一一
「ただはやらない。負けたほうが何かおごるんだぜ。いいかい」と迷亭君が念を押すと、独仙君は例のごとく
「そんなことをすると、せっかくの
「またきたね。そんな
「
「無線の電信をかけかね」
「とにかく、やろう」
「君が白を持つのかい」
「どっちでもかまわない」
「さすがに仙人だけあって
「黒から打つのが法則だよ」
「なるほど。しからば
「定石にそんなのはないよ」
「なくってもかまわない。新奇発明の定石だ」
吾輩は世間が狭いから碁盤というものは近来になってはじめて拝見したのだが、考えれば考えるほど妙にできている。広くもない四角な板を狭苦しく四角にしきって、目がくらむほどごたごたと
のんきなる迷亭君と、禅機ある独仙君とは、どういう了見か、きょうに限って
「迷亭君、君の碁は乱暴だよ。そんな所へはいってくる法はない」
「禅坊主の碁にはこんな法はないかもしれないが、
「しかし死ぬばかりだぜ」
「臣死をだも辞せず、いわんや
「そうおいでになったと、よろしい。
「おや、ついだのは、さすがにえらい。まさか、つぐ気づかいはなかろうと思った。ついで、くりやるな
「どうするも、こうするもない。一剣天に
「やや、たいへんたいへん。そこを切られちゃ死んでしまう。おい冗談じゃない。ちょっと待った」
「それだから、さっきからいわんことじゃない。こうなってるところへははいれるものじゃないんだ」
「はいって失敬
「それも待つのかい」
「ついでにその隣りのも引き揚げてみてくれたまえ」
「ずうずうしいぜ、おい」
「 Do you see the boy か。──なに君とぼくの
「そんなことはぼくは知らんよ」
「知らなくってもいいから、ちょっとどけたまえ」
「君さっきから、六ぺん待ったをしたじゃないか」
「記憶のいい男だな。
「しかしこの石でも殺さなければ、ぼくのほうは少し負けになりそうだから……」
「君は最初から負けてもかまわない
「ぼくは負けてもかまわないが、君には勝たしたくない」
「とんだ悟道だ。相変わらず
「春風影裏じゃない、電光影裏だよ。君のは逆さだ」
「ハハハハもうたいてい
「
「アーメン」と迷亭先生今度はまるで関係のない方面へぴしゃりと一
床の間の前で迷亭君と独仙君が一生懸命に
この鰹節の出所は寒月君のふところで、取り出した時はあったかく、手のひらに感じたくらい、裸ながらぬくもっていた。主人と東風君は妙な目をして視線を鰹節の上に注いでいると、寒月君はやがて口を開いた。
「じつは四日ばかり前に国から帰って来たのですが、いろいろ用事があって、方々駆け歩いていたものですから、つい上がられなかったのです」
「そう急いでくるには及ばないさ」と主人は例のごとく
「急いで来んでもいいのですけれども、このおみやげを早く献上しないと心配ですから」
「鰹節じゃないか」
「ええ、国の名産です」
「名産だって東京にもそんなのはありそうだぜ」と主人はいちばん大きなやつを一本取り上げて、鼻の先へ持って行ってにおいをかいでみる。
「かいだって、鰹節の
「少し大きいのが名産たるゆえんかね」
「まあ食べてごらんなさい」
「食べることはどうせ食べるが、こいつはなんだか先が欠けてるじゃないか」
「それだから早く持って来ないと心配だと言うのです」
「なぜ?」
「なぜって、そりゃ
「そいつは危険だ。めったに食うとペストになるぜ」
「なに大丈夫、そのくらいかじったって害はありません」
「ぜんたいどこでかじったんだい」
「船の中でです」
「船の中? どうして」
「入れる所がなかったから、ヴァイオリンといっしょに袋の中へ入れて、船へ乗ったら、その晩にやられました。鰹節だけなら、いいのですけれども、大切なヴァイオリンの胴を鰹節と間違えてやはり少々かじりました」
「そそっかしい鼠だね。船の中に住んでると、そう見さかいがなくなるものかな」と主人はだれにもわからんことを言って依然として鰹節をながめている。
「なに鼠だから、どこに住んでてもそそっかしいのでしょう。だから下宿へ持って来てもまたやられそうでね。けんのんだから夜は
「少しきたないようだぜ」
「だから食べる時にはちょっとお洗いなさい」
「ちょっとぐらいじゃきれいにゃなりそうもない」
「それじゃ
「ヴァイオリンも抱いて寝たのかい」
「ヴァイオリンは大き過ぎるから抱いて寝るわけにはゆかないんですが」と言いかけると
「なんだって? ヴァイオリンを抱いて寝たって? それは風流だ。ゆく春や重たき
東風君はまじめで「新体詩は俳句と違ってそう急にはできません。しかしできた暁にはもう少し
「そうかね、
「そんなむだ口をたたくとまた負けるぜ」と主人は迷亭に注意する。迷亭は平気なもので
「勝ちたくても、負けたくても、相手が
「今度は君の番だよ。こっちで待ってるんだ」と言い放った。
「え? もう打ったのかい」
「打ったとも、とうに打ったさ」
「どこへ」
「この白をはすに延ばした」
「なあるほど。この白をはすに延ばして負けにけりか、そんならこっちはと──こっちは──こっちはこっちはとて暮れにけりと、どうもいい手がないね。君もう一ぺん打たしてやるからかってな所へ一
「そんな碁があるものか」
「そんな碁があるものかなら打ちましょう。──それじゃこのかど地面へちょっと曲がっておくかな。──寒月君、君のヴァイオリンはあんまり安いから鼠がばかにしてかじるんだよ、もう少しいいのを奮発して買うさ、ぼくがイタリアから三百年
「どうか願います。ついでにお払いのほうも願いたいもので」
「そんな古いものが役に立つものか」となんにも知らない主人は
「君は人間の
「君のようなせわしない男と碁を打つのは苦痛だよ。考える暇も何もありゃしない。しかたがないから、ここへ一
「おやおや、とうとう生かしてしまった。惜しいことをしたね。まさかそこへは打つまいと思って、いささか
「あたりまえさ。君のは打つのじゃない。ごまかすのだ」
「それが本因坊流、金田流、当世紳士流さ。──おい
「だから君のような度胸のない男は、少しまねをするがいい」と主人が後ろ向きのままで答えるや否や、迷亭君は大きな赤い舌をぺろりと出した。独仙君はごうも関せざるもののごとく、「さあ君の番だ」とまた相手を促した。
「君はヴァイオリンをいつごろから始めたのかい。ぼくも少し習おうと思うのだが、よっぽどむずかしいものだそうだね」と東風君が寒月君に聞いている。
「うむ。一通りならだれにでもできるさ」
「同じ芸術だから
「いいだろう。君ならきっと
「君はいつごろから始めたのかね」
「高等学校時代さ。──先生私のヴァイオリンを習いだした
「いいえ、まだ聞かない」
「高等学校時代に先生でもあってやりだしたのかい」
「なあに先生も何もありゃしない。独習さ」
「全く天才だね」
「独習なら天才と限ったこともなかろう」と寒月君はつんとする。天才と言われてつんとするのは寒月君だけだろう。
「そりゃ、どうでもいいが、どういうふうに独習したのかちょっと聞かしたまえ。参考にしたいから」
「話してもいい。先生話しましょうかね」
「ああ話したまえ」
「今では若い人がヴァイオリンの箱をさげて、よく往来などを歩いておりますが、その時分は高等学校生で西洋の音楽などをやった者はほとんどなかったのです。ことに私のおった学校は
「なんだかおもしろい話が向こうで始まったようだ。独仙君いいかげんに切り上げようじゃないか」
