水溶液〜俺は涙を流せない〜

譜久村 火山

第1話

 夏休みが明けてから、かなり経った気がする。それでもまだ蝉の声がわずかに残っていて、蒸し暑い日が続いていた。

 空には分厚い雲が居座っている。遅刻しそうだったとはいえ、傘を置いてきてしまったことが悔やまれる。

 俺は無人駅のホームに足を踏み入れた。

 通勤時だが、人はそこまで多くない。学生が数人と、スーツ姿のお兄さんが二人、雨を警戒してか狭い屋根の下で電車を待っている。

 俺もそこに仲間入りさせてもらった。トタンの壁を見ると、笹丸駅と書かれた看板がある。駅名の下には左向きの矢印があって、雨坂駅と書かれていた。これは一つ前の駅だ。そしてそこは幼馴染、中田里奈の最寄駅でもあった。

(里奈はちゃんと学校に来るのだろうか?)

 そんなことを考えていたら、屋根に取り付けられた安っぽいスピーカーが喋り出した。

「ただいま、人身事故により電車が遅れています。お急ぎのお客様には大変ご迷惑をおかけします」

 それを聞いた、若いサラリーマンの二人が話し始める。

「これ、ついこの間もありましたよね」

「そうだよな。そんな頻繁に電車に突っ込んで自殺する奴がいるのか」

「いやいや、人身事故イコール自殺とは限りませんよ」

 そんな会話を聞いて、俺の心は騒ぎ始めた。通学用の鞄から、茶封筒を取り出す。その中に、一枚のルーズリーフが入っている。

 俺はそれを広げた。なんとなく、周囲の人と距離をとって内容が見られないようにする。

 このルーズリーフは俺が里奈からもらった手紙だ。

 俺はそこに綴られた文字を上から順になぞっていく。しかし、内容は全然入ってこない。ただ一言だけ、閃光を轟かせるように頭へ殴り込んでくる言葉があった。

『死にたい』


 電車は17分遅れてやって来た。俺は余裕で遅刻だったが、遅延証明書をもらえたから問題ない。それより、ネットで調べた感じだと人身事故の内容は里奈の自殺ではなさそうで安心した。

 俺は周囲の景色を眺めながら、高校へ続く坂を登る。左手にはよく分からない寺の塀があり、道路を挟んだ向こう側は住宅街になっていた。

 そのとき、生臭い血と土が混ざったような匂いが鼻を刺激する。思わず、顔を顰めてしまった。

 そして、少し先で幼稚園児だろう黄色い帽子をかぶった男の子が泣いているのが聞こえてくる。それを母親らしき人が、慰めていた。

 男の子は、涙を流しているものの目は見開いており、道路上の一点を見つめている。俺も思わず、男の子が見つめている方に視線を移した。

 分厚い雲が、日光を遮り、街の彩りを減らしている。坂の上の方から、急流のように風が押し寄せてきた。

 そこにあったのは、猫の死体だ。俺は思わず、目を逸らした。車に轢かれたのだろうか。俺は一瞬しか見なかったが、その悲惨さは伝わった。

 よく見ると、男の子を慰めている母親も涙を流している。

 俺はその場に立ちすくんでしまった。猫の死体を直視できない代わりに、親子の涙が目に焼き付いてくる。今、世界の中心は頬を濡らしている親子であり、俺はそこから弾き出されてしまったような疎外感を感じた。自分がちっぽけな存在だと思い知らされる。

