第6話 突然の……

「クソっ、俺としたことが……」


 みかんを助けようとしたあの日、狩野健斗は急な発熱により早退していた。

 ここ最近張り切って動き回っていた上に、初夏といえ冷や水を全身に浴びたことで、体調を崩してしまったらしい。


「山田みかん……数日休んでいるうちに俺のことを忘れてしまわないだろうか……」


 コラボカフェでの無邪気な笑顔や、西園寺たちから助けたときの可愛らしい笑顔が脳裏に浮かび、頬が熱を増す。ベッド脇に置いていた彼女のハンカチを手に取り、ぎゅっと握りしめる。


「クソ……」


 気を取り直して、漫画でも読もうかとスマホを手にとったその時だった。


「なん……だと……?」


 スマホの通知画面には、差出人である森の名前と衝撃の事実が表示されていた。


『山田さん、引っ越すんだって。なんか、お父さんの会社が倒産の危機で、うちの学園に居られなくなったらしい』


「ふざけるな……!」


(これだけ俺をその気にしておいて。このまま逃げられると思うなよ、山田みかん!)


 狩野はベットから飛び起き、慌てて外へ出る支度をし始めた。



 *



「お母さん、私の部屋の荷物詰め終わったよー」


「みかん、ありがと。ちょっと休憩しましょうか。お父さんも、疲れたでしょ」


「そうだな。お茶でも飲むか。お菓子がたしかこの辺に……」


 土曜日の昼下がり、山田家の面々は引っ越し作業を進めていた。荷詰めは終わり、あとは業者を待つばかり。


 コンビニで調達しておいたペットボトルのお茶を、みかんが両親に手渡していると、インターホンの音が鳴り響いた。


「誰かしらこんな日に。はーい、お待ちくださーい」


 そう言ってみかんの母が玄関に出て行ったのだが。

 その後すぐ、動揺する母の声が聞こえてきた。


「えっ、そんなの、困ります。というか、あなたは一体……」


「俺はみかんさんのクラスメイトで……」


「……狩野?!」


 聞き覚えのある声に、みかんは飛び出して行った。


「ちょ、なんであんたがここに……」


 玄関に立っていたのは、やはり狩野だった。

 しかもなぜか高級スーツに身を包んでいて、左右に筋骨隆々の大柄なボディーガードが控えており、それぞれジュラルミンケースを持っている。


「事情は聞かせてもらった。我が社が融資をしよう」


 狩野がパチン、と指を鳴らすと、ボディーガード二人が金属のケースをうやうやしく開ける。その中にはなんと札束が敷き詰められていた。


 しばしの静寂ののち、再度玄関のインターホンが鳴った。引越し業者が到着したのだ。


「ちわー。カエル引っ越しセンターです」


「おい! 待て待て待てえい! 引越しは取りやめだ。山田家はこの家を手放す必要はない!」


 引越し業者を必死の形相で制しようとする狩野。青い制服を着た業者の人間たちは、わけがわからないといった様子だ。


「あの、山田様、これはどういった……」


 業者の口を遮り、狩野は話を続ける。


「山田みかん。お父上の会社が大変らしいな。だが安心しろ、狩野エンタープライズはお父上のビジネスに共感し、融資をしようと考えている。これで家を手放す必要もないし、お前が学園を辞める必要もない! 一件落着だ!」


 そう言って高笑いした狩野の額には、冷感湿布が貼られている。


 ホースでびしょ濡れにしてしまった日から金曜日まで、狩野はずっと学校を休んでいた。きっとまだ熱が高いのだろうとみかんは思った。


「あの、狩野……。それ、どこ情報?」


「は?」


 狩野のスマホがポケット内で振動する。なかなか収まらないところ見ると、電話のようだ。


「先、電話でたら」


「うむ、悪いな……もしもし。森か」


『ごっめーん、狩野、誤報だったわ』


「誤報……とは?」


『山田さんが引っ越すのは本当なんだけど。単に借家から持ち家に引っ越すだけなんだって。その話に、お父さんの会社が大変だの転校するだの尾鰭がついてたみたい。ちょうど最近山田さんのお父さんの会社と似た名前の会社が経営危機に陥ったって話があって、混ざっちゃったみたいなんだわ』