「また片づかない所が二、三か所ある」
「あってもいい。たいがいな所なら、君に進上する」
「そう言ったって、もらうわけにはゆかない」
「禅学者にも似合わんきちょうめんな男だ。それじゃ
「そんなことはありません」
「でも、みんなはだしで兵式体操をして、回れ右をやるんで足の皮がたいへん厚くなってるという話だぜ」
「まさか。だれがそんなことを言いました」
「だれでもいいよ。そうして弁当には偉大なる握り飯を一個、夏みかんのように腰へぶらさげて来て、それを食うんだっていうじゃないか。食うというよりむしろ食いつくんだね。すると中心から梅干しが一個出て来るそうだ。この梅干しが出るのを楽しみに塩けのない周囲を一心不乱に食い欠いて突進するんだというが、なるほど元気
「質朴剛健でたのもしい気風だ」
「まだたのもしいことがある。あすこには灰吹きがないそうだ。ぼくの友人があすこへ奉職をしているころ
「うむ、そりゃそれでいいが、ここへ
「よろしい。駄目、駄目、駄目と。それで片づいた。──ぼくはその話を聞いて、じつに驚いたね。そんな所で君がヴァイオリンを独習したのは見上げたものだ。
「屈原はいやですよ」
「それじゃ今世紀のウェルテルさ。──なに石を上げて勘定をしろ? やに物堅いたちだね。勘定しなくってもぼくは負けてるからたしかだ」
「しかしきまりがつかないから……」
「それじゃ君やってくれたまえ。ぼくは勘定どころじゃない。一代の才人ウェルテル君がヴァイオリンを習いだした
「土地がらがすでに土地がらだのに、私の国の者がまた非常に
「君の国の書生ときたら、ほんとうに話せないね。元来なんだって、紺の無地の
「女もあのとおり黒いのです」
「それでよくもらい手があるね」
「だって
「
「黒いほうがいいだろう。なまじ白いと鏡を見るたんびに
「だって一国じゆうことごとく黒ければ、黒いほうでうぬぼれはしませんか」と東風君がもっともな質問をかけた。
「ともかくも女は全然不必要な者だ」と主人が言うと、
「そんなことを言うと細君があとでごきげんが悪いぜ」と笑いながら迷亭先生が注意する。
「なに大丈夫だ」
「いないのかい」
「子供を連れて、さっき出かけた」
「どうれで静かだと思った。どこへ行ったのだい」
「どこだかわからない。かってに出て歩くのだ」
「そうしてかってに帰って来るのかい」
「まあそうだ。君は独身でいいなあ」と言うと東風君は少々不平な顔をする。寒月君はにやにやと笑う。迷亭君は
「
「ええ? ちょっと待った。四六二十四、二十五、二十六、二十七と。狭いと思ったら、四十六
「君も細君難だろうと言うのさ」
「アハハハハべつだん難でもないさ。ぼくの
「そいつは少々失敬した。それでこそ独仙君だ」
「独仙君ばかりじゃありません。そんな例はいくらでもありますよ」と寒月君が天下の細君にかわってちょっと弁護の労を取った。
「ぼくも寒月君に賛成する。ぼくの考えでは人間が絶対の域に入るには、ただ二つの道があるばかりで、その二つの道とは芸術と恋だ。夫婦の愛はその一つを代表するものだから、人間はぜひ結婚をして、この幸福をまっとうしなければ天意にそむくわけだと思うんだ。──がどうでしょう先生」と東風君は相変わらずまじめで迷亭君の方へ向き直った。
「御名論だ。ぼくなどはとうてい絶対の
「
「ともかくも我々未婚の青年は芸術の霊気にふれて向上の一路を開拓しなければ人生の意義がわからないですから、まず手始めにヴァイオリンでも習おうと思って寒月君にさっきから経験談を聞いているのです」
「そうそう、ウェルテル君のヴァイオリン物語を拝聴するはずだったね。さあ話したまえ。もう邪魔はしないから」と迷亭君がようやく
「向上の一路はヴァイオリンなどで開けるものではない。そんな
「へえ、そうかもしれませんが、やはり芸術は人間の
「捨てるわけにゆかなければ、お望みどおりぼくのヴァイオリン談をして聞かせることにしよう、で今話すとおりの次第だからぼくもヴァイオリンのけいこを始めるまでにはだいぶ苦心をしたよ。第一買うのに困りましたよ先生」
「そうだろう麻裏草履がない土地にヴァイオリンがあるはずがない」
「いえ、あることはあるんです。金も前から用意してためたからさしつかえないのですが、どうも買えないのです」
「なぜ?」
「狭い土地だから、買っておればすぐ見つかります。見つかれば、すぐ生意気だというので制裁を加えられます」
「天才は昔から迫害を加えられるものだからね」と東風君は大いに同情を表した。
「また天才か、どうか天才呼ばわりだけは御免こうむりたいね。それでね毎日散歩をしてヴァイオリンのある店先を通るたびにあれが買えたらよかろう、あれを手にかかえた心持ちはどんなだろう、ああほしい、ああほしいと思わない日は
「もっともだ」と評したのは迷亭で、「妙に
「そんな所にどうしてヴァイオリンがあるかが第一御不審かもしれないですが、これは考えてみるとあたりまえのことです。なぜというとこの地方でも女学校があって、女学校の生徒は課業として毎日ヴァイオリンをけいこしなければならないのですから、あるはずです。むろんいいのはありません。ただヴァイオリンという名がかろうじてつくくらいのものであります。だから店でもあまり重きを置いていないので、二、三
「危険だね。
「いやそのくらい感覚が鋭敏でなければ真の芸術家にはなれないですよ。どうしても
「ええじっさい癲癇かもしれませんが、しかしあの
「
「私が毎日毎日店頭を散歩しているうちにとうとうこの霊異な
「それが天才だよ。天才でなければ、そんなに思い込めるわけのものじゃない。うらやましい。ぼくもどうかして、それほど猛烈な感じを起こしてみたいと年来心がけているが、どうもいけないね。音楽会などへ行ってできるだけ熱心に聞いているが、どうもそれほどに
「乗らないほうがしあわせだよ。今でこそ平気で話すようなもののその時の苦しみはとうてい想像ができるような種類のものではなかった。──それから先生とうとう奮発して買いました」
「ふむ、どうして」
「ちょうど十一月の天長節の前の晩でした。国の者はそろって泊まりがけに温泉に行きましたから、一人もいません。私は病気だといって、その日は学校も休んで寝ていました。今晩こそ一つ出て行ってかねて望みのヴァイオリンを手に入れようと、
「
「全くそうです」
「なるほど少し天才だね。こりゃ」と迷亭君も少々恐れ入った様子である。
「夜具の中から首を出していると、日暮れが待ち
「なんだい、その細長い影というのは」
「
「ふん、それから」
「しかたがないから、
「うまかったかい」と主人は子供みたようなことを聞く。
「うまいですよ、あのへんの柿は。とうてい東京などじゃあの味はわかりませんね」
「柿はいいがそれから、どうしたい」と今度は東風君が聞く。
「それからまたもぐって目をふさいで、早く日が暮れればいいがと、ひそかに
「そりや、聞いたよ」
「なんべんもあるんだよ。それから床を出て、障子をあけて、甘干しの柿を一つ食って、また寝床へはいって、早く日が暮れればいいと、ひそかに神仏に祈念をこらした」
「やっぱりもとのところじゃないか」
「まあ先生そうせかずに聞いてください。それから約三、四時間夜具の中で
「いつまで行っても同じことじゃないか」
