テセウスの舟

 紫月は、送られてきたメールの文面を思い出し、がりがりと頭を掻いた。結っていた黒髪が乱れて、面倒に思ってそのまま解く。

「ああ、くそ、邪魔くさいな」

「切ればいいのに」

 水無月が至極真っ当なことを言った。

 邪魔ならば切ればいい。

 反論しようもないほどに正論で、だからこそ紫月は腹が立った。

「……能力者として捕縛された当時の髪を、切り落としたくねえんだよ」

 絞り出すような紫月の声を、水無月は理解しない。

「意味が、わかりません」

「だろうなあ。捕縛される前の自分を忘れたくない。細胞はものにもよるが、半年やそこらで入れ替わる。それこそテセウスの舟だ。でもな、髪は切らなければ、当時のものがそこにある」

「……紫月さん、捕縛される前の生活がそんなに大事だったんですか。でも、そんなことしたって、当時が戻ってくるわけじゃないのに」

 蔑みと理解できないものを見る目で、水無月は紫月を冷たく見つめた。

 そんなことは、言われるまでもなく、紫月自身がよくわかっている。

 能力――特殊能力や潜在能力と言われるそれの発現は不可逆だ。

 放射性物質のごとく不安定で、挙動も不確かな紫月の能力が解析されるまで、そしてそれを紫月が制御するまでにかかる時間は、膨大だ。

 それは、捕縛当時、紫月の周囲にいた人間が紫月綾斗という存在を忘れ去るのに十分な時間だろう。

「それでもやるんだよ」

「……よく、わかりません」

 水無月と話していれば、この少年がそれを解さないことはわかる。

 だが、それを不要と蔑まれ、理解できないと冷たい目を向けられるのは我慢ならなかった。

 苛立つ紫月は、そのままに水無月に呪いを刻む。

「おまえは、絶対、人を救えない。そういうやつだよ。今ここで俺が断言してやる」

 大人げないと思う。

 けれど、水無月が紫月に呪いを撤回させるような成長を遂げる気はしない。

 呪いが、呪いとして機能しているとも、思えなかった。

「人を救う気はないので、どうでもいいですけど……」

 紫月の苛立ちの原因もわからない水無月は、やはり紫月の呪い一つ効いてはいなかった。

 こいつは、そんなことで絶望しはしない。

 紫月の絶望の一端も味わわないだろうこの少年を、ひそかに憐れんだ。


「まあ、他人の願いを無意味で無価値だと言い切るくそみたいな性格を隠すための所作なら教えてやるから、気が向いたら来れば。どうせ暇してるし」

 おまえのその性格は直せないと暗にこめた意味を知ってか知らずか、水無月は礼を言った。

「助かります。嘘をつく技術、俺は能力と黙る以外に持ってなくて」

 ブルーサファイアの瞳を持つ少年は楽しげに笑って、去っていった。


「……日和ったな」

 紫月は水無月相手に飲みこんだ言葉を数えて、あの日の自分との隔たりを否が応でも自覚した。

 ずるずると、キッチンにへたりこむ。

 あの日は、もう届かない。

 長く伸ばした髪の毛先だけが当時のもので、他にそのままのものなど、何もなかった。

 何も、ない。

 絶望を数えて、また朝が来る。

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叶わぬ願い 染井雪乃 @yukino_somei

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