一〇
「あなた、もう七時ですよ」と
言いつけられた時刻に、時刻がきたと注意しても、先方がその注意を無にする以上は、向こうをむいてうんさえ発せざる以上は、その
吾輩は主人と違って、元来が早起きのほうだから、この時すでに空腹になって参った。とうていうちの者さえ
顔を洗うといったところで、上の二人が幼椎園の生徒で、三番日は姉の尻についてさえ行かれないくらい小さいのだから、正式に顔が洗えて器用にお
元禄で思い出したからついでにしゃべってしまうが、この子供の言葉ちがいをやることはおびただしいもので、おりおり人をばかにしたような間違いを言ってる。火事で
坊やは──当人は坊やとは言わない、いつでも坊ばと言う──元禄がぬれたのを見て「
吾輩はこの光景を横に見て、茶の間から主人の寝室まで来てもう起きたかとひそかに様子をうかがってみると、主人の頭がどこにも見えない。そのかわり
「まだお起きにならないのですか」と声をかけたまま、しばらく立って、首の出ない夜具を見つめていた。今度も返事がない。細君は入り口から二足ばかり進んで、箒をとんと突きながら「まだなんですか、あなた」と重ねて返事を承る。この時主人はすでに目がさめている。さめているから、細君の襲撃にそなうるため、あらかじめ夜具の中に首もろとも立てこもったのである。首さえ出さなければ、見のがしてくれることもあろうと、つまらないことを頼みにして寝ていたところ、なかなか許しそうもない。しかし第一回の声は敷居の上で、少なくとも一
「九時までにいらっしゃるのでしょう。早くなさらないと間に合いませんよ」
「そんなに言わなくても今起きる」と夜着の
「なんだ騒々しい。起きるといえば起きるのだ」
「起きるとおっしゃってもお起きなさらんじゃありませんか」
「だれがいつ、そんなうそをついた」
「いつでもですわ」
「ばかをいえ」
「どっちがばかだかわかりゃしない」と細君ぷんとして箒を突いて
八っちゃんの泣き声を聞いた主人は、朝っぱらからよほどかんしゃくが起こったとみえて、たちまちがばと
この時主人は、きのう紹介した
このあくびがまた
長火鉢のそばに陣取って、食卓を前に控えたる主人の三面には、さっきぞうきんで顔を洗った坊ばと、お茶の味噌の学校へ行くとん子と、お
さすがに子供はえらい。これほどおやじが処置に窮しているとは夢にも知らず、楽しそうに御飯を食べる。ところが始末におえないのは坊ばである。坊ばは当年とって三歳であるから、細君が気をきかして、食事の時には、三歳然たる小形の
坊ばは隣りから
姉のとん子は、自分の箸と茶わんを坊ばに略奪されて、不相応に小さなやつを持ってさっきから我慢していたが、もともと小さ過ぎるのだから、いっぱいにもったつもりでも、あんとあけると三口ほどで食ってしまう。したがって
坊ばが一大活躍を試みて箸をはね上げた時は、ちょうどとん子が飯をよそいおわった時である。さすがに姉は姉だけで、坊ばの顔のいかにも乱暴なのを見かねて「あら坊ばちゃん、たいへんよ、顔がごぜん粒だらけよ」と言いながら、さっそく坊ばの顔の
さっきからこのていたらくを目撃していた主人は、一
かくのごとく働きのない食い方をもって、無事に朝飯をすましたる主人は、やがて洋服を着て、車へ乗って、日本堤分署へ出頭に及んだ。
主人が珍しく車で玄関から出かけたあとで、細君は例のごとく食事をすませて「さあ学校へおいで。おそくなりますよ」と催促すると、子供は平気なもので「あら、でもきょうはお休みよ」としたくをするけしきがない。「お休みなもんですか、早くなさい」としかるように言って聞かせると「それでもきのう、先生がお休みだっておっしゃってよ」と姉はなかなか動じない。細君もここに至って多少変に思ったものか、
その後三十分間は家内平穏、べつだん吾輩の材料になるような事件も起こらなかったが、突然妙な人がお客に来た。十七、八の女学生である。
「おや、早くから……」
「きょうは
「そう、何か用があるの?」
「いいえ、ただあんまりごぶさたをしたから、ちょっとあがったの」
「ちょっとでなくっていいから、ゆっくり遊んでいらっしゃい。今に叔父さんが帰って来ますから」
「叔父さんは、もう、どこかへいらしったの。珍しいのね」
「ええきょうはね、妙な所へ行ったのよ。……警察へ行ったの、妙でしょう」
「あらなんで?」
「この春はいった
「それで引き合いに出されるの? いい迷惑ね」