「それから床を出て障子をあけて、縁側へ出て甘干しの柿を一つ食って……」
「また柿を食ったのかい。どうもいつまで行っても柿ばかり食ってて際限がないね」
「私もじれったくてね」
「君より聞いてるほうがよっぽどじれったいぜ」
「先生はどうもせっかちだから、話がしにくくって困ります」
「聞くほうも少しは困るよ」と東風君も暗に不平をもらした。
「そう諸君がお困りとある以上はしかたがない。たいていにして切り上げましょう。要するに私は甘干しの柿を食ってはもぐり、もぐっては食い、とうとう軒ばにつるしたやつをみんな食ってしまいました」
「みんな食ったら日も暮れたろう」
「ところがそういかないので、私が最後の甘干しを食って、もうよかろうと首を出して見ると、相変わらずはげしい秋の日が六尺の障子へ一面にあたって……」
「ぼかあ、もう御免だ。いつまで行っても果てしがない」
「話す私もあきあきします」
「しかしそのくらい根気があればたいていの事業は成就するよ。黙ってたら、あしたの朝まで秋の日がかんかんするんだろう。ぜんたいいつごろにヴァイオリンを買う気なんだい」とさすがの迷亭君も少し辛抱し切れなくなったとみえる。ただ独仙君のみは泰然として、あしたの朝までも、あさっての朝まででも、いくら秋の日がかんかんしても動ずるけしきはさらにない。寒月君も落ち付きはらったもので
「いつ買う気だとおっしゃるが、晩になりさえすれば、すぐ買いに出かけるつもりなんです。ただ残念なことには、いつ頭を出して見ても秋の日がかんかんしているものですから──いえその時の私の苦しみといったら、とうてい今あなたがたのおじれになるどころの騒ぎじゃないです。私は最後の甘干しを食っても、まだ日が暮れないのを見て、
「そうだろう、芸術家は本来多情多恨だから、泣いたことには同情するが、話はもっと早く進行させたいものだね」と東風君は人がいいから、どこまでもまじめで
「進行させたいのはやまやまだが、どうしても日が暮れてくれないものだから困るのさ」
「そう日が暮れなくちゃ聞くほうも困るからやめよう」と主人がとうとう我慢し切れなくなったとみえて言い出した。
「やめちゃなお困ります。これからがいよいよ佳境に入るところですから」
「それじゃ聞くから、早く日が暮れたことにしたらよかろう」
「では、少し御無理な御注文ですが、先生のことですから、まげて、ここは日が暮れたことにいたしましょう」
「それは好都合だ」と独仙君がすまして述べられたので一同は思わずどっとふき出した。
「いよいよ
「人迹のまれなはあんまり大げさだね」と主人が抗議を申し込むと「蝸牛の庵もぎょうさんだよ。床の間なしの四畳半ぐらいにしておくほうが写生的でおもしろい」と迷亭君も苦情を持ち出した。東風君だけは「事実はどうでも言語が詩的で感じがいい」とほめた。独仙君はまじめな顔で「そんな所に住んでいては学校へ通うのがたいへんだろう。何里ぐらいあるんですか」と聞いた。
「学校まではたった四、五丁です。元来学校からして寒村にあるんですから……」
「それじゃ学生はそのへんにだいぶ宿をとってるんでしょう」と独仙君はなかなか承知しない。
「ええ、たいていな百姓家には一人や二人は必ずいます」
「それで人迹まれなんですか」と正面攻撃を食らわせる。
「ええ学校がなかったら、全く人迹はまれですよ。……で当夜の服装というと、手織りもめんの綿入れの上へ金ボタンの制服
「ハワイは突飛だね」と迷亭君が言った。
「南郷街道をついに二丁来て、
「そんなにいろいろな町を通らなくてもいい。要するにヴァイオリンを買ったのか、買わないのか」と主人がじれったそうにきく。
「楽器のある店は
「なかなかでもいいから早く買うがいい」
「かしこまりました。それで金善方へ来て見ると、店にはランプがかんかんともって……」
「またかんかんか、君のかんかんは一度や二度ですまないんだから
「いえ。今度のかんかんは、ほんのとおり一ぺんのかんかんですから、べつだん御心配には及びません。──
「なかなか叙述がうまいや」と東風君がほめた。
「あれだな。あのヴァイオリンだなと思うと、急に
「ふふん」と独仙君が鼻で笑った。
「思わず駆け込んで、
「とうとう買ったかい」と主人が聞く。
「買おうと思いましたが、まてしばし、ここが肝心のところだ。めったなことをしては失敗する。まあよそうと、きわどいところで思い留まりました」
「なんだ、まだ買わないのかい。ヴァイオリン一梃でなかなか人を引っぱるじゃないか」
「引っぱるわけじゃないんですが、どうも、まだ買えないんですからしかたがありません」
「なぜ」
「なぜって、まだ
「かまわんじゃないか、人が二百や三百通ったって、君はよっぽど妙な男だ」と主人はぷんぷんしている。
「ただの人なら千が二千でもかまいませんがね、学校の生徒が腕まくりをして、大きなステッキを持って
「それじゃ、とうとう買わずにやめたんだね」と主人が念を押す。
「いえ、買ったのです」
「じれったい男だな。買うなら早く買うさ。いやならいやでいいから、早くかたをつけたらよさそうなものだ」
「エヘヘヘヘ、世の中のことはそう、こっちの思うようにらちがあくもんじゃありませんよ」と言いながら寒月君は冷然と「朝日」へ火をつけてふかしだした。
主人はめんどうになったとみえて、ついと立って書斎へはいったと思ったら、なんだか古ぼけた洋書を一冊持ち出して来て、ごろりと腹ばいになって読み始めた。独仙君はいつのまにやら、床の間の前へ退去して、ひとりで碁石を並べて
長い煙をふうと世の中へ遠慮なく吹き出した寒月君は、やがて
「東風君、ぼくはその時こう思ったね。とうていこりゃ宵の口はだめだ、といって真夜中に来れば金善は寝てしまうからなおだめだ。なんでも学校の生徒が散歩から帰りつくして、そうして金善がまだ寝ない時を見計らって来なければ、せっかくの計画が
「なるほどこりゃむずかしかろう」
「でぼくはその時間をまあ十時ごろと見積もったね。それで今から十時ごろまでどこかで暮らさなければならない。うちへ帰って出直すのはたいへんだ。友だちのうちへ話に行くのはなんだか気がとがめるようでおもしろくなし、しかたがないから相当の時間が来るまで市中を散歩することにした。ところが
「
「犬は残酷ですね。犬に比較されたことはこれでもまだありませんよ」
「ぼくはなんだか君の話を聞くと、昔の芸術家の伝を読むような気持ちがして同情の念に堪えない。犬に比較したのは先生の冗談だから気にかけずに話を進行したまえ」と東風君は
「それから
「十時になったかい」
「惜しいことにならないね。──紺屋橋を渡り切って川ぞいに東へ
「秋の夜長に川ばたで犬の遠ぼえを聞くのはちょっと芝居がかりだね。君は
「何か悪い事でもしたんですか」
「これからしようというところさ」
「かあいそうにヴァイオリンを買うのが悪い事じゃ、音楽学校の生徒はみんな罪人ですよ」
「人が認めないことをすれば、どんないい事をしても罪人さ、だから世の中に罪人ほどあてにならないものはない。
「それじゃ負けて罪人としておきましょう。罪人はいいですが十時にならないのには弱りました」
「もう一ぺん、町の名を勘定するさ。それで足りなければまた秋の日をかんかんさせるさ。それでも追っつかなければまた甘干しの渋柿を三ダースも食うさ。いつまでも聞くから十時になるまでやりたまえ」
