#39 わたしのランドセル赤くないよ

「パパ?」


 声がして、目が覚めた。目の前は白い壁、2畳の書斎で脚曲げて寝ていた。布団代わりの原稿用紙をかき集め、順番なんて気にせず封筒に詰め込んでドアを開けると、外はもう朝。白い光がまぶしい。その光のなかに、まだパジャマ姿のフェっちゃんが立っていた。


「またここで寝ちゃったの?」

「今日は何曜日だっけ」

「日曜だよ。昨日は土曜、一緒にお散歩行ったでしょ?」

「ごめんごめん。ママは?」

「とっくに起きてお仕事行っちゃったよ」

「ご飯つくるから、フェっちゃん、顔洗ってきなさい」

「パパこそ顔洗ってきなさい。髪もすごいことなってるよ」


 そう言って、フェっちゃんはとことことどこかへ行ってしまった。顔を洗いに行ったのではないだろう。父の威厳なんてあったものじゃない。死にゲー作家は家に引きこもってばかりでずれているのだ。娘に叱られ、妻に叱られ、しっかりしなければと気をつけて過ごしても、気をつけ方までずれている、とまた叱られる。


 私に威厳がないという事実。それは、娘の名前を決めるときから運命のように定まっていた。フェっちゃんというあだ名にしたくて、私は“フ”のつく名前を次々挙げていったがすべて妻に却下された。あだ名は後から自然に決まってくるものでしょう? あなたは名前の付け方までずれている。それで妻が娘の名前を“さくら”と決め、私は娘のあだ名を“フェっちゃん”と決めた。でもふたりとも、娘をあだ名の方で呼んでいる。私に威厳がなくても、私の選ぶ道はいつも運命のように正しい。


 レタスを数枚ちぎってミニトマトを添える。トーストを焼いているあいだにフライパンでハムエッグをつくるあいだにレンジでミルクを温めるあいだに妻が残しておいてくれたコーヒーをカップに注ぐ。いつもの決まり切った手順、毎日のくりかえしで無意識にやれるが、上達のない、ただの惰性でもある。レタスとミニトマトの隣に変わり映えしないハムエッグをフライパンからほっかり軟着地させるとちょうどトーストが焼き上がるのでトースターから出す。とっくにミルクを温め終わったレンジがぴいぴい催促をつづけるのをわかったわかったとなだめながらマグカップを取り出す。そうして毎朝のルーチンが終わり、朝食が完成する。フェっちゃんを呼び、ふたりでいただきますをする。私はトーストにジャムを塗り、フェっちゃんはメープルシロップをたらーりかける。そしてふたりとも何の感慨もなしにもそもそと義務のように食べる。朝食に変化を求めてはいけない。それはラジオ体操と同じ、1日の始まりを告げる合図なのだ。私はどちらかといえばラジオ体操に向いてると思う。


「今日もお散歩行こう」


 フェっちゃんがトーストをちぎりながら、トーストに話しかけるみたいに言った。


「今日はどっちに行こうか」

「川の方」

「森も気持ちいいよ。今日は天気がいいから木漏れ日がきれいだと思うな」

「川がいい」

「フカフカのお墓参り、昨日も行ったのに」

「わたしが行かないとさびしがるから」

「やさしいんだね」

「そういうんじゃない」

「ハリネズミにしては長生きだったんだよ。天寿を全うしたんだ」

「いいお葬式だったね」

「お葬式したっけ?」

「したよ。パパはいっつも忘れちゃう。コバヤシさんも来てくれたし、ブロートさんも来てくれた」

「あ、そういえばあの日ひさしぶりに飲み会したなあ」

「飲み会じゃないよ。お葬式、ていうかお通夜? みんなフカフカのために集まってきてくれて、いいお通夜だったねえ」

「パパはコバヤシさんに2発殴られたよ。玄関で迎えたときと、玄関でお見送りするとき」

「嫌われてるの?」

「挨拶代わりに一発お見舞いって言うだろう?」

「言わないよ」

「言うよ」

「でもわたしは殴られなかったよ。パパ、舐められてるんだよ」

「女の子は殴らないさ」

「わたし女の子だから舐められてるの?」

「そういうんじゃないさ。舐めるとか舐めないとか、ギャングの世界の話だよ。一般人はそんなの気にしないでいい」

「ブロートさんはギャングだよね」

「マックスはパパの親友だよ。パパが売れなかったころからずっと小説を読んでくれてたんだ」

「わたしブロートさん大好き。かっこいい。お葬式のときコートに茶色いシミがついてたけど。今度ピストル撃たせてってお願いしたら、“お安いご用さ”って。映画の人みたい。パパも言ってみ?」

「ピストルなんてダメだよ」

「大丈夫だよ。女の子用ピストル用意するって言ってた」

「女の子用ピストルなんてないよ。ピストルは女の子が使わないことになってるんだから」

「そんなこと誰が決めたの? 女の子は舐められてるの?」

「常識だよ、常識。女の子は赤いランドセル。女の子はピストルを撃たない」

「わたしのランドセル赤くないよ」

「じゃあ何色?」

「そんなこと女の子に聞くの? パパのえっち」

「なんで? パンツの色聞いてるわけじゃないでしょ」

「パンツなんて! 食事中なのに、えっちにも程があるよ」

「何の話してたんだっけ?」

「女の子を舐めるなって話」

「とにかくピストルはダメだよ。ブロートにも言っといてやらないと」

「ええー。パパのえっち」

「だからなんでさ」

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