第20話・朝の森の館
中心街にある館なら、この時間帯ともなれば目の前の街道には荷馬車が行き来し、早朝の鍛錬に励む騎士達が打ち鳴らす模擬剣の響きが絶え間なく耳に届いてくるだろう。
けれど、朝の森の別邸はとても静かだ。時折聞こえてくるのは、虫の鳴く声と野鳥のさえずり。風がおとなしい今朝は、木々を揺らす騒めきもほとんど聞こえては来ない。
上の階から聞こえてきた衣擦れの音に、ジョセフはハッと階段を見上げる。二階から降りてくるアナベルの表情に疲れが見えないことを、ジョセフは心の中で密かに安堵する。まだ昨日の今日のことだ、心根の優しい従姉妹が賊の恐怖を引きずってやしないかと危惧していたが、今朝のベルは普段通りに見える。苦虫を嚙み潰したような、うんざり顔。子供の頃から幾度となく見た覚えのあるその表情は、ジョセフ以外にはほとんど見せないことを知っている。
真っ黒の魔女らしいロングワンピースを着たアナベルは、1階ホールにジョセフの姿があることにはちっとも驚いた様子はない。館に張り巡らされた結界の存在で、彼の訪れを先に知っていたのだろう。
「おはよう、アナベル。今朝の調子はどうかな?」
「……どうして今日も? 執務で忙しいと聞いているのだけれど?」
ジョセフはソファーに腰掛けたまま、ベルが朝食を取る為にダイニングテーブルに付くのを眺めていた。あえて従兄弟に背を向ける席を選んだベルだったが、後ろからでも大きな溜め息をついたのは丸分かりだ。
そんな彼女らしい態度が、ジョセフの目にはただただ嬉しく映る。
「ご心配なく。今日の分の書類はちゃんと持って来てるよ」
ソファーテーブルの上に置いていた書類の束をヒラヒラと掲げて見せ、ジョセフは笑顔で答える。朝一で本日中に目を通さなければならない書類を搔き集めて、急いで馬を走らせてきた。どこでやっても問題ない執務なら、この別邸で行っても文句はないだろうと。一応はここも領主家が所有する館なのだから。
「でしたら部屋をご用意させていただくと、お伝えはしたのですが……」
さすがの世話係も困惑の表情を浮かべている。空いている部屋はいくらでもあるのだから、落ち着いて仕事ができるようにと提案しても、即座に「ここで十分だよ」と遠慮されてしまった。
「だめよ、マーサ。そんなことをしたら、ずっと居座られてしまうわ」
「ああ、そうか。そういう意味では専用の部屋を用意して貰うのも良いかもね」
ジョセフとしてはベルの姿をいつでも確認できるここが良いと言ったつもりだったが、別邸に自分の場所が存在する状況も悪くはない。そうすれば今後も気兼ねなく訪問する理由にできるのだから。
「勿論、毎日訪れてくるという訳にはいかないけどね」
「そんなの、冗談じゃないわね……」
執務によっては父への承認が必要なこともあるし、現地への直接確認もある。過去の書類を掘り出して照らし合わせないといけないことも多い。ここで行えることはほんの一部だ。何だかんだ言ってみても、街から離れた森の中では出来る業務は限られている。
だから尚更、ベルを本邸へ連れ戻したいと願わずにはいられない。
「君が戻って来てくれるのが、一番なんだけどね」
わざわざこんな不便な場所に来なくてもと呆れ気味に言うベルの背へ向けて、最大の望みを呟いてみる。傍に居て欲しいとどれだけ呟き続けても、いつまでたってもそれが叶う様子はない。
食後のお茶を口に含んだ後、アナベルはもう一度大きな溜め息をついていた。ジョセフのことは何を言っても無駄だと思っているのだろう。それはそれで寂しいことだが、大きく拒絶されている訳ではないのだから問題ない。想いはいつか通ずることがあるはずだと、疑ってはいない。
食事が済んだ後は、ホールに隣接する作業部屋に引き籠ってしまったアナベル。部屋まで追い掛けたい気持ちをグッと我慢して、ジョセフは目の前に積み上げている書類の山に手を伸ばす。ここに来ることで職務がおろそかになったとあらば、父が森へ入ることを禁じてくるのは目に見えている。自分一人きりで容易に来れるのならば何を言われても気にする必要はないが、悔しいかなここへは護衛無しには訪れることができない。
窓の外ではお供の護衛騎士が二人。木製の柄の付いたホウキを剣に見立てて振り回している。今朝の早朝鍛錬よりも前に連れ出してしまったから、その代わりだろうか。時間があれば身体を動かしていたいなんて、鍛錬嫌いのジョセフからすれば全く理解できない心理だ。
ただ、さすがに毎日鍛え続けている彼らと並ぶと、自分が優男なのは痛いほど自覚させられる。やや頼りない二の腕を擦ってから、ジョセフはその細さに苦笑を漏らした。
次期領主は引き篭もり魔女を愛してやまない 瀬崎由美 @pigugu
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