寒月先生はにやにやと笑った。
「そう
この時主人はきたならしい本からちょっと目をはずして、「おいもうヴァイオリンを買ったかい」と聞いた。「これから買うところです」と東風君が答えると「まだ買わないのか、じつに長いな」とひとり言のように言ってまた本を読みだした。独仙君は無言のまま、白と黒で碁盤を大半うずめてしまった。
「思い切って飛び込んで、頭巾をかぶったままヴァイオリンをくれと言いますと、
「おいそんな安いヴァイオリンがあるのかい。おもちゃじゃないか」
「みんな
「夜通し歩いていたようなものだね」と東風君が気の毒そうに言うと「やっと上がった。やれやれ長い
「これからが聞きどころですよ。今まではたんに序幕です」
「まだあるのかい。こいつは容易なことじゃない。たいていの者は君にあっちゃ根気負けをするね」
「根気はとにかく、ここでやめちゃ
「話すのはむろん随意さ。聞くことは聞くよ」
「どうです苦沙弥先生もお聞きになっては。もうヴァイオリンは買ってしまいましたよ。ええ先生」
「今度はヴァイオリンを売るところかい。売るところなんか聞かなくってもいい」
「まだ売るどこじゃありません」
「そんならなお聞かなくてもいい」
「どうも困るな、東風君、君だけだね、熱心に聞いてくれるのは。少し張り合いが抜けるがまあしかたがない、ざっと話してしまおう」
「ざっとでなくてもいいからゆっくり話したまえ。たいへんおもしろい」
「ヴァイオリンはようやくの思いで手に入れたが、まず第一に困ったのは置き所だね。ぼくの所へはたいぶ人が遊びに来るからめったな所へぶらさげたり、立てかけたりするとすぐ露見してしまう。穴を掘って埋めちゃ掘り出すのがめんどうだろう」
「そうさ、天井裏へでも隠したかい」と東風君は気楽なことを言う。
「天井はないさ。百姓家だもの」
「そりゃ困ったろう。どこへ入れたい」
「どこへ入れたと思う」
「わからないね。戸袋の中か」
「いいえ」
「夜具にくるんで
「いいえ」
東風君と寒月君はヴァイオリンの隠れ
「こりゃなんと読むのだい」と主人が聞く。
「どれ」
「この二行さ」
「なんだって? Quid aliud est mulier nisi amicitiae inimica……こりゃ君ラテン語じゃないか」
「ラテン語はわかってるが、なんと読むのだい」
「だって君は平生ラテン語が読めると言ってるじゃないか」と迷亭君も危険だと見て取って、ちょっと逃げた。
「むろん読めるさ。読めることは読めるが、こりゃなんだい」
「読めることは読めるが、こりゃなんだは手ひどいね」
「なんでもいいからちょっと英語に訳してみろ」
「みろははげしいね。まるで従卒のようだね」
「従卒でもいいからなんだ」
「まあラテン語などはあとにして、ちょっと寒月君の御高話を拝聴つかまつろうじゃないか。今たいへんなところだよ。いよいよ露見するか、しないか危機一髪という
「とうとう古つづらの中へ隠しました。このつづらは国を出る時お
「そいつは
「ええ、調和せんです」
「天井裏だって調和しないじゃないか」と寒月君は東風先生をやり込めた。
「調和はしないが、句にはなるよ、安心したまえ。秋さびしつづらにかくすヴァイオリンはどうだい、両君」
「先生きょうはだいぶ俳句ができますね」
「きょうに限ったことじゃない。いつでも腹の中でできてるのさ。ぼくの俳句における
「先生、子規さんとはおつき合いでしたか」と正直な東風君は
「なにつき合わなくっても始終無線電信で
「それで置き所だけはできたわけだが、今度は出すのに困った。ただ出すだけなら人目をかすめてながめるぐらいはやれんことはないが、ながめたばかりじゃなんにもならない。ひかなければ役に立たない。ひけば音が出る。出ればすぐ露見する。ちょうど
「困るね」と東風君が気の毒そうに調子を合わせる。
「なるほど、こりゃ困る。論より証拠音が出るんだから、
「音さえ出なければどうでもできるんですか……」
「ちょっと待った。音さえ出なけりゃというが、音が出なくても隠しおおせないのがあるよ。昔ぼくらが
「おれが鈴木の味淋などを飲むものか、飲んだのは君だぜ」と主人は突然大きな声を出した。
「おや本を読んでるから大丈夫かと思ったら、やはり聞いてるね。ゆだんのできない男だ。耳も八丁、目も八丁とは君のことだ。なるほど言われてみるとぼくも飲んだ。ぼくも飲んだには相違ないが、発覚したのは君のほうだよ。──両君まあ聞きたまえ。苦沙弥先生元来酒は飲めないのだよ。ところを人の味淋だと思って一生懸命に飲んだものだから、さあたいへん、顔じゅうまっかにはれあがってね。いやもう
「黙っていろ。ラテン語も読めないくせに」
「ハハハハ、それで藤さんが帰って来てビールの徳利をふってみると、半分以上足りない。なんでもだれか飲んだに相違ないというので見回してみると、大将すみの方に
三人は思わず
「まだ音がしないもので露見したことがある。ぼくが昔
「なんです、のみびらかすというのは」
「衣装道具なら見せびらかすのだが、煙草だからのみびらかすのさ」
「へえ、そんな苦しい思いをなさるよりもらったらいいでしょう」
「ところがもらわないね。ぼくも男子だ」
「へえ、もらっちゃいけないんですか」
「いけるかもしれないが、もらわないね」
「それでどうしました」
「もらわないでぬすんだ」
「おやおや」
「やっこさん手ぬぐいをぶらさげて湯に出かけたから、のむならここだと思って一心不乱立てつづけにのんで、ああ愉快だと思うまもなく、障子がからりとあいたから、おやと振り返ると煙草の持ち主さ」
「湯にははいらなかったのですか」
「はいろうと思ったら
「なんとも言えませんね。煙草のお手ぎわじゃ」
「ハハハハじじいもなかなか眼識があるよ。巾着はとにかくだが、じいさんが障子をあけると二日間のためのみをやった煙草の煙がむっとするほど
「じいさんなんとかいいましたか」
「さすが年の功だね、なんにも言わずに巻煙草を五、六十本半紙にくるんで、失礼ですが、こんな
「そんなのが江戸趣味というのでしょうか」
「江戸趣味だか、呉服屋趣味だか知らないが、それからぼくはじいさんと大いに肝胆相照らして、二週間のあいだおもしろく
「煙草は二週間じゅうじいさんのごちそうになったんですか」
「まあそんなところだね」
「もうヴァイオリンは片づいたかい」と主人はようやく本を伏せて、起き上がりながらついに降参を申し込んだ。
「まだです。これからがおもしろいところです、ちょうどいい時ですから聞いてください。ついでにあの碁盤の上で昼寝をしている先生──なんとかいいましたね、え、独仙先生──独仙先生にも聞いていただきたいな。どうですあんなに寝ちゃ、からだに毒ですぜ。もう起こしてもいいでしょう」
「おい、独仙君、起きた起きた。おもしろい話がある。起きるんだよ。そう寝ちゃ毒だとさ。奥さんが心配だとさ」
「え」と言いながら顔を上げた独仙君の
「ああ、眠かった。
「寝たのはみんなが認めているのだがね。ちっと起きちゃどうだい」
「もう、起きてもいいね。何かおもしろい話があるかい」
「これからいよいよヴァイオリンを──どうするんだったかな、苦沙弥君」
「どうするのかな、とんと見当がつかない」
「これからいよいよひくところです」
「これからいよいよヴァイオリンをひくところだよ。こっちへ出て来て、聞きたまえ」
