第33話 黒宮桃の嗚咽

神様。

神様。

……お願い、神様。



◆ ◆ ◆



朧先生は好きだ。

けれど、朧扉は嫌いだ……。


トイレの花子さん。

口裂け女。

人面犬。


何処の地域にも、何処の学校にも、そういう七不思議や都市伝説みたいなものは少なからずある。

そういう怖い話の系統で無くとも、例えば、校舎裏の桜の木下で告白すると成就するとか、図書室のアソコの席で受験勉強すれば合格するとか、そういう、言い伝えとか聞き伝えとか、そういうものだって存在する。


そして、ここ白海坂女学園でも、噂話や伝統、伝説なんかが存在していて…………。


別に信じている訳じゃない。


だって、ちゃんと考えれば分かる事だから。


そんなアレやコレやなんて本当には存在しない。

有りはしない。

全部デタラメで、遊び半分で吹聴されて、そうなったら良いなとか、そうだったら面白いなとか、所謂ソウイウモノだから。


私達はまだ子供だけれど、そういう噂話を信じてしまう程に子供ではない。

嘘と本当の区別がついていて、『嘘』は優しくて『本当』は厳しい事を知っている。


……それなのに、私は今、その『嘘』にしがみ付き、懇願して助けを乞うしか選択肢が無かった。


だから私は――。




「それで、私にどうして欲しいの?」




朧扉が嫌いなのだ…………。




◆ ◆ ◆




「……ただの噂話だと思ってました」


「っはは。本当に、ただの噂話だったら良かったんだけどね」


そう言って、朧扉は笑う。

同じ人だという事は分かる。

姿形は同じだし、声の色も同じだし、仕草や昼時に見た今日の服装だって同じだ。


だから、同じ人だという事は分かる。


それなのに、彼女は私の知っている『朧先生』ではなかった。

保険医としての彼女の声、顔、表情、仕草、どれを取っても『朧先生』と『朧扉』は同一の人物の筈なのに、何かが違うし、何もかもが違う様にも思えた。

決定的な違いが分からないのにも関わらず、それらが同一であり、また別物であるという、双方の確証があった。

まるで『朧』という種の中で、それらは『先生』と『扉』という別個体なのだという様に。



「……私は、貴女の事を、何と呼べば良いんですか……?」


問うと、彼女は「別に? 好きに呼んで貰って構わないわ。ただ、敬称は必要よ? 『朧先生』『朧扉さん』『朧さん』『扉さん』。それ等以外でも何でも良いわ。だけど、呼び捨てられるのは嫌いなの。貴女は私の大切な人ではないし、私も貴女の大切な人ではないでしょ?」と、そう言って口角だけで笑む。




喫茶店『ライトオレンジ』




この場所は、白海坂の生徒の間では知る人ぞ知るみたいな場所だ。


少し奥まった路地の、また少し奥に足を踏み入れないといけない様な、そんな立地の喫茶店。口伝て聞き伝てでなんとなく、知っている人は知っているし、知らない人は知らないという、そんな曖昧な知名度のこの場所。最初にどうやって知って、どういう経緯で来たのかは、もうトンと覚えていない。

細やかな記憶を遡って掘り起こしてみると、そういえば初めはサヤちゃんとハルちゃんと、三人で来たのだという事をなんとなく思い出せたし覚えていた。




「……じゃあ、『朧さん』って、呼ばせてもらいますね」


「えぇ、良いわよ『黒宮さん』」



『黒宮さん』の部分を強調され、私は少しだけ緊張からか唾を飲んだ。

それを彼女は見逃さず、やはり口角だけで笑んで見せる。


「あら? 言わないのね、いつもみたいに」





黒宮って呼ばないで下さいよって。





「………………」






……出来る事ならば、今すぐ此処から逃げ出したい。


向けられる視線と容赦の無い圧力から泣きながら逃げ出し、すぐにでも冬乃に会いに行きたい。そうすればきっと今此処で見た事も聞いた事も受けた圧力も体験した経験も刻まれた記憶も、その全てから解放される事が出来ると思える。


