小さな勇気とラッキースター ~離島の妊婦と医師~
柴田 恭太朗
新島の民宿で
なぜ私が
◇
新島の海はどこまでも青く澄んでいる。
ここが東京都の島といわれても、にわかには信じがたい。心が洗われるような広い青空の下、深呼吸をすれば潮の香が胸いっぱいに満ちて、全身の細胞がリフレッシュするようだ。事実、仕事のストレスから解放されることもあって、私は新島を訪れるたびに若返るような気がする。そんな爽やかな自然に囲まれた島にも、唯一、東京をイメージさせるものがある。それは島内を走るクルマ。みな一様に品川ナンバーをつけているからだ。それ以外に首都東京を想わせるものは何ひとつない。
島の東側には、まっ白な砂浜が続く
時は初夏。私が定宿にしているのは島の民宿だ。板敷きの食堂で朝食をいただいていると、小さな女の子が自分のケーキを皿に乗せてはこんできた。おかっぱ頭の幼女。二、三歳ぐらいだろうか。他に空いているテーブルもあったのだが、私と同じ卓を選んでコトリと皿を置いた。小さな民宿のことである、食堂はそう広くない。それで顔なじみになった私と一緒に食べようというのだろう。食事はみんなで食べた方がおいしいからね、それは私も同感だ。
宿の娘は子ども用のフォークを使い、上手にケーキを一口サイズに切っては口へとはこんでいく。ケーキをほおばるとき、口だけでなく一緒に目まで大きく開く様子がなんとも可愛らしくて面白かった。
「可愛いですね」
私は、急須を片手にやって来た宿の女将さんへ話かけた。
「すっかりおっきくなったけど、この子は未熟児で産まれたんですよ」
女将さんは私の湯呑みにお茶を
「未熟児だと、島じゃ育てるのが大変だったでしょう?」
私は島の小さな診療所を思い出して言った。数年前、海岸の岩で切り傷を作ったとき、念のためにと傷口の消毒でお世話になったことがある。白ペンキで塗装されて清潔感があったが、小ぶりで質素な建物でもあるし、とても未熟児哺育の設備があるようには思えなかった。
「まっさかぁ、港区の病院で産んだんだよ」
それで合点がいった。
「やはり設備は東京の方が整ってますよね」
「新島も東京だけどねー」、女将さんは朗らかに笑った。
「そうでした、失礼しました」、やりがちな失言である。
「この島だって手術はできるよ」
「へぇ、本格的なんですね」
「もちろんだよ、診療所は島民の命を守る
「あの尾身さんですか、ずいぶんと偉い先生が来てくださるんですね」
私はテレビで見た、白髪まじりで長身のメガネ男性を思い浮かべた。
「尾身さんも今じゃ立派な先生だけどね、ほれ、島にいたときはまだまだ活気にあふれた若者だったから。気さくなお人でねぇ、ウチに寄ってはお茶飲みながら話し込んでいったりしたもんだよ。それに尾身さんだけじゃなくて、すっごい豪傑の外科の先生もいたんだ」
女将さんはテーブルの椅子をガタリと引いて腰をかけた。どうやら話は長くなりそうだ。
「どんな?」
「麻酔なしで帝王切開した先生」
「明治の話でしょ?」、明治の逸話なら聞いたことがある。
「ところがね、昭和の話なんよ」
「本当に!?」
私は正直驚いた。というのも高校時代、教師から離島での盲腸手術の思い出話を聞いたことがあったからだ。その教師が若い頃、遊びに行った伊豆大島で友人が虫垂炎を発症し、麻酔なしで緊急手術を行ったのだそうだ。教師らが友の手足を押さえつける中、無麻酔手術は行われたという。手術の最中「殺してくれ」と激しく身もだえし叫びつづける友の姿を見て、教師は頭がすっかり禿げあがってしまったという。頭髪の件は冗談としても、それはさぞかし壮絶な光景だったに違いない。盲腸と帝王切開では、切り開く術野の大きさが数倍も異なる。出血量だって違うだろう。さらに母子ふたりの命がかかってくる。そんな危険な手術を、なぜ無麻酔で行ったのか。私は疑問に思った。
「どうしてそんなことになったんですか?」
「そうねぇ、ちょっと待ってね。お義母さんを呼んでくる」
女将さんがいう義母とは、民宿の隠居棟で暮らす八十がらみの腰の曲がったおばあさんだ。直接会話を交わしたことはなかったけれど、常連の私も顔は見知っていた。
「いや、申し訳ないからいいですよ」
そこまでする話じゃないと思って私はあわてた。ほんの食後の茶飲み話のつもりだったのに、大げさなことになっていく。
「お義母さんは
女将さんは、すっかり新島弁になっていた。
初めはまったく新島弁を理解できなかった私も何度も島を訪れるうち、いまではすっかり聞き取れるようになっていた。
島の言葉は静岡の
よく時代劇にでてくるセリフで「お
やがて民宿の女将さんに連れられ、腰の曲がったおばあさんがやって来た。足が不自由なのか杖をついている。島の強い紫外線で日に焼け、顔中シワだらけのおばあさんは、食堂で一番涼しく快適な椅子を選んで腰をかけると口を開いた。
「キクさんの話を聞きてぇ
おばあさんがゆっくりとした口調で語ってくれたのは、キクさんという一人の妊婦の身に起こった物語であった。
◇
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