 俺の頬を涙が伝うことはない。昔からそうだった。どんなに評判の映画を見ても、俺は泣けない。

 そんな自分が、吐き気がするほど嫌いだ。

 母親は「思春期ってのはだいたいそんなもんで、年取ると涙腺なんて勝手に緩むわよ」と言っていたが、全く信じられない。

 そのときである。

 まぶたの下がわずかに濡れた。

 涙ではない。

 雨が斜めに降り込んできたのだ。

 それを合図に、次々と雫が落ち始めたのだった。雨は一秒ごとに強さを増していく。

「チッ」

 俺は舌打ちをして、足早に坂道を登る。途中で親子の横を通ったが、俺はまるで気付かなかったように二人を無視した。

 そしてまた、ため息をつく。


 ガラガラガラ……。

 2年1組の前の戸を開いた。何人かが、こちらを振り返る。中に入ると、木板でできた床が軋み声をあげた。遅刻をしたせいで、すでに朝のホームルームは終わっているようだ。

「遅延証明書はありますか?」

 教壇の上にいた、白髪の教頭先生が近づいてきた。彼の声はとても独特で、しわげれているものの、芯がありよく通る。

 担任の先生が「出張なので、明日のホームルームは教頭先生にお願いします」と言っていたことを思い出す。

 俺が駅でもらった紙切れを見せると、教頭先生はチラッと見ただけで、

「よろしい」

 と独特な声で告げて、教室を去っていった。

 廊下側の列にある、前から4番目の席。俺は自分の席に目を向けた。するとそこには、クラスメイトの工藤さんが座っており、近くの女子たちと談笑している。

 俺は無意識のまま歩いて行き、彼女を見下ろすようにして言った。

「どけよ」

 工藤さんは驚いたようにこちらを振り返ったが、すぐ申し訳なさそうに席を立った。

 目があってしまう。

 俺は気まずさから、ボサボサの髪を掻く。そして、隣の席をチラッと見た。そこは里奈の席で、通学鞄もかかっておらず、引き出しの中も空っぽである。それが、里奈が来てないことの証拠だが、沈黙を埋めようと俺は声を出した。

「あの、里奈はまだ来てないよな?」

「う、うん。そうみたいだね。あの、ごめんね、席、勝手に使って」

 そうやって工藤さんは何度も頭を下げながら、他の女子たちと教室を出て行った。俺は周りにバレない程度にため息をつく。

 やってしまった。工藤さんは何も悪くない。なのに、どうして俺の口から出た言葉は棘で満ちていたのだろうか。

 里奈が不登校になってから、クラスメイトはみんな俺に気を遣ってくれるようになった。

 里奈は、女子の友達はそこそこいるが、根が人見知りだ。特に男子となると、緊張してまともに会話できないらしい。そんな奥ゆかしさと、容姿が相まって、影ではかなりモテていた。そんな彼女だが、小学校からの幼馴染である俺とだけは普通に話してくれる。だから一部では俺と里奈が付き合っているという噂があることも知っていた。

 そんな背景もあり、クラスメイトは俺を気遣ってくれているのだ。

 だがそんな優しさが、ちくちくと刺さった。

 歯を強く食いしばって、自分自身に対する怒りを消化する。俺がこんなざまではいけないのだ。

 手紙の文字が頭をよぎる。

 俺が里奈を助けなければならないのに。何をやっているのだろうか。クラスメイトにきつく当たって、気を遣わせて、助けられる立場になっている。そうやって、支えられているのに、俺は何も里奈にできていない。何をすればいいのかも分からない。

 激しい痛みが、頭の奥底を襲う。

 キーンと五月蝿い耳鳴り。自分が自分でないような感覚。両手の震え。真っ暗な視界。俺はひたすら、それらに耐える。

 少しして、やっと一限目の開始を告げるチャイムが鳴った。


 しばらくして、一限目の終わりを告げるチャイムが鳴った。

 教材を引き出しに突っ込んでいると、俺は後ろから二の腕を掴まれる。振り返ると、田中昌雄が丸い指で俺を捕まえていた。

 昌雄は黙ったまま、俺を引っ張っていく。俺も黙って従った。

 こいつも、里奈と同じで小学校からの幼馴染だ。

 やがて昇降口を出てすぐのところにあるベンチにたどり着く。俺たちは並んで腰をかけた。昌雄のアフロヘアーが、視界の端で揺れる。

「何の用だ」

 俺がそう尋ねると、正雄は、

「ちょっと待て」

 と言って、ポケットからスマホと小型のスピーカーのような物を取り出す。そして、それらをコードで繋いで、スマホを起動し何やら操作し始めた。

 雨はいつの間にかあがったらしい。それでも空は厚い雲で覆われていて、あたりは薄暗かった。コンクリートが濃い黒に染まっている。

 俺は痺れを切らして、

「何の用だ」

 ともう一度聞いた。すると、

「用があるのはそっちじゃないのか。真由から聞いたぞ。お前の様子が、いつも以上に変だって」

 真由というのは、工藤さんのことだ。昌雄は、ぽっちゃりでアフロで実験オタクの科学部野郎のくせに、工藤さんという彼女がいた。

「おい、いつもは変じゃねぇよ」

 と俺はツッコミを入れておき、それから声のトーンを落として話し始めた。

「実はちょっと前に里奈から手紙をもらって、そこに『死にたい』って書いてあった」

「それで?」

 昌雄はまだ携帯で何かの設定をしながら、俺に先を促した。こいつはマイペースだけど、ちゃんと思いやりのある奴だ。

「俺は里奈を助けてやりたいけど、何をしたらいいか分からない」

「そうか」

 昌雄はただそう言っただけだった。こいつはそういう奴だ。自分からアドバイスしたり、注意したりしない。何を言ってもただ受け入れてくれるのだ。だから、こいつにはつい色々と相談してしまう。