「なあに品物がもどるのよ。取られたものが出たから取りに来いって、きのう巡査がわざわざ来たもんですから」
「おや、そう、それでなくっちゃ、こんなに早く叔父さんが出かけることはないわね、いつもなら今時分はまだ寝ていらっしゃるんだわ」
「叔父さんほど、寝坊はないんですから……そうして起こすとぷんぷんおこるのよ。けさなんかも七時までにぜひおこせと言うから、起こしたんでしょう。すると夜具の中へもぐって返事もしないんですもの。こっちは心配だから二度目にまた起こすと、夜着の
「なぜそんなに眠いんでしょう。きっと神経衰弱なんでしょう」
「なんですか」
「ほんとうにむやみにおこるかたね。あれでよく学校が勤まるのね」
「なに学校じゃおとなしいんですって」
「じゃなお悪いわ。まるでこんにゃく
「なぜ?」
「なぜでもこんにゃく閻魔なの。だってこんにゃく閻魔のようじゃありませんか」
「ただおこるばかりじゃないのよ。人が右と言えば左、左と言えば右で、なんでも人の言うとおりにしたことがない、──そりゃ
「
「ホホうまいのね。わたしもこれからそうしよう」
「そうなさいよ。それでなくっちゃ損だわ」
「こないだ保険会社の人が来て、ぜひおはいんなさいって、
「そうね。もしものことがあると不安心だわね」と十七、八の娘に似合わしからん
「その談判を陰で聞いていると、ほんとうにおもしろいのよ。なるほど保険の必要も認めないではない。必要なものだから会社も存立しているのだろう。しかし死なない以上は保険にはいる必要はないじゃないかって強情を張っているんです」
「叔父さんが?」
「ええ、すると会社の男が、それは死ななければむろん保険会社はいりません。しかし人間の命というものは丈夫なようでもろいもので、知らないうちに、いつ危険が迫っているかわかりませんというとね、叔父さんは、大丈夫ぼくは死なないことに決心をしているって、まあ無法なことを言うんですよ」
「決心したって、死ぬわねえ。わたしなんかぜひ及第するつもりだったけれども、とうとう落第してしまったわ」
「保険社員もそう言うのよ。寿命は自分の自由にはなりません。決心で長生きができるものなら、だれも死ぬ者はございませんって」
「保険会社のほうが至当ですわ」
「至当でしょう。それがわからないの。いえけっして死なない。誓って死なないっていばるの」
「妙ね」
「妙ですとも、
「貯金があるの?」
「あるもんですか。自分が死んだあとなんか、ちっともかまう考えなんかないんですよ」
「ほんとうに心配ね。なぜあんななんでしょう、ここへいらっしゃるかただって、叔父さんのようなのは一人もいないわね」
「いるものですか。無類ですよ」
「ちっと鈴木さんにでも頼んで意見でもしてもらうといいんですよ。ああいう穏やかな人だとよっぽど楽ですがねえ」
「ところが鈴木さんは、うちじゃ評判が悪いのよ」
「みんな
「八木さん?」
「ええ」
「八木さんにはだいぶ閉口しているんですがね。きのう迷亭さんが来て
「だっていいじゃありませんか。あんなふうに
「八木さんが?」
「ええ」
「八木さんは雪江さんの学校の先生なの」
「いいえ、先生じゃないけれども、淑徳婦人会の時に招待して演説をしていただいたの」
「おもしろかって?」
「そうね、そんなにおもしろくもなかったわ。だけども、あの先生が、あんな長い顔なんでしょう。そうして
「お話って、どんなお話なの」と細君が聞きかけていると縁側の方から、雪江さんの話し声を聞きつけて、三人の子供がどたばた茶の間へ乱入して来た。今までは
「あら雪江さんが来た」と二人のねえさんはうれしそうに大きな声を出す。細君は「そんなに騒がないで、みんな静かにしておすわりなさい。雪江さんが今おもしろい話をなさるところだから」と仕事をすみへ片づける。
「雪江さんなんのお話、わたしお話が大好き」と言ったのはとん子で「やっぱりかちかち山のお話?」と聞いたのはすん子である。「坊ばもおはなち」と言い出した三女は姉と姉のあいだからひざを前の方に出す。ただしこれはお話を承るというのではない。坊ばもまたお話をつかまつるという意味である。「あら、坊ばちゃんのお話だ」とねえさんが笑うと、細君は「坊ばはあとでなさい。雪江さんのお話がすんでから」とすかしてみる。坊ばはなかなか聞きそうにない。「いやーよ、ばぶ」と大きな声を出す。「おお、よしよし坊ばちゃんからなさい。なんというの?」と雪江さんは
「あのね、坊たん、坊たん、どこ行くのって」
「おもしろいのね。それから?」
