キリキリからの帰り道

「フクジ。眉間にしわ寄せてどうしたんだい」

 フジシチが首を傾げる。

「嫁さんと喧嘩でもしたのかい」

「……いや、キツネのことを考えていた」

 フクジは深々と考え込んだ。腕を組み、足を組み――アカネのことを考えた。


 アカネは、キツネだった。


 その事実が、フクジの心に重石おもしみたいに乗っかっていた。足を洗った。彼女はそう言っていたが、アカネもかつて、あの薄汚い女キツネのように、よそさまの懐から金を抜いたことがあるんだろうか。例えばそれが、誰かの命や生活にかかわる大事な金だったり、したことが……。

「フクジ、お前は昔っから考え込みすぎなんだよ」

通信ごしに、フジシチが言った。つぎつぎ仲間たちから「そうだぞ」と声が上がる。

「あの金は、返さなくてもいいんだぜ。まあ、あれ以上を出せって言われても出せねえけどさ」

「……俺はさ」フクジはうつむいた。「情けねえんだよ。俺がしっかりしてなかったせいで、みんなからの気持ちを全部、無駄にしちまったんだから……」

 本当は耳を揃えて全額返したいくらいなのに。フクジはこぶしを握った。

 誰もが気にするなと、そればかり言う。フクジを憐れんでいるのか、優しい。

 それがかえってフクジをみじめにさせることを、みんなはわかっちゃくれない。

「みろ、みんな。あれがキリキリ・コロニーへの架け橋だぜ」

 フクジが顔を上げると、窓の外に跳ね橋が見えた。時間になれば降りてきて、往来する人々を通すようになっている。フクジたちは自分の艇の上からそれを見た。


 フクジはまた、考え込んだ。「すべては、キツネが俺を騙したことから始まったのだ」と。金がなくなったから、追い詰められて、追い詰められたから、あんな酷い夢を見て――そうして、アカネと出会ったのだ。

 そのアカネがキツネだった。……すべては仕組まれていたんだろうか? 俺はアカネに騙されて化かされているんだろうか……?

 

「ま、キリキリに入ってしまえば、誰がキツネだって騒がなくて済むな」

フジシチが何気なく言った。フクジは再び、眉間にしわを寄せた。家に残してきた三人が気がかりだった。



 キリキリでの囲い込み漁は上々だった。キリキリの港で獲った魚のほとんどを競りに出してしまい、すべてを金に換えて、漁師たちはそれを人数で等分した。今回の漁の儲けは分け合っても懐は温かく、しばらくは食うに困らないだろう、と思われた。

 フクジだけが、眉間にしわを寄せていた。

「おい、嬉しくないのかい」

 フクジは答えずに、遠野コロニーの方角を見た。

「待ってるやつがいるんだろう」と誰かが言い「新婚さんだもんなあ」と誰かが返した。フジシチだけが、フクジを気にかけていた。

「おまえ、まだ皆に金を返すことばかり考えているんじゃないだろうね」

「……そういうことじゃないんだ」

 フクジはしっかりと懐を押さえた。もう二度と、同じわだちは踏まないと決めていた。腰もとに下げた魚包丁――魚をさばくのに使うそれを、そっと撫でる。


 艇は並んで宇宙を行く。遠野コロニーの浜――もとは33番エリアが帰港地であったのに、その役目をになうのは32番エリアとなってしまった――に到着するころには、朝の三時ころだった。漁師たちはめいめいに艇を降りて、家路をたどっていく。多くが32番エリアの者たちなので、フクジはひとり、坂を上るようにして家へと向かっていく。

