【エピローグ】

 ようやっと傷が癒え、思うように体が動かせるようになった僕はさっそく、レンタカーを運転して東京から大子に向かっていた。


 約束した場所にたどり着いた頃には、群青の空に星營せいえいが瞬いていた。予定よりもだいぶ遅くなってしまった。それでもきっと、待っていてくれるだろう。


 崩落した橋の手前に車を停め、湿った木々の匂いを嗅ぎながら川辺におりてゆく。いまだに橋の残骸は片づいていなかったが、いずれはこの場所もきれいになるだろう。


 いや、きれいにしなくてはならない。


 さらさらとした川のせせらぎが妙に懐かしい。ひと月ちょっとしか経っていないのに、昔に聴いた音楽のような感覚に似ている。


 蒸し暑い季節を迎えていたけれども、陽が沈んだ時分の川辺はやはり涼しい。都心では味わえない独特の冷気に満たされていて、火照る僕の頬と胸にはとても心地よい。


 夜の世界で誰にでもなく語りかける月明りは、川辺に点在する大きな岩石の縁をおぼろげに浮き上がらせて、風にゆれる木々の輪郭を深藍の夜空からくっきりと隔てていた。


 川辺の石の上には、夜を背にして腰かけた女性のシルエットが描かれていた。


 僕はそっと歩み寄り、シルエットの隣で足を止めた。凛とした姿勢に長い髪、僕のよく知る人だ。


「おまたせしました、あずささん」


 振り向いたシルエットの女性を更待月が照らしだし、幻想的な微笑が夜に描かれる。


「はい、待ってましたよ」


「いつ頃からですか?」


「ずっと、ずっと前からです。それに、まだ待っているの、分かりませんか?」


 僕がその意図を理解できないでいると、あずささんは髪をかき上げ、少しだけ不機嫌そうな顔をした。


 すると、僕らの間にいくつか、緑黄色の小さな光がちらちらと灯る。


「あ……蛍ですね」


「はい、ちょうど見ごろになりました」


「僕、初めて見ました。都会では見れないですから。可愛い光ですね」


「一生懸命光っていますよ、けなげですね」


「頑張って飛んで光っているところが、あずささんみたいです。でも、まさか一緒に見られるなんて」


「ここまで来てくださって嬉しいです」


 感慨深そうなあずささんに向かって僕は本題を切りだす。今日は重要な会社の決定を伝えるため、ふたたび大子を訪れたのだ。


「あの、実は先日、本社で提案した企画が通ったんです」


「えっ……?」


 あずささんの心が跳ねるのを、僕は確かに感じ取った。


「あずささんのおかげです。もちろん、僕自身も復興の手伝いをしますし、本社直属の施設の経営にも携わります」


「本社さん……またここにくるんですか?」


 あずささんの瞳が月の光彩を吸い込んで水面みなものように潤む。そっと立ち上がって僕とまっすぐに向き合った。


「はい、でも僕はあくまで東京の人間です。大子で勤務する、本社の人間ですよ」


 すると、あずささんは派手に首を横に振って否定する。


「どこにいたって、本社さんは本社さんです。だからわたし、ずっと待っていたんですよ」


「待っていた……?」


「わたし、本社さんが言ってくれれば、どこへだってついて行くつもりでした」


 ああ、なんてことだ、そういう意味だったのか。あずささんが僕のことをそこまで想っていてくれていたなんて。


 だけど、僕にだって言い分はちゃんとあるのだ。


「でも、あずささんは大子を捨てては駄目な人です。町の人に愛され、必要とされていましたから。だから僕は何も言えませんでした」


 けれどもあずささんも黙ってはいない。すぐさま僕に向かって言い返す。


「わたしひとりの力なんて、些細なものなんです。だから、本社さんがわたしに女の幸せをくれたって良かったじゃないですか。それなのに、ひとりで東京に帰っちゃうなんて、本社さんはやっぱり詐欺師で、変態で、ドSですよ!」


