カウントダウン
冲永
カウントダウン
僕がそのアカウントを見つけたのは偶然だった。
好きなアニメのキャラクター名「衣織」で、SNS内を検索した時に引っかかった、ノイズのような投稿だった。投稿主の丸いアイコン写真は、男女の顔半分から下のシルエットを、虹色の露光を入れて加工したもの。ありふれたカップルアカウントだと思ったけれど、IDがよく見ると不穏で、目の端に引っかかった。
@yukiori100die
day、ではなくdie、というあたり、実は心を病んでいる奴のアカウントなのかもしれない。その発見は僕を惹きつけた。僕は心の健康を失って久しかった。その時期は大学の夏休みだったが、僕にとっては関係の無いことだった。
【はじめまして、由希といいます。僕は病気で余命約三ヶ月です。写真は僕の彼女の衣織です】
アカウントの投稿はまだ数件だった。遡ったところ、その最初の投稿文に、目線だけスタンプで隠された女の子の写真が添えられていた。
この子、絶対かなり可愛いな。僕は瞬時にそう思った。
きっちりと巻かれた茶色い髪と、グロスで光る形の良い唇、襟の大きな白いブラウスと腰位置の高いスカートを着ている。なんとも、雰囲気が好みだった。僕の好きなアニメの中の「衣織」に似ていそうだった。
【死ぬまでに衣織との思い出を投稿していきたいと思います。これは喫茶店でデートしたときの写真です】
最新のその投稿には、レトロな喫茶店でクリームソーダを飲んでいる「衣織」の顔の下半分が添えられていた。グラスに添えられた爪は上品な桜色で、とても小さな手をしていた。
女の子の写真なんてインターネットのどこからでも持ってこれる。カップルというのは嘘で、病気も自演かもしれない。しかし、僕は退屈していた。大学は休学中、鬱症状に苦しみながら、だらだらとSNSを観続けるだけの日々に、少しでもスパイスを求めていた。
【自演か? 嘘じゃないなら彼女の写真もっとあげてくれ】
かっちりした文体からして、SNSにあまり慣れていなそうな「由希」を軽くリプライで煽る。生まれて二十年間、僕に彼女がいたことはない。あと三ヶ月で死ぬとしても、僕よりも由希のほうが幸せな人生を送っている、少しぐらい意地の悪いことをしたってかまわない、そんな風に思った。
【嘘じゃないです。証拠にまた彼女の写真をアップします】
僕のリプライにそう返事をしてきた「由希」は、早速、新しい写真を投稿する。テーブルの上に、ガパオライスと野菜サラダが盛られた洒落た皿がふたつ並び、その向こうで、小花柄のワンピースを着た「衣織」がピースサインをしている。彼女の顔は、丸いニコニコマークの画像がスタンプ加工として押されて隠されていた。でも、少し丸い輪郭と艶やかなロングヘアに、彼女の可愛さがにじみ出ていると思った。
【彼女が料理を作ってくれたときの写真です】
素直に、羨ましいな、と思った。明るい光のなかで食べる恋人の手料理は、きっととても美味しいだろう。僕は通信販売で買ったカップ麺をすすり、炭酸ジュースを飲みながら、「由希」へのリプライを考えた。
【病気ってほんと?】
礼儀知らずな質問だとは思った。でも、相手はインターネットの向こうの他人だ。僕は一日中、SNSを見るかソシャゲをする以外のことをしていなくて、その境目は失われつつあった。SNSの向こうの人間はゲームのキャラクターのように自分と遠い世界に住み、逆にゲームの中のキャラクターは汗と涙を流す存在のように身近に思えたりした。
【本当です。病名は、身元を特定されるので書けませんが、珍しいです】
僕が適当に投げるリプライに、「由希」は律儀にリプライを返してきた。何時でもすぐに返事が来た。まあ、こいつも病気で引きこもってるわけだしな。フォロワーもほとんどいないアカウントで、話し相手になってくれるなら、僕のような得体の知れない人間でも良いのだろう。
僕は千を超えるアカウントを常に見ているが、僕のフォロワーは数十人という哀しい有様、投稿の内容はやっているゲームや観ているアニメのこと、あとは病んだ鬱々とした、死にたい消えたいといった雑な文章ばかり、ゴミのような雑魚キャラだ。
でも、「由希」はそんな雑魚の僕のアカウントに、絡んでくるようになった。
【マルチの相手募集】
ある夜、僕がゲームの協力プレイを求めるメッセージを書いたところ「由希」から反応があった。
