疑惑

 アカネはアカネ・キタガワになった。二人の息子たちは、厳しい海風に晒されて一層老けたフクジに、あんまりにも若々しい嫁さんができたものだから、たいへん驚いて、「キツネの詐欺じゃねえか?」と疑った。しかしアカネはそんな二人の息子たちを見比べて、それぞれの肩をぽんと叩いた。

「あたしはあんたたちのお母ちゃんとそう変わらない年齢としなのよ」

「うそだあ」

「ほんとほんと」

「いくつだよ」

「ええとねえ……」

 アカネの年齢を聞いて息子たちは仰天し、納得したようだった。それでもアカネのことを「義母かあちゃん」と呼ぶのはためらわれるらしく、常に「アカネの姉ちゃん」と呼んでいた。

 キタガワの家はぱあっと華やかになった。アカネは妻と娘のブツダンを丁寧に扱い、食卓には豪勢な手作りの料理を並べた。掃除も洗濯もてきぱきやったし、何よりそれらをこなして疲れた様子を見せなかった。フクジにしてみれば、完璧な嫁であった。

 もちろん、前の嫁――アケビと比べたわけではないのだが。アカネには初々しさとは別の「必死さ」があって、それがフクジをどういうわけか揺さぶるのだった。

 漁から帰ったフクジと息子たちに、エビのてんぷらを乗せた皿を差し出し、

「どんなのが好きかわからないから、張り切っちゃったの」

と、アカネは頬を上気させてにこにこした。

「今日は何かの記念日か?」とフクジが問えば、「みんなが無事に漁から帰った記念日にしとこうか」とアカネは答える。そういえばアカネは海嘯かいしょうで父親を亡くしていると言っていた。


『おとうちゃん、無事に帰港したのに、宙海嘯そらかいしょうに呑まれっちまったんだってさ』

 かつて腕の中でしみじみと語ったアカネは、おどけるように言った。

『川をね、逆流して。川辺に打ち寄せられてたって。おかあちゃんが言ってた。海の男がね、河で……――』


 アカネがフクジに酒を注ぐ。息子たちは漁の疲れでぐうすか眠っていた。旦那の晩酌にまで付き合う新妻に、フクジは問うた。

「アカネ」

「なあに、フクジさん」

「なにか、張り切りすぎちゃいないか。無理をしていないか」

「無理なんかしてないよ。いつものあたし」

 フクジはみずから手酌しようとするアカネから徳利とっくりをひったくって、アカネのお猪口ちょこに注いでやる。

「本当に?」

「本当よ。バーで働いてたときより楽してるみたいだし」

「……なら、いいんだが」

 フクジは次の漁の話をアカネにした。ふねを何隻か仲間内で都合して、囲い込み漁をする予定でいると。キリキリ・コロニーまでの遠出になる、と。

「じゃあ、長く家を空けるのね」

「そうなる。息子たちをよろしく頼む」

「わかった。大丈夫よ」

 アカネはフクジの首筋に鼻を摺り寄せた。そのしぐさは、なつく獣のようにも思われた。




 遠出の前夜、キリキリへ出かける準備をしていると、おもむろに玄関の戸ががたがた揺れた。風だろうか。風にしちゃ勢いがいいなとフクジが首を傾げて、荷物の選別を続けていると、忍び足のアカネがすっ飛んできて、すうっと玄関の戸をちょっとだけ開けた。

「……?」

 アカネ、どうした。そう聞こうとして、フクジは固まった。

「姉ちゃん。もうあたしは足を洗った。もう来ないでって何回も言ったよね」

 足を洗った?

 フクジは作業をやめて聞き耳を立てた。姉ちゃんと呼ばれた「だれか」の声はさっぱり聞こえてこなかった。アカネのささやき声だけが耳に届く。

「確かに、組織に恩はあるよ、あるけど。でもだめなの。できないの。あたしはもうここんの人間なの。そんなのはできない」

 フクジの頭は真っ白になった。

 どういうことだ?

「……そんなこといわれたって!」

 アカネは大声を出した。しかしその声も、すぐに潜められてしまう。

「あたしの旦那はキツネを憎んでる。一回大金を盗まれてるの。そんなこと言えないよ、言えない……、」

 フクジは息を止めた。そして、廊下に続く戸を開けて、そうっと耳を傾けた。

「あたしを脅すつもりなの、姉ちゃん」

 秘められた相手の声が、ようやくフクジの耳にも届く。

「……そうね。そう受け取ってもらっても構わない。私たちは、裏切り者を許しはしない」

「裏切ってなんかいない、あたしは……」

「足を洗うってのはそういうことよ」


 フクジはその声に聞き覚えがあった。あの時の!

あの時の、あの時の、あの時の! フジシチに化けていた、女のキツネ!みんなからの心づけを全部持って逃げたあの……にっくきキツネの女だ!

 なぜアカネはキツネと「そんな」会話をしているのだ?

 足を洗った? どういうことだ?

 激しく心臓が脈打ち、こめかみから冷や汗が流れ落ちた。フクジは暴れ出した心臓を押さえて、音もなく座り込んだ。追い打ちをかけるように、二人の会話は続いていく。

「あんたはもうキツネ。逃げられはしない」

「あたし、姉ちゃんには恩があるけど、キツネに恩はないわ」

「――そう。じゃあ、痛い目を見ることね、アカネ」

「……!あたしの家族に手を出したらっ」

 アカネは、がらがらと玄関を開けて外にまろび出た。

「あたしの家族に手を出したら! いくら恩があっても許さないっ!」

 アカネの叫びが夜の遠野コロニーにこだました。フクジはすべてを聞かなかったことにして、荷物の整理を始めた。荷物は整理できても、感情の整理がつかなかった。


 そうしてフクジは、明朝、眠っているアカネの顔を見ることもできず、キリキリ・コロニーへの旅路を行くことになった。


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