「わたちは田んぼへ稲刈いに」
「そうよく知ってること」
「お前がくうと
「あら、くうとじゃないわ、くるとだわね」ととん子が口を出す。坊ばは相変わらず、「ばぶ」と
「あのね。あとでおならは御免だよ。ぷう、ぷうぷうって」
「ホホホホ、いやなこと、だれにそんなことを、教わったの?」
「おたんに」
「悪いおさんね、そんなこと教えて」と細君は苦笑をしていたが、「さあ今度は雪江さんの番だ。坊やはおとなしく聞いているんですよ」と言うと、さすがの暴君も
「八木先生の演説はこんなのよ」と雪江さんがとうとう口を切った「昔ある
「そりゃほんとうにあった話なの?」
「どうですか、そんなことはなんともおっしゃらなくってよ。──でみんながいろいろ相談をしたら、その町内でいちばん強い男が、そりゃわけはありません、わたしがきっと片づけてみせますって、一人でその辻へ行って、
「よっぽど重い石地蔵なのね」
「ええ、それでその男が疲れてしまって、うちへ帰って寝てしまったから、町内の者はまた相談をしたんですね。すると今度は町内でいちばん利口な男が、わたしに任せてごらんなさい、一番やってみますからって、重箱の中へ
「雪江さん、地蔵様はお
「利口な人は二度ともしくじったから、その次にはにせ
「そうね。すこし叔父さんに似ているわ」
「ええまるで叔父さんよ。しまいに利口な人も
「その法螺を吹く人は何をしたんです」
「それがおもしろいのよ。最初にはね巡査の服を着て、付け髯をして、地蔵様の前へ来て、こらこら、動かんとそのほうのためにならんぞ、警察で棄てておかんぞといばってみせたんですとさ。今の世に警察の
「ほんとうね、それで地蔵様は動いたの?」
「動くもんですか、叔父さんですもの」
「でも叔父さんは警察にはたいへん恐れ入っているのよ」
「あらそう、あんな顔をして? それじゃ、そんなにこわいことはないわね。けれども地蔵様は動かないんですって、平気でいるんですとさ。それで法螺吹きはたいへんおこって、巡査の服を脱いで、付け髯を紙くず籠へほうり込んで、今度は大金持ちの
「岩崎のような顔ってどんな顔なの?」
「ただ大きな顔をするんでしょう。そうして何もしないで、また何も言わないで地蔵のまわりを、大きな巻煙草をふかしながら歩いているんですとさ」
「それがなんになるの?」
「地蔵様を
「まるで
「だめですわ、相手が石ですもの。ごまかしもたいていにすればいいのに、今度は
「へえ、その時分にも殿下様があるの?」
「あるんでしょう。八木先生はそうおっしゃってよ。たしかに殿下様に化けたんだって、恐れ多いことだが化けて来たって──第一不敬じゃありませんか、法螺吹きの分際で」
「殿下って、どの殿下様なの」
「どの殿下様ですか、どの殿下様だって不敬ですわ」
「そうね」
「殿下様でもきかないでしょう。法螺吹きもしょうがないから、とてもわたしの手ぎわでは、あの地蔵はどうすることもできませんと降参をしたそうです」
「いい気味ね」
「ええ、ついでに
「それでおしまい?」
「まだあるのよ。いちばんしまいに車屋とゴロツキをおおぜい雇って、地蔵様のまわりをわいわい騒いで歩いたんです。ただ地蔵様をいじめて、居たたまれないようにすればいいといって
「御苦労ですこと」
「それでも取り合わないんですとさ。地蔵様のほうもずいぶん強情ね」
「それから、どうして?」ととん子が熱心に聞く。
「それからね、いくら毎日毎日騒いでも
「雪江さん、日当ってなに?」とすん子が質問をする。
「日当というのはね、お金の事なの」
「お金をもらってなんにするの?」
「お金をもらってね。──ホホホホいやなすん子さんだ。──それで叔母さん、毎日毎晩から騒ぎをしていますとね。その時町内にばか
「ばかのくせにえらいのね」
「なかなかえらいばかなのよ。みんながばか竹の言うことを聞いて、物はためしだ、どうせだめだろうが、まあ竹にやらしてみようじゃないかとそれから竹に頼むと、竹は一も二もなく引き受けたが、そんな邪魔な騒ぎをしないでまあ静かにしろと車引きやゴロツキを引っ込まして
「雪江さん飄然て、ばか竹のお友だち?」ととん子が
「いいえお友だちじゃないのよ」
「じゃなに?」
「飄然というのはね。──言いようがないわ」
「飄然て、言いようがないの?」
「そうじゃないのよ、飄然というのはね──」
「ええ」
「そら多々良三平さんを知ってるでしょう」
「ええ、山の芋をくれてよ」
「あの多々良さんみたようなをいうのよ」