【僕でもいいですか。彼女もゲームが好きなので、下手だけど、たまに一緒にやってました】
彼女とわいわい言いながらのマルチプレイはさぞ楽しいだろう、と嫉妬しつつも、薄暗い部屋で僕は夜中まで「由希」とゲームをし、チャットで雑談を交わした。
【病人がこんな夜更かししていいのか?】【もう健康とか気にしても仕方ないんで笑】【笑えないわ】【ゲームできなくなるから入院したくないな】【入院すんの】【次に入院したらもう出られない筈】【せっかくだから彼女もマルチ呼ぼうよ】【衣織はもう飽きたらしくて、それに学生だから夜更かしできないんです】
その後も、何度かゲームを一緒にするたびにそんな会話をした。ある日、遂に僕は、抱いていた疑惑の核心に切り込んだ。「由希」が投稿する「衣織」の写真とエピソードは、いつも過去の物で、現在進行形ではないのだ。
【もしかして、彼女ともう別れてんの?】【そんなことないです。明日お見舞いに来てくれるので、その写真をアップします】【お見舞い?】【明日から入院するんです】
もう出られないんだよな。とは続けられなかった。翌日、病室の窓の前で、小さな花束を持っている「衣織」の写真が、「由希」のアカウントに投稿された。暖かそうなセーターを着ていた。なにか違和感があって、僕はすぐにその原因に気がついた。
今はまだ十月の初めだ。セーターを着るには早くないか?
【衣織が花を持ってきてくれました】
写真の中の彼女が持っている花の種類を、僕は検索して調べた。どれも、冬の花だと出てくる。勿論、今はどんな時期の花でも、ある程度は栽培できるだろうけれど、わざわざ季節外れのものを選ぶ必要はない。
【この写真、今のじゃないだろ】【やっぱり別れてたのか】【死ぬって嘘?】
いくつかリプライを送ったけれど、「由希」から返事は無かった。今までの投稿も、おそらく去年の冬までに撮られた写真だ。余命三ヶ月も信憑性が無くなる。しかし、入院しているのは本当っぽいし……などと、僕は混乱し始めていた。
僕は、「衣織」に会いたいと思っていた。由希が投稿する写真の「衣織」に、僕は恋し始めていた。顔もわからない、他人の恋人に。どうかしているのだろうか。しかし、僕の頭の中には、ある発想があったのだ。
——彼氏が死ぬなら、そのあと彼女にアプローチしても良くないか?
——彼氏の友達ポジションで、彼女を慰めるって、おいしくないか?
——こんなに好みストライクな女の子に、会うだけでもできないか?
その歪んだ考えは僕の心をとらえて離さず、「衣織」と「由希」に対する執着を増大させていた。ひとり、カーテンを閉め切った部屋に籠もって暮らしているうちに、僕は判断力を失いつつあった。
【今つきあってるって証拠見せろよ】
もう「衣織」に繋がる糸が切れていると、僕は思いたくなかった。
数日、反応は無かった。それから、誰でも見られる投稿ではなく、僕、個人宛に「由希」からメッセージが来た。写真が添えられていた。
僕が毎週楽しみに観ている、今期のアニメの最新話を背景に、「衣織」が写っていた。顔にはスタンプ加工は無かった。少し垂れ目がちで、色白で、唇が小さめの、想像以上に可愛い、僕の理想のような女の子が、そこにはいた。
【証拠です。衣織に、今だとわかる写真を、家で撮って送って貰いました】
どうやら、「衣織」はまだ「由希」と少なくとも連絡を取りあう仲ではあるらしい。しかし、では、なぜ今まで過去の写真ばかりを「由希」は投稿してきたのか。どういうつもりだったのか。
写真を見つめて、何をどう訊くべきか考えていたら、続けて新しいメッセージが届いた。
【今まで、話してくれてありがとうございました。嬉しかったです】
過去形が、悲しかった。会ったこともない、顔もしらない相手だけれど、僕は「衣織」だけでなく、「由希」自身にも好感を抱き始めていた。別れるのは寂しいと思った。
彼がいなくなったら、僕はまた、インターネットの中でもほとんどひとりぼっちの、誰にも相手にされない、無名の人間に戻ってしまう。
【僕は、病気で死ぬより前に、彼女と一緒に死のうと思っています】
