第32話 安西春真の世界
逆流する感情。
◆ ◆ ◆
「……春真、大丈夫?」
「……うん。ちょっとだけ目眩がしただけだから。……本当に、それだけだから」
肩を支えられ、手を握られる。そうして少しだけ千里に体重を預けるけれど、千里は私の方を向いてはいない。
視線は真っ直ぐに、ただただ真っ直ぐに、正面に聳えるソレを見つめていた。
そして、私もまた千里と同じ様に、ただただソレを、呆然と直視するしか無かった。
きっと、これは単純な暴力だ。
ソレは私達にとって神様ではなかった。
けれど、全てを薙ぎ払い、全てを滅ぼす悪魔の様に、私にはそう思えた。
◆ ◆ ◆
待ち合わせたのは駅前。
時間は昼の1時。
以前の様な事もあったけれど、もうなるべく考えない事にした。
確かに周りの目は気になるし、千里と手を繋いで歩いていると奇異の視線が投げられる事もある。けれど、それは私達には必要無いし、大切なモノと大切じゃないモノを取捨選択する権利があるのは私達だ。
「待った?」
「待ってない。大体今来たところ」
「そう。今日のワンピ可愛いね」
「千里も可愛いよ」
「あは、ありがと」
広げていた文庫本に栞を挟んで閉じると、千里ははにかみながら小さく手を振ってみせた。
空色のワンピースに薄手の白いカーデ。それを千里は可愛いと言う。
対する千里はシャツにパンツスタイル。
可愛いと言われるのは嬉しい。
オシャレをするのはいつだって隣を歩く貴女の為にするものだ。だから、千里と出掛ける時は楽しい。
彼女と過ごす二度目の夏休み。
勿論沙耶や桃と遊ぶ事もあったけれど、必然的にか、その大半を千里と過ごしていた。
夏休みの宿題をして、海に行って、お祭りに行って、花火を見て、絵を描いた。
さながら絵日記の様相となったクロッキー帳が、私と千里の夏休みを物語るモノとなっている。充実とは、要するにこういう事なのだろう。
そうして部活の課題と自主課題もノルマとして順々こなし、夏休みも残りあと一週間ほどといったこの終盤に、千里から『展覧会に行こう』と誘われた。
電車に乗って一時間半。
そろそろ夏の終わりという8月末でも、外気温と湿度はまだまだ高い。
テレビに映る高校球児の男の子達は炎天下でも懸命に走り回っていたけれど、私にはとても無理だ。歩いているだけで干上がってしまうし、駅までの道中で何度もコンビニに立ち寄ってしまった。
駅のホームで電車を待つ間も陽は強く、額や背中にドッと汗をかいていたけれど、定刻通りに到着した電車の車内は空調がとても強く効いていて、10分もしない内にすっかり汗は引いてしまう。
夏休み中でも昼時の電車内は人の姿も疎らで、千里と二人、ロングシートへと横並びで腰掛けた。シャツの首元をパタパタと仰ぎ風を送り込む千里に『はしたないよ』と言いそうになったけれど、それはやめた。こう暑い日でははしたないも何も無い。
「春真飲み物持ってる?」
「ん、持ってるよ」
「水分ちゃんと取ってね。熱中症だけは気を付けよ」
「うん」
肩掛けの鞄からポカリを取り出すと、結露でいくつもの水滴が浮いていた。
キャップを開けて一口分を口内に含む。喉を通して胃に流し込むと、それが直ぐに汗として流れ出てしまう気がした。
海でもお祭りでも花火でも、こんなに汗なんか掻く事無かった。
海は冷たい海水に浸かって、お祭りも花火も陽が落ちてから。
千里と絵を描きに行っても朝早くから家を出て、陽の高く気温が上がってからはなるべく空調の効いた屋内に避難していた。
暑いのは嫌いだ。
だけど、夏は好きだ。
「それで、都心まで出てきて展覧会って、何の展覧会?」
電車に乗って1時間。
ここまで何ら他愛ない話を、それこそ昔読んでた漫画が〜みたいな話をしていたけれど、漸く私が痺れを切らしたので、千里にそう問うた。