「まだヴァイオリンかい。困ったな」
「君は無弦の素琴を弾ずる
「そうかい。寒月君近所へ聞こえないようにヴァイオリンをひく法を知らんですか」
「知りませんね、あるなら伺いたいもので」
「伺わなくても
「ようやくのことで一策を案出しました。あくる日は天長節だから、朝からうちにいて、つづらのふたをとってみたり、かぶせてみたり
「いよいよ出たね」と東風君が言うと「めったにひくとあぶないよ」と迷亭君が注意した。
「まず弓を取って、きっ先から
「
「じっさいこれが自分の魂だと思うと、侍が
「全く天才だ」と言う東風君について「全く
「ありがたいことに弓は無難です。今度はヴァイオリンを同じくランプのそばへ引きつけて、裏表ともよくしらべてみる。このあいだ約五分間、つづらの底では始終こおろぎが鳴いていると思ってください。……」
「なんとでも思ってやるから安心してひくがいい」
「まだひきゃしません。──幸いヴァイオリンも
「どっかへ行くのかい」
「まあ少し黙って聞いてください。そう一句ごとに邪魔をされちゃ話ができない。……」
「おい諸君、黙るんだとさ。シーシー」
「しゃべるのは君だけだぜ」
「うん、そうか、これは失敬、謹聴謹聴」
「ヴァイオリンを小わきにかい込んで、
「そらおいでなすった。なんでも、どっかで停電するに違いないと思った」
「もう帰ったって甘干しの
「そう諸先生がおまぜ返しになってははなはだ
「いったいどこへ行くんだい」
「まあ聞いてたまい。ようやくのこと草履を見つけて、表へ出ると星月夜に柿落ち葉、
「知らないね」
「九時だよ。これから秋の夜長をたった一人、山道八丁を
「とんだことになってきたね」と迷亭君がまじめにからかうあとについて、独仙君が「おもしろい
「もしこの状態が長くつづいたら、私はあすの朝まで、せっかくのヴァイオリンもひかずに、ぼんやり一枚岩の上にすわってたかもしれないです……」
「
「こういう具合で、自他の区別もなくなって、生きているか死んでいるか方角のつかない時に、突然後ろの古沼の奥でギャーという声がした。……」
「いよいよ出たね」
「その声が遠く反響を起こして満山の秋のこずえを、
「やっと安心した」と迷亭君が胸をなでおろすまねをする。
「
「それから、我に帰ってあたりを見回すと庚申山一面はしんとして、雨だれほどの音もしない。はてな今の音はなんだろうと考えた。人の声にしては鋭すぎるし、鳥の声にしては大き過ぎるし、
「それから」
「それでおしまいさ」
「ヴァイオリンはひかないのかい」
「ひきたくっても、ひかれないじゃないか。ギャーだもの。君だってきっとひかれないよ」
「なんだか君の話は物足りないような気がする」
「気がしても事実だよ。どうです先生」と寒月君は一座を見回して大得意の様子である。
「ハハハハこれは上出来。そこまで持ってゆくにはだいぶ苦心
「そんなに遺憾ではありません」と寒月君は存外平気である。
「ぜんたい山の上でヴァイオリンをひこうなんて、ハイカラをやるから、おどかされるんだ」と今度は主人が酷評を加えると、
「好漢この
「そりゃ、そうと寒月君、近ごろでもやはり学校へ行って
「いえ、こないだうちから国へ帰省していたもんですから、
「だって珠がみがけないと
「博士ですか、エヘヘヘヘ。博士ならもうならなくってもいいんです」
「でも結婚が延びて、双方困るだろう」
「結婚ってだれの結婚です」
「君のさ」
「私がだれと結婚するんです」
「金田の令嬢さ」
「へええ」
「へえって、あれほど約束があるじゃないか」
「約束なんかありゃしません、そんなことを言いふらすなあ、向こうのかってです」
「こいつは少し乱暴だ。ねえ迷亭、君もあの一件は知ってるだろう」
「あの一件た、鼻事件かい。あの事件なら、君とぼくが知ってるばかりじゃない、公然の秘密として天下一般に知れ渡ってる。現に
「まだ心配するほど持ちあつかってはいませんが、とにかく満腹の同情をこめた作を公にするつもりです」
「それみたまえ、君が博士になるかならないかで、四方八方へとんだ影響が及んでくるよ。少ししっかりして、珠をみがいてくれたまえ」
「へへへへいろいろ御心配をかけてすみませんが、もう博士にはならないでもいいのです」
「なぜ」
「なぜって、私にはもうれっきとした女房があるんです」
「いや、こりゃえらい。いつのまに秘密結婚をやったのかね。ゆだんのならない世の中だ。苦沙弥さんただ今お聞き及びのとおり寒月君はすでに妻子があるんだとさ」
「子供はまだですよ。そう結婚してひと月もたたないうちに子供が生まれちゃことでさあ」
「元来いつどこで結婚したんだ」と主人は予審判事みたような質問をかける。
「いつって、国へ帰ったら、ちゃんと、うちで待ってたのです。きょう先生の所へ持って来た、この
「たった三本祝うのはけちだな」
「なにたくさんのうちを三本だけ持って来たのです」
「じゃお国の女だね。やっぱり色が黒いんだね」
「ええ、まっ黒です。ちょうど私には相当です」
「それで金田のほうはどうする気だい」
「どうする気でもありません」
「そりゃ少し義理が悪かろう。ねえ迷亭」
「悪くもないさ。ほかへやりゃ同じことだ。どうせ夫婦なんてものは
「なに鴛鴦歌は都合によって、こちらへ向けかえてもよろしゅうございます。金田家の結婚式にはまた別に作りますから」
「さすが詩人だけあって自由自在なものだね」
「金田のほうへ断わったかい」と主人はまた金田を気にしている。
「いいえ。断わるわけがありません。私のほうでくれとも、もらいたいとも、先方へ申し込んだことはありませんから、黙っていればたくさんです。──なあに黙っててもたくさんですよ。今時分は
探偵という言葉を聞いた、主人は、急に
「ふん、そんなら黙っていろ」と申し渡したが、それでも飽き足らなかったとみえて、なお探偵について
「不用意の際に人の懐中を抜くのがスリで、不用意の際に人の胸中を釣るのが探偵だ。知らぬ
「なに大丈夫です、探偵の千人や二千人、風上に
「ひやひや見上げたものだ。さすが新婚学士ほどあって
「
「熊坂はよかったね。一つと見えたる長範が二つになってぞ
「なあに、いいですよ。ああら物々し盗人よ。手並みはさきにも知りつらん。それにも懲りず打ち入るかって、ひどい目に会わせてやりまさあ」と寒月君は自若として
「探偵といえば二十世紀の人間はたいてい探偵のようになる傾向があるが、どういうわけだろう」と独仙君は独仙君だけに時局問題には関係のない超然たる質問を呈出した。
「物価が高いせいでしょう」と寒月君が答える。
「芸術趣味を解しないからでしょう」と東風君が答える。
「人間に文明の
今度は主人の番である。主人はもったいぶった
「それはぼくがだいぶ考えたことだ。ぼくの解釈によると当世人の探偵的傾向は全く個人の自覚心の強すぎるのが原因になっている。ぼくの自覚心と名づけるのは独仙君のほうでいう、
「おやだいぶむずかしくなってきたようだ。苦沙弥君、君にしてそんな大議論を舌頭に弄する以上は、かく申す迷亭もはばかりながらおあとで現代の文明に対する不平を堂々と言うよ」
「かってに言うがいい、言うこともないくせに」
「ところがある。大いにある。君なぞはせんだっては刑事巡査を神のごとく敬い、またきょうは探偵をスリ泥棒に比し、まるで
