#40 1フデマ=6円23銭

 午前中の仕事を早めに切り上げ、フェっちゃんと川に向かった。私は無口で、雑談というものが一切できないたちなのに、娘といるといくらでもしゃべれる。相性が良いからだろうか? 相性の良くない親子の家庭では、親がせっせと話の種を用意するという。「学校で今、何がはやってるの?」「クラスで誰と仲がいいの?」そんな退屈な話の種を蒔かれても、フェっちゃんの鼻息ひとつで吹き飛ばされてしまう。そしてタンポポの種のようにふわふわと宙を舞い、退屈な家庭にたどり着き、退屈な食卓に退屈な花を咲かせる。


 日曜の川辺の遊歩道は散歩する人で混雑していた。「すかすかじゃん」そうフェっちゃんに訂正された。 


「パパはずっとおうちにいるから、これでも混雑に見えるんだね。街に出たら心臓破裂しちゃうよ」

「いつ街に出たの?」

「街でママが服買ってくれた。ね、これ」

「かわいいね。似合ってるね」

「てきとうなかんそう! これが父子の会話でそうろう!」

「すてきなリリック。ライムが決まったね」

「てきとうなかんそう! 背におうランドセルはおうごんでそうろう!」

「黄金!? ランドセルが?」

「おう・ごん!」

「黄金のランドセル負う女の子にしては、その服ちょっと地味じゃない?」

「女の子だからピンクにしろって?」

「そんなこと言ってないよ」

「これはね、喪服なの。フカフカのお墓参りのときはいつも喪服。そうそうでそうろう!」

「曹操?」

「そう・そう!」

「ああ、葬送か」


 春とはいえ日ざしがやや強すぎ、汗が滲んできた。まぶしい光のなか、フェっちゃんはぴょいぴょい跳ねて川沿いの遊歩道を進んでいく。ずっと遠くに離れてしまって振り返り、私が追いつくまで、そこでくねくねしながら待っている。私にもかつてこんな子犬のような時期があったのだろうか。私のなかの子犬はどこに行ってしまったのだろう。今はもういないまっ白な子犬たちの駆け回る天国を思う。この春の日を、私は死ぬまで覚えてるだろう。


「パパ、遅いよ」

「もっと近くに作ればよかったね、お墓」

「十分近いよ」

「十分遠いよ」


 意見の相違を妥協させるように、私たちは再び並んで歩き出した。


「フェっちゃんは将来何になるの?」

「学校の宿題みたいなこと言ってらあ」

「難しいこと考えないでさ。将来何になりたいか。明日になったら変わっちゃってもいいんだよ。今日みたいにお天気の日は、気持ちがなんだか軽くなって、何にでもなれるような気がしない?」

「しない! いや、ちょっとするかな? やっぱりわかんない」

「何になりたい?」

「シャケ!」

「シャケ、食べられちゃうよ。クマとかタカとか人間に」

「じゃあ、ハリネズミ!」

「本当は何になりたいの?」

「わかんないよ。難しいこと考えないでいいって言ったのに」

「難しいことは考えないでいい。でも、適当でいいということじゃないよ。フェっちゃんは絵が上手だよね」

「世界で一番うまいよ」

「絵を描くとき、難しいこと考える?」

「考えない」

「じゃあ、適当に描いてるの?」

「適当じゃないよ。本気で描いてる。世界最強の絵師の名にかけて」

「絵を描くときみたいに、将来のことを考えてみて。キャンバスに塗り残しがある。まるで、思い出せない夢みたいにまっ白な塗り残し。そこをじっと見て、どんなイメージが湧いてくる? 何を思い出せる?」

「将来のことなのに思い出すの?」

「そう。絵を描くときも、そういう風にしてない?」

「してない。あれ、してるかな? わかんない。絵の具無いし」

「思い出すのに絵の具は必要ないよ。ちょっとやってみてごらん」


 フェっちゃんは立ち止まって、考えた。また歩き出し、考えつづけた。声に出さなくても、真剣に考えていることはわかる。人にとって、考えることは、歩くこと、話すことと同じくらい肉体的な行為なのだ。


 ずっと昔、こんな気持ちのいい日に私は何になりたいと願っただろう? シャケになって故郷の川を遡りたい。ハリネズミになって全身の針を一本一本研いでとがらせたい、そんなことも願ったかもしれない。でも、それだけだったろうか? キャンバスの塗り残しに、私は何を思い出していたか。


「わかった」

「何になりたいの?」

「小説家になりたい」

「そう」

「なんでうれしそうなの?」

「え、うれしくはないよ」

「だって笑ってる」

「さっきから笑ってるよ」

「さっきはむっつりだったよ。パパはいつもむっつりだよ」

「フェっちゃん。パパは死にゲー作家になる前、小説家だったんだよ」

「なんでやめちゃったの?」

「小説家はもう絶滅した職業なんだ。お金にならないし、読む人もいないしね。それなのに書きたい人はたくさんいるから、誰にも読まれなかった小説が世界にあふれかえっているんだよ」

