今夜、知らない腕の中

灰崎千尋

ぬくめ屋

「こんばんはぁ、『三つ星枕サービス』からお届けものですー」


 少し上ずった関西訛りの声がスピーカーから聞こえた。

 こんな時間に宅配便が来るはずも無く。

 インターホンのモニターから少しはみ出た長身の男は、私が呼んだだ。


 扉をそっと開けると、彼は腰をかがめて人懐っこい笑顔を浮かべた。白い息がそれをぼんやりと覆う。


「どうも、入ってええですか?」

「どうぞ」


 するりと体を滑り込ませる様子が猫に似ていた。昔飼っていた白黒のブチ猫。もう会えない。


「いやー今夜はアホみたいに寒いですねぇ。すぐ入れてもらえて助かりましたわ。『三つ星枕サービス』、あれ忘れてまう人多いんですよ。ご近所さんに配慮して玄関口でだけ名乗る名前やから。うちに連絡するのに緊張してはるやろし、しゃーないんやけども」


 玄関から短い廊下を通ってワンルームの低反発クッションの上に座るまでに、彼はそんなことをすらすらと喋った。口の回る男だ。柔らかく流れていく声は低音域のフルートのようで、決して不快ではない。しかしビブラートと言うには細かく震え過ぎていて、つまり彼の体は冷え切っているのだろう。私が呼びつけた為に。


「カフェオレ、飲みます? 粉溶かすだけのやつですが」

「うわーええんですか、おおきに! 今日は僕、当たり引いたなぁ」


 普段使いのマグカップに粉を開け、目分量の湯と混ぜ合わせただけのカフェオレを、男は恭しく両手で掲げた。それから表面を念入りにふうふうと吹いて、ずずずと啜る。薄い唇。私が毒を盛っていたらどうするのだろう。いや、それを言うなら刺されるリスクも一緒か。

 私のそんな考えを知る由もなく、彼は顔を緩ませて、ようやく黒のロングコートを脱いだ。その下はざっくりとしたアイボリーのセーターで、首元から垂れる黒髪が存外長いのに気付く。細く、緩くうねったそれは、彼の整った顔を親しみやすく見せるのに一役買っているように思えた。


「ええと、この度は『ぬくめ屋』のご利用ありがとうございます」


 長い脚をきちんと折り畳んで、彼は丁寧にお辞儀した。落語でも始まりそうだ。


「僕はけいいいます。これ、一応名刺です。“けーくん”でも何でも、好きなように呼んでええよ」


 小さなローテーブルの上に差し出された名刺には、『添い寝サービス ぬくめ屋/添い寝師 けい』とある。白地に黒い文字が並ぶだけのシンプルなものだ。こういう商売の名刺はもっと派手なものだと思っていた。けい、というのもいわゆる源氏名だろう。


「お客さん、初めてですよね? さっくり説明さしてもらいますね」


 慧は鞄からぺらりと取り出した書類を、私が読める向きにテーブルへ置いた。


「電話口でも色々言うてたかと思いますけど、確認さしてくださいね。ウチは添い寝屋さんで、お客さんと一緒にお布団に入ってお話ししたり、ぎゅってしたりするサービスです。恋人とか兄弟とか、設定してもろても大丈夫。でもエロいのは禁止。ダメ、ゼッタイ。これが一番だいじ」


 そこそこ堅い言葉で書かれた書類を、慧の言葉がほぐしていく。細長く、しかし節の目立つ指が一文ずつなぞる。ピンクの綺麗な爪だった。深爪になっているのが勿体ないと思うほどに。その指が、はらりと落ちた髪を耳にかけるのを、私はつい目で追っていた。


「添い寝してる間に聞いたことは、どこにも残さんし、誰にも言いません。それはほんまに、安心してな。秘密保持ってやつやけど、そもそも僕、人のことなーんも覚えられませんねん。話もやけど、顔とか名前とか、すぐ忘れてもうて。せやから何でも話してもろて大丈夫です」