 二人の間に、心地よい沈黙が落ちた。

「それ、何やってるんだ?」

 少しして、俺は昌雄の持っているスピーカを指さして言った。

「いつか、使えるかもしれない発明品」

「そのいつかはやって来るのか?」

「あぁ、意外とすぐその時はくるかもな」

 昌雄はそう言ってすぐまた作業に戻った。彼はスマホの画面だけを真っ直ぐ見つめる。それはあえて、他のものを視界に入れないようにしているようだ。

 長い付き合いで俺は分かっていた。

 昌雄は、マイペースだが周りがよく見える奴だ。だから、俺が気付かないことをたくさんすくい取っている。

 そして奴が作業に、意図的に、没頭するときは何かアイディアがあるときだ。昌雄は、それをこっちが必要として尋ねれば答えてくれるし、聞かなければ自分からは言ってこない。あくまでこちらの意思を尊重してくれる。

「どうすればいい?」

 俺は迷わずに質問した。里奈を助けるためなら、なんだってしたいという気持ちに嘘はない。

 昌雄は質問されるのを、予測していたように頷いた。しかし、少しの間作業を止めて宙を見つめる。答えるのを躊躇したようだ。

 やがて昌雄は意を決したようにもう一度頷いて言った。

「雨坂駅へ行け。そこにいけば、里奈に会える」


 二限目開始のチャイムが鳴った。

 俺は駐輪場にいる。さっき借りた鍵を、昌雄の自転車に差し込んだ。鍵をねじると、ガチャという音とともに、ロックが解除される。

「おいお前、何しとんのや」

 そこで声をかけられた。顔を上げると、権田先生が歩いてくるのが見える。生徒指導部らしいイカつい顔で、こちらを睨んでいた。

「早退します」

 俺はそう言って、サドルに跨った。

「戻れ阿呆。職員室、行ったんかおい」

 先生の声が響いたのと、僕が自転車を漕ぎ出したのはほぼ同時だった。俺はそのまま、先生の前を横切り駐輪場を出ようとする。

 しかし、気づけばコンクリートの地面が目前にあった。

 視界の端に、倒れてもなお車輪を回し続ける自転車が見える。

「まったく、何考えとるんや、このド阿呆が」

 俺に馬乗りしている権田先生が、呆れたように言った。俺は抜け出そうとジタバタするが、先生はがっちり俺を押さえている。

「おい、何しようとしとったんや。言ってみ」

 権田先生の声はため息混じりだった。だが、俺は何も言わない。この教師は信用できなかった。

 権田先生は里奈が所属していた水泳部の顧問だ。里奈は県でもトップレベルの実力で、期待されていた。だから、先生は里奈にとりわけ厳しかった。私生活にも、口出ししたらしい。校内で里奈が俺と話しているのを見た先生は、その後の部活で、

「色恋ごときに、ふぬけとる場合か!」

 と怒鳴ったらしい。

 でも、それだけならよかった。

 悪いことに、里奈は自分への期待を重く受け止めすぎるところがある。善意でかけられた言葉も、必要以上に裏を読み自身の心を抉るナイフに変換してしまうのだ。

 そうやって、期待に押しつぶされながらも彼女は懸命に部活に励んでいた。だが、それは長く続かず、彼女は次第に練習に参加しないようになる。

 そうなると、権田先生はまるで里奈なんて元からいなかったかのように振る舞った。廊下ですれ違って里奈が挨拶をしても、無視したらしい。

 そんなことの積み重ねが、ただでさえ弱っていた里奈の心をさらに蝕んだ。

 それを思い出すと、昔感じた権田先生への怒りが再燃してきた。それをエネルギーに変換して、俺は上半身をがむしゃらに振り回す。

 権田先生も抑えきれなくなったようで、俺の背中から腰を浮かせた。チャンスだと直感が叫ぶままに俺は手を大きく振りながら、体を反転させた。

 運が良いのか悪いのか、その手は、思いっきり権田先生の頬に直撃する。

 一瞬、時が止まったように俺も権田先生も硬直した。

 先に動いたのは先生の方で、気づけば俺は羽交締めにされいる。暴れる余地もないほど、きつく締め上げられていた。心は学校を出ようとしているにもかかわらず、体は引きずられるように校舎へ連れ戻されていく。

