追憶都市
伊島糸雨
追憶都市
もうすぐこれも去年の話になる。
あれだけニコチンに依存していた先輩が、まだ半分以上も残った箱を研究室に置いて姿を消した。長年の澱のように染みつき一体となり漂っていた煙とコーヒーの燻んだ香りを、もう誰も憶えていない。感覚も、そこに付随した情動も、時間の檻の中で質感を擦り減らして、いつしか凡庸な言葉の平面に埋もれてしまった。先輩が何をまとっていたのか、いくつかの言葉だけが未だ表そうと浅ましくもがいている。あの人を扱い辛そうにしていた同僚も、主任も──私でさえも。
「大丈夫。都市だけは憶えてる」
あの人はそう言って、紫煙を吐くのが癖だった。面倒な物事を適当に誤魔化すために、どんな問答でも最後の最後にはそこに至った。ものぐさで、愛煙家で、不健康で衒学的なロクデナシ研究者。それがあの人に対する正当な評価であることに疑いの余地はない。私は未だに、用途不明の二万円も返してもらっていない。
でも、彼女が天才と呼ばれる種であったことも、その言葉の多くが間違いではなかったことも、私はよく知っている。情報構造建築管理システムからにおい分子の滞留履歴を参照すれば、そこには路地裏の粘つくシミにも似た痕跡が確かに見える。反響音声アーカイブを開き、人為的流動分析の結果をホログラムに反映すれば、そこには消えたはずの時間が残っている。異常分子構造学の新鋭と謳われた先輩が成し遂げたこと。あの人だけが、忘れ捨てられたいつかを追憶できた。
都市が見せる過ぎ去りし日の残影は、常に感触ばかりを欠いている。それは結局、情報としての価値のみが在り、言いようのない現実の再生にはなり得ない。あの匂いは消えてしまった。だから今は、私が代わりに煙を吐いている。
年末、研究室で夜を明かした最悪三歩手前の夜明けごろ、ひどい寒気で目を覚ます。あの人はベランダに続くガラス扉を全開にして、手すりに腕を乗せたまま二種の白煙を一息に吹く。ミニチュアじみた凹凸を成す鍋底の都市を眺め、奈落の坩堝へ誘う坂の、研究所や巨大企業の群れを一瞥する。宙を行き交う輸送機の鳥たち。冴え冴えと澄んだ空を光芒が裂き、あの人はふらっとこちらを向いて、夜通し映画を見た後の、うんざりしたような笑みを浮かべる。
「ああ、おはよう。君も吸うかな」
正直に言って、私は先輩が嫌いだった。
だらしなく適当で、戯れに最もらしい嘘八百をでっち上げては嬉々として撒き散らし、研究室の一画をミニシアターに改造して夜な夜な古い変な映画を退屈そうに流し続け、最低限の配慮以外は傍若無人に振る舞えるあの人を、口にしないままに何度罵ったかわからなかった。
あの人は、ひとりでも生きてゆけて、何よりひとりで死んでも構わない女だった。
そんな不適合者の背を追いかけたのは、ひとえに憧れて、尊敬して──黎明を知らせる熱や灰をうねらせる煙草の熾火のように、この上なく眩しかったからだ。
自分を慰めることも上手くできない。遺灰を生涯肌身離さず持ち続けるような馬鹿げた印象と理解している。けれどそのような残光が、眩暈にも似た残香をこそ、私は憶えていたかったのだとわかっている。
大丈夫。都市だけは憶えている。
欠片ほども癒しにならないそんな現実だけが、事実として先輩を再生できる。だから私は、数字と言葉の羅列になった拙い幻をいつまでも憶えている。忘却の代償に先輩のすがたかたちは消えていく。そしてきっと、私もいつか同じに変わる。
遺された最後の一本が煙に変わり、朝焼けの熱に蕩けて消える。かつて誰かがいたはずの、今はもう誰もいない研究室に冬の冷気が入り込む。私は私たちを見つめ続ける都市の最中に煙草を放る。私はこうして忘れてゆく。追憶の役は余所に任せて、その繰り返しにこの身を投げる。うんざりしたみたいに笑ってみせる。
もう、これは去年の話になる。
いつか私がいなくなっても、都市だけは憶えている。
追憶都市 伊島糸雨 @shiu_itoh
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