後編
帰ってきたあおいは知らん女の匂いのまま眠る俺のベッドの上にもぐりこんできてそのまま眠るようになった。おかげで俺はバイトを日勤から夜勤に代えてもらうことになった。あおいは一度眠り始めると俺を抱きしめて離さず、とても出勤どころではなかったのだ。あおいの顔は血色を取り戻し、やせた体も少しだけ肉がついてきた。食も進むようになり、目の下の隈は薄くなった。俺を抱きしめて寝るということが、あおいにとっての入眠の儀式のようなものらしい、ということが分かってきた。
ただ、問題がある。
「あおい。せめてシャワー浴びろよ」
「眠いんだもの」
「だものじゃねえよ。知らん人間のにおいなんぞ嗅ぎたくないわ」
「そんなにくさいかな」
情事の残り香なんか嗅ぎたくなかった。それはあおいがどこぞの女と寝たってことで、そのあと俺と寝てる(物理?)ってことで。
「俺が嫌だ」
「かずが嫌なら、ちゃんとシャワー浴びるようにするよ」
俺はぼさぼさの長髪にドライヤーをかけてやる。同じシャンプーのはずなのに、髪が長いせいかふわふわと香りが立ち上ってくる。
「まったく……おじさんもおばさんも何考えてるんだよ!」
「孫の顔を見せないとだめなんだってー」
ドライヤーに負けない大声を出すと、子供みたいな口調で、あおいは声を張った。
「跡継ぎが欲しいんだって。血のつながった跡継ぎー」
「……このご時世にかよ。前時代的だな」
「でも俺は空っぽだから、子供はできない。何度説明しても無駄。女の方が悪いんだって一点張り」
「なあ」
さらっと乾いた髪の毛に指を通して、あおいに尋ねる。
「聞いていいか。なんで俺のちん――」
「かずは、からっぽじゃないんだろうなと思って」
あおいのつむじが答えた。
「かずの、精子が見てみたかった。ごめんね」
俺はそれに答えられなかった。あおいはどんな顔をしているだろう。怖くて見れなかった。
その時だ、インターホンが鳴ったのは。
「葵。よくやったな」
思いがけない訪問者たちは、あおいの手をぐっと握った。「藤田さんとこの
「……懐妊?」
俺が代わりに尋ねた。「あおいは……無精子症じゃないんですか?」
「そんなわけないじゃない」と母親が答えた。「こうして懐妊しているのだから」
「本当に妊娠してるんですか?その子、婦人科に見てもらいましたか?――妊娠検査薬だけなんじゃないですか?」
俺は早口で尋ねた。きっとあおいと同じ、紙のような顔をしていたに違いない。
「今時陽性の妊娠検査薬なんか、フリマアプリでいくらでも手に入りますよ?一度パソコンで検索してみてください、騙されてます、絶対」
「
父親が異様な圧力で俺を遮った。
「ともかく、嫁が見つかったということで。戻ってきなさい、葵」
あおいは魂を落っことしたみたいな白い顔をしていた。ああ、ダメだ。このあおいはダメだ。自分で判断できない。東京での俺とおんなじだ。
「あおい、戻ることない。その伊緒とかいう女の、正式な検査結果が出るまで、ここにいろ、」
「和寿くん、たとえ幼馴染でも、親子の関係には口を出さないでほしいわ」
母親が険のある声で言った。俺は引かなかった。
「ダメです。あおいが大丈夫じゃありません。……少し待ってください。あおいが落ち着くまで、待ってください」
「葵は落ち着いているし、待つ必要はない」
「お願いします」
俺は頭を下げた。
「お願いします……!」
「……無理だよ」
言葉を発したのは真っ白な顔をしたあおいだった。
「おやじもおふくろも、絶対聞かないから。無理だよ、かず」
合い鍵をそっけなく返して、俺の服を着たまま――あおいは行ってしまった。
「あおいぃ!」
俺はアパートの小さい窓をこじ開けて叫んだ。
「いつでも戻ってこい、待ってる、夜勤のまま待ってる!いつでもお前を寝かしつけられるように待ってるから!お前は俺がいなきゃ眠れないんだから!」
項垂れた背が少しだけ伸びて、風にたなびく黒髪が振り返る。薄く笑っていた。唇の動きが、小さく言葉を形作る。
『ごめんね、ありがと』
夢のなかで、女の子みたいにかわいいあおいが笑っている。