 先生は怒っているのか、顔を真っ赤にしているのが見なくても分かる。

 その荒い鼻息が、不快だった。


 俺は権田先生と向き合うような形でソファに腰を下ろした。

 曇天のせいか、応接室は薄暗い。電球のうち一つが、溜息を吐くように点いたり消えたりを繰り返している。

 先生は、じっと俺の目を見ていた。俺も負けじと、しょうもない面を睨み返す。

「なんか、文句でもあるのか」

「いや、ないです」

 俺は根負けして、視線を床に落とした。ついでに、肩も落として小さくなる。よりによってどうしてこの教師に見つかったのか。運が悪いとしか言いようがない。

(いや、神様は俺に里奈を助ける資格がないと言いたいのか)

 そう思うと、もう何もやる気がしなかった。

 何もできなかった自分に腹が立つ。人は変われると言い始めたやつを殴ってやりたい気分だ。俺はバレない程度に、眉を顰めたり、貧乏ゆすりをしたりした。

 すると今度は、そんなことしかできないのかと、さらにムカついてきた。

 電球のチカチカの頻度が増す。それは、小学生がゲーム機のボタンを連打するようなリズムで消えたり点いたりしていた。

 そのとき、放送が入る。あの教頭先生のしわがれた声だった。

「えぇ〜、権田先生、権田先生、直ちに職員室へ来てください」

 切羽詰まった声だった。緊急事態だろうか。顔を上げると、厳格な表情でこちらを見張っていた先生が、慌てたように立ち上がり、部屋を出ていく。

 そのとき、ドアとは反対側にある窓ガラスが開く音がした。振り返ると、昌雄の顔がある。

 昌雄はデブな割に軽い身のこなしで、応接室の中に入ってきた。手にはさっきベンチでいじっていたスピーカーが握られている。

「な、意外と早く出番が来ただろ」

 昌雄はニヤニヤしながら言った。

「気持ち悪りぃ」

 と俺が言ったことを無視して、昌雄はポケットからスマホを取り出し、画面を俺に見せつけてくる。そこにはデケェ文字で教頭先生と書かれており、その下にメガホンのマークがあった。

「文章を入力して、こいつを押せば、教頭先生がそのセリフを言ってくれるぜ」

 昌雄が言い終わって、ふんっと鼻を鳴らす。

 まるで使い道が限られた発明品だ。どうやらこいつは、俺が捕まることを予測していたらしい。

「早く、行ってこいよ」

 昌雄は吐き捨てるように言った。俺は長い付き合いで知っている。こいつが吐き捨てるように言う時は怒っている時だ。だが、呆れたり諦めたりしている時ではない。

 こいつはきっと、俺がここに連れてこられた時点で、運が悪いとか資格がないとか言って、里奈から逃げようとすることもお見通しだったのだろう。

 だから、怒っているのだ。

「ありがとう」

 俺はボリボリと頭を掻く。照れ臭さもあって、教頭のように掠れた声になってしまったが、声は確かに届いたのだと分かった。

 なぜなら、昌雄の頬を一筋の涙が伝っていたからである。

 思わず前のめりになって、声を出そうとした俺に、昌雄はただ頷いた。

「行け」と言っているのが、音にならなくても分かる。

 だから、俺は黙ったまま昌雄が入ってきた窓から外に出た。そのまま駐輪場に向けて走って行き、倒れたままの自転車を起こす。

 再びサドルに跨って、ペダルを踏んだ。俺の足に応えて、自転車は前に進んで行った。


 学校を出ると、今朝遅刻しながらも徒歩で登ってきた坂を、今度は全力で下った。猫の死体は、誰かが片付けたのかもう残っていない。

 空には常に分厚い雲が蔓延っていて、いつ降り始めてもおかしくない状況だ。車輪が濡れた地面を走って、シューッと音を立てている。ハンドルの操作を間違えば、転んでしまいそうだ。