行き先と降りる駅こそ知らされていたものの、そこへ何の展覧会を見に行くかも把握していない。
聞くと、未だ暑さの残っていただろう肌に車内の空調を当てていた千里は「んー? あぁ、これこれ」と、自身の肩掛け鞄の中を弄ってスマートフォンを取り出す。そうして検索表示させたサイトをこちらに向けて見せた。
『第47回 石森谷文具社主催絵画展』
そうやって眼前に示され見せられたサイトも展覧会案内も、私には見知ったものだった。
石森谷文具といえば文具商品、鉛筆消しゴムボールペン、それから筆や絵の具なんか、それらの国内シェアの実に15%を占める大手メーカーだ。オフィス文具は使い勝手が良く、美術用品は筆が不用意に毛羽立たず、絵の具は発色がとても良いという事で海外からの評価もすこぶる高い。
そんな石森谷文具が毎年開催する絵画展は今年で47回になり、そこではやはり、毎年石森谷文具が審査講評するアートコンクールの優秀作品が展示される場でもある。
この石森谷文具のアートコンクールは若い世代の発想や育成を主体としており、公募規定には年齢が満三十歳までと規定がある。下限は設定されていない。可能ならば、その意思があるならば、五歳でも三歳でも応募する事ができ、それらが優秀だと判断されれば何の偏見も無く最優秀作品として選ばれる。過去の最優秀作品でもっとも若い画家は十五歳だった。
「これって、うちでは自主応募だったよね」
「うん、先生が『石森谷は年齢制限が広いから学内では纏めての応募はしない』って」
それは私も聞いてる。
若い世代の育成目的で年齢制限が満三十歳とはいっても、学生の視点からすればそれでもゼロ歳から三十歳は幅が広い。その代わり白海坂では毎年高校生の枠でいくつかのコンクールに応募している。その他のコンクールに関しては学園に申請すれば自主応募が認められているのだ。
「千里、これ応募したの?」
「ううん、してないよ。春真は?」
「私もしてない」
眼前に示されたスマートフォンを千里に返し、私も自身のスマートフォンで件の展覧会のサイトを検索表示させる。
「石森谷のコンクールは結構注目度が高くてさ、窓口も広いから応募作品はかなり多いんだって」
千里は自身のスマートフォンで展覧会のサイトに目を通しながらこちらを見ないままでそう言うので、私も同じ様にしながら「ん、そうらしいね」と応じる。
「だから、最優秀作品の数は制限されてないんだってさ」
「ん、それも知ってる」
「まぁ、最優秀作品が複数点選ばれるのが石森谷の特徴と言えば特徴だけど、春真は石森谷の最優秀作品って見たことある?」
「……当たり前でしょ?」
そう、石森谷のコンクールは最優秀作品の数が1点限りではない。優秀と判断された作品には相応の評価がなされる。なので、過去47回で最優秀作品の平均数は4作品。一番多かった時は12作品も選ばれた。それでも、やはりそれ等は全て素晴らしい作品だった。最年少の十五歳の作品でも、制限ギリギリの三十歳の作品でも。
「私四年前の絵が好きだったな。あの青い空がずっと奥まで広がって見える絵」
「あぁ、千里あぁいうの好きだもんね。私もあれ好き」
「春真は?」
「私はー、小学生の時に見た絵かなぁ。鳥と馬が画角一杯に大きく描いてあるんだけど、それだけ印象に残ってて、後は忘れちゃった」
思い出話の様にそうやって話すのは無理もない事で、私も千里も石森谷の展覧会に毎年足を運んでいるわけではなかったから。開催期間は大体夏休み中だけれど、電車で一時間半はかなり遠い。中等部の一、二年時では一人で行く事も出来なかったし、去年は兎に角千里と絵を描くのが何にも変えられない事だったから。
と、ここで私は当初の問いへと立ち戻り、それに際して次の問いを千里へと投げ掛ける。
当初は『何の展覧会』なのか?