「刑事は刑事だ。探偵は探偵だ。せんだってはせんだってできょうはきょうだ。自説が変わらないのは発達しない証拠だ。
「これはきびしい。探偵もそうまともにくるとかあいいところがある」
「おれが探偵」
「探偵でないから正直でいいと言うのだよ。けんかはおやめおやめ。さあ。その大議論のあとを拝聴しよう」
「今の人の自覚心というのは自己と他人の間に
「なるほどおもしろい解釈だ」と独仙君が言い出した。こんな問題になると独仙君はなかなか引っ込んでいない男である。「苦沙弥君の説明はよくわが意を得ている。昔の人はおのれを忘れろと教えたものだ。今の人はおのれを忘れるなと教えるからまるで違う。二六時中おのれという意識をもって充満している。それだから二六時中太平の時はない。いつでも
「それがイギリス趣味ですか」これは寒月君の質問であった。
「ぼくはこんな話を聞いた」と主人があとをつける。「やはり英国のある兵営で連隊の士官がおおぜいして一人の下士官をごちそうしたことがある。ごちそうがすんで手を洗う水をガラス
「こんな話もあるよ」と黙ってることのきらいな迷亭君が言った。「カーライルがはじめて
「カーライルのことなら、みんなが立ってても平気だったかもしれませんよ」と寒月君が短評を試みた。
「親切のほうの自覚心はまあいいがね」と独仙君は進行する。「自覚心があるだけ親切をするにも骨が折れるわけになる。気の毒なことさ。文明が進むに従って殺伐の気がなくなる、個人と個人の交際がおだやかになるなどと普通いうが大間違いさ。こんなに自覚心が強くって、どうしておだやかになれるものか。なるほどちょっと見るとごくしずかで無事なようだが、お互いの間は非常に苦しいのさ。ちょうど
「けんかも昔のけんかは暴力で圧迫するのだからかえって罪はなかったが、近ごろじゃなかなか巧妙になってるからなおなお自覚心が増してくるんだね」と番が迷亭先生の頭の上へ回って来る。「べーコンの言葉に自然の力に従ってはじめて自然に勝つとあるが、今のけんかはまさにベーコンの格言どおりにできあがってるから不思議だ。ちょうど柔術のようなものさ。敵の力を利用して敵をたおすことを考える……」
「または水力電気のようなものですね。水の力に逆らわないでかえってこれを電力に変化して立派に役に立たせる……」と寒月君が言いかけると、独仙君がすぐそのあとを引き取った。
「だから貧時には貧に縛せられ、
「ひやひや」と迷亭君が手をたたくと、苦沙弥先生はにやにや笑いながら「これでなかなかそううまくはゆかないのだよ」と答えたら、みんな一度に笑い出した。
「時に金田のようなのは何で倒れるだろう」
「
「娘は?」
「娘は──娘は見たことがないからなんとも言えないが──まず着倒れか、食い倒れ、もしくはのんだくれの類だろう。よもや恋い倒れにはなるまい。ことによると
「それは少しひどい」と新体詩をささげただけに東風君が異議を申し立てた。
「だから
「そういばるもんじゃないよ。君などはことによると電光影裏にさか倒れをやるかもしれないぜ」
「とにかくこの勢いで文明が進んで行ったひにゃぼくは生きてるのはいやだ」と主人が言いだした。
「遠慮はいらないから死ぬさ」と迷亭君が
「死ぬのはなおいやだ」と主人がわからん強情を張る。
「生まれる時にはだれも熟考して生まれる者はありませんが、死ぬ時にはだれも苦にするとみえますね」と寒月君がよそよそしい格言をのべる。
「金を借りる時にはなんの気なしに借りるが、返す時にはみんな心配するのと同じことさ」とこんな時にすぐ返事のできるのは迷亭君である。
「借りた金を返すことを考えない者は幸福であるごとく、死ぬことを苦にせん者は幸福さ」と独仙君は超然として出世間的である。
「君のようにいうとつまり図太いのが悟ったのだね」
「そうさ、禅語に
「そうして君はその標本というわけかね」
「そうでもない。しかし死ぬのを苦にするようになったのは神経衰弱という病気が発明されてから以後のことだよ」
「なるほど君などはどこから見ても神経衰弱以前の民だよ」
迷亭と独仙が妙な掛け合いをのべつにやっていると、主人は寒月東風二君を相手にしてしきりに文明の不平を述べている。
「どうして借りた金を返さずにすますかが問題である」
「そんな問題はありませんよ。借りたものは返さなくちゃなりませんよ」
「まあさ。議論だから、黙って聞くがいい。どうして借りた金を返さずにすますかが問題であるごとく、どうしたら死なずにすむかが問題である。否問題であった。錬金術はこれである。すべての錬金術は失敗した。人間はどうしても死ななければならんことが
「錬金術以前から分明ですよ」
「まあさ、議論だから、黙って聞いていろ。いいかい。どうしても死ななければならんことが分明になった時に第二の問題が起こる」
「へえ」
「どうせ死ぬなら、どうして死んだらよかろう。これが第二の問題である。自殺クラブはこの第二の問題とともに起こるべき運命を有している」
「なるほど」
「死ぬことは苦しい、しかし死ぬことができなければなお苦しい。神経衰弱の国民には生きていることが死よりもはなはだしき苦痛である。したがって死を苦にする。死ぬのがいやだから苦にするのではない、どうして死ぬのがいちばんよかろうと心配するのである。ただたいていの者は知恵が足りないから自然のままに
「だいぶ物騒なことになりますね」
「なるよ。たしかになるよ。アーサー・ジョーンズという人の書いた脚本の中にしきりに自殺を主張する哲学者があって……」
「自殺するんですか」
「ところが惜しいことにしないのだがね。しかし今から千年もたてばみんな実行するに相違ないよ。万年ののちには死といえば自殺よりほかに存在しないもののように考えられるようになる」
「たいへんなことになりますね」
「なるよきっとなる。そうなると自殺もだいぶ研究が積んで立派な科学になって、落雲館のような中学校で倫理の代わりに自殺学を正科として授けるようになる」
「妙ですな、傍聴に出たいくらいのものですね。迷亭先生お聞きになりましたか。苦沙弥先生の御名論を」
「聞いたよ。その時分になると落雲館の倫理の先生はこう言うね。諸君公徳などという野蛮の遺風を
「なるほどおもしろい講義をしますね」
「まだおもしろいことがあるよ。現代では警察が人民の生命財産を保護するのを第一の目的としている。ところがその時分になると巡査が犬殺しのような
「なぜです」
「なぜって今の人間は生命がだいじだから警察で保護するんだが、その時分の国民は生きてるのが苦痛だから、巡査が慈悲のためにぶち殺してくれるのさ。もっとも少し気のきいた者はたいがい自殺してしまうから、巡査にぶち殺されるようなやつはよくよくのいくじなしか、自殺の能力のない白痴もしくは不具者に限るのさ。それで殺されたい人間は
「どうも先生の冗談は際限がありませんね」と東風君は大いに感心している。すると独仙君は例のとおり
「冗談といえば冗談だが、予言といえば予言かもしれない。真理に徹底しない者は、とかく眼前の現象世界に束縛せられて
「
「昔スペインにコルドヴァという所があった……」
「今でもありゃしないか」
「あるかもしれない。今昔の問題はとにかく、そこの風習として日暮れの鐘がお寺で鳴ると、家々の女がことごとく出て来て川へはいって水泳をやる……」
「冬もやるんですか」
「そのへんはたしかに知らんが、とにかく
