経って、穏やかに閉じられていた妻の瞼がゆっくりと開かれる。「おはよう」と男が声をかけると、返事と欠伸が入り交じった言葉になり切れていない声が返ってきた。

いつものやりとりであるのに、それがとても微笑ましくなり、男は変に堪えたせいで思わず鼻で笑うことになってしまった。すると、手櫛で髪を整えていた妻が手を止めてムッとした顔をする。「そんなに可笑しいですか」と。馬鹿にされたと思ったらしい。

こんなに愛しい妻を馬鹿にして笑うものか。そっぽを向こうとした妻の肩を抱いて引き寄せ、頬に手を添え口付ける。

ほんの一瞬のことだ。だが、突然のことによほど驚いたのか、固まったまま男の腕に抱かれながら顔を真っ赤にさせる妻に、今度こそ本当に可笑しくて男は小さく声を出して笑った。恥じらう顔を見られたくないのか、妻はずるずると男の胸板まで体ごと沈み込む。くぐもった声が、誰かに見られたらどうするのか、と男に問う。「もう見られているよ」さらっと答えた男の言葉に勢いよく顔を上げて焦る妻に、今度は悪戯に笑って見せた。ほら、と庭へ視線をやる。

「君が手塩にかけている子供たち」妻が庭に視線を向けるのと同じくして、穏やかな風が静かに通り過ぎる。風にそよぐのは小さなブルーの花。二人はお互いの顔を見遣り、どちらともなく笑いあって――。


頬に伝った涙を拭い、男は体を横たえていた縁側から起き上がる。どのくらい眠っていたのだろう。時計を見るのも億劫で、ひとつ息を吐いてから庭へと顔を向けた。

小さな花。ブルーの小さな花。妻が愛でた、名前も忘れた花が辺り一面に咲いている。

誰もが平凡で幸せであり続ける日々を歩めると思っているのではないだろうか。それは男も同じだった。例え妻との間に子供が出来なくても、彼女が我が子のように育てていたこの花を共に愛でるだけで幸せな日々がずっと続くと信じきっていた。三年前、信号無視の車に撥ねられて妻が死んでしまうまで。

別れの言葉を交わすことさえも叶わなかった。最期の言葉は「いってきます」たったこれだけだ。当たり前の日常の一部分でしかない。あのときは亡骸にしがみついて慟哭したものだが、今の冷めきった頭ではその時の自分にどこか馬鹿らしささえ覚えている。

人でなしと言われようとも何とも思わない。何をしても妻は戻らないのだから。項垂れて未だに止めどなく涙を零して、かの日の幸せを幾度も夢で繰り返したところで、もう妻はいないのだから。

――ふと、穏やかな風が通り過ぎた。

何故かそれに懐かしさを覚えて、男は顔を上げる。その先には昔と変わらず、小さなブルーの花が咲いている。風に任せて静かにそよぐ。綺麗ね、と微笑んだ妻の声が蘇る。男はふと目を閉じて、遠い記憶を遡った。

「……ああ、そうだ」

呟いて、天を仰ぐ。堰を切ったように涙が流れて止まらなくなっていた。鮮明に蘇った記憶は、妻が男のもとに嫁いで暫くしてからのこと。

『あの……あの、お庭に花を、植えたいのですが……』

おずおずと、男の気を害さないように、ようやっと勇気を出してだろう、妻は初めてお願いをした。この時まで、妻とは必要以上の会話をすることは無く、夫婦という関係というには何かが欠落していた。

そんな日々を過ごしていた中、まるで怒られることを前提にして、自分を奮い立たせてと言った具合で。その様はどこか親に怒られるのを確信している幼子のようにも見えて、男はぽかんとした後に思わず吹き出してしまったものだ。その時初めて、男は妻に対して“愛しさ”を覚えた。

馴初めとして、男と妻の父親は共通の趣味があったことで親しくしており、是非娘とお見合いを、と半ば強引に結婚までに至った経緯があった。男は特段それ自体に不満も無く、むしろそのような機会が一度も無かったということもあり、ある種興味本位で結婚に応じたというところが最初の魂胆だった。

だが、この妻の勇気を振り絞ったお願いを切っ掛けに“相手を愛しく想う”ことが出来ると気が付けたのだ。びくついた様子の妻を優しく抱きしめ、今までの態度を詫びたら安心したのか泣き崩れて暫く縁側で慰めたことを思い出す。

そして、その時訊いたのだ。何の花を植えるのか、と。

『勿忘草という花です』

『……わすれなぐさ?』

『はい。嫁いだら、必ずこの花を植えると決めていました』

『それは、どうしてだい?』

泣いたせいで心做しか腫れぼったくなった瞼を擦りながら、屈託ない笑みを浮かべて妻は言った。

『花言葉……“私を忘れないで”というのです。どうか、何があっても夫となる方に忘れないでほしいから……』

小さなブルーの花――勿忘草が男の回想と共に、風に揺らぐ。

「忘れるわけが、ないだろう」

男は縁側から庭へと向かう。いつも手入れをする妻の後ろ姿を縁側で眺めていた自分。そのまま昼寝をしては手入れを終えた妻にずるいと言われ、男の腕を枕にしては、二人で勿忘草が揺らめくのを見ながら夢へと落ちていた。

勿忘草を前にして記憶が蘇る。男はその中から一輪手に取った。「ごめんな」と呟くと、ぷちっ、と茎のちぎれる音がする。妻が死んでから何の手入れもしていないというに、凛と愛らしい姿で勿忘草は咲き誇っていた。

「おまえは、ずっと私の妻だ」

男は縁側へと戻ると、ゆっくりと横たわる。そしてあの日の、妻と一緒に庭を眺めた日々を、一頻り家事を終えた妻が花を見ながら昼寝する姿を愛おしく見つめた日々を、勿忘草を植えたいと言ったあの日を、ひとつひとつ思い返しながら男は再び昼寝をしていた。

妻の愛した小さなブルーの花を胸に抱いて。



fin.

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