花咲く草原の内と外――ヤーゲイ・ガナル酔夢譚――

いときね そろ(旧:まつか松果)

花咲く草原の内と外

 少し痩せたな、と兄は言った。

「そうでもないですよ」

 ヤーゲイはほそりと笑い、兄に従って階段を下りた。


 ここはハルリ宮。上界人カジュルクツだけに許される光の宮殿。

 少しの陰りも恐れるかのように隅々まで光が満ち溢れ、規則正しく唸る機械音と共に隙のない清潔が保たれ――いっそ息苦しいほどだ。

 兄のゼーグァイに通されたこの地下の部屋のみが、静かな薄闇と同居している。天球儀がゆったりと回転する向こうで、草花の造形壁が禁じられた資料――紙の書物――を護っている。

「ここは居心地が良いです」

 ヤーゲイは素直な感想を述べた。


「飲むか」

 ゼーグァイは青緑色の瓶と酒杯タァソを置いた。

 半透明な酒瓶の底には人のこぶし大ほどもある大きな花が沈んでいる。

「それはチャタナの花だ」

「チャタナ……毒花じゃないですか」

「生ならな。こうして酒の底に沈めて時を待てば、毒気が抜けて良い香の元となる。ほら」

 注がれた酒からは、しんとした香りが立つ。


「では乾杯。我が優秀なる弟の帰還を祝して」

「大げさですよ、兄上」

 酒杯タァソを掲げれば、天窓からの細い光を受けて酒は翡翠の色に輝く。わずかな心の痛みと共に、ヤーゲイはそれを飲み干した。


「自分は何者なのだろうと考えたことがありますか、兄上」

「なんだ唐突に」

「唐突じゃありませんよ、私はいつも考えている。たとえばこの体質です」

 いくぶん陽に焼けた、けれど炎症の形跡すらない自分の腕をつくづくと見て、ヤーゲイは続けた。

「カジュルクツにとって外の風は毒だというのに、なぜでしょう私と兄上だけは皮膚も粘膜も丈夫で防護服が要らない」

「特異体質なんだろうな。おかげで調査員として難なく穢れた地の民ウダンノウツに紛れることができる」

「その言葉は嫌いです」

 目を閉じ、ヤーゲイは杯を両手で包んだ。


「幼い頃、私はハルリ城内のハルリ宮こそが私の生きる場所だと、なんの疑いもなく思っていました。長じて兄上の仕事を手伝うになっても。けれど、ある日疑念が湧いたのです。防護服なしに平気で宮殿の内と外を行き来する自分は果たしてカジュルクツなのか? 本当に? 穢れた地と呼ばれる外の風を吸い、外の陽に晒されたこの身もまた『穢れて』いるのかそうでないのか。ここは本当に私の居場所なのか?」

「もう酔ったのか、ヤーゲイ」

「ええ、そのようですね……この翡翠色の酒のせいですよ。語らせてください、酔いに任せた戯言だと思って」

 ゼーグァイは黙って弟の酒杯タァソを再び満たした。


「私は調査員として、元の地の民ジロブカリツの服を着、彼らと同じものを食べ、同じ地に眠って彼らの暮らしをつぶさに視てきました。外の世界は、自然環境ばかりではなく全てが過酷だ。彼らの価値観はときに理解を超えます。『人』ではなく『大猿』と皮肉られるのもやむなし、と思える場面も度々目にしてきました。けれど」

 ヤーゲイは部屋の壁に目を向けた。造り物の草花が飾る壁、その先に続く天井には人工の星が明滅している。

「荒れ地を越えた先に、シーリェンカの青い花が一面に咲く草原を見た時の心の震えをなんと表わせば良いのですか。本物の闇の中で星を仰ぎ、本物の風に凍えて幾日も過ごしたあとハルリ宮に戻った時の喪失感を、どうやり過ごせば良いのですか。闇が恋しくなる。清浄なはずの宮殿内の空気さえ私には息苦しい。ここは私の場所ではない、また外の世界で彼らと共に過ごしたいと、強烈に思うのです」

「くだらん感傷だ」

「そうです感傷です。瓶に沈められた毒花のように、自分が何者であるかを忘れて勝手に酔っているに過ぎない」

 くしゃりと顔を歪めて杯をあおり、ヤーゲイは自分を嘲るように答えた。


「私は傲慢だ。どんなに元の地の民ジロブカリツを識り、彼らを理解したようなことを言っても、いざ我が身が危うくなればハルリ宮という安全圏に戻れる。所詮は上界人カジュルクツの身勝手な感傷なんです。手紙で報告した楽士たちの『結界』を見た瞬間、思い知らされました。私は彼らにとってどこまでもの人間だ。あの結界に招き入れられて共に旅を続けられるほど、彼らのには入れっこない……あれ?」

 しばらく目を見開いたあと、ヤーゲイはくっくっと笑いだした。


「おかしいな、話しているうちに『内』と『外』が逆転しましたよ……そうか彼らが外にいるんじゃない。私こそが『外』の人間らったんら……」

 次第に呂律が回らなくなる弟の酒杯を取り上げて長椅子の背にもたれさせ、ゼーグァイはやれやれとため息をついた。

 ヤーゲイはもう寝息を立てている。


「お前はほんとうに変わらんな。繊細すぎるんだよ小さい頃から」

 青緑色の瓶の底では、色を失った花が頼りなく揺れている。

「自分が何者かだと……そんなことを問う花がいるものか。毒花も酒になれば罪はない、その事実だけあれば良いのだ。もっとしたたかになれ、ヤーゲイ」

 子どものような顔で眠る弟の頭をくしゃりとして、ゼーグァイは残りの酒を自分の酒杯タァソに注いだ。


〈了〉


 





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