「詩的ですね。新体詩になりますね。なんという所ですか」と東風君は裸体が出さえすれば前へ乗り出してくる。
「コルドヴァさ。そこで地方の若い者が、女といっしょに泳ぐこともできず、さればといって遠くから判然その姿を見ることも許されないのを残念に思って、ちょっといたずらをした……」
「へえ、どんな趣向だい」といたずらと聞いた迷亭君は大いにうれしがる。
「お寺の鐘つき番に
「はげしい秋の日がかんかんしやしないか」
「橋の上を見ると男がおおぜい立ってながめている。恥ずかしいがどうすることもできない。大いに赤面したそうだ」
「それで」
「それでさ、人間はただ眼前の習慣に迷わされて、根本の原理を忘れるものだから気をつけないとだめだということさ」
「なるほどありがたいお説教だ。眼前の習慣に迷わされのお話をぼくも一つやろうか。このあいだある雑誌を読んだら、こういう
「そう言うときまってるかい」と主人は相変わらず芝居気のないことを言う。迷亭君はぬからぬ顔で、
「まあさ、小説だよ、言うとしておくんだ。そこでぼくがなに
「タイムスの百科全書みたようですね」
「タイムスはたしかだが、ぼくのはすこぶる不たしかだよ。これからがいよいよ巧妙なる詐欺に取りかかるのだぜ。よく聞きたまえ月十円ずつで六百円なら何年で
「むろん五年でしょう」
「むろん五年。で五年の歳月は長いと思うか短いと思うか、独仙君」
「一念
「なんだそりゃ
「ハハハハまさか、それほど忘れっぽくもならないでしょう」と寒月君が笑うと、主人はいささかまじめで、
「いやそういうことは全くあるよ。ぼくは大学の
「そら、そういう人が現にここにいるからたしかなものだ。だからぼくのさっき述べた文明の未来記を聞いて冗談だなどと笑う者は、六十回でいい月賦を
「かしこまりました。月賦は必ず六十回限りのことにいたします」
「いや冗談のようだが、じっさい参考になる話ですよ、寒月君」と独仙君は寒月君に向かいだした。「たとえばですね。今苦沙弥君か迷亭君が、君が無断で結婚をしたのが穏当でないから、金田とかいう人に謝罪しろと忠告したら君どうです。謝罪する了見ですか」
「謝罪は御容赦にあずかりたいですね。向こうがあやまるなら特別、私のほうではそんな欲はありません」
「警察が君にあやまれと命じたらどうです」
「なおなお御免こうむります」
「大臣とか華族ならどうです」
「いよいよもって御免こうむります」
「それみたまえ。昔と今とは人間がそれだけ変わってる。昔はお
「そういう
「それで夫婦がわかれるんですか。心配だな」と寒月君が言った。
「わかれる。きっとわかれる。天下の夫婦はみんなわかれる。今まではいっしょにいたのが夫婦であったが、これからは
「すると私なぞは資格のない組へ編入されるわけですね」と寒月君はきわどいところでのろけを言った。
「明治の
「先生私はその説には全然反対です」と東風君はこの時思い切った調子でぴたりと平手でひざ
「なければ結構だが、今哲学者が言ったとおりちゃんと滅してしまうからしかたがないと、あきらめるさ。なに芸術だ? 芸術だって夫婦と同じ運命に帰着するのさ。個性の発展というのは個性の自由という意味だろう。個性の自由という意味はおれはおれ、人は人という意味だろう。その芸術なんか存在できるわけがないじゃないか。芸術が
「いえそれほどでもありません」
「今でさえそれほどでなければ、人文の発達した未来すなわち例の一大哲学者が出て非結婚論を主張する時分にはだれも読み手はなくなるぜ。いや君のだから読まないのじゃない。
「そりゃそうですけれども私はどうも直覚的にそう思われないんです」
「君が直覚的にそう思われなければ、ぼくは曲角的にそう思うまでさ」
「曲角的かもしれないが」と今度は独仙君が口を出す。「とにかく人間に個性の自由を許せば許すほどお互いの間が窮屈になるに相違ないよ。ニーチェが超人なんかかつぎ出すのも全くこの窮屈のやり所がなくなってしかたなしにあんな哲学に変形したものだね。ちょっと見るとあれがあの男の理想のように見えるが、ありゃ理想じゃない、不平さ。個性の発展した十九世紀にすくんで、隣りの人には心おきなくめったに寝返りも打てないから、大将少しやけになってあんな乱暴を書き散らしたのだね。あれを読むと壮快というよりむしろ気の毒になる。あの声は勇猛
「先生がたはだいぶ
「そりゃ細君を持ちたてだからさ」と迷亭君がすぐ解釈した。すると主人が突然こんなことを言いだした。
「妻を持って、女はいいものだなどと思うととんだ間違いになる。参考のためだから、おれがおもしろい物を読んで聞かせる。よく聞くがいい」と最前書斎から持って来た古い本を取り上げて「この本は古い本だが、この時代から女の悪いことは歴然とわかってる」と言うと、寒月君が
「少し驚きましたな。元来いつごろの本ですか」と聞く。「タマス・ナッシといって十六世紀の著書だ」
「いよいよ驚いた。その時分すでに私の
「いろいろ女の悪口があるが、その内にはぜひ君の
「ええ聞きますよ。ありがたいことになりましたね」
「まず古来の賢哲が女性観を紹介すべしと書いてある。いいかね。聞いてるかね」
「みんな聞いてるよ。独身のぼくまで聞いているよ」
「アリストートルいわく女はどうせろくでなしなれば、嫁をとるなら、大きな嫁より小さな嫁をとるべし。大きなろくでなしより、小さいろくでなしのほうが
「寒月君の細君は大きいかい、小さいかい」
「大きなろくでなしの部ですよ」
「ハハハハ、こりゃおもしろい本だ。さああとを読んだ」
「ある人問う、いかなるかこれ最大奇蹟、賢者答えていわく、貞婦……」
「賢者ってだれですか」
「名前は書いてない」
「どうせ振られた賢者に相違ないね」
「次にはダイオジニスが出ている。ある人問う、妻をめとるいずれの時においてすべきか。ダイオジニス答えていわく青年はいまだし、老年はすでにおそし。とある」
「先生
「ピサゴラスいわく天下に三の恐るべきものありいわく火、いわく水、いわく女」
「ギリシアの哲学者などは存外
「女に会ってとろけずだろう」と迷亭先生が援兵に出る。主人はさっさとあとを読む。
「ソクラチスは婦女子を
「もうたくさんです、先生。そのくらい愚妻の悪口を拝聴すれば申しぶんはありません」
「まだ四、五ページあるから、ついでに聞いたらどうだ」
「もうたいていにするがいい。もう奥方のお帰りの刻限だろう」と迷亭先生がからかいかけると、茶の間の方で
「清や、清や」と細君が下女を呼ぶ声がする。
「こいつはたいへんだ。奥方はちゃんといるぜ、君」
「ウフフフフ」と主人は笑いながら「かまうものか」と言った。
「奥さん、奥さん。いつのまにお帰りですか」
茶の間ではしんとして答えがない。
「奥さん、今のを聞いたんですか。え?」
答えはまだない。
「今のはね、御主人のお考えではないですよ。十六世紀のナッシ君の説ですから御安心なさい」
「存じません」と細君は遠くで簡単な返事をした。寒月君はくすくすと笑った。
「わたしも存じません失礼しましたアハハハハ」と迷亭君は遠慮なく笑ってると、
三平君きょうはいつに似ず、まっ白なシャツにおろし立てのフロックを着て、すでにいくぶんか
「先生胃病は近来いいですか。こうやって、うちにばかりいなさるから、いかんたい」
「まだ悪いともなんとも言やしない」
「言わんばってんが、顔色がよかなかごたる。先生顔色が