……だけど、私はその弱虫みたいな自身を必死で抑え込み、この場に留まる事を心に決めているのだ。



最も重要なのは覚悟だ。

意志や感情じゃない……。




「……私も、『黒宮』で良いです。貴女に『桃』と呼ばれるほど、貴女は私の大切な人ではないし、私も貴女の大切な人ではないから……」



絞り出したその返しに、朧扉は「へぇ」と声を漏らし、クツクツと喉で笑うと、「まぁ座んなよ」と、私をカウンターの席へと促した。



ライトオレンジでカウンターに座るのは初めてだ。

そもそも、ライトオレンジに一人で来るのも初めてだった。

此処に来る時は必ず誰か、サヤちゃんやハルちゃんや、冬乃がいたから。


座って、漸く一息付いて、私は落ち着いて周りを見渡す。

此処はやはり、『ライトオレンジ』であって『ライトオレンジ』ではなかった。

私はそう思う。

なんとなくいつもよりも店内の照明が暗くて、なんとなくいつもよりも空気が重くて、なんとなくいつもよりも酸素?が薄い気がしていた。

そして、その店内にはお客さんが殆ど居なかった。

居るのは従業員服の店員さんが数名に、奥の方の席には気品の高そうに見える老夫婦が一組。

そして、カウンターの中に朧扉。


要するに、そう、いつもの『ライトオレンジ』ではないのだ。

まだ夕方になり始めの午後四時だというのに、窓から見える外界の色は真っ暗闇に塗り固められていた。


「それでね、黒宮さん。経緯や方法とか、そういうのはね、どうでも良いし、何でも良いんだ。私にとっては」

言って、朧扉は私にコーヒーを一杯差し出した。

黒々としていて、ほんのりと香ばしい。

コレだけはいつものライトオレンジの物だという事が分かる。

コレに関して違う箇所があるとすれば、その水面に浮かぶ自分の顔が、少しの恐怖と大きな不安で険しく歪んでいるというところだけだ。


「そんなに硬くならなくて良いのよ? なにも取って喰おうってんじゃないんだから」

朧扉はそう言って柔らかく笑むが、何処か油断ならない事には変わりない。

仮に彼女が『朧先生』だったのなら、全幅の信頼を寄せ、何一つとして不安など無かったのだろうけれど……。


私が口を開かないでいると、「まぁ、良いけどね」と朧扉は話を戻す。


「経緯や方法はどうでも良いんだ。私にとって重要なのは――」




『どうやって此処に来た』ではなくて、

『何で此処に来た』のかだから。




「………………」




空気は、変わった訳ではない。

依然として朧扉は同じ様な笑みをずっと続けていて、私はまた唾を喉に通して……。


空気は、変わった訳ではないのだ。

それなのに、何故だか肌に纏わり付く何かの温度が10℃も20℃も下がった気がした……。



「別にね、誰が来たって良いのよ。私はね。誰にだって目的があるし、叶えたい願いだって夢だってあるし。私がその手伝いを出来るなら、それはとっても素晴らしい事だと、私はそう思っているのね?」


朧扉は続ける。


「目的とは素敵なものだし、夢や願いは尊いものだわ。そういうのが、黒宮さんにもあるんでしょう? だから『此処』に来たんでしょう? 誰かの助けがいるんでしょう? 誰かに助けて欲しいんでしょう?」


私はまだ、答えない。

朧扉は続ける。


「黒宮さん、まずその『呼び捨てるの』をやめてもらえないかしら?」


………………。


「…………心を読むんですか?」


「そんな気がしただけよ。『敬称は必要』だと言った筈よ? 例え心の中でも貴女に呼び捨てられるのは良い気がしないわ。気を付けなさいね?」


…………朧さんは、続ける。



「別に、ただコーヒーを飲んでケーキを食べに来ただけだというのならそれでも良いわ。私も暇を持て余していたし。だけど、貴女には理由があるし、目的があるでしょう?」



私は差し出されたコーヒーを一口分口内に含み、喉を通して胃に流し込む。

舌先が熱さと苦さで少しだけ痺れるけれど、それ以上の美味しさに味覚を刺激された。




目的……。


叶えたい願い……。




カウンターの向こう側で、朧さんは三日月みたいに口端を釣り上げている。

カウンターの向こう側で、朧さんは三日月みたいに双眸を歪めている。




それを見て、私は『この女は悪魔か?』と思った……。



◆ ◆ ◆



私には時間がいくらでもあった。


けれど、彼女にはもうあまり時間がない事を知った。



魚は水中で息継ぎなど必要とはしない。

人は水中で息継ぎをしないと生きられない。


じゃあ、人魚は?

人魚は一体どうしているのだろうか?

人魚は肺で呼吸しているのか?

陸上ではヒレなどなんの役にも立たないのに。


冬乃。

貴女は人魚の様な生き物になるの?


可能ならば私は、貴女が水の中を優雅に泳ぐ姿を見てみたかった。


水を掻き水を蹴る貴女の長い手足は、きっととても美しく動いて見せたのだろうと考える。





「……桃、あのね。聞いて欲しい事があるの」



…………嫌だ。



「私ね、貴女の事が好きよ」



…………嫌。聞きたくない。



「私とね、友達になってくれてありがとう」



…………何で? 何でそんな事言うの?