 だが、絶対に速度は緩めない。むしろ俺は、強くペダルを踏み込んだ。倒れても良いと思った。今の俺にとってそんなことは重要じゃない。

 大切なのは、里奈を助けるという決意だけだ。

 別に学校に来させたい訳じゃない。それは里奈の人生だ。決定権があるのは、教師でも家族でも幼馴染でもなく、里奈自身である。俺に口出しはできない。

 けど俺は、里奈がその人生さえも捨ててしまうのは我慢ならなかった。確かに人生っていうのは辛い。人によって違うとは思うが、里奈の場合、人生という名の水溶液には苦悩が飽和しているのだ。

 でも、さっきの昌雄の涙を見て気づいたことがあった。俺たちは、涙を流すことによって人生における辛さや苦悩の割合を希釈しているのではないのか。

 だから、俺は里奈にこう言ってやりたかった。

「追い詰められたときには、泣いてもいいんだ」

 と。


 俺は雨坂駅のホームに足を踏み入れた。トンっ、トンっと自分の足音だけが聞こえてくる。顔を上げると、灰色の分厚い雲が、いつでも雨を落とせますよと言わんばかりに佇んでいた。

 俺はチッと舌打ちをして、ホームの奥へ歩みを進めた。視界の先端でわずかに見えている、あるものに惹かれるように。

 やがて俺はホームの一番端まで辿り着いた。冷たい風が、頬を掠めて通り過ぎていく。

 視線を落とすと、真っ白に塗られたフェンスがホームと外の畦道を区切っていた。そしてフェンスの足元にあったのは、花束である。

 それを見た瞬間、強風がボワっと襲いかかってきて、ボサボサの髪をかき上げた。同時に、忘れていた記憶が脳に雪崩れ込んで来る。

 里奈はすでに死んでいたのだ。

 夏休みが明けてすぐのことだったと思う。俺は笹丸駅で電車を待っていると、今朝のように人身事故があったためダイヤが乱れているという放送が入った。

 その時は何も疑わなかったけれど、教室に入った瞬間いつもと雰囲気が違うのがハッキリと分かった。埃っぽい教室の匂いをよく覚えている。

 そして、一限目のチャイムが鳴っても授業は始まらず、しばらくして入ってきた担任から告げられた事実。

 里奈が線路に飛び込んで、自殺した。

 淡々と語られたその事実に、俺は確か嗚咽を漏らしたはずだ。クラスメイトや担任の視線なんてまるでないかのように、叫んで吐きそうになったのを思い出す。

 そのときも、涙は出なかった。

 しばらくして、吐き気が治ると激しい自己嫌悪がやって来たのだ。里奈が死んだっていうのに、俺は泣くことすらできない薄情者なのかと、自分の心がズタズタになるまで責めた。

 そして気づけば、俺は保健室のベッドにいた。薬品の匂いに顔を顰めた俺は、ベッドをとり囲うピンクのカーテンを開けたのだ。するとそこにいた教頭が俺に色々と質問してきた。気分はどうかとか、ここはどこか分かるかとか、名前は言えるかとか。俺はそれらの質問に難なく答えた。

「中田さんのことがよっぽどショックだったのですね」

 最後に、教頭がボソッと言った。

「おい、里奈になんかあったのか」

 だが俺はそれを聞き漏らさず、教頭の肩を揺さぶるようにして問い質した。そんな俺の態度を見て、教頭が目を見開いたのを思い出す。

 そして教頭は思案した後に、

「いえ、中田さんは最近学校に来てなくて……いわゆる不登校になってしまったので、それが寂しかったのかなと思っただけですよ」

 と言った。その時は、何か引っかかるものを感じたが、すぐに忘れてしまったのである。

 そして、少し休んでから教室に戻った俺に対して、クラスメイトは最初距離を取っていたが、やがて俺がいつも通りだと分かると話しかけてきてくれた。

 工藤さんもその一人で、俺が里奈のことを尋ねると、

「えーと、不登校になっちゃって、寂しいね」

 と、涙を滲ませながら言ったのだった。不登校の部分がやけに強調された言い方だったはずだ。

 放課後になって昌雄と話したが、あいつも「里奈は不登校になった」と繰り返していた。

 頭の中に、応接室の光景が蘇ってくる。切れかけの電球がチカチカしていた。

 目の前で、昌雄が涙を流している。

「おい、どうして俺を雨坂駅へ寄越したんだ」

 俺が聞くと、妄想の中の昌雄が答えた。

「今朝、真由からお前のことを聞いた。真由はお前のことを『怖かった』と言っていた。だから、このまま放っておけばお前から、人が離れていく気がしたんだ。俺はお前を一人にしたくなかった。それで、そろそろお前も里奈の死と向き合わなければならないと思ったんだ」

