後ろの席から

くれは

後ろの席から

 ヘア・ドネーションという言葉も、概念も、そいつに出会って知ったことだ。

 高校に入学して、前の席のやつの髪が背中の中程まであった。艶やかな黒髪を後ろで一つにまとめて、そいつはどちらかと言えば小柄で華奢な体格だったから、ぱっと見て女子かと思ってしまっていた。

 後から思えば、髪が長いから女子だなんてとんだ偏見も良いところだ。俺はそいつに出会って、自分の中にあった無自覚の偏見にも気付いたのだ。

 でも実際、他のクラスの男でそいつのことを好きだとかなんとか、そんな噂も立ったくらいだった。

「なんで髪伸ばしてんの?」

 そいつは何度も聞かれていた。俺は後ろの席だったから、その答えも何度も聞くことになった。

 その度にそいつは、嫌な顔もせずに笑って答えたのだ、ヘア・ドネーションのために伸ばしているんだと。髪の毛を寄付すると、それが病気などで髪を失わざるを得なかった人のためのかつらになるのだという。

 何度も聞いたせいか、その言葉は変に記憶に残ることになった。

「じゃあ、いつかはその髪も切るんだ」

「そうだな。だいぶ長くなったし、夏休みくらいには切ると思う」

 そんなやりとりを聞いて、せっかくの綺麗な髪なのにもったいないな、なんて俺は思ったりした。いやでも、そいつはそもそもそのために髪を伸ばしていたのだ。むしろ切って寄付しない方がもったいないんだろう。

 でも、と授業中に前の席の黒髪を眺める。後ろの席だと、嫌でもその髪の黒さが目に入る。

 なんの変哲もない、百均かどこかで買ったようなヘアゴムでまとめられた黒い長い髪。束ねられた向こうに見える、生え際と制服の襟の隙間、そのうなじ。

 こいつは寝るときはこの長い髪をどうしてるんだろうか、とぼんやり考える。髪はまとめるのか、まとめないのか。まとめないと長い髪が寝具の中で乱れて絡まったりするんじゃないだろうか。

 思えば、そうやって後ろからそいつを眺めていたときの俺はちょっとおかしかったんだと思う。毎日毎日、授業中にそいつの後ろ姿、その黒髪を眺めながら、気付けばそいつのことばかり考えていたのだ。

 だからと言って、別にどうということもない。

 そいつは正面から向き合って話せば、普通のヤツだった。俺も別に、好きだとか、恋愛だとか、そういう感情を抱いていたとも思わない。ただ、その後ろ姿、その長い黒髪、それだけが俺を狂わせていたのだ。自分でも不思議だったし、それが一体どういう感情なのか、ちっともわからないのだけど。


 ゴールデンウィークが明けて少しして、席替えがあった。俺は正直少しほっとしていた。これでもう、そいつの黒髪を見なくて済む、と思った。

 けれどどういう偶然か、そいつの席は俺の前になった。ちっとも状況は変わらない。黒板を見るために顔を上げれば、そこにそいつの黒髪があるのだ。妙に艶やかに、まるで俺の視線を誘うように、そこにある。

 結局俺はまた、そいつの黒い髪を毎日毎日眺めていた。今日は結ぶ位置がいつもより少し高いからうなじがよく見える、とか、生え際のところが少しほつれて乱れている、とか。そんなふうに、ずっと見ていた。


 そいつは前に言っていた通り、夏休みの間にヘア・ドネーションをしたらしい。

 夏休み明けに長い髪はさっぱりと短くなっていた。夏休みの間に背が伸びて、体格からも子供みたいな華奢さが失われつつあった。まるで別人のようになっていた。

 俺はほっとすると共に、何かを失ったかのような奇妙な空白を自分の中に感じていた。

 別に俺は何一つ失ってもいないのに。長く艶やかな髪を失ったのはそいつで、俺じゃない。なのにどうして俺がこんなに空虚な気持ちになっているのか。きっと俺はまだおかしい。そいつの黒髪は失われたのに。

 でもそうか、と思い出す。

 彼が長い髪を失ったのは、かつらを作るため。であれば、彼のあの艶やかな黒髪は、今頃誰かが艶やかに身に纏っているのかもしれない。

 その黒髪は、あのときのあの瞬間のそいつの面影と共に、そうやって誰かを助ける。助け続ける。あり続けるのだろう。


 夏休み明けすぐに席替えがあって、そいつとは今度こそ席が離れた。

 気付けば俺の中の変な気持ちは徐々に薄れていって、俺はそいつに対しても何も思わなくなった。俺の中にはまだ空白があったけど、それを埋めるのは彼ではなかった。

 では、何が埋めるのか、俺の中の空白を。

 街中で艶やかな黒髪を見ると、もしかしたらそいつのものかもしれない、と思って目が追いかけてしまう。その癖は、今でも引き摺っている。

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