「私の事をね、愛してくれてありがとう」



…………そんな、何でもう会えないみたいな、そんな事――――。






「……私ね、桃。…………私ね――――」






◆ ◆ ◆



夏休みの最終週、冬乃とパンケーキを食べに行った。


彼女はアイスクリームが乗ってメープルシロップの掛かったパンケーキを美味しそうに食べていた。

私の頼んだチョコレートソースとベリーソースの掛かったパンケーキをもの欲しそうに見つめるので、それが可愛くて可愛くて、一口ずつ交換して、やはり彼女は美味しいそうに笑みを浮かべた。



新学期が始まると、白海坂からは冬乃の姿が無くなった。


2-Aのクラスからも、保健室からも。

図書室にも校庭にも、体育館にも部室棟にも、中庭にも屋上にも、そして屋内プールにも。



2年の二学期、三月場冬乃はこの学園から姿を消した。



知っていたんだ。

私は冬乃から聞いていた。

だから、何も驚かなかった。

私は冬乃の事が好きだし、冬乃も私の事を好いてくれている。

待つ事は得意だ。

多分。

これから得意にしていこう。

これから待つ事を得意にするんだ。

そうすれば、私は冬乃をいつまでも待つ事が出来る。

そう信じて、私は自身を律した。



だから、私はダメだった。

本当に、どうにかなるとか、どうにか出来るとか、そう信じて疑っていなかったのだ。

根拠の無い自信と『きっと大丈夫だろう』という楽観的な希望に、私は縋って甘えていた。


二学期が始まってから、冬乃が入院してから一週間。

私は冬乃に会いに行った。

彼女が入院している病院に。


『なんだ、案外元気そうだね』

『顔色も良さそうに見えるよ』

『食欲もありそうじゃない』


いくつかの台詞の練習。

そう言えれば良いなとか、そう言ってあげたいなとか、そういう、そんなあれやこれやを、私は。





腕からは点滴のチューブが伸びていて、口には簡易的な呼吸器が付けられていて、病室は大袈裟に広くて、ベッド脇には花なんか飾られていて、窓が大きくて、見るからに陽当たりが良さそうで、なんというか、これじゃあ……。


これじゃあまるで――。




「……あぁ、桃。来てくれたんだね」



上体を起こし、口元の呼吸器を外して、冬乃は力無く、緩く笑んで見せた。



「……それ、外して良いの……?」


「……あぁ、これね。大袈裟なんだよ。そんなに、大事じゃ、無いんだよ。本当に」




…………嘘だ。



そんな嘘、直ぐに分かる。



そんな嘘直ぐに分かるよ。

冬乃。

何でそんな、直ぐに分かる嘘なんて吐くの?

そんな嘘が通用するなんて、貴女も思ってないでしょ?

確かに、私は貴女に出会ってまだ一年も経ってないよ?

だけど、貴女と過ごした時間はいつだって年月なんて関係無かったじゃない。

百年の密度がいつも三秒で過ぎてしまう様な、そんな、冬乃とはいつだって――。




「…………なぁんだ、案外元気そうだね……」




そこからは、もうあまり覚えていない。




私、冬乃に無理させてたのかな……?

パンケーキを食べたあの日、本当は辛かった?

一緒に散歩したあの日は?

映画を借りて来て一緒に観たあの日は?

水族館に行ったあの日は?

最後に身体を合わせたあの日は?


全部の冬乃を思い出せるけれど、貴女はいつも私に笑顔を向けてくれている。


可愛い。

綺麗。

ほんのり冷たい冬乃の肌は、裸になると少しだけ熱を帯びる。

私はそれが嬉しかった。



「……また、来てくれると、嬉しいなぁ……」



帰りしな、そうやって笑んだ冬乃は、いつも通り可愛くて、そして綺麗でーー。

それなのに、保健室の物より幾分か上等なベッドの上にいる冬乃の顔は、何故だかいつもより白く見えた。



私、冬乃に無理させてる?



ついに私はそうやって問う事が出来なかった。





冬乃。

私といない時、貴女はどんな顔をしているの……?



◆ ◆ ◆



白海坂女学園の付近にはいくつかの喫茶店が存在しているの。


その内の一つは、店主が何でも願いを叶えてくれるんだって。


そう、願いなら何でも。


神様みたい。


だけど、願いを叶えるには相応の対価が必要なのね。


神様じゃなくて悪魔なのかも。


魂売るのが可愛く感じるみたいな、そんな対価。


怖いね。


それでも、叶えたいお願いがある人はいるんだよ。


そこまでして叶えたい願いなんてあるのかね?


きっとその人には必要なんじゃない?


バカみたい。


バカじゃなきゃ魂なんか売らないって。


それで、どうやってその喫茶店に行くのよ?


順序があるのよ。順序が。


順序?


それと好感度。


なにそれ意味分かんない。


意味なんて無いんだよ。きっと――。



◆ ◆ ◆



「それで? 貴女のお願いは? 目的は? 夢は?」



朧さんは、そうやって私に詰め寄る。



「私は、私の願いは――」




私の願いは――――。









そう。



最も重要なのは覚悟だ。



意志や感情じゃないんだ…………。






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星色恋歌 影梅宗 @kageume_so

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