「多々良さんは飄然なの?」
「ええ、まあそうよ。──それでばか竹が地蔵様の前へ来てふところ手をして、地蔵様、町内の者が、あなたに動いてくれと言うから動いてやんなさいと言ったら、地蔵様はたちまちそうか、そんなら早くそう言えばいいのに、とのこのこ動きだしたそうです」
「妙な地蔵様ね」
「それからが演説よ」
「まだあるの?」
「ええ、それから八木先生がね、今日は御婦人の会でありますが、私がかようなお話をわざわざいたしたのは少々考えがあるので、こう申すと失礼かもしれませんが、婦人というものはとかく物をするのに正面から近道を通って行かないで、かえって遠方から回りくどい手段をとる
「へえ、それで雪江さんはばか竹になる気なの」
「やだわ、ばか竹だなんて。そんなものになりたくはないわ。金田の
「金田の富子さんて、あの向こう横丁の?」
「ええ、あのハイカラさんよ」
「あの人も雪江さんの学校へ行くの?」
「いいえ、ただ婦人会だから傍聴に来たの。ほんとうにハイカラね。どうも驚いちまうわ」
「でもたいへんいい器量だっていうじゃありませんか」
「並みですわ。御自慢ほどじゃありませんよ。あんなにお
「それじゃ雪江さんなんぞはそのかたのようにお化粧をすれば金田さんの倍ぐらい美しくなるでしょう」
「あらいやだ。よくってよ、知らないわ。だけど、あのかたは全くつくり過ぎるのね。なんぼお金があったって──」
「つくり過ぎてもお金があるほうがいいじゃありませんか」
「それもそうだけれども──あのかたこそ、少しばか竹になったほうがいいでしょう。むやみにいばるんですもの。このあいだもなんとかいう詩人が新体詩集をささげたって、みんなに
「
「あら、あのかたがささげたの、よっぽど物ずきね」
「でも東風さんはたいへんまじめなんですよ。自分じゃ、あんなことをするのがあたりまえだとまで思ってるんですもの」
「そんな人があるから、いけないんですよ。──それからまだおもしろいことがあるの。こないだだれか、あのかたのとこへ
「おや、いやらしい。だれなの、そんなことをしたのは」
「だれだかわからないんだって」
「名前はないの?」
「名前はちゃんと書いてあるんだけれども聞いたこともない人だって、そうしてそれが長い長い一
「そりゃまじめなの?」
「まじめなんですとさ。現にわたしのお友だちのうちでその手紙を見た者が三人あるんですもの」
「いやな人ね、そんなもの見せびらかして。あのかたは寒月さんのとこへお嫁に行くつもりなんだから、そんなことが世間へ知れちゃ困るでしょうにね」
「困るどころですか大得意よ。こんだ寒月さんが来たら知らしてあげたらいいでしょう。寒月さんもまるで御存じないんでしょう」
「どうですか、あのかたは学校へ行って
「寒月さんはほんとにあのかたをおもらいになる気なんでしょうかね。お気の毒だわね」
「なぜ? お金があって、いざって時に力になって、いいじゃありませんか」
「
「そう、それじゃ雪江さんは、どんな所へお嫁に行くの?」
「そんなこと知るもんですか、べつに何もないんですもの」
雪江さんと叔母さんは結婚事件について何か弁論をたくましくしていると、きっきから、わからないなりに謹聴しているとん子が突然口を開いて「わたしもお嫁に行きたいな」と言いだした。この無鉄砲な希望には、さすが青春の気に満ちて、大いに同情を寄すべき雪江さんもちょっと毒気を抜かれたていであったが、細君のほうは比較的平気に構えて「どこへ行きたいの」と笑いながら聞いてみた。
「わたしねえ、ほんとうはね、
細君と雪江さんはこの名答を得て、あまりのことに問い返す勇気もなく、どっと笑いくずれた時に、次女のすん子がねえさんに向かってかような相談を持ちかけた。
「おねえ様も招魂社がすき? わたしも大すき。いっしょに招魂社へお嫁に行きましょう。ね? いや? いやならいいわ。わたし一人で車へ乗ってさっさと行っちまうわ」
「坊ばも行くの」とついに坊ばさんまでが招魂社へ嫁に行くことになった。かように三人が顔をそろえて招魂社へ嫁に行けたら主人もさぞ楽であろう。
ところへ車の音ががらがらと、前にとまったと思ったら、たちまち威勢のいいお帰りと言う声がした。主人は日本堤分署からもどったとみえる。車夫がさし出す大きなふろしき包みを下女に受け取らして、主人は
「妙な徳利ね、そんなものを警察からもらっていらしったの」と雪江さんが、倒れたやつを起こしながら
「いい恰好なの? それが? あんまりよかあないわ?
