第48話 洗衣院は本当にあったの? の話①
パリオリンピックが開幕しましたね。オペラ座の怪人、ノートルダムの鐘、レ・ミゼラブル、マリー・アントワネットと、開会式はミュージカル好きには堪らない構成でした。
そして、そのマリー・アントワネットについて。「自分の首を持たせて革命歌を歌わせる」「彼女自身が幽閉されていたコンシェルジュリーが血と炎を思わせる赤に包まれる」という演出およびフランス革命そのものの是非について、SNS等で軽く炎上しました。個人的にも思うことは色々ありましたが、ここは中華もののエッセイなので中華に関することを語ります。
というのも、マリー・アントワネットからの流れで、彼女の息子で、幽閉中に性的なものを含む虐待を受けて死んだとされるルイ17世の話題に触れ、さらにそのルイ17世の「虐待」について、一般に日本で流布される言説には出典不明だったり誇張を含んだりするものも多いようだ、という記事に流れ着いたので、「中華にもそういうのあったなあ」という連想ゲームがあったのでした。つまりは、出典が怪しく性的な要素を含むショッキングな風聞、ということです。そう、掲題の洗衣院ですね。
洗衣院とは宋を追い込んだ金朝の官営の妓楼。靖康の変の後、金軍に連行された皇族の女性や後宮の妃嬪等がそこの娼妓に落とされた……と、主にネット上の記事などでまことしやかに言われています。要するに囚われのお姫様やお妃様が娼婦にされたよ! という話であって、それなんてエロゲ? と思いますよね。みんなこういうの好きですよね私もだけど。
とはいえ「そんなバカな」ということが度々起こるのが歴史であって、「嘘だあ」という直感で片付けてはいけないのかな……と思って軽くググったのが数年前のこと。とりあえず的にWikipediaの記事(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B4%97%E8%A1%A3%E9%99%A2、アクセス日2024年8月1日)に当たって「解散で良くね?」とは思っていたんですよね。すなわち、根拠がどうも胡散臭い。本当かなあ~~??という感触です。
下記はWikipediaの記事の現在の記述ですが、編集履歴を見たところ、記事作成以来、大意は変わっていないようだったので引用します。
>その屈辱のためか、正史には記載は少ないが、それをはかなんだ南宋の確庵が『靖康稗史箋証』を編纂し、その後の彼女らの辿った運命と末路について詳細な記録を残している。
洗衣院の存在そのものおよび、靖康の変で連行された女性たちの運命についての出典は、もっぱら『靖康稗史箋証』と呼ばれる文書群になるようです。少なくとも、日本語Wikipediaの各記事の出典としては、その他の文献は挙がっていないようでした。となると、『靖康稗史箋証』の信憑性はどうなの、と言う話になるのですが。
確庵なる人が何者か、ググってもまったく出てこないんですよね……。南宋の人が、どうやって金に連行された人たちの運命を知ることができたんでしょう……。屈辱のため正史には記載は少ないと言いますが、「宋史」を編纂したのは元朝で、元は金も滅ぼしているので憚る理由がないと思うのですが……。
あと、上記の記述に続けて、複数の人間の証言をまとめた信頼性のある資料である、とも書かれているのですが、これもちょっとどうだろうと思います。
南宋初期に、柔福帝姫詐称事件というめちゃくちゃ面白い出来事がありました。
上述の靖康の変で拉致された柔福帝姫を名乗る女性が南宋に現れたのです。容姿や本人の証言などから「本物」と認められ、いったんは相応しい夫や待遇を与えられました。が、紹興の和議によって帰国が叶った、時の南宋皇帝高宗の生母韋后の証言で「本物の」柔福帝姫は金で死亡していたことが発覚、詐称が露見した「偽者」は処刑された──という顛末です。
ちなみに、この事件を下敷きにした井上祐美子先生の短編「公主帰還」および同タイトルの短編集はとても面白いですがそれはそれとして。
つまり、政権中枢にいる人たちも金で何が起きているか、連れ去られた人の生死すら分からなかったからこのような詐称がまかり通ったわけで、誰がどんな運命を辿ったかの証言なんてあてにならないのでは、と思います……。時代が下れば証言が出てくる可能性もありますが、当事者のものではなくなったり、記憶が薄れたり間違ったりもあるでしょうし……。
あと、根本的なことなんですが、「洗衣院」が妓楼の名前というのは無理がないでしょうか。字義通りに見れば衣を洗う、ですし、現代中国語では「洗衣」は洗濯です。Wikipediaには「またの名を浣衣院」ともありますが、明代の宦官二十四衙門でいうと「浣衣局」は洗濯担当の部署です。まあ、私の知らない・調べ切れていない隠語があるのかもしれないですが。
なので、「金に連行された貴婦人の中には洗濯係等の下働きに落とされた人もいた」というような情報がねじ曲がって拡大されて尾ひれがついて「洗衣院」の逸話になってたりしないですかねえ?