 そのとき、鋭くて力強い突風が僕たちの隙間をぶわりと抜けていった。あたりの草木が一瞬、大きく踊った。


 そのはずみで川辺の草木の間から、無数の蛍が夜空に舞い上がる。


 僕たちは息を呑んだ。


 眩い黄緑色の光彩が深藍の夜空に舞い散って、僕たちを包む夜の舞台に神秘的な光の世界を描きだした。


 大子の空と大地が織りなす光の競演は、僕たちふたりを未踏の世界へ案内してくれたのだ。


「うわぁ……すごく綺麗……」


 見上げるあずささんの澄んだ瞳は、やはり空の瞬く光を映し出していた。


 僕はあずささんの、その瞳に心を奪われたのだ。抱いた気持ちは、時を重ねるごとに深く、鮮やかになっていた。


 僕の中に閉じ込めていた想いが激しくはじける。たまらず両腕をあずささんの背中に回し、しなやかな体を抱きとめていた。


「あの……わたし、今、怒っているはずですよ?」


 唐突に腕の中に招かれたあずささんは、平然を装いながらも声が震えていた。僕は意地悪っぽく耳元で囁く。


「知っています。でも、怒っている理由は、僕が詐欺師で変態でドSだからではないですよね」


「……分かっているんじゃないですか。それなのにずるいですよ」


 あずささんと僕は、互いに伝えたいことを理解している。いや、もうとっくに、深い場所で結びついていたはずだった。


「さすがに佐竹さんも、本社の人間の相棒には手出しできませんよね。それも、地域の復興に手を貸してくれた、ありがた~い人が相手なんですから」


「遠まわしな言い方したって、わたしは納得しませんよ」


 あずささんだって遠まわしに匂わせているのが見え見えだ。


 僕が想いを伝えるのを、ずっと待ち焦がれていることを。


 心のすべてを委ねられる本物の恋を、こいねがってやまないことを。


 ああ、どうして僕は今まで、正直な自分の気持ちを伝えられなかったのだろう。


 たとえ別れが訪れようとも、深い情愛を抱けるのなら、それは互いの心の奥底に、かけがえのない思い出として残ったはずだった。


 最初から嘘の恋人など、演じる必要すらなかったのだ。


 そして今や、あずささんを手離す理由なんて世界中を探したってどこにも見つかりっこない。


「あずささん、聞いてもらえますか」


「なんですか、本社さん」


 早鐘のように打つ胸の鼓動はひどく熱っぽくて、同時に心地よくもある。


 目を閉じて息を整え、それからあずささんと視線を合わせる。


 僕ははっきりをした声で想いを贈り届ける。


「僕はあずささんのことを、心から愛しています。これからも、ずっといつまでも」


 そう伝えると、あずささんも僕の背中に手を回し、やわらかい体をもたげて僕を見上げる。


 月光の下でさえ、あずささんの顔が熱を帯びているのはよくわかる。


 そして、川のせせらぎに溶けてしまいそうなくらいの小声で囁いた。


「じゃあ、この前の続き、してもらえますか。女の子に恥をかかせたらいけませんよ、本社さんは紳――んっ!」


 もう、待てなかった。言い終わるまで、待てるはずがなかった。


 重ねた唇で言葉を失ったあずささんは、素直にそっと瞼を閉じ、僕に身を委ねてくれた。


 ふたりの想いが夜の中に溶けあう。唇を通じて、心地よい陶酔が全身を廻る。僕はすべてが愛しいと思える、今まで感じたことのない恍惚に満たされていた。


 ようやっと見つけた、僕が生きてゆく場所、そしてともに生きる人。


 僕は、大子の空の下で、皆に支えられ、澄んだ風を吸い込み、自分の魂を優しさに変えて、皆に送り届けるのだ。そんな未来が明確に想像できた。


 それから名残惜しくも時が動きだすと、あずささんは「さて、みんな工務店で待っていますよ」といって背を向け、あっけらかんとした態度を演じる。


 まったく、内心は大騒動だというのに。


 そして、その気持ちは僕だって同じだ。


 あずささんは河原の石を飛び石のように跳ねながら僕の先を行く。その背中に向かって、僕も何気ないことのように振る舞ってみせる。


「はい、これからもよろしくお願いします。工務店の皆さんにも、いろいろ協力していただかないといけないですね」


 すると、あずささんはくるりと振り返り、魅力いっぱいの笑顔で両手を広げて僕を招き入れる。


「では、改めまして。ようこそ、大子町へ!」


 僕はその手を取り、しっかりと握りしめる。


 けっしてもう、離さないのだと固く心に誓って。


【了】


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「本社さん」~イケメンのホンネは意外と面倒!?~ 秋月一成 @IsseiAkizuki

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