「油壺なものか。そんな趣味のないことを言うから困る」
「じゃ、なあに?」
「花生けさ」
「花生けにしちゃ、口が小さ過ぎて、いやに胴が張ってるわ」
「そこがおもしろいんだ。お前も
「どうせ無風流ですわ。油壺を警察からもらってくるようなまねはできないわ。ねえ叔母さん」叔母さんはそれどころではない、風呂敷包みを解いて
「だれが警察から油壺をもらってくるものか。待ってるのが退屈だから、あすこいらを散歩しているうちに掘り出して来たんだ。お前なんぞにはわかるまいがそれでも珍品だよ」
「珍品すぎるわ。いったい叔父さんはどこを散歩したの」
「どこって日本堤
「だれが見るもんですか。吉原なんて
「ええそうね。どうも
「もどらんのは山の芋ばかりさ。元来九時に出頭しろと言いながら十一時まで待たせる法があるものか、これだから日本の警察はいかん」
「日本の警察がいけないって、吉原を散歩しちゃなおいけないわ。そんなことが知れると免職になってよ。ねえ叔母さん」
「ええなるでしょう。あなた、私の帯の片側がないんです。なんだか足りないと思ったら」
「帯の片側ぐらいあきらめるさ。こっちは三時間も待たされて、大切の時間を半日つぶしてしまった」と日本服に着替えて平気に火鉢へもたれて油壺をながめている。細君もしかたがないとあきらめて、もどった品をそのまま戸棚へしまい込んで座に帰る。
「叔母さんこの油壺が珍品ですとさ。きたないじゃありませんか」
「それを吉原で買っていらしったの? まあ」
「何がまあだ。わかりもしないくせに」
「それでもそんな壺なら吉原へ行かなくっても、どこにだってあるじゃありませんか」
「ところがないんだよ。めったにある品ではないんだよ」
「叔父さんはずいぶん石地蔵ね」
「また子供のくせに生意気を言う。どうもこのごろの女学生は口が悪くっていかん。ちと
「叔父さんは保険がきらいでしょう。女学生と保険とどっちがきらいなの」
「保険はきらいではない。あれは必要なものだ。未来の考えのある者は、だれでもはいる。女学生は無用の
「無用の長物でもいいことよ。保険へはいってもいないくせに」
「来月からはいるつもりだ」
「きっと?」
「きっとだとも」
「およしなさいよ、保険なんか。それよりかそのかけ
「お前など百も二百も生きる気だから、そんなのんきなことを言うのだが、もう少し理性が発達してみろ、保険の必要を感ずるに至るのは当然だ。ぜひ来月からはいるんだ」
「そう、それじゃしかたがない。だけどこないだのように
「そんなにいらなかったのか?」
「ええ
「そんなら返すがいい。ちょうどとん子がほしがってるから、あれをこっちへ回してやろう。きょう持って来たか」
「あら、そりゃ、あんまりだわ。だってひどいじゃありませんか、せっかく買ってくだすっておきながら、返せなんて」
「いらないと言うから、返せと言うのさ。ちっともひどくはない」
「いらないことはいらないんですけれども、ひどいわ」
「わからんことを言うやつだな。いらないと言うから返せと言うのにひどいことがあるものか」
「だって」
「だって、どうしたんだ」
「だってひどいわ」
「愚だな、同じことばかり繰り返している」
「叔父さんだって同じことばかり繰り返しているじゃありませんか」
「お前が繰り返すからしかたがないさ。現にいらないと言ったじゃないか」
「そりゃ言いましたわ。いらないことはいらないんですけれども、返すのはいやですもの」
「驚いたな。わからずやで強情なんだからしかたがない。お前の学校じゃ論理学を教えないのか」
「よくってよ、どうせ無教育なんですから、なんとでもおっしゃい。人のものを返せだなんて、他人だってそんな不人情なことは言やしない。ちっとばか竹のまねでもなさい」
「なんのまねをしろ?」
「ちと正直に淡泊になさいと言うんです」
「お前は愚物のくせに、いやに強情だよ。それだから落第するんだ」
「落第したって叔父さんに学資を出してもらやしないわ」
雪江さんはここに至って感に堪えざるもののごとく、
見ると年ごろは十七、八、雪江さんと追っつ、かっつの書生である。大きな頭を
主人は
ところへ後ろの襖をすうとあけて、雪江さんが一
雪江さんの引き込んだあとは、双方無言のまま、しばらくのあいだは辛抱していたが、これでは
「君はなんとか言ったけな」
「
「古井? 古井なんとかだね。名は」
「古井
「古井武右衛門──なるほど、だいぶ長い名だな。今の名じゃない、昔の名だ。四年生だったね」
「いいえ」