そして次は、
「それで、何で石森谷の展覧会なの?」
展覧会なら都心まで出なくても近場でやってるし、高校生の私達にとって石森谷の展覧会は他の展覧会より割高だ。
理由がある筈なのだ。
千里が、何故石森谷の展覧会を選んだのか。
「んー。ちょっとね、生で見ておきたい絵があるの」
「へー、良いね。最優秀のやつ?」
「そ、最優秀のやつ」
「どんなの?」
「聞いた話だから分かんない」
言って、千里は片眉を上げる。
絵画なのに、聞いた話で、更にはどんな絵なのか分からないという千里の口振り。
「……どういう事?」
問うが、千里は「んー……。いや、分かんないんだけど、見に行きたいのは最優秀作品のやつなんだよ」と、やはり要領を得ない。
「……だって、それだけじゃ分からないじゃない」
「いや、分かんないけど、どの絵かは判るんだよ。最優秀作品のやつだから」
「いや、最優秀作品のやつだからって……。どの最優秀作品か判らないじゃない……」
と、そこで、だ……。
千里の両の口角がククッと上がり、口元にいやらしい笑みが作られた。
あぁ……、またか。
千里がこういう笑みを作る時は、彼女の策が嵌った時で、私が策に嵌められた時……。
私は千里のこういう所が嫌いで、千里のこういう所が好きなのだ。
千里は言う。
そのいやらしく作られた笑みをそのままに。
「見たいのがどういう絵かは分からないの。だけどね春真、それがどの絵かは判るの。ねぇ、春真? どういう意味か分かる?」
私は答えない。
はいともいいえとも言わないし、縦にも横にも首を振らない。
今確かに分かるのは、私達は石森谷の展覧会に向かっているという事と、車両内には冷房が効いているという事と、正面のロングシートではお母さんに連れられた男の子が後ろ向きになって窓の外を楽しそうに眺めているという事だけだ……。
「今年の石森谷のコンクール作品ね、最優秀作品は1点だけなんだって」
「……へぇ」
「47回のコンクールの歴史の中で、初めてなんだって」
「…………へぇ」
「春真、どう思う?」
どう思うかは応えなかった。
けれど、心臓は抑えられない程に速くなった。
見ると、千里は先と同様にニヤニヤとした笑みを浮かべている。
興奮は抑えられないけれど、それを簡単に千里に悟られ見透かされるのは、何だか面白くなかった。
◆ ◆ ◆
電車を降りて駅から歩く事10分。
目的地の美術館に着いた時には、額にも首筋にも汗がじっとりと浮かび上がっていた。
このほんの10分歩くだけの道中でも、照る太陽の熱は容赦無く肌を焼いた。日焼け止めは塗っても塗っても汗で流れ落ちてしまう気さえする。
夏休みシーズンの美術館、展覧会は平日だとしてもどうしたって人で溢れていた。当たり前だ。外は暑いけれど、館内は空調が効いている。
蝉の鳴き声と行き交う人達の話し声。
「さっきも聞いたけどさ」
「うん?」
「春真はどう思う?」
入館料を払い、分厚い自動ドアを抜けて会場へ踏み入れると、柔らか目の冷たい空気が肌を冷やした。それは電車内で効いていた叩き付ける、ともすれば身震いする様な冷風ではなく、会場内を隅から隅まで均等にゆったり冷やす、そんな綿の様な空調。
正直に言うと電車の空調はあまり好きじゃない。屋外との寒暖差がありすぎるのだ。
と、そうやって屋内の冷気を自身に取り込みながら展覧会のパンフレットをラックから二部手に取って、その内の一部を千里へ手渡すと、彼女はそうやって私に問うてきた。
「……どうって、何が?」
小首を傾げると、千里は斜め上の中空に視線を投げながら「今回の最優秀賞の件についてだよ」と、あえてなんでもない様な口振りでそう言いを吐く。
「……他の作品が最優秀のラインに達してなかったか――」
若しくは
「一点の最優秀作品が抜きん出てたか、だよね?」
千里はそう言って、「私は抜きん出てた方だと思う」と言いを足した。
「やっぱりさ、興味があったんだよ。石森谷のコンクールは有名だし、最優秀作品が複数選ばれるのも有名だった。それなのに、今回は最優秀作品がたったの一点。唯一無二の一点だけだったっていうんだから、それの初見は生で見たかったんだ。ネットとか画集とかじゃなくて。それを誰が描いたのか、何歳でそれを描く事が出来たのか。そうして、それを初見で生で見て、私は肌で感じたい。春真がどう感じたのかを聞きたいし、私の感想を聞いて欲しい。そういうのを、春真と共有したいの」
迷惑かな?
