キクは体調不良を隠して仕事にでた

 毎朝、キクは島の西側に位置する本村前浜ほんそんまえはまへと出る。


 白砂が広がる羽伏浦はぶしうらと違って、前浜の砂は黒い。手ぬぐいで姉さん被りをすると、キクはスイカほどに育ったお腹を両の手で抱えた。草履をはいた素足で慎重に黒砂を踏みしめつつ砂浜を行く。その日一日の無事を祈るためだ。


 浜から海をのぞむと、左手方向に地内島じないじまという無人島が見える。前浜から目と鼻の先の距離だ。海に浮かぶ地内島は巨大な岩で成り立っており、朝日に赤く照らされる姿は荘厳で、オーストラリアのエアーズロックに似ていた。


 朱に染め上げられた無人島の上空には、小さく輝く明星みょうじょう。太陽の光に負けじと輝く明星の姿は、キクに元気を与えてくれる。キクは心の裡で明星のことを幸運の星と呼びならわしていた。


――今日も一日無事に働けますように。


 キクは地内島と幸運の星に向かって両手を合わせ、いつもより念入りにこうべを垂れる。いつもにまして長く祈りを捧げたのは、昨夜から体調の異変に気づいていたからだ。それでもキクは痛みがないのを良いことに、不調を押して働きにでることにした。


 新島の者はみな働き者である。キクは前浜からほど近くのクサヤ加工場で手伝いをし、島の建設会社で働く夫の清次せいじは千葉の建設現場へ単身で出張にでていた。それに加えてキクは、懐妊中の今でこそ控えているが、クサヤの仕事を終えたあとには島の南部にある向山むかいやま採石場まで徒歩で向かうのが通例だった。新島は抗火石こうがせきと呼ばれる世界でも珍しい石材を産出した。石切り場から続々と切り出されてくる、一抱えもある石塊を背負って運搬するためだ。驚くばかりの働きぶりである。


 日課となっていた浜での祈りを終えると、キクは体の不安を抱えたまま前浜近くのクサヤ加工場へと入っていった。クサヤとは新島発祥の特産品で、島で盛んに作られている魚の干物のことである。作業場に足を踏み入れると、独特の匂いが鼻をつく。江戸時代から代々受け継がれてきた微生物クサヤ菌こそが干物作りの肝であった。目に見えないクサヤ菌が魚のたんぱく質をアミノ酸へと分解し、焼いてほぐした身を口に放りこめば舌の上に豊穣な旨味が広がる、あの珍味を生み出すのだ。


やぁい、おはようおはようございます

やぁい、いしゃぁまみてぇかよおはよう、元気かい?

 キクは加工場で共に働く女性たちとあいさつを交わす。

「キクさん、ずいぶんお腹がめだっちゅぅど目立ってきましたねへーきかよ大丈夫かい?

 口ヒゲをたくわえた加工場の主任も気づかって声をかけてくれる。

へーきずあ大丈夫です

 キクは大きな眼を細め、ニッコリとほほ笑んでみせる。まだ産み月ではない、予定日よりまだ四週も早かった。気になる腹部の痛みはないし、昨日からの破水もいずれ止まってくれるだろう。何の根拠もないまま、キクは楽観的に考えていた。これまで二人の子どもを順調に産み育てた経験が、彼女の自信となっていたからだ。


 時は二月。温暖な気候の新島とはいえ、とれたばかりの新鮮なアオムロアジを開いて内臓を水で洗う作業はやはり体にこたえる。キクが冷たい水に手をさらして、魚の身を洗っているとお腹のあたりがキュッと張った。やはり何かがおかしい。


いよっあっ?」

 キクは股間を流れ落ちる生暖かい感触に驚きの声をあげた。

「キクさん、どうしたじゃ」

 手を止め身を強ばらせたキクの異変に、隣で作業をしていたウンバァおばあさんが気づいてキクの顔をのぞき込む。しかしキクはじっと体を固くしたまま、口を開かなかった。


 島の女性は我慢強い。石切り場から重い石材を背にしょって運ぶ重労働にも歯を食いしばって耐え抜くほどの忍耐強さだ。キクは思った、あと1時間もすれば休憩時間がくる、それまでもう少しの辛抱。それまで我慢しようと決め、ウンバァに「なぁんもねぇどなんでもありません」と笑顔を返した。


 それがキクの間違いだった。股間をしたたる温かい感触が続く。羊水が昨日より勢いを増して流れ落ちているのだ。休憩時間が待ち遠しい。気もそぞろに作業を続けながら、たびたび彼女は加工場の壁時計を見上げた。しかし、針の動きはいつもより遅々として進まない。

 キクの顔色がみるみる青ざめ、上体のふらつきが止まらなくなった。


「やっぱいしゃ変だじゃあなた変よ。キクさん! しっかりしゅうじゃしなさい

 隣のウンバァがキクの肩を叩く。

おい、破水しちゅうじゃしてます

 ようやくキクが自らの身に起こっている事態を告げた。ウンバァを見つめる両の目が不安におびえている。

「破水? えらいこっちゃあ!」

 ウンバァが悲鳴に似た驚きの声をあげた。彼女の叫びでキクの異変を知った加工場の人々は騒然となる。

「リヤカー! 裏のリヤカー持っ来い。診療所へ行くど!」

 ヒゲの主任が大声で、加工所のアンキラ若い衆に指示を飛ばす。


 診療所の名を聞いたキクは、さらに青ざめた。

「診療所はいやじゃあ、お産婆さんばさんを呼んじきゅうでください

 両脇をウンバァたちに支えられ、キクは身を絞るように訴える。


 島での出産は、お産婆さんにお世話になるか、本土から派遣され島の診療所に詰めている神成かみなり医師の世話になるかである。カミナリ先生は腕の立つ名医だったが、患者に厳しく性根も一本気なところがあってすぐに怒鳴る。名前由来の性格なのか、すぐに雷を落とすのだ。むろんそれは医師なりに患者の健康を思いやっての諫言かんげんなのだが。


 島の村民たちも頭ではそう理解しているものの、やはり怖いものは怖い。村人はすっかり委縮してしまい、気が休まらないからといって、なるべく診療所の世話にならないように気をつけて暮らしていた。キクもできることならカミナリ先生ではなく、お産婆さんに頼みたいと思ったのだ。


いしゃ何いっちゅぅだあんた何言ってるの! 破水しちゅうどしてるじゃない。いますぐ診療所へ行こうじゃ」

「おいは行かねぇ、行きたくねぇずあないです」 

 キクはカミナリ医師の強面こわもてを思い出し身ぶるいした。


 それでもリヤカーが加工場の前に引き出されると、キクはみずから荷台に敷いた座布団の上に横たわった。彼女は自分の体調が少なからず思わしくないことを実感していたからだ。

 リヤカーの前からヒゲの主任が鉄製のハンドル棒を引き、後ろから加工場のアンキラ若い衆二人が押してゆく。一刻も早くキクを診療所へ運ぶのだ。当時、新島の道は舗装されておらず砂地であった。三人がかりで押すリヤカーはタイヤを砂に取られ、右へ左へと大きく振られる。

「ゆーっく。ほれ、ゆーっくだど」

 先頭に立ってリヤカーを引く主任が声を張りあげ、若者二人を励ました。

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