 俺はもう一度、眼下の花束を凝視する。瞬きもせずに、じっと見つめた。瞳が乾いて、悲鳴をあげているにも関わらず、それでも涙は出なかった。

 再び、ドス黒い混沌が俺の胸に広がっていく。心の中はいろんな感情が入り乱れてぐちゃぐちゃだ。悲しさ、哀しさ、怒り、破壊衝動。負の感情が現れては心を蝕み、胸が苦しくなり、頭が痛み、それらに耐えるように歯を食いしばる。それでも、苦しみは消えず、それどころか増えていく。溢れた痛みは、嗚咽や悲鳴となって体外へ出た。

 そのときである。

 まぶたの下がわずかに濡れた。

 涙ではない。

 雨が斜めに降り込んで来たのだ。

 さらに一粒、もう一粒と天からの雫が俺の頬を濡らしていく。気づけば、ザザァーと音が聞こえるほど、雨脚が強くなっていた。

 まるで雨が俺の代わりに泣いてくれているようだ。

 頬を幾筋もの雫がこぼれ落ちていく。灰色の世界が、水滴に滲んでぼやけていくのを感じる。

 気づけば俺は、口角をグッと持ち上げ、歯を剥き出しにして笑っていた。

 さっきまでのドス黒い感情が、雨に洗い流されていく。

 俺は手紙を取り出した。雨に打たれて、ルーズリーフの色が変わっていくが、そんなことは気にしない。

 俺は上から、文章を読み始める。最初の方は、里奈の気持ちが書かれていた。本当に想像しきれないほどの葛藤があったことを思い知らされる。そして里奈の気持ちは、『死にたい』と締めくくられていた。

 でも、文章はまだ続いている。

 俺はさらにその下に視線を這わせた。そこには、俺へのメッセージが書いてあったのだ。

『ごめんなさい』

 まず書かれていたのは、謝罪の言葉だった。

「謝ることなんてないよ」

 俺は、雲の上にいる里奈に向かって言った。

『私はもう、この真っ暗な人生を歩いていく自信がないんだ。光を探そうと頑張ってみたけど、分かったことはどこまで行っても私には闇しかないってことだけだった。どうせそんな人生を送るなら、これ以上誰かに迷惑をかける前に、消えてしまいたい。でも、私がこんなこと言う資格がないのは分かってるけど、修には私の分まで生きて欲しい。大切なことから逃げないで』

 震えた文字は、そこで終わっていた。

 俺は天を見上げる。そこには、一面に黒い雲があって里奈の姿は見えない。そして、無数の雫が舞い落ちて来ていて、俺の頬を濡らしている。

『大切なことから逃げないで』

 猫の死体を直視できなかったのも、工藤さんに強く当たったのも、里奈の死を記憶から消していたのも全て防衛本能だった。つまり俺は逃げていたのだ。傷つくことから。

(なぜ、俺は泣けなかったのか?)

 やっと分かった気がする。俺の人生も、ストレスの飽和水溶液だった。もうこれ以上、苦しみや辛さ、そして悲しみが入り込む余地なんてなかったのだ。

 でも、涙を流してしまえば水溶液は希釈され、俺が今まで目を逸らしてきたものを受け入れなければならなくなる。もちろん、里奈の死も。俺はそれが怖かったのだ。

 俺はずっと素直じゃなかった。見て見ぬふりをしてきた。自分自身の心でさえも。

 でも、もう辞める。俺は俺のまま生きようと思う。里奈の分まで。

 そのとき、雨に滲んだ視界の中で、分厚い雲がまるで何かの意志によって動かされているかのように割れていくのを目にする。

 そして、雲間から漏れた一筋の光が、俺の前を照らした。

 俺はうずくまるようにして膝立ちになり、縋るように手を伸ばす。光を掴むことはできなかったが、それは確かに眩しかった。

 そのときである。まぶたの下がわずかに濡れた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

水溶液〜俺は涙を流せない〜 譜久村 火山 @kazan-hukumura

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