そんなわけないでしょ。
「……行こ?」
私は千里の手を取って会場順路を順繰り始める。
並ぶ千里の表情は何処か誇らしげで、同じくらい恥ずかしそうでもあった。
私だって、千里と色んな事を共有したいし、これまでもそうしてきた。同じ絵を見て感じ方が違う事なんで珍しくもない。好きな曲、好きな映画、好きな小説。私が好きなモノでも、千里はあまり好きじゃない事だってあるし、逆もまた然りだ。
けれど、互いに互いを好きあっているのだから、何でも話したいし、何でも聞きたいし聞いて欲しい。だから、貴女が興味あると言うならば、それは私も一緒に見たいし、感じたい。
手に取ったパンフレットを見る事で、以前来た時の記憶が少しだけ思い出される気がした。
石森谷文具社主催絵画展は一年毎に前半部の常設展示が変更され、後半部にコンクールの入賞作品が展示されている。
今年の入賞作品は全部で48点。
佳作24点。
準優秀作17点。
優秀作6点。
そして、最優秀作が、1点。
前半部の常設展示は流石に何回か来た事あるだけあって、私も千里も目にした事のあるものが多かった。
それでも、「あぁ、私これ見るの初めてだわ」「うそ? 私これ見た事あるから絶対千里も見た事あるよ」「そうかなぁ? あ、でもこれは覚えてるよ。これ好きだったから」「……私これ初めて見るやつだ」「うそぉ??」みたいな会話もあった。
美術館。
展覧会。
会話する事は許されているけれど、それでもこの場所では図書館の様な静寂が推奨される。
だから、互いに耳元で囁く様にされる会話が、私には何だか楽しかったし、嬉しかった。
小学中学時に見たものは結構曖昧なものだ。
好きな作品ならちゃんと覚えているけれど、そうでもないモノになると、やっぱり記憶はうっすら程度。
だから、ちゃんと意識して見る様になってからだと、それぞれ見たかも違ってくるかも知れない。
順路に沿って前半部を巡り終え、後半部の入賞作品展示エリアへと進む。
「佳作でもさぁ、準優秀作よりなんとなく響いてくるやつってあるよね」
言いながら、千里はそのままあまり足を止めずに順路を辿る。
「まぁねぇ。美術作品って結局感覚だし。良い悪いって見る人に委ねられる部分が多いから」
「特別かどうかも人による部分が多いしね。全く知らない人の描いた絵よりも知人が描いた絵の方が評価基準甘くなるってのもある気がするよ」
先程から足を止めて真剣に佳作の絵を見続ける彼は、その絵の作家と深い関わりでもあるのだろうか? それとも、その絵に何か感じる部分でもあるのだろうか?