「何か釣れたかい」
「何も釣れません」
「釣れなくってもおもしろいのかい」
「
「ぼくは小さな海の上を大船で乗り回してあるきたいんだ」と迷亭君が相手になる。
「どうせ釣るなら、鯨か人魚でも釣らなくっちゃ、つまらないです」と寒月君が答えた。
「そんなものが釣れますか。文学者は常識がないですね。……」
「ぼくは文学者じゃありません」
「そうですか、なんですかあなたは。私のようなビジネス・マンになると常識がいちばん大切ですからね。先生私は近来よっぽど常識に富んできました。どうしてもあんな所にいると、はたがはただからおのずから、そうなってしまうです」
「どうなってしまうのだ」
「
「そんなぜいたくをする金があるのかい」
「金はなかばってんが、今にどうかなるたい。この煙草を吸ってると、たいへん信用が違います」
「寒月君が
「あなたが寒月さんですか。博士にゃ、とうとうならんですか。あなたが博士にならんものだから、私がもらうことにしました」
「博士をですか」
「いいえ、金田家の令嬢をです。じつはお気の毒と思うたですたい。しかし先方でぜひもらうてくれもろうてくれと言うから、とうとうもらうことにきめました、先生。しかし寒月さんに義理が悪いと思って心配しています」
「どうか御遠慮なく」と寒月君が言うと、主人は
「もらいたければもらったら、いいだろう」とあいまいな返事をする。
「そいつはおめでたい話だ。だからどんな娘を持っても心配する者がないんだよ。だれかもらうと、さっきぼくが言ったとおり、ちゃんとこんな立派な紳士のお婿さんができたじゃないか。東風君新体詩の種ができた。さっそくとりかかりたまえ」と迷亭君が例のごとく調子づくと三平君は
「あなたが東風君ですか、結婚の時に何か作ってくれませんか。すぐ活版にして方々へくばります。太陽へも出してもらいます」
「ええ何か作りましょう。いつごろ御入用ですか」
「いつでもいいです。今まで作ったうちでもいいです。そのかわりです。
「かってにするがいい」
「先生、譜にしてくださらんか」
「ばかいえ」
「だれか、このうちに音楽のできる者はおらんですか」
「落第の候補者寒月君はヴァイオリンの妙手だよ。しっかり頼んでみたまえ。しかしシャンパンぐらいじゃ承知しそうもない男だ」
「シャンパンもですね。一びん四円や五円のじゃよくないです。私のごちそうするのはそんな安いのじゃないですが、君一つ譜を作ってくれませんか」
「ええ作りますとも、一びん二十銭のシャンパンでも作ります。なんならただでも作ります」
「ただは頼みません、お礼はするです。シャンパンがいやなら、こういうお礼はどうです」と言いながら上着の
「先生候補者がこれだけあるのです。寒月君と東風君にこのうちどれかお礼に周旋してもいいです。こりゃどうです」と一枚寒月君につきつける。
「いいですね。ぜひ周旋を願いましょう」
「これでもいいですか」とまた一枚つきつける。
「それもいいですね。ぜひ周旋してください」
「どれをです」
「どれでもいいです」
「君なかなか多情ですね。先生、これは博士の
「そうか」
「このほうは性質がごくいいです。年も若いです。これで十七です。──これなら持参金が千円あります。──こっちのは知事の娘です」と一人で弁じ立てる。
「それをみんなもらうわけにゃいかないでしょうか」
「みんなですか、それはあまり欲張りたい。君一夫多妻主義ですか」
「多妻主義じゃないですが、肉食論者です」
「なんでもいいから、そんなものは早くしまったら、よかろう」と主人はしかりつけるように言い放ったので、三平君は
「それじゃ、どれももらわんですね」と念を押しながら、写真を一枚一枚にポッケットへ収めた。
「なんだいそのビールは」
「おみやげでござります。前祝いに
主人は手をうって下女を呼んで
「ここにいる諸君を披露会に
「おれはいやだ」と主人はすぐ答える。
「なぜですか。私の一生に一度の大礼ですばい。出てくんなさらんか。少し不人情のごたるな」
「不人情じゃないが、おれは出ないよ」
「着物がないですか。羽織と袴ぐらいどうでもしますたい。ちと人中へも出るがよかたい先生。有名な人に紹介してあげます」
「まっぴら御免だ」
「胃病がなおりますばい」
「なおらんでもさしつかえない」
「そげん
「ぼくかね、ぜひ行くよ。できるなら
「あなたはどうです」
「ぼくですか、
「なんですかそれは、唐詩選ですか」
「なんだかわからんです」
「わからんですか、困りますな。寒月君は出てくれるでしょうね。今までの関係もあるから」
「きっと出ることにします、ぼくの作った曲を楽隊が奏するのを、聞き落とすのは残念ですからね」
「そうですとも。君はどうです東風君」
「そうですね。出て御両人の前で新体詩を朗読したいです」
「そりゃ愉快だ。先生私は生まれてから、こんな愉快なことはないです。だからもう一杯ビールを飲みます」と自分で買って来たビールを一人でぐいぐい飲んでまっかになった。
短い秋の日はようやく暮れて、巻煙草の
主人は
のんきと見える人々も、心の底をたたいてみると、どこか悲しい音がする。悟ったようでも独仙君の足はやはり地面のほかは踏まぬ。気楽かもしれないが迷亭君の世の中は絵にかいた世の中ではない。寒月君は
主人は早晩胃病で死ぬ。金田のじいさんは欲でもう死んでいる。秋の
勝手へ回る。
吾輩は我慢に我慢を重ねて、ようやく一杯のビールを飲み干した時、妙な現象が起こった。初めは舌がぴりぴりして、口中が外部から圧迫されるように苦しかったのが、飲むに従ってようやく楽になって、一杯目を片づける時分にはべつだん骨も折れなくなった。もう大丈夫と二杯目は難なくやっつけた。ついでに盆の上にこぼれたのもぬぐうがごとく
それからしばらくのあいだは自分で自分の動静を伺うため、じっとすくんでいた。次第にからだが暖かになる。目のふちがぼうっとする。耳がほてる。歌がうたいたくなる。猫じゃ猫じゃが踊りたくなる。主人も迷亭も独仙もくそを食らえという気になる。金田のじいさんを引っかいてやりたくなる。細君の鼻を食い欠きたくなる。いろいろになる。最後にふらふらと立ちたくなる。立ったらよたよた歩きたくなる。こいつはおもしろいと外へ出たくなる。出るとお月様今晩はと挨拶したくなる。どうも愉快だ。
我に帰った時は水の上に浮いている。苦しいから
水から縁までは四寸余もある。足をのばしても届かない。飛び上がっても出られない。のんきにしていれば沈むばかりだ。もがけばがりがりと甕に爪があたるのみで、あたった時は、少し浮く気味だが、すべればたちまちぐうっともぐる。もぐれば苦しいから、すぐがりがりをやる。そのうちからだが疲れてくる。気はあせるが、足はさほどきかなくなる。ついにはもぐるために甕をかくのか、かくためにもぐるのか、自分でもわかりにくくなった。
その時苦しいながら、こう考えた。こんな
「もうよそう。かってにするがいい。がりがりはこれぎり御免こうむるよ」と、前足も、あと足も、頭も尾も自然の力に任せて抵抗しないことにした。
次第に楽になってくる。苦しいのだかありがたいのだか
吾輩は猫である 夏目漱石/カクヨム近代文学館 @Kotenbu_official
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