「三年生か?」
「いいえ、二年生です」
「甲組かね」
「乙です」
「乙なら、わたしの監督だね。そうか」と主人は感心している。じつはこの大頭は入学の当時から主人の目についているんだから、けっして忘れるところではない。のみならず、時々は夢に見るくらい感銘した頭である。しかしのんきな主人はこの頭とこの古風な姓名とを連結して、その連結したものをまた二年乙組に連結することができなかったのである。だからこの夢に見るほど感心した頭が自分の監督組の生徒であると聞いて、思わずそうかと心のうちで手をうったのである。しかしこの大きな頭の、古い名の、しかも自分の監督する生徒がなんのために今ごろやって来たのかとんと推量できない。元来不人望な主人のことだから、学校の生徒などは正月だろうが暮れだろうがほとんど寄りついたことがない。寄りついたのは古井武右衛門君をもって
「君遊びに来たのか」
「そうじゃないんです」
「それじゃ用事かね」
「ええ」
「学校のことかい」
「ええ少しお話ししようと思って……」
「うむ。どんなことかね。さあ話したまえ」と言うと武右衛門君下を向いたぎりなんにも言わない。元来武右衛門君は中学の二年生にしてはよく弁ずるほうで、頭の大きいわりに脳力は発達しておらんが、しゃべることにおいては乙組中
「話すことがあるなら、早く話したらいいじゃないか」
「少し話しにくいことで……」
「話しにくい?」と言いながら主人は武右衛門君の顔を見たが、先方は依然としてうつ向きになってるから、何事とも鑑定ができない。やむをえず、語勢を変えて「いいさ。なんでも話すがいい。ほかにだれも聞いていやしない。わたしも
「いいだろう」と主人はかってな判断をする。
「では話しますが」と言いかけて、いがぐり頭をむくりと持ち上げて主人の方をちょっとまぼしそうに見た。その目は三角である。主人は
「じつはその……困ったことになっちまって……」
「何が?」
「何がって、はなはだ困るもんですから、来たんです」
「だからさ、何が困るんだよ」
「そんなことをする考えはなかったんですけれども、
「浜田というのは浜田
「ええ」
「浜田に下宿料でも貸したのかい」
「なにもそんなものを貸したんじゃありません」
「じゃ何を貸したんだい」
「名前を貸したんです」
「浜田が君の名前を借りて何をしたんだい」
「
「何を送った?」
「だから名前はよして、
「なんだか要領を得んじゃないか。いったいだれが何をしたんだい」
「艶書を送ったんです」
「艶書を送った? だれに?」
「だから、話しにくいというんです」
「じゃ君が、どこかの女に艶書を送ったのか」
「いいえ、ぼくじゃないんです」
「浜田が送ったのかい」
「浜田でもないんです」
「じゃだれが送ったんだい」
「だれだかわからないんです」
「ちっとも要領を得ないな。ではだれも送らんのかい」
「名前だけはぼくの名なんです」
「名前だけは君の名だって、なんのことだかちっともわからんじゃないか。もっと条理を立てて話すがいい。元来その艶書を受けた当人はだれか」
「
「あの金田という実業家か」
「ええ」
「で、名前だけ貸したとはなんのことだい」
「あすこの娘がハイカラで生意気だから艶書を送ったんです。──浜田が名前がなくちゃいけないって言いますから、君の名前を書けって言ったら、ぼくのじゃつまらない。古井武右衛門のほうがいいって──それで、とうとうぼくの名を貸してしまったんです」
「で、君はあすこの娘を知ってるのか。交際でもあるのか」
「交際も何もありゃしません。顔なんか見たこともありません」
「乱暴だな。顔も知らない人に艶書をやるなんて、まあどういう了見で、そんなことをしたんだい」
「ただみんながあいつは生意気でいばってるって言うから、からかったんです」
「ますます乱暴だな。じゃ君の名を公然と書いて送ったんだな」
「ええ文章は浜田が書いたんです。ぼくが名前を貸して
「じゃ三人で共同してやったんだね」
「ええ、ですけれども、あとから考えると、もしあらわれて退学にでもなるとたいへんだと思って、非常に心配して二、三日は寝られないんで、なんだかぼんやりしてしまいました」
「そりゃまたとんでもないばかをしたもんだ。それで
「いいえ、学校の名なんか書きゃしません」
「学校の名を書かないだけまあよかった。これで学校の名が出てみるがいい。それこそ文明中学の名誉に関する」
「どうでしょう退校になるでしょうか」
「そうさな」
