キクは体調不良を隠して仕事にでた
毎朝、キクは島の西側に位置する
白砂が広がる
浜から海をのぞむと、左手方向に
朱に染め上げられた無人島の上空には、小さく輝く
――今日も一日無事に働けますように。
キクは地内島と幸運の星に向かって両手を合わせ、いつもより念入りに
新島の者はみな働き者である。キクは前浜からほど近くのクサヤ加工場で手伝いをし、島の建設会社で働く夫の
日課となっていた浜での祈りを終えると、キクは体の不安を抱えたまま前浜近くのクサヤ加工場へと入っていった。クサヤとは新島発祥の特産品で、島で盛んに作られている魚の干物のことである。作業場に足を踏み入れると、独特の匂いが鼻をつく。江戸時代から代々受け継がれてきた
「
「
キクは加工場で共に働く女性たちとあいさつを交わす。
「キクさん、ずいぶんお腹が
口ヒゲをたくわえた加工場の主任も気づかって声をかけてくれる。
「
キクは大きな眼を細め、ニッコリとほほ笑んでみせる。まだ産み月ではない、予定日よりまだ四週も早かった。気になる腹部の痛みはないし、昨日からの破水もいずれ止まってくれるだろう。何の根拠もないまま、キクは楽観的に考えていた。これまで二人の子どもを順調に産み育てた経験が、彼女の自信となっていたからだ。
時は二月。温暖な気候の新島とはいえ、とれたばかりの新鮮なアオムロアジを開いて内臓を水で洗う作業はやはり体にこたえる。キクが冷たい水に手をさらして、魚の身を洗っているとお腹のあたりがキュッと張った。やはり何かがおかしい。
「
キクは股間を流れ落ちる生暖かい感触に驚きの声をあげた。
「キクさん、どうしたじゃ」
手を止め身を強ばらせたキクの異変に、隣で作業をしていた
島の女性は我慢強い。石切り場から重い石材を背にしょって運ぶ重労働にも歯を食いしばって耐え抜くほどの忍耐強さだ。キクは思った、あと1時間もすれば休憩時間がくる、それまでもう少しの辛抱。それまで我慢しようと決め、ウンバァに「
それがキクの間違いだった。股間をしたたる温かい感触が続く。羊水が昨日より勢いを増して流れ落ちているのだ。休憩時間が待ち遠しい。気もそぞろに作業を続けながら、たびたび彼女は加工場の壁時計を見上げた。しかし、針の動きはいつもより遅々として進まない。
キクの顔色がみるみる青ざめ、上体のふらつきが止まらなくなった。
「やっぱ
隣のウンバァがキクの肩を叩く。
「
ようやくキクが自らの身に起こっている事態を告げた。ウンバァを見つめる両の目が不安におびえている。
「破水? えらいこっちゃあ!」
ウンバァが悲鳴に似た驚きの声をあげた。彼女の叫びでキクの異変を知った加工場の人々は騒然となる。
「リヤカー! 裏のリヤカー持っ
ヒゲの主任が大声で、加工所の
診療所の名を聞いたキクは、さらに青ざめた。
「診療所はいやじゃあ、お
両脇をウンバァたちに支えられ、キクは身を絞るように訴える。
島での出産は、お産婆さんにお世話になるか、本土から派遣され島の診療所に詰めている
島の村民たちも頭ではそう理解しているものの、やはり怖いものは怖い。村人はすっかり委縮してしまい、気が休まらないからといって、なるべく診療所の世話にならないように気をつけて暮らしていた。キクもできることならカミナリ先生ではなく、お産婆さんに頼みたいと思ったのだ。
「
「おいは行かねぇ、行きたく
キクはカミナリ医師の
それでもリヤカーが加工場の前に引き出されると、キクはみずから荷台に敷いた座布団の上に横たわった。彼女は自分の体調が少なからず思わしくないことを実感していたからだ。
リヤカーの前からヒゲの主任が鉄製のハンドル棒を引き、後ろから加工場の
「ゆーっく
先頭に立ってリヤカーを引く主任が声を張りあげ、若者二人を励ました。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます