死ぬかもしれない。でもこの子を産みたい

 キクを乗せたリヤカーは砂まじりの登り坂を、男三人がかりの強い力で運ばれてゆく。新島は小さな島とはいえ、クサヤ加工場から本村ほんそん診療所まで1キロ以上ある。診療所の建物が見えてくるまでに、たっぷり二十分はかかっていた。先頭を行く主任の目に、白塗りの平屋の前で両のこぶしを腰に当てて仁王立ちしている男の姿が写った。白衣のカミナリ医師だ。


「先生!」

 リヤカーを引く手にいっそうの力を込めて主任が叫ぶ。

 あらかたの話は電話で伝わっていたとみえ、カミナリ医師は男らを手招きし、すぐさまキクを診療所へ運び込ませる。救急搬送の大役を終えた男たちは医師に妊婦をあずけると、ホッとした表情でリヤカーの向きを返し加工場へ戻っていった。


 診察室に入るとキクは、いつものグレーの丸椅子ではなくベッドに座らされた。破水しているためだ。カミナリ医師は冷たく硬い患者用の丸椅子を片手でつかむと、キクのまん前に持ってきてドスンと腰を下ろした。キクは向かい合わせになったカミナリと眼を合わせることができず、思わずうつむいてしまう。眼前の医師からいらだちがピリピリと伝わってきて、どうにもこうにも居心地が悪いのだ。なかなか顔を上げることができない。


「こっちを見なさい」、カミナリが静かに言った。

 キクはおずおずと顔をあげて、カミナリ医師を見つめる。

 眼があった瞬間、やにわにカミナリは右手を振り上げ、遠慮のない力でキクの頬を張った。


 パァンッ!

 診察室に鋭い音が響きわたる。打たれた勢いでキクの顔が横を向くほどの強い平手打ちだ。そばに控えていた看護師がヒッと短い悲鳴を上げた。


「どうして、こんなになるまで放っておいた!」

 カミナリはこめかみに血管を浮き上がらせて、キクを問い詰めた。

「どうもこうも、先生、なんじどうして妊婦をぶっくらしゅうずあなぐるんですか?」

 今までこらえてきた涙がキクの大きな瞳からあふれ出す。頬の痛みからではない、医師の仕打ちに驚くと同時に悔しさがこみ上げたからだ。


「ここまで破水が進行したら、もうお腹の子は助からんよ。いいかよく聞きなさい。あんたには二人の子どもがいるだろう」

おーよはい

「だったら、この子のことは諦めなさい。さもないとあんたの命が危ない」

 先の態度から一転して、カミナリ医師が今度は噛んでふくめるような説得を始めた。一度怒鳴ってみせることでキクの甘い考えを打ち払い、胎児を諦める決断を促そうとしたのだろう。それは感情的な暴力とは真逆の、カミナリならではの思慮深い判断だったようだ。


「しかし先生、授かった子どもを産まねーでどうしゅーじゃどうするの?

「あんた感染症で死ぬぞ」

「手術でお腹の子を取り出しちくいよ出してください

「無理だ」、カミナリの態度はもない。

なんじどうして?」

「麻酔をかけたら十中八九、お腹の子は助からん」

そいじゃあそれなら、麻酔はいらねぇずあ」

「なんだって?」

「麻酔かけねぇで、おい切っちくいよ切ってください


 予想もしなかったキクの言葉にカミナリ医師は言葉を失った。人は浅い切り傷を作っただけでも鋭い痛みを感じる。帝王切開は腹を切る手術だ、表皮どころか子宮までをも切り開く。しかもその長さは1センチや2センチではない、術野を確保し、胎児を取り出すには最低でも十センチ、いや十五センチは切開する必要があるだろう。


「ツラいぞ。我慢できるか?」

おーよはい

「命を落とすかもしれん」

へーきずあ大丈夫です。はよう手術しちっちしてください


 カミナリ医師は、キクの美しい瞳に宿る強い意志を感じた。それでもまだ彼は迷っていたのである。ここで手術を強行するより、ヘリコプターを緊急要請し設備の整った病院でオペを行うべきではないか、母子の生命を救うにはその方が安全ではないか、と。


 新島には空港があった。だが冬の閑散期である今、定期便は日に二度のプロペラ機しかなく、またヘリコプターを呼び寄せたとしても到着を待つ空虚な時間に、母子の感染症リスクが急速に高まる。

 キクの破水からあまりにも時間が経ちすぎていた。選択肢は二つ。ここで胎児をおろすか、無麻酔で帝王切開を強行するかの二択だ。常識的な医者なら前者を選ぶであろう。しかしカミナリは戦時中、野戦病院で腕をみがいた型破りな医師であった。


「あんたのその大きな度胸。いったいどこから湧いてくるんだ」

 カミナリ医師は半ば独り言のようにつぶやいた。彼の軍医経験ならびに長い地域医療経験でも、これほど気丈な患者に出会ったことがない。

「大きくなんかねぇだよ。ただちいせぇ小さい度胸の積み重ねずあ。おいはちいせぇ小さい勇気を一生懸命大事にかき集めちゅうだじゃているだけです


――今朝だって明星に祈ってきたから、きっと大丈夫。

 キクは夜明けの空に赤く輝く孤高の星を思い浮かべ、自分に言い聞かせ、そして信じた。彼女が胎内で育んできた小さな命も、この世界に生まれいずることを望んでいるに違いない。


 キクが口にした。その一言がカミナリの心を動かした。


 決断した医師の動きは早かった。

 キクを診療室のベッドに寝かせると、リネンのベッドシーツを四枚に裂いて作った布で彼女の両手両足をベッドの四隅に縛りつけ固定する。ベッドそのものが動かないよう、ベッドの脚を部屋の柱に結び付けた。手術室を使わなかったのは、手術台には手足が固定できる柱がないからだ。