「かず、駆け落ちごっこしよ」
「かけおちってなに?」
「すきな人同士が、手と手を取り合って、にげるの」
昔っからあおいの髪の毛は長かった。あおいはそれを真っ黒なヘアゴムでポニーテールにした。
「おれが女の子。かずが男の子役」
「あおいが女の子なの?ぼくより背が高いのに」
「髪の毛が長いから」
そんな単純な理由で男役と女役を決めて、村境の森まで走った。楽しい、とあおいは言った。
「かずとなら、どこまでもいけそうだねえ」
は、と目覚めたとき、ちょうどインターホンが鳴った。のぞき窓から覗くと、やつれはてたあおいだった。
「あおい――」
ドアを開けるなり、長身が崩れ落ちるみたいにかぶさってくる。
「……かずの言った通り、メルカリで買ったんだって。妊娠検査薬」
「おい、あおい、退けよ、」
「また、元通り……」
真っ白な唇が、死んだようなまなざしが、俺を射止める。
「あのさ、かず。駆け落ち、しない?」
俺はあおいの顔を見つめた。美しいが、生気がなかった。
「……今のお前には無理だ」
「どうして」
「今にも死にそうだ、寝ろ」
「かず、一緒に寝てくれるの。今の俺、三人くらい――」
「いいよ、寝よう、眠ろう。昔みたいにさ」
「かず」
「なに」
「すき。大すき」
死んだような瞳の奥から、じわじわと涙が沁み出してくる。
「世界中の人間のなかで、一番、かずがすき。セックスだって、ほんとうはかず以外としたくない」
俺はあおいをベッドに招いた。
みっともなく泣き始めた幼馴染を抱きしめる。伸し掛かられて、重たい。髪の毛からは女の匂いがしたし、きっと身体も洗ってない、だけど、とびきり綺麗で美しくって、俺を抱きしめないと眠れない男だ。受け入れないわけがなかった。
「俺が女だったら、かずの子供を産んだのに」
あおいが囁いた。寝る間際のうとうとした、夢とうつつの間で。
「きっと、しあわせ、なのになあ」
「今でも幸せだよ、俺は」
手を伸ばしてカーテンを閉める。午後はまだ始まったばかりで、さんさんと陽光が降り注いでいた。おてんとうさまからあおいを隠して、俺はあおいの髪の毛に顔をうずめる。
二人で暮らそうぜ、あおい。駆け落ちしちまおう。逃げよう。性別とか生殖とか関係ないとこに行こう。ほしいってんなら養子も取ろう。そんで、家族になって幸せに暮らそうぜ。俺はお前を愛してて、お前は俺のこと好きなんだろ。それで十分じゃん。なあ、あおい。
その日、俺とあおいは初めて寝た。痛くないように、せめて病院にかからないようにと心がけて、あおいを抱きしめながら俺たちは初めてを遂げた。あおいは俺の精液を手に取って、珍しそうに眺めて、おもむろにそれを口に含んだ。「まずい」とあおいが言うので「当たり前だ」と返す。
「俺の精液は透明なんだよ」とあおいが言った。それから、おもむろに下腹部を押さえて、こうつぶやいた。
「俺が女だったら確実に孕んでたな」
「そりゃーどうも」
「褒めてるんだよ?」
やっぱりこいつは天然だ。
俺たちは村から逃げて、東北の市街地に腰を据えた。
ストレス源から距離をとったからか、あおいはちゃんと眠れるようになった。そして周りを見るだけの余裕ができた。就職するためにいろいろ頑張っている。でも大事にしてる髪の毛を切れってアドバイスされて、少しむくれていた。まあ、アパレルとかで採ってもらえるんじゃないかな。
俺はそんなあおいを支えるためにコンビニで夜勤してる。昼夜逆転した俺たちの生活は、すれ違いつつあるけれど、確かに同じ軸で動き出している。
「おかえり、かず」
「お前は今からか、いってらっしゃい」
「ん」
あおいが唇を突き出した。俺はそのネクタイをひっつかんで、背伸びをして、あおいの要求に応える。
「新婚さんみたい」
「新婚だろ」
俺のつっこみに、あおいは嬉しそうに笑った。世界で一番きれいな
俺は彼の髪の先にキスを贈る。
午睡 紫陽_凛 @syw_rin
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