私と千里は佳作を抜けて、準優秀作へ。
「例えばさぁ、私は春真の描いた絵を、きっと他のいくつも並ぶ絵と同列で見る事は出来ないと思うんだよね」
「なんで?」
「私は春真を知ってるし、春真がその絵を描く過程を知ってるし、描く為の努力も描く為に悩んだのも知ってるから」
「じゃあ私は千里が審査員になるコンクールには絶対絵は出さないわ」
「お互いにね。穿った見方をしちゃうのは仕方ないけど、きっとそれは良くない事だよね」
「場合によっては良い事でもあるけど」
「どゆこと?」
準優秀作。二人していくつかの絵の前で何度か足を止めてみる。千里はあぁ言ったし、私も納得したし同意もしたけれど、やはり佳作よりワンランク上手い絵は何点もあった。
審査基準やらは確かだ。それは一重に石森谷のコンクールへの信頼でもある。
贔屓目ではなく、正当な評価。
「贈り物の絵なら貰った人が審査員だよ。子供の描いた絵なら何だって嬉しいし、母の日とか父の日とか、幼稚園とかで描いた絵を貰って嬉しくない親なんてそうそう居ないでしょ?」
「っはは、そうだね。まだ親になった事なんて無いけど」
……………………。
「まぁ親になったら分かるかも。子供から貰う絵は、きっと評価甘々になるよ。千里は多分、そうなりそう」
「春真は割とシビアなところあるけど、それでもやっぱり、そういう贈り物だときっと甘々の評価になるね」
ニヤニヤと笑う千里の表情がほんの少しだけ気に障り、「やめてその顔」と手の平で覆ってやった。
準優秀作を抜けて優秀作。
展示数はもうかなり少なくなり、やはり準優秀作よりも頭抜けて上手い事が目に見えて分かった。
作家の名前の横に位置する年齢の数字も、二十の半ばから後半が大半となっている。
そうやって千里と優秀作の絵をマジマジと見て、感想や雰囲気や特徴的な技法なんかで意見共有していると、少し先のエリアに、人集りが見えた。
前半部の常設から順に見てきて、また後半部の佳作から順に見てきて、あんな風に人集りが出来ているのには遭遇しなかったから、それが何の集まりなのかは一目でも感覚でも分かったし、明らかだった。
「あれだね、千里」
「そ、今日のお目当」
ニッと口角だけで笑む千里に、私は声を掛けなかった。
繋ぐ手が興奮からか薄く震えているのが伝わってくる。
私の手は震えているだろうか?
分からないけれど、少しだけ心臓が早くなって、顔が熱くなった気はする。
過去47回で、唯一無二の最優秀作品。
楽しみでもあるけれど、同時に何処か、不安でもある……。
◆ ◆ ◆
『絵とは、世界中で通ずる唯一の言語である』
贔屓とか評価とか、特別とか贈り物とか、そういう次元で語る事の出来ないモノがある。
それは幾らでもあるし、そういうモノに限っていつまでも残るのだ。
そういうモノに限って、評価は人が下すのではなく、世界が持ち上げるものなのだ。
脳みそや心が判断するのではなく、人よりも一つ上の、何かそういう存在みたいなのが肯定してくれる。
だから全てが認識する。
恐らくそれの前では、昆虫やバクテリアまで平伏すだろう。
冗談や誇張では無い。
きっと世界が滅亡しても、これだけは腐敗せず焼け落ちもしない。崩れないし忘れられない。
そういう存在があるし、コレはそういう存在な気がした。
私はそうだと思った。
目眩がした。
吐き気もした。
心臓が痛かった。
それなのに、目を離す事が出来なかった……。
「……千里、知ってたの……?」
問うが、千里は「……いや、何も知らなかった。……本当に」と、引き攣った表情で返してきて、矢張りソレを直視したままでいる……。
望むなら見たくなかったし、今後見る必要も無いと思っていた。
……けれど、それは私の勝手なエゴだ。
これから先も絵を描いて、美大に進んで、絵を描く事と共に歩んでいくと決めた以上、いつかは向き合わなければいけないモノだったのだ。
それでも、こんなに早く、そしてこんなに強烈に、再び撃ち抜かれるとは、思っていなかった……。
私はこの絵を知っている。
……いや、実際に見た訳ではないし、コレを見るのは今日この時が初めてだ。
それでも、私はコレを知ってるし、千里もコレを知っているのだ。
心に植え付けられた敗北は根が強くそこにいつまでも残っている。
二年経ってもそれは確実なモノだったのだ。
中等部三年時のアートコンクール。
明らかにコレは、あの時私の世界を一変させた作家の絵だ……。
「春真……、ごめん。私、こんな積りじゃ……」
漸く私は、そして千里も、その絵から視線を引き剥がす事が出来た。
何分くらい見ていただろうか?
