珈琲の水面に揺れて

獣乃ユル

珈琲の水面に揺れて

 橙に近いような温かい照明が、目の前に置かれた容器を照らしている。その中には並々に珈琲が注がれていて、水面に揺れた幼い頃の自分と目が合った。少し視線をずらせば、何故か珈琲しか名前の刻まれていないメニュー表がこちらを見ていた。今日のおすすめ!と書いてあるのもあるが、全て同じなので意味があるかはわからない。


「いただきます」


 純白に染まった取手を掴み取り、口へと運ぶ。口内に広がった苦みと共に、寝ぼけた思考がはっきりしていく。


「眠気は冷めた?」


「……はい」


 カウンターを挟んで、名も知らない女性が微笑んでいた。二十代前半程に見える容姿をしているが、纏っている雰囲気は異様に大人びていると共に何処か寂しさを感じさせた。

 彼女とは初対面のはずだが、どこかで逢ったことがあるように感じるような不思議な感覚でもあった。


「やっぱり肝が据わってるね」


「何がですか?」


「何って……随分と落ち着いてるなって」


 困ったような苦笑いを浮かべる彼女に、少し困惑する。確かに、目を覚ませば知らない喫茶店で目覚めた時には流石に驚愕したし、今も正直元の場所に変えれるか不安である。けれど、何故か心の奥は安心感と落ち着きを備えていて、折角だし珈琲を飲むという結論を弾き出す。


「こんな状況で珈琲を飲める機会なんて中々ないじゃないですか」


 幼い頃、初めて飲んだ珈琲の味に今の自分を重ねて僅かに追憶に浸る。


「……成程。それもそうかもね」


 彼女は緩慢な動作で腰を下ろし、俺の向かいに座る。


「さて、君は悪夢のような空間に招かれてしまいました」


「はぁ……」


 カップの淵に口を付けながら、心此処に在らずな返答をする。


「迷うことしか出来なかったはずの私に与えられた使命は、迷い人を導くこと。貴方はここから帰る必要があります」


「何でですか?」


 帰りたくないとまではいかないが、今のところ居心地のいい場所である為直ぐに帰りたいわけではない。最近落ち着いていれる機会も少なかったし、追い出されると困ってしまうというのが本音であった。

 悪夢のようだと彼女は表したが、そこまで悪いところのようには感じなかった。


「……ここまで台本だから別に帰んなくてもいいよ。独りじゃ暇だし、せっかくのお客さんだし」


 元々声量の大きい方ではない彼女だが、罪悪感が在るのかもう一つトーンを落としてそう言う。


「あ、有難う御座います」


 ふと、窓の外を見てみる。鬱蒼と生い茂った木々の隙間から蒼色の狐火のような炎が見えており、明らかに現世で見れるような光景では無いなと思いながら、もう一度珈琲を啜る。


「悪夢のような空間……かぁ」


 ことり、という小気味いい音と共にコップがテーブルに置かれる。


「そう。普通の人は来れないような場所」


 明らかに目減りした珈琲を眺めながら、ここで目覚める前の自分に思考を飛ばす。しかし、通常の人間から逸脱したようなことをした覚えはない。普通に一日を過ごし、普通に眠りに着いたらここ……と言った具合だった。


「君は……何で呼ばれたの?」


「俺に聞かれても」


 心底疑問と言った表情を彼女は俺に向けてきたが、知りたいのはこちらの方である。


「その要因を自分で見つけるのがここから元の世界に帰る条件だから、君がわかんないと困っちゃうんだよね」


「へぇ……例えばどんなのが?」


「例えば、例えばかぁ」


 予想外の質問だったのか顎に手を当てて唸り始めた彼女を横目に、喫茶店の中を眺める。けれど特に異質なものはなく、年季の入った喫茶店だな、程度の情報しか得られなかった。動作を停止した掛け時計が眼に入ってきたが、それはただ単に電池が無くなっただけだろう。


「忘れられない思い出が在ったり、亡くした人がいたりとかあと……したいことが在ったりとか」


「今は当てはまりませんね」


「そっか」


 嬉しそうににつぶやいた彼女に、少し疑問を覚える。ここには俺と彼女以外に人は居ない。つまり、ここに来た人間は今のところ全員元の世界に帰っているのではないか。彼女は俺を返そうとすることを台本だと断じ、別に帰らなくても良いといった。何故だ?彼女は俺を導くことが職務なのだろう。先ず、その職務は誰から……


「大丈夫?難しい顔してるけど」


 水面に雫が落ちたかのように、脳に彼女の言葉の波紋が広がって少しずつ熱を帯びていた思考が速度を緩めていく。


「いや……別に何でも」


 珈琲を嚥下しながら、一度自分を落ち着かせる。時間制限は恐らく今じゃない。少しずつ、理解すればいい。

 中身の無くなった容器を置き、がんがんと響く頭痛に一つ溜息を吐く。寝起きだというのに、頭を酷使しすぎたのだろう。


「もう一杯要る?」


「お願いします」


 背もたれに体重を預けながら、ぼんやりと彼女がコップを流し台へ持っていくのを眺める。そうしていると、彼女が唐突に視線を下に落とす。俺も視界をそちらにずらすと手首に巻き付いた時計と目が合う。