「ネットは広大だわ」

「そう、ネットは誰にも読まれない小説の海だ」

「もしかして、わたしが小説家になること反対してる?」

「そんなことない。フェっちゃんの言うとおり、パパはうれしいんだと思う。だけどフェっちゃん、作文苦手じゃなかったっけ?」

「作文は嫌い。書くのは好き。うそ書けば何にでもなれるから。わたし、フカフカが主人公の小説書く。フカフカと一緒にプラハの街を探検する」

「その小説にお人形は出てくる?」

「なんで知ってるの?」

「ずっと前、フェっちゃんのお人形が旅に出かけていなくなったよね。そのお話のつづきを、フェっちゃんは書きたいんじゃない?」

「よくわかんない」

「いなくなった者たちのつづきを書くこと。それが小説だよ」

「うそを書くのが小説じゃないの?」

「うそとも言えるし、うそとも言えない。それは、ここと、向こうと、どっちから眺めるかによるね」

「ここって?」

「ここはここだよ」

「向こうって?」

「向こうもここさ」

「何言ってるかわかんない」

「うん。パパも何言ってるかわかんない。だから、書かないとわからないんだよ。絵だって、描かないとわからないでしょう? 小説も同じ。書かないとわからないんだ。だから書くんだよ」

「じゃあ、書き終わったらわかるの?」

「たぶんね。でも、小説は書き終わるということがないんだ。すべての小説は未完なんだよ」

「がんばって完成させればいいのに」

「がんばると小説は小説じゃなくなっちゃうんだ。筆まかせだからね」

「フデマ?」

「1フデマ=6円23銭」

「フデマ?」

「なんでもない」

「ねえ、このままずっと歩き続けてもフカフカのお墓にたどり着けなかったらどうする?」

「行き倒れるしかないかな」

「いったん家に戻ってから車で行けばいいんだよ」

「うちに車ないよ。免許もないし」

「じゃあママの会社の車に乗せてってもらえばいいじゃない。いくらでもやりようはあるでしょ? 行き倒れるって何。すぐ諦めちゃうんだから。小説家の人たちってみんなそんななの?」

「がっかりした? 小説家なるのやめる?」

「なるよ」

「どうして?」

「わたし、お人形をなくした女の子たちのために小説書いてあげるの」

「そっか。なら、それは小説だね」

「ちゃんと最後まで書いて、絶対ハッピーエンドにする。私は諦めない小説家になるの」

「でもそれは、もう小説というより、死にゲーかもね。何百回、何千回死んでも諦めないのは、死にゲーそのものだよ」

「すぐ諦めちゃうのが小説?」

「すぐ諦めて、やれやれ、って言ってればだいたい小説になるんだよ。ストーリーよりも、文体こそが小説のいのちだから」

「やれやれがブンタイ?」

「やれやれは使い古された文体だね」

「じゃあ、ブンタイは捨てちゃった方がいいね。やれやれとか意味わかんないし」

「文体捨てたら小説が死んじゃうよ」

「小説は死んだらどうなるの?」

「天国で、子犬たちと一緒に幸せに暮らしてるんじゃないかな」

「じゃあ、私はその子犬たちのことも書くよ。死んだ小説たちのことも書く」

「フェっちゃんはやさしいね」

「わたしはやさしいよ。パパはやさしい?」

「パパは小説にやさしくできなかったんだよ。小説を死なせてしまった。それで小説家をやめて、死にゲー作家になったんだ」

「ちゃんと小説のお墓参りしてる?」

「してない。だって、お墓なんてないから」

「じゃあ、今日つくればいいよ。今日はフカフカのお墓参りと、小説のお墓参り。やさしくできなかったのなら、今日、ちゃんと謝ればいい」

「小説は許してくれるかな」

「許されることなんて決してない。それでも許しを求めることで先に進める。パパの死にゲーの言葉だよ」

「そんな台詞あったっけ?」

「やれやれ。パパの脳はどうなんってんだあ!」


 フェっちゃんが私に体当たりするように寄りかかってきた。子犬の体重と体温を、私は受け止めきれただろうか?


 フェっちゃんが書く小説を読める日まで、私は生きているのだろうか。小説は何度も死ぬ。作者の身代わりのように、小説はいつもひっそり死を迎える。そして、何度も生き返る。死にゲーの主人公のように。


 小説は死にゲーであり、死にゲーは小説である。


 娘もいつか死ぬ。この子犬の物語のつづきを、きっとまだ生まれていない誰かが書いてくれる。まっ白な原稿用紙をじっと見つめ、未来のことを思い出すように。その未来では、子犬たちは永遠に駆け回り、お人形は最愛の女の子と無限に再会する。

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文体を捨てよ、死にゲーにしよう 残機弐号 @odmy

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