待ってくれ。自殺なんてやめろ。いつも死にたいと鬱ツイートをしている自分を棚上げにして、そう思った。彼を止めたかった。だけど、どうせ病気で死ぬ人間をどうしたら止められるんだ。止める意味はあるのか。いや、「衣織」まで一緒に死ぬ必要は無い筈だ……僕はパニックを起こしかけながら、とっさに「由希」にメッセージを返していた。
【僕も死にたいとずっと思ってたんだ。アカウント見てたらわかるだろ。最悪な人生を降りたいんだよ】
僕の、希死念慮にとらわれた病んだ投稿が、初めてここで役に立った。最近は、余命の少ない「由希」が見ていると思うと、なんだか恥ずかしくて頻度は減っていたが、それでも夜中によく精神的に追い込まれては、死の衝動については書いていた。
【一緒に死なせてくれよ。手伝うから】
本心ではなかった。僕はとにかく、「由希」と「衣織」が一緒に死ぬのを、止めるつもりだった。
秋の海辺の倉庫街には、人の気配が無かった。使われていないという隅の倉庫には、足音がやけに大きく響いた。鉄の資材や大きなドラム缶が並ぶ、ぽっかりとした空間を、僕は緊張しながら歩いた。
僕たちはここで待ち合わせていた。密閉できる部屋があるので、練炭を使って死にます、と、「由希」はメッセージを送ってきていた。どの程度の確実性がある話なのかは知らなかったが、僕は実際は死ぬつもりではないので、そこはこだわる点ではなかった。
倉庫の扉を入って、右に歩いていくと、突き当たりに非常口があって、そこで待っている。
伝えられたとおりの場所に人影を認めて、僕は脚を早めた。キャップを深くかぶり、ジーンズを履いた、華奢な……その人物は、ひとりだけで、そこに立っていた。
ひとりだけで。
「……由希は?」
僕が尋ねると、相手は顔をあげた。写真の向こうにいる姿をずっと見つめていた、僕の理想の女の子が。
「由希は、一年前に死にました」
彼女の言葉は、僕の心に奇妙なほどにすとんと納得感を持って染み渡った。
そうか、君はもう、いなかったんだ。とっくに、この世界には。
「あの、衣織さんですよね?」
「はい」
神妙な顔で頷く彼女は、悟りをひらいた人のような、穏やかで澄んだ目をしていた。
「じゃあ、君が……」
「はい、ずっと、由希のふり、してました」
少しいびつにほほえんで、彼女はそう言った。
「……由希とわたしが、一緒にいたってこと、この世界のどこかに遺しておきたくて」
「死ぬつもりなんですか」
「そうです、あれは三ヶ月したら死ぬつもりで始めたアカウントです」
倉庫のほこりっぽい風に吹かれて、彼女のきちんと巻いた髪はもつれ気味だった。送ってくれた写真と違って、顔には化粧気は無かった。それでも、彼女はとても可愛かった。
「あの——僕、君のことが、好きです。絡んで、ってか、話してくれて嬉しかったし、ゲームしたのも楽しかったし、いつかは別れるのが悲しかったし——」
喋りながら、これは「由希」への感情だ、と思った。僕は「衣織」の外見だけに惚れた男の筈で、「由希」が死んだらその後は、と、ずるいことを妄想していた、ひとりぼっちの雑魚キャラの——。
「会ったこともなかったのに、気持ち悪いですか」
インターネットの向こうの他人、遠い世界のキャラクターのような存在、それと実際に生身で向き合うのは、僕にとってはものすごく覚悟がいることで。
だけど、僕は、何もせずに失いたくはなかったのだ。
「君たちを——君を止める為に、僕は外に出ました。君がいることに救われた人間が、この世に、すくなくともひとりはいて、まあ、こんな、どうでもいい人間だけど、それでも」
しどろもどろで、説得にもならないことを話す僕に向かって、彼女は優しい声で言った。
「気持ち悪くは、ないですよ——話してくれて嬉しかったです、ほんとうに」
ここで、さよならをしたら、意味が無い。僕のささやかな、だけど一世一代の勇気を振り絞った意味が。
僕は彼女を、まっすぐに見つめる。こんなことを自分が言う日が来るなんて、思っていなかった。
「もう少しだけでも、生きてみませんか。生きて、くれませんか」
この先に明るい未来がある予感なんて、僕だって持っていないけれど。それでも。
「好きなひとが死ぬのは、悲しいです」
その悲しさを、君は知っているのだから。
僕がそのアカウントを見つけたのは偶然だった。
今はもう、そのアカウントは存在しない。
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