 ここの時計は止まってしまっているようなので、いつでも時間が確認できるようにしているのだろう。そういえば、今は何時なのだろうか。別に今知ったところでどうという訳では無いのだが、気になってしまったからには仕方がない。


「今何時ですか?」


「あ……見てたかぁ。困ったなぁ」


 時間を伝えるのに困ったも何もあるのだろうかと思っていたところで、彼女がこちらに近づいてくる。


「見ればわかるかな」


「……そりゃ、困りますね」


 高級そうな腕時計の針は、動作を停止していた。偶然か故意かはわからないが、壁に掛けられた時計と同じ時間で。これなら今の時間を伝えられるはずもない、彼女も時間がわからないのだから。


「此処じゃ時計があってもおかしくなっちゃうから」


「そう、ですか」


「そんなことはいいから。ほら、出来たよ?」


 言葉通り、俺の眼の前には珈琲の入ったカップが置かれる。……今どこから出てきた?


「何処から……」


「気にしない方が良いこともあるよ」


「あっ、わかりました」


 底冷えするような冷たい声色で注意した彼女の言葉に素直に頷く。知識欲は人一倍ある方だと思っているが、だからこそ踏み込んではいけない場所の線引きははっきりするべきだ。そして、ここは探ってはいけない場所だと確信した。

 珈琲を啜り、その美味しさに一つ小さく頷く。美味ならばいいのだ、それ以上を識る必要はない。うん、そういう事としよう。


「珈琲好きなの?」


 あんまりに珈琲に食いついていたからか彼女がそう質問する。


「まぁ、好きな方ですね」


 常飲しているという程ではないが、定期的に飲みたくなる程度には好きな飲料だ。幼い頃、父親が愛飲していた記憶もあるし、きっとそのつながりからだろう。きっと、きっと。


「あれ?」


 記憶の靄が、掌から零れ落ちる。本当か?父親は珈琲なんて、飲んでいなかったはずじゃないか?元々もう、自我が芽生えた頃には両親は。がちゃり、と記憶の扉に鍵が刺さる。

 俺が両親と過ごしていた時期はほんの僅か、赤子の頃だけだったはずだ。そんなときの記憶がない。じゃあ、成り立たないじゃないか。俺が珈琲を好きな理由が。最初に呑んだ幼い頃の珈琲の味が成り立たない。独りになった親戚の家の中で、珈琲豆の匂いを嗅いだことなんてない。


「……そっか」


「やっと、気づいてくれた」


 会話の節々に感じた違和感が、一本の線になって答えと成る。俺は、ここに来たことがある。それも幼い頃、孤独を嘆いたあの日に。両親が無くなっていることを理解できるようになってしまったあの日に。


「あぁ……思い出した」


 それと同時に、理解した。俺がなぜこの空間に呼ばれることになったのかを。この場所は変わっていない。彼女も変わってはいない。けれど、俺は時の流れに流されて歩みを進めてきた。


「店員さん、いや」


 数年前とは思えない程鮮明な記憶を追憶しながら、言葉を紡いでいく。彼女の名前も、最初から知っていたんだ。


夢華むかさん」


「……はい」


 彼女が、寂しそうな顔をしていたのが忘れられなかったんだ。幼心で、救いたいとずっと思っていたんだ。忘れてしまっていたその感情を、もう一度掴み取る。


「したいこととかあります?」


 彼女の姿はあの時からずっと変わっていない。壁に掛けられた時計の時間は、ずっと変わっていない。彼女は、ここに、この時間に囚われたままなんだ。彼女の時間を進める事、それが俺の祈りで、俺がここに来た理由だ。


「……珈琲を、飲みたい。君と」


 ここに来る人の願いの例を挙げる時、彼女は何故したい事があるというのを濁らしたのだろうか。それは、彼女が救って欲しいと暗に伝えようとすることと、その罪悪感からだったのではないか。


「じゃあ、今日のおすすめを一つ」


 彼女が何故珈琲しか淹れないのか。それが彼女の祈りだからなんじゃないだろうか。彼女が悪夢のようだと表現したこの場所から、覚めたいからなのじゃないのだろうか。

 迷う事しか出来なかったはずの私、と彼女は言った。きっと、元は迷い人である俺と変わらないんだ。ただ使命を与えられてしまっただけの、一人の少女だったんだろう。

 彼女がカウンターの奥から珈琲の入ったコップを持ってくる。そして、言葉を交わすことも無くコップ同士を少しだけぶつけた。


「「いただきます」」

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珈琲の水面に揺れて 獣乃ユル @kemono_souma

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