 やけに胸を張って慧は言った。

 本来ならばとても誇れるようなことでは無いが、確かにこの仕事にはちょうど良いのかもしれない。なにより私にとって、これは至極ありがたいことだった。


 それからまたいくつか確認をして、書類の一番下にサインを入れ、茶封筒に用意していた代金を渡した。慧は中身を確認すると「はい、確かに」と、封筒を鞄にしまった。

 一晩、五万円。

 こうして人を買うのは初めてだった。この値段が高いのか安いのか、私にはわからない。ただ、思っていたよりもずっと簡単に買えてしまうのだな、という拍子抜け感はある。


「さて、どうします? あ、まずお客さんのこと何て呼んだらええ?」

「……何でも」


 特に考えていなかったのでそう答えると、慧は「ほんなら、ええと」と鞄をがさごそ探り、先ほど私がサインした書類をまた取り出した。なるほど、人のことが覚えられないというのは本当らしい。


りつさん、もしくはりっちゃん!」

「最初の方で」

「はは、即答されてもた。律さん、もうちょいこうして喋ります? 他にもなんか、したいこととかあったら」


 私は黙って首を横に振った。明かりの下で話すようなことが、私にはもう思いつかなかった。


 私は着ていた部屋着のまま、慧が持参したスウェットに着替えるのを眺めた。細長い体。肌着姿になると、彼の体積が半分になったようにすら見える。すらりと伸びた脚は白く、白樺の木を思わせた。彼がスウェットの首元から後ろへ黒髪を払うと、知らない香りがほんのりと広がった。おそらくはシャンプーの。この何も知らない他人と一つの布団で寝るのかと思うと、今更ながら妙な気分だ。

 私がぼんやりしていると、着替え終わった慧が「失礼しますね」と布団をめくった。私がいつも使っている、窓際のシングルベッド。彼は慣れた様子でそこに横たわると、枕に沿わせるように腕を伸ばし、空けた場所をもう片方の手でポンポンと叩いた。


「おいで、律さん」


 呼ばれるままに、私はふらふらと彼のそばへ寄っていく。まるで自分のものでは無いようなベッドの、自分を迎え入れるための場所へ、ぎこちなく体をもぐり込ませる。それからそうっと、彼の腕へ私の頭を預けた。


 嗚呼。


 彼の腕は筋張って固く、しかしどうしようもなく温かい。首に触れている面は僅かなのに、体の内側から熱くなっていく。深く息を吐く私に、慧が言う。


「腕枕、痛かったら言うてな。 電気は消したなったら消そうか」


 その声はベッドに入る前よりもずっと甘く、しっとりと響いた。囁く唇に皺一つ無いのがわかる近さに、慧の小さな顔がある。私を見る彼の目は穏やかに細められていて、黒い瞳の中に私が映っているのが急に恐ろしくなる。

 私は枕元のリモコンを手元に引き寄せて、部屋の照明を消した。ピ、という無機質な電子音に、少し冷静さを取り戻す。

 暗闇の中では、布団の重さと慧の腕だけが確かだった。その腕に触れ、肩を辿ると、彼の髪が私の手にかかる。指で梳いてみればするりと逃げてしまうので、人差し指に一房巻きつけてみる。絹糸の束に触れたらこんな風だろうか。少し緩めれば絡まりもせず離れていった。その毛先を追っていくと、鎖骨の皿。じかに触れる肌はじわりと熱く、けれど吸い付くようになめらかで、私の手は鎖骨の縁をなぞり彼の首すじに辿り着いてしまう。今はどくどくと脈打つ、息が通っていく、その首。

 はっとして手を離す。咄嗟に慧に背を向けた。やはり私は駄目だ。おかしい。まともじゃない。

 と、ふいに背中が温かくなった。それから両の腕にぐるりと囲まれる。


「嫌やった?」


 耳に息が当たる。私は返事をする代わりに、回された腕を胸元でぎゅうと抱きしめていた。

 吐き出さなければ。その為に呼んだのだから。


「夢を、見るんだ」


 私はぼそりと言った。


「どこにでもあるような部屋の真ん中に、とっくに縁を切ったはずの父親が薄い布団の上でいびきをかいていて。それに腹が立って仕方がなかった。私は馬乗りになって思い切り首を絞めた。父は私の下でもがくけれど難なく抑え込めた。恐ろしかったはずの、逆らえなかったはずの父はすっかり弱くなっていた。もっと早くこうするべきだった。そう思った……やがて父は息をしなくなった。死に顔が醜悪で、枕を顔の上に押し付けてやった───そこで、目が覚める」


