第2話 大変なことこそ楽しもう!

 二年後、とあるマンションの一室では慌ただしい朝を迎えていた。



「パパ、うんち」

「え、え、え、ちょっと待って」


 テーブルから滴り落ちる牛乳を何で拭いたらいいのかパニクっている俺の後ろで有希ゆきはおしりを押さえてパタパタとトイレに向かって駆け出した。とりあえずティッシュを箱から掴み出してテーブルの下に放り投げ有希を追いかけるが、時既に遅くトイレの中から鍵を掛けられてしまった。自分ではまだおしりが拭けないのだから鍵を掛けたら困るのは自分なのに、幼い有希にはそんなことはわからない。

 「だから鍵が掛からないように細工してって頼んだでしょ」という早紀さきの声が聞こえてきそうだ。先月から言われていたのに、対策を講じなかった俺の痛恨のミスである。


 トイレが悲惨なことになる前にとにかくドアを開けなければ! 俺はリビングに戻って小銭を探す。しかし、こういう時に限って見つからないものだ。何とか背広のポケットから十円玉を見つけ出し、トイレに戻って外から鍵を開けたら、おしり丸出しの有希が立ち上がってトイレットペーパーをカラカラ引き出している真っ最中だった。床にできた紙の山の中で、有希は覚えたての「メリーさんのひつじ」を実に楽しそうに歌っていた。

 俺は叫びそうになった自分の口を咄嗟に押さえ、有希を抱え上げると風呂場へと急いだ。早紀からは緊急時を除いて大声を出してはいけないと厳命されている。親の叫び声は子どもを萎縮させる害悪でしかないというのが彼女の考えで、俺もそれには賛成なのだがなかなか実践は難しい。楽しい遊びを急に中断させられた有希は足をバタバタさせて抵抗する。やめろ、やめてくれ、飛び散ったらどうするんだ!


 こんなことになったのは早朝、妊娠九ヶ月の早紀が急な腹痛を訴えて救急搬送されたからだ。俺は有希がいて動けなかったので病院へは早紀の母親に行ってもらったのだが、幸い大したことはなく、念のため出産まで入院することになった。


 自分で言うのも何だが、俺は家事育児にはかなり協力的な方だ。早紀もフルタイムで働いているんだから当たり前だと言われればそれまでだが、俺は食事も作るし、有希のおむつだって替えてきた。世の中のなんちゃってイクメンと一緒にされたくはない。

 とはいえ、家事の能力が早紀と比べると格段に劣ることは否めない。俺は仕事ができるという自負はある。しかし、仕事における先を読む能力は育児ではあまり役に立っていない。初めての子育てということもあるが、あまりにもイレギュラーなことが多過ぎるのだ。

 今もまた風呂場から飛び出した有希を追いかけて、濡れた廊下で足を滑らせすっ転んだ。そんな父親を見て有希はげらげら笑いながら部屋中を掛け巡っている。そう言えばあのこぼした牛乳はどうなった? 保育園への出発時間まであと何分だ? 俺だって早朝会議に間に合わなくなるぞ。いったいどうすりゃいいんだよ!


 その時インターホンが鳴って、おしり丸出しでテーブルの周りを走っていた有希が駆けつけた。こんな時間に誰だよと半ば苛立ちながらも、これ幸いにと有希を捕まえてモニターを見ると、見知った顔が映っていた。


賢志けんじ君!」


 早紀の体調が優れない時に何度か世話になった家事代行サービスの賢志君だった。俺より十歳以上も年下なのに、家事に関してはとんでもないプロだ。俺はすぐにロックを解除して賢志君に上がってきてもらった。地獄に仏とはこのことか! 玄関ドアが開いた瞬間に後光が差して見えたくらいだ。


「賢志君、来てくれたんだね。こんなに朝早く申し訳ない」

「いえ、早紀さんにこういうこともあるかもしれないと以前から頼まれてたんです。お役に立てて嬉しいです」


 なんと慈悲深い言葉なのか。それにしても、早紀の危機管理能力はなんと素晴らしいのだろう。とりあえずトレーニングパンツを穿かせた有希が躊躇なく賢志に駆け寄って抱っこをせがむ。彼は子どもを手懐ける能力も高いのだ。


「有希ちゃん、久しぶりだね。また一段と可愛くなったんじゃないかな? でも、お着替えした方がもっとずっと可愛いよ。さあ、今日はどのお洋服を着ましょうか」


 俺には絶対に真似できない技で手早く有希を着替えさせると、あっという間に髪を三つ編みにし、有希が大好きな塗り絵を出してリビングに落ち着かせた。それから台所に行って冷蔵庫を覗くと、わずか十分ほどで俺と有希の分の弁当を完成させてしまった。その間俺がしたことと言えば、自分の身支度と床に貼り付いたティシュを片付けることくらいだ。


「いつ見ても惚れ惚れする手際だね」

「ありがとうございます。でも、これが僕の仕事ですから当然のことです。それに早紀さんは普段からきちんと家の中のことを管理されているので、僕なんかが急に来ても困らないようになってるんです」


 確かに早紀は几帳面だが、賢志君が言うならかなりのレベルなんだろう。俺は自分が褒められているかのようにくすぐったい気持ちになった。その反面、早紀に頼りっ放しの自分が情けなくなった。


悠也ゆうやさんはよくやってらっしゃると思いますよ」

「そうかな。今回みたいなことがあると無力さを痛感するよ」

「今回は緊急事態ですから仕方ないですよ」「でも、普段から十分なことはできてないし、早紀にもたくさん迷惑かけてるのかもなって……」

 俺のしょぼくれた態度にも賢志君は決して嫌な顔はしない。それどころか菩薩のような笑顔でこう言ったのだ。


「僕、おふたりの関係ってすごく素敵だなって思うんです。何でも協力していつも楽しそうで。早紀さん前に言ってましたよ、私は夫選びに成功したって。自信を持ってください。そして楽しんでください。家事って工夫次第でいくらでも楽しくなりますから」


 俺は少年のあどけなさを残す賢志君の顔をまじまじと見た。確かに彼の言う通りだ。必死になって鬼の形相でやるより、楽しむくらいの余裕があった方が仕事でもいいアイデアが浮かぶのは体験済みだ。


「そうだな、遥かな道ではあるけど、俺だって少しずつ成長してるもんな。これからは家事を楽しむスタンスでいくことにするよ」


 俺はお絵かきに夢中の有希を見ながら、さっきまでの必死だった自分を思い返して苦笑した。


「ところで、時間は大丈夫ですか?」


 賢志君の声にふと我に返って時計を見た。


「え、あ、あー! 有希、有希、保育園行くぞ!」


 賢志と離れ難くてぐずる有希を抱えて、俺は玄関を飛び出した。


「後のことは早紀さんと連絡取ってやっておきますから安心して行ってらっしゃ〜い」


 追いかけてくる言葉に片手を上げてエレベーターに飛び乗る俺は、まだまだ家事を楽しむには程遠いレベルみたいだ。

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こんにちは、家政夫の谷岡賢志です② イクメンの誓い いとうみこと @Ito-Mikoto

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