視線に焼き付け、脳に刻み付け、心に打ち付ける程に、本当なら突き放して二度と見たくないソレを、私は欲した……。
「…………千里が謝る事じゃないよ。……大丈夫。……私は、大丈夫だから」
頭を抱かれ、肩を抱かれ。
「いつかは、向き合う必要があったんだよ。だから、千里と見られて良かった……」
「……うん」
千里も私も、笑わなかったし笑えなかった。
その絵は美しく、残酷で、生き物の様に呼吸している様にも思えたし、宝石の様にただただ輝き光を放っている様にも思えた。
最も美しく、最も残酷で、最も終わりに近い。
来場した誰も彼もがこの絵の前で足を止め、少ししたらまた足を進めて去っていく。
本当なら、私達もそうするべきなのだ。
そうする事が正解なのだ。
それなのに、私も千里も動けなかった。
私が言うべきだし、千里に言って欲しいとも思った。
けれど、二人して「そろそろ行こう」の一言が発せない。
悔しかった。
情けなかった。
苛立たしかった。
そして何より…………。
「千里……」
「……ん?」
「私、この子が羨ましい……」
こう思うのって、変かなぁ……?
言葉にすると、涙が出てきた。
理由は分かる。
けれど、こんな理由で流す涙が、本当に憎らしい……。惨めで、情けなくて……。
「羨ましいし、悔しいし……、苛々するし……。こんな事思う自分が、情けない……」
「……変じゃないよ。大丈夫、春真は正しい。だから、何も変じゃないよ……」
千里、この後時間ある?
私の問いに、千里は何の疑問も躊躇いもなく「あるよ。いくらでも」と返してくれる。
私は千里のこういうところが、私の事を全部受け入れ、何もかも見透かしている様なところが嫌いだし、千里のそういうところが好きなのだ。
「……早く絵が描きたい。コレじゃない、違う絵が描きたい。付き合って千里。お願い。今すぐ、貴女と絵が描きたいの……」
「じゃあ早く帰ろう。今ここは私達の場所じゃない。だけど私は認めるよ。コレは多分世界が認めるし、コレを描いた彼女は私達と同世代。私達は彼女と戦って、春真の言う通り、向き合わなきゃならない」
「うん、分かってる。だから――」
「早く絵が描きたい、でしょ? 行こう。私達には時間が足り無さ過ぎる」
千里の手を握ると、千里も手を握り返してくれる。
出来る限り早足で、一本でも早い電車に乗って、一分一秒でも早く筆を取りたい。
去り際、その、今最も世界の中心に近いだろう絵を再度振り返る。
その下に添えられる『最優秀作品賞』の表記と、名前と歳。
彼女は十七歳。
私と千里と、同い年……。
二年前は、その圧倒される存在感と真正面から受けた感情と表現の暴力で打ちのめされたけれど、今度はハッキリと覚えた。
きっと、評価を下すのは世界と神様だ。
だけど、貴女は世界でも神様でもない。
辻絢音絢芽さん。
今度は、ハッキリと覚えたわよ。
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