「先生、ぼくのおやじさんはたいへんやかましい人で、それにおっかさんが
「だからめったなまねをしないがいい」
「する気でもなかったんですが、ついやってしまったんです。退校にならないようにできないでしょうか」と武右衛門君は泣きだしそうな声をしてしきりに哀願に及んでいる。襖の陰では最前から細君と雪江さんがくすくす笑っている。主人はあくまでももったいぶって「そうさな」を繰り返している。なかなかおもしろい。
吾輩がおもしろいというと、何がそんなにおもしろいと聞く人があるかもしれない。聞くのはもっともだ。人間にせよ、動物にせよ、おのれを知るのは
吾輩がこの際武右衛門君と、主人と細君および雪江嬢をおもしろがるのは、たんに外部の事件が
かように考えておもしろいなと思っていると、
「先生」
主人は武右衛門君に「そうさな」を繰り返していたところへ、先生と玄関から呼ばれたので、だれだろうとそっちを見ると半分ほど筋かいに障子からはみ出している顔はまさしく寒月君である。「おい、おはいり」と言ったぎりすわっている。
「お客ですか」と寒月君はやはり顔半分で聞き返している。
「なにかまわん、まあお上がり」
「じつはちょっと先生を誘いに来たんですがね」
「どこへ行くんだい。また
「きょうは大丈夫です。久しぶりに出ませんか」
「どこへ出るんだい。まあお上がり」
「上野へ行って
「つまらんじゃないか、それよりちょっとお上がり」
寒月君はとうてい遠方では談判不調と思ったものか、
「虎の鳴き声を聞いたってつまらないじゃないか」
「ええ、今じゃいけません、これから方々散歩して夜十一時ごろになって、上野へ行くんです」
「へえ」
「すると公園内の老木は
「そうさな、昼間より少しはさみしいだろう」
「それでなんでもなるべく木の茂った、昼でも人の通らない所を
「そんな心持ちになってどうするんだい」
「そんな心持ちになって、しばらくたたずんでいるとたちまち動物園のうちで、虎が鳴くんです」
「そううまく鳴くかい」
「大丈夫鳴きます。あの鳴き声は昼でも理科大学へ聞こえるくらいなんですから、深夜
「
「そんなことを言うじゃありませんか、こわい時に」
「そうかな。あんまり聞かないようだが。それで」
「それで虎が上野の
「そりゃ物すごいだろう」
「どうです冒険に出かけませんか。きっと愉快だろうと思うんです。どうしても虎の鳴き声は夜なかに聞かなくっちゃ、聞いたとはいわれないだろうと思うんです」
「そうさな」と主人は武右衛門君の哀願に冷淡であるごとく、寒月君の探検にも冷淡である。
この時まで
茶の間では細君がくすくす笑いながら、京焼きの安茶わんに番茶をなみなみとついで、アンチモニーの
「雪江さん、はばかりさま、これを出して来てください」
「わたし、いやよ」
「どうして」細君は少々驚いたていで、笑いをはたととめる。
「どうしてでも」と雪江さんはいやにすました顔を即席にこしらえて、そばにあった読売新聞の上にのしかかるように目を落とした。細君はもう一応協商を始める。
「あら妙な人ね。寒月さんですよ。かまやしないわ」
「でもわたし、いやなんですもの」と読売新聞の上から目を放さない。こんな時に一字も読めるものではないが、読んでいないなどとあばかれたらまた泣きだすだろう。
「ちっとも恥ずかしいことはないじゃありませんか」と今度は細君笑いながら、わざと茶わんを読売新聞の上へ押しやる。雪江さんは「あら人の悪い」と新聞を茶わんの下から、抜こうとする拍子に茶托に引っかかって、番茶は遠慮なく新聞の上から畳の目へ流れ込む。「それ御覧なさい」と細君が言うと、雪江さんは「あらたいへんだ」と台所へ駆け出して行った。ぞうきんでも持ってくる了見だろう。吾輩にはこの狂言がちょっとおもしろかった。
寒月君はそれとも知らず座敷で妙なことを話している。
「先生障子を張りかえましたね。だれが張ったんです」
「女が張ったんだ。よく張れているだろう」
「ええなかなかうまい。あの時々おいでになるお嬢さんがお張りになったんですか」
「うんあれも手伝ったのさ。このくらい障子が張れれば嫁に行く資格はあると言っていばってるぜ」
「へえ、なるほど」と言いながら寒月君障子を見つめている。
「こっちのほうは平らですが、右の
「あすこが張りたての所で、最も経験の乏しい時にできあがった所さ」
「なるほど、少しお手ぎわが落ちますね。あの表面は超絶的曲線でとうてい普通のファンクションではあらわせないです」と、理学者だけにむずかしいことを言うと、主人は