「と……いうことは……」


 電話を切り、唖然とした顔をみかんに向ける狩野。


「転校……しないのか……?」


「家を引っ越すだけだけど」


「経営危機は……」


「父の会社は至って順風満帆だよ。まあ、狩野んちの会社に比べたら、ちっちゃい会社だけど」


「なんてことだ……」


「とりあえず、狩野。あんた顔赤いから送るわ」


「……」


 苦笑いをしながらタクシーを呼んでくれたみかんの両親にお礼を言いつつ、非礼を詫びつつ。狩野はみかんと共にタクシーに乗り込んだ。


「……悪かったな」


「いや、いいよ。面白かったし」


「面白くはない」


「いやいや、なかなかの破天荒具合で。漫画みたいで笑えた」


「……」


 まったく気にしていない様子のみかんに対し、珍しく狩野は落ち込んでいた。

 流石に空回りが過ぎたと思ったのだ。


(これで終わりだな……絶望的だ……)


 体を丸め、勝手に失恋の感傷に浸っているうち。狩野の家の前にタクシーがついた。


「山田はそのまま家に戻れ」


 タクシーを降りた狩野は、一緒に降りてこようとしたみかんを制す。しかしみかんは首を横に振った。


「いやいや、ここまで来たら家に入るところまで見送るよ……ところでさ」


「なんだ」


 タクシーが二人を残して出発する。少しの沈黙のあと、もじもじしながらみかんが口を開いた。


「あのさ、風邪治ったら……また一緒に、コラボカフェ行ってくんない?」


「え」


 想定外のみかんのセリフに、狩野は動揺した。

 わけがわからない、という顔をする狩野に、みかんは慌てて言葉を付け加える。


「いや、この間一緒に行った時、楽しかったから。あ、洋服着替えさせるのとか、メイクとかはなし! 一緒に行ける友達が欲しいっていうか……」


 りんごのようにほんのりと頬を染めるみかんの様子を見て、自然と狩野の頬も緩む。

 彼女の誘いが、素直に嬉しかったのだ。


(思えば、俺は自分のやりたいことを押し付けてばかりだったな)


「いいぞ……俺も、お前の好きなものが、もっと知りたい……気がする」


「え、ほんと? やった!」


 嬉しそうに顔を輝かせるみかんを見て、狩野の心はじんわりと温まり、心臓はぎゅっと掴まれたように苦しくなった。


(クソっ。地味な癖に、笑顔が可愛いんだよな、コイツ)


 衝動的に狩野の手がみかんの顎に添えられる。

 くい、と上を向かされたみかんは、目を丸くした。

 そして彼は目を閉じ––––唇を合わせようと––––したのだが。


「へぶっ」


 その瞬間、強烈な右ストレートを顔面にくらい、狩野はお尻からコンクリートに打ち付けられた。電撃が流れたかのように痛む尻。これは尾骨あたりが逝ったかもしれない。


 見上げれば、みかんは真っ赤な顔をして口をワナワナと震わせている。


「そういうの、少女漫画でしかありえないから!!」


 彼女はぷんぷん怒りながら、狩野邸をあとにした。


 尻餅をついたままの格好の狩野は、しばし尻の痛みに悶えていたが。

 そのうち腹を抱えて笑い出した。


「おもしれー女」


 熱は上がっているし、尻は痛むし、通行人には奇異の目で見られるしで、散々な状況であるのだが。最後に与えられた一縷の希望に、すでに狩野のメンタルは完全回復していた。


 みかんの言葉は、単に「お友達になりたい」という意味だったのだが。

 残念ながら、彼女の言動は狩野の恋の炎にまたも薪をくべてしまったようだ。

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