 途中、アカネと出会ったバーの前に差し掛かると、中からちょうど主人ママが出てくるところだった。店じまいのようだ。

「あらあん。フクちゃん。おひさしぶりねん」

「久しぶりだね、ママ」

「あたし、お邪魔だったかしらん」

「え?」

 続いて、バーの扉を開けたのはアカネであった。フクジは言葉を失った。確かにアカネに見えた。

「そんな、邪魔なんてことないよ、ママ」

「うそうそ、そんなのうそよ。ごゆっくり。アタシ、すぐ帰るから」

 化粧を落とした男はさっと無人タクシーを捕まえると、風のような速さでその場を去った。残されたのは、フクジとアカネのみである。


「仕事、やめたんじゃなかったのか」

「ううん、今日はお客さんとしてきたの。そしたら、思い出話に花が咲いちゃって」

「……そうか」

フクジはアカネを注意深く観察した。

「息子たちは」

「寝てるよ。寝かしてから来たもの」

「……アカネ。お前、『リンゴを寝かしつけるのに苦労したろう?』」

「そうだね。女の子はおしゃべりだね。……全然寝付かなくって」


 フクジは立ち止まった。先を行くアカネの背に向かって、魚包丁を向ける。


「お前、キツネだな」

「……どうしたの、フクちゃん」

「おとついの晩、俺んちに来たキツネだな。あの時はよくも、俺の全財産を奪ってくれたな」

「……フクちゃん」

「アカネはもうフクちゃんなんて呼ばねえよ」

「ちがう、たまたまだよ。ねえ、どうしたら信じてくれるの?」

 アカネは目に一杯涙をためていたが、フクジはためらわなかった。

「信じるわけねえだろ。『リンゴは先の事故で死んでる』んだからよ。寝かしつけられるわけ、ねえだろうが!」


 フクジは包丁を振りかぶった。アカネは避けたが、肩をかすった。

「いたい、ひどいよう、フクちゃん、ひどい」

「本性を現せ、そうしたら命だけは助けてやる、この、泥棒……!」

 アカネの姿をしたキツネは、その瞬間鬼のような形相を晒した。

「あたしたちだって、食いつなぐのに必死なんだ、必死なんだよ!」

「だからって、人さまから奪っていいわけねえだろうが!」

「うるさい、うるさいうるさい!!」

 キツネはフクジの手にがぶりとかみついた。

 アカネの背後からふさふさのしっぽが何本も伸びて、その姿を包み隠し、キツネはその場から姿を消した。

 フクジは魚包丁を拾って、家まで走りに走った。

「アカネ、アカネ。アカネ―!」


 玄関の戸を開けると、寒そうに着物を掻き寄せたアカネが、ぼさぼさの頭で突っ立っていた。

「フクジさん、あのね、あたし……」

「アカネ!」

 フクジは夢中でアカネの身体を掻き抱いた。

「無事で、無事でよかった……」

「あたし、……フクジさんが遅いから、迎えに行く夢を見たの」

 震えるフクジをなだめるように、アカネの細い指がフクジの背を撫でる。

「そしたらバーのママに呼び止められて、ちょっと飲むつもりが……店が閉まるまで、飲んでね。そしてママと一緒に外に出たら、フクジさんがいて」

 アカネの話はこうだった。夢の中で、フクジに殺されかけた。ぎらりとした魚包丁を向けられるところで、はっと目を覚ましたのだと。

「怖くなって、あたし……ここで待ってた」

「俺は、キツネに会った」

 アカネは目を一杯に見開いておののいた。フクジは噛まれて流血している利き手を見せた。

「……今度は、騙されなかった」

「あの、フクジさん。……あのね、あたしね。あの……」

「いい、あとでいい」


 アカネの言いたいことはわかっていた。すべて、分かっていた。


「あとでいいよ。お前が何であれ、俺は、お前を許すよ」

 フクジの妻は泣き始めた。バーで初めて喧嘩をして、泣かせてしまった時のような――子供のような泣き声だった。

「俺はお前を一人にしねえ。ヨウイチもカンジもいる。裕福な暮らしは約束できねえが、簡単に死んだりしねえから」

「うん、うん……」

「一緒に居よう」

「うん」




 ――むかしむかし、遠野コロニーに、フクジ・キタガワという男がいた。彼は妻と娘を一度に失うという不幸に見舞われたが、新しい妻を迎え、前妻の息子二人と、後妻の娘ひとりと、末永く幸せに暮らしましたとさ。その妻はキツネであったとか、そうでなかったとか。


 ホップ・ヤナギダ著『遠野コロニーストーリィズ』33番「キツネの嫁入り譚」より

 



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遠野コロニー・ストーリィズ 紫陽_凛 @syw_rin

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