「そうさね」といいかげんな挨拶をした。
この様子ではいつまで嘆願をしていても、とうてい見込みがないと思い切った武右衛門君は突然かの偉大なる
「先生ありゃ生徒ですか」
「うん」
「たいへん大きな頭ですね。学問はできますか」
「頭のわりにはできないがね。時々妙な質問をするよ。こないだコロンバスを訳してくださいって大いに弱った」
「全く頭が大き過ぎますからそんなよけいな質問をするんでしょう。先生なんとおっしゃいました」
「ええ? なあにいいかげんなことを言って訳してやった」
「それでも訳すことは訳したんですか、こりゃえらい」
「子供はなんでも訳してやらないと信用せんからね」
「先生もなかなか政治家になりましたね。しかし今の様子ではなんだか非常に元気がなくって、先生を困らせるようには見えないじゃありませんか」
「きょうは少し弱ってるんだよ。ばかなやつだよ」
「どうしたんです。なんだかちょっと見たばかりで非常にかわいそうになりました。ぜんたいどうしたんです」
「なに愚なことさ。金田の娘に艶書を送ったんだ」
「え? あの
「君も心配だろうが……」
「なにちっとも心配じゃありません。かえっておもしろいです。いくら艶書が降り込んだって大丈夫です」
「そう君が安心していればかまわないが……」
「かまわんですとも私はいっこうかまいません。しかしあの大頭が艶書を書いたというには、少し驚きますね」
「それがさ冗談にしたんだよ。あの娘がハイカラで生意気だからからかってやろうって、三人が共同して……」
「三人が一本の手紙を金田の令嬢にやったんですか。ますます奇談ですね。
「ところが手分けがあるんだ。一人が文章を書く、一人が投函する、一人が名前を貸す。で今来たのが名前を貸したやつなんだがね。これがいちばん愚だね。しかも金田の娘の顔も見たことがないっていうんだぜ。どうしてそんなむちゃなことができたものだろう」
「そりゃ、近来の大出来ですよ。傑作ですね。どうもあの大頭が、女に
「とんだ間違いにならあね」
「なになったってかまやしません、相手が金田ですもの」
「だって君がもらうかもしれない人だぜ」
「もらうかもしれないからかまわないんです。なあに、金田なんか、かまやしません」
「君はかまわなくっても……」
「なに金田だってかまやしません、大丈夫です」
「それならそれでいいとして、当人があとになって、急に良心に責められて、恐ろしくなったものだから、大いに恐縮してぼくのうちへ相談に来たんだ」
「へえ、それであんなにしおしおとしているんですか、気の小さい子とみえますね。先生なんとか言っておやんなすったんでしょう」
「本人は退校になるでしょうかって、それをいちばん心配しているのさ」
「なんで退校になるんです」
「そんな悪い、不道徳なことをしたから」
「なに、不道徳というほどでもありませんやね。かまやしません。金田じゃ名誉に思ってきっと
「まさか」
「とにかくかあいそうですよ。そんなことをするのが悪いとしても、あんなに心配させちゃ、若い男を一人殺してしまいますよ。ありゃ頭は大きいが人相はそんなに悪くありません。鼻なんかぴくぴくさせてかあいいです」
「君もだいぶ迷亭みたようにのんきなことを言うね」
「なに、これが時代思潮です、先生はあまり昔ふうだから、なんでもむずかしく解釈なさるんです」
「しかし愚じゃないか、知りもしない所へ、いたずらに艶書を送るなんて、まるで常識をかいてるじゃないか」
「いたずらは、たいがい常識をかいていまさあ。救っておやんなさい。
「そうだな」
「そうなさい。もっと大きな、もっと分別のある大僧どもがそれどころじゃない、悪いたずらをして知らん顔をしていますよ。あんな子を退校させるくらいなら、そんなやつらを片っぱしから放逐でもしなくっちゃ不公平でさあ」
「それもそうだね」
「それでどうです上野の虎の鳴き声を聞きに行くのは」
「虎かい」
「ええ、聞きに行きましょう。じつは二、三日うちにちょっと帰国しなければならないことができましたから、当分どこへもお供はできませんから、きょうはぜひいっしょに散歩をしようと思って来たんです」
「そうか帰るのかい、用事でもあるのかい」
「ええちょっと用事ができたんです。──ともかくも出ようじゃありませんか」
「そう。それじゃ出ようか」
「さあ行きましょう。きょうは私が
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