 外科を得意とするカミナリも麻酔なしでの開腹手術は、さすがに初めてである。本格的な清拭せいしき手順を踏んでいる時間はない。アルコール綿で腹部をぬぐった後、さらにエタノールを含んだポビドンヨードを塗布して消毒した。茶色いヨードの跡は、具合よく切開部の目印となる。腹部を縦に切る古典的帝王切開。早産児に危険の少ない手術方法だ。


 カミナリ医師はキクに目隠しをし、彼女が舌を噛まないよう上下の歯の間に清潔な綿を押し込んで言った。

「歯を食いしばれ」

 医師の熟練した手が持つメスが素早く動き、キクの腹部に一条の筋を入れる。真皮の下にある黄色い脂肪層がパッと左右に開き、毛細血管から薄く血がにじんだ。

「っつ!」

 キクが痛みにうめき、歯を食いしばる。手首を縛ったリネン布が弓のつるのようにビンッと音をたてて張る。きつく布を握りしめた手の爪がみるみる白くなった。

「声をだせ。声をだせば気がまぎれる」

 励ましながらもカミナリの手は止まらない。患者の苦痛をわずかでも短い時間に収めたいからだ。


 息の詰まる時間が流れ、診療室の中にキクの低いうめき声と血の匂いが立ち込めていった。医師から出される矢継ぎ早の指示へ、的確に応じる器械出し担当の看護師。地域医療を支える人材の志は高く、また腕も確かだ。


 張りつめた空気の中、施術は進んでゆき、ついにカミナリ医師が慎重な手つきで、ささげ持つようにして赤ん坊を取り上げた。四週早く胎外に出された子である、やはり小さい。看護師がすぐさま、ヘソの緒を処置する。赤ん坊が肺いっぱいに息を吸って、小さなな身体に似合わぬ力強い泣き声をあげた。

「女の子です!」、看護師が思わず喜びの声をあげる。

 彼女の声が耳に届いたとみえて、目隠しをしたままキクは小さくうなずいた。


 次は母体。

「麻酔をかける」

 胎児が産まれてしまえば、キクに麻酔が使える。痛みが引けば、母体は一気に楽になるだろう。ただ、ここは大病院ではなく島の診療所である。全身麻酔を管理する専門医はおろか執刀助手すらいない。カミナリ医師ただ一人が部分麻酔を打ち、切開部の縫合を行ってゆく。驚くべき体力、それに集中力であった。


 最後に天然シルクの縫合糸へパチリとハサミを入れ、帝王切開術は完了した。

「あんた……いや、キクさん。キクさん、よく頑張ったね」

 カミナリ医師が初めてキクのことを名前で呼んだ。彼女は浜へ打ち上げられた海藻のように精魂つき果て、虚ろな目で天井を見た。そして医師のねぎらいを遠くに聞きつつ、体がグイグイと海の深みへ引きずられる感覚を覚えて、意識を失った。


 無事に赤ん坊が産まれた後も、まだ問題が残されていた。

「先生、保育器はどうしましょう」、ひと息つくいとまもなく看護師が尋ねる。

 当時の新島に未熟児を育てる保育器はなかった。未熟児は通常の新生児よりも脆弱で、体温の低下がたいへん大きなストレスとなってしまう。


 カミナリ医師は未熟児が眠るベッドの周囲を暖めるよう指示した。だが新島は、めったに雪の降らない温暖な土地である。強烈な西風にしんかぜが吹きすさぶ冬の二月ですら、どこの家庭も暖房を使う習慣がない。

「ストーブなんてどこにもないです」、診療所にすら置いてなかった。

「だったら新島じゅうの店を探して、ありったけのストーブを買って来なさい!」


 すぐさま島内の店という店から、すべてのストーブがかき集められた。

 その数、わずか四台。いや、たった四台でも島に存在したことが奇跡である。


 新島では珍しい石油ストーブに点火され、新生児のベッドを取り囲んだ。これで安心と皆が胸をなでおろしたとき、診療所へ飛び込んで来た者がある。出張先から午後の飛行機に飛び乗って、駆け付けてきたキクの夫・清次せいじだ。


 彼は見なれぬ石油ストーブに囲まれたベッドと、そこに眠る我が子を見やり、次に医師の姿を認めるとカミナリの元に歩み寄った。

「先生あがとう、本当にあがとうよ」

 清次がカミナリ医師の手を取り両手で握りしめ、涙をこぼした。日ごろは寡黙で顔色を変えることのない彼が、あたりをはばかることなく男泣きする姿に、思わず看護師らも目頭を押さえた。


「礼には及ばないさ。島の医療は誰かが支えなければならない。俺は手術ができる。必要な免状もある、道具も持ってる。なにより一番大切な技術うでにだって自信がある。加えてキクさんに勇気があった。それだけ揃えば、あとはやるしかあるまい? 成すべきことを成すだけだ」

 神成かみなり医師は大きな手のひらで、清次の肩を二度三度と叩いた。


 清次はベッドに寝かされている幼な子に寄り添い、腰を落としてじっと見つめる。その気配を察したのか、産まれたばかりのまだ名前をもたない娘がまぶしそうに眼を開いた。よくえてはいない瞳が、電灯の光を映してつややかに輝く。


「見てみい、この澄んだ瞳。この子は新島で一番きれいな瞳をしよる。おいぎーわが家の宝じゃ、幸せの子じゃ」

 清次はベッドの我が子を愛おしそうに見つめた。


 それからキクと娘は診療所で過ごし、二人が元気に退院していったのはひと月後のことであった。

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