 いつの間にか、私は慧の手首をこの手で締めつけていた。慌てて離したが、痕になっていないだろうか。彼は、何も言わない。


「……嫌な汗で全身が濡れていた。とても眠った気がしない。手にはしっかりと感触が残っていて、腕に疲れさえあって、何もかもありありと思い出せる。カビ臭い布団の匂い、首の皺と乾いた手触り、枕のそば殻が擦れ合う音、父を殺した高揚感」


 私は震えていた。こんなにも温もりに包まれているのに。


「この夢を何度も、何度も何度も繰り返し見る。現実感があり過ぎる。だから考えてしまうんだ。これは夢じゃなくて記憶じゃないのか。私は本当に、この手で父を殺したんじゃないのか、と」


 全部、全部言ってしまった。

 こんなのは妄想だと、笑われるだろうか。怖がられ、逃げられるだろうか。


「うーん、それはしんどいなぁ。そんな頻繁に嫌いな顔なんて見たないもんなぁ」


 慧は私の肩に顔を乗せて、柔らかな声のままそう言った。私の首に、彼の髪がさらりと流れる。


「でもアレやん。その夢って結構前からなんやろ? もし律さんがほんまに親父さんを殺してたとして、今までバレてないとしたら凄いやん。完全犯罪や。」


 その声音は茶化す風でも無く、いたって真面目に感心しているように聞こえる。


「そう、だろうか」

「え、そうやない? まぁでも、それで律さんがぐっすり眠れんのはアカンもんなぁ。やっぱり夢は夢、そういうことにしとこ」


 こうもはっきりと言い切られると、そんな気になってくるから不思議だ。もうずっと悩んできたというのに。


「なんべんも夢に見るいうことは、それだけ律さんの中に色々溜まってる、ちゅうことちゃう? あのー、ボーナスステージや思て」

「ボーナスステージ」

「そ。コイン使い切るまでなんぼでも殺したらええ。夢なんやから」


 そう言う慧は、少し楽しげでさえある。私は彼の言葉を反芻しながら、何度かまばたきをした。


「せや、起きたら“正”の字でも書いたらどやろ。そんで『いっぱい殺したったわー』って満足したら見んようなるかもしれんなぁ」


 くるりと振り向いてみると、鼻先がぶつかりそうな距離に慧の顔があった。暗闇に慣れた目で見ても彼には少しも動じた様子がなく、名案だと信じて疑わない表情をしている。

 私は何も言えずにいた。ただ呆けていただけなのだが、慧はそれを見て何か勘違いをしたらしい。


「あ、なんかちゃうかった? いやぁ、僕よう言われるんや、ズレてるて。堪忍なぁ」

「いや、うん……ふふ」


 私は自分が笑っていることに少し驚いて、しかしそんなことはすぐにどうでもよくなった。

 自分から、彼の胸に顔を寄せてみる。彼と私の髪が絡み合う。熱を分かち合う。呼吸が、鼓動が混じり合う。私の体からゆるゆると力が抜けていくのがわかった。


「慧が来てくれて良かった」

「え、ほんまに? 嬉しいなぁ。ぐっすり寝れそう?」

「うん、たぶん」


 私の背をトン、トン、と慧の大きな手が優しく叩く。今ならばそれだけで、子供のように眠りへの階段を降りて行けそうだった。


「もしまた嫌な夢見ても、僕がおるよ」

「今夜だけ、ね」

「せやね、今夜だけ」

「そして君は、私を忘れる」

「忘れるやろなぁ」

「それは良いな」

「そうなん?」

「うん、すごく良い」


 一夜きり、ただ並んで眠るだけの相手。金を払って得た腕枕。だからこそ縋れた。きっと慧からしか出てこない、あの斬新で無責任な言葉でなければ、私はこんなにも安らぐことはできなかっただろう。明日には私のことを忘れて、別の誰かを抱きしめる人。その軽やかさが眩しい。


 今はただ、眠ろう。どんな夢も忘れて。

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今夜、知らない腕の中 灰崎千尋 @chat_gris

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