心が壊れた時

白川津 中々

 根川さんと同じ電車に、あまつさえ隣に座れたのは僕にとって幸福であった。彼女への恋慕と、そして下賤な感情が交錯し、指先が震えていた。




「田上君」




 名前を呼ばれる。彼女から、会話を交わしてよいという許可が降りた。胸が燃え、爆ぜる火の粉が血を熱くしたため、僕はきっと頬が紅潮し女の子みたいになっているだろう。恥ずかしいな。みっともないな。揶揄われたらどうしよう。有頂天でそんな想像をしていたけれど、彼女はまったく予想を裏切ったご質問をなされたのだった。





「田上君。心が壊れると、どうなると思う」





 ふざけているのか、あるいは冗談の前置きかとも思ったがどうやら違うらしく、夜の闇に潜む影の様な不気味さを、真実味を帯びせて僕に向けている。咄嗟に、「叫んだり、泣いたり、あ、笑ったりするなんて聞いた事があるね」と漫画に出てくるキャラクターを思い描き答えた。




「何も感じなくなるの。叫んだり泣いたり笑ったりなんて、できないんだ」




 根川さんは闇の中のままで答えた。顔色も表情も視線も曖昧で、もしかしたらのっぺらぼうなんじゃないかと思ったが、彼女には確かに目鼻口がある。あるにはあるが、糊ではりつけられたような、ぴたりと収まった福笑いのような形で、果たして彼女はこんなものだったろうかと疑心に駆られた。しかし、そこにいるのは間違い無く、紛れもなく、根川さんだった。





「それじゃあ」





 いつの間にか駅だった。根川さんはいなくなり、僕だけとなった。それまで至福に満ちていた電車が急に座っていた野球部に支配され、汗の臭いが鼻を突く。僕はその不愉快を耐え、次の次の駅で降り、いつもの道を、いつものように、一人帰るのだった。そして、根川さんとは、それっきりとなる。






 父親殺害。

 犯人は娘。

 性的虐待。

 母親嗚咽。





 その日の夜。根川さんの名と、彼女の背景がテレビに踊った。Web掲示板にはどこからか詳細が流れ、事実と虚偽が入り混じった情報が錯綜し賑わう。その中で、彼女が汚されていく様子を性的な趣向の赴くままに書き込む奴がいた。




 指が震えた。




 怒りからじゃない。彼女が暴力に屈し、無抵抗のまま、父親の物として扱われる様を想像すると、電車で隣に座った時みたいに、胸が燃えていたからだ。



 書き込まれた文章を目で捉え、邪を働き、私は彼女を使った。去り際に見た彼女の顔が浮かぶ。



 彼女は壊れていなかった。彼女に心はあった。あの時きっと、何かを求めていた。けれど僕は、僕になにもできなかった。



 椅子にもたれかかる。

 彼女への想いは、未だ、僕に熱をもたらしている。

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