──という感じの結論に至ったのが数年前。以来、なんであんまり突っ込まれないまま流布してるのかなあ、と頭の片隅でちらりと首を傾げたりもしていたのですが、冒頭の連想ゲームで思い出したので「今どうなっているのかな~」と改めて検索することにしたのが今回です。つまりここまでが前置きです。長かった。
この数年の間に私は中国語を習得し、中文Wikipediaを参照することを覚えています。なので早速中文Wikipediaの「洗衣院」の記事を調べてみました。……うーん、普通に存在するな。そして特に疑義を呈する記述はないんですね。そっかあ。
何となく残念に思いつつ、次は「洗衣院」の出典とされる「靖康稗史」の記事(https://zh.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%96%E5%BA%B7%E7%A8%97%E5%8F%B2、アクセス日2024年8月1日)に飛んでみます。そうしたら、面白い記述がありました。
・来歴としては、清代の光緒18年(1892年)に杭州の蔵書家に寄贈された
・蔵書家は、著者の「耐庵」は「水滸伝」の著者の「施耐庵」かもしれないと思って蔵書に収めた
記録に初めて出てきたのが清代末期ということ、著者が水滸伝と同名、は結構びっくりですね。元~明時代の写本なりは出てないんですね。まあ、貴重な資料が突然発見されることもあるのでしょうが……。
また、著者名について日本語Wikipediaの記載とは異なりますが、中文Wikipediaだと著者は「确庵、耐庵」となっているので版によって表記揺れまたは誤植があるのでしょうか。まさか水滸伝と同じ人が書いたのではないにしても(そもそも恐らく本名ではない)、意識してつけた筆名だとしたらフィクションであることの匂わせだったりしないのでしょうか……。あと、言うまでもなく「水滸伝」の成立は明代なので、当初は歴史書とは思われていなかったのでは……編者だと思ったのかなあ。
そしてさらに下のほうに、そのまんま「偽書說」という項目を見てもっとびっくりしました。何でも、
・清末民国初に付記された「後記」によると、朝鮮~日本を経て中国に再伝来したことになっているのに、《朝鮮時代書目叢刊》(っていうのがあるようですね)に書名が記載されていない
・ほかの史書と記述に齟齬がある
・当時のものではない、後世の事柄が記載されている
……等の理由から偽書ではないかという研究者もいる、とのことでした。で、この項目の参考文献のひとつが日本語だったので取り寄せてみました。
「文書·出土·石刻史料が語るユーラシアの歴史と文化 /関西大学東西学術研究所研究叢書 第14号」(森部豊 編著 関西大学東西学術研究所、遊文舎、2023年)所収の
「『靖康稗史』の「出現」について『謝家福書信集』所収史料の紹介」(毛利英介)です。
「出現」と括っているところからも予感していましたが、『靖康稗史』の真贋に疑問を持つスタンスからの研究発表です。冒頭「はじめに」の注釈で「一部で有名な「洗衣院」なる語も管見の限り『靖康稗史』にのみ出現するものである」とあるところからして、何か色々あった気配を感じさせます。
本稿によると、『靖康稗史』は成立年代とされる南宋~清末までの公私の目録書にまったく記載がなく、また、朝鮮王朝の第三代国王の字でもある「遺徳」なる人物の序文が付されているものの、実際に朝鮮に伝来した証拠がない(上記の中文Wikipedia朝鮮時代書目叢刊に係る記述はこれのことのようですね)とのこと。よって、『靖康稗史』に関する最古の確実な情報は、上述の「杭州の蔵書家」にあたる丁丙(人名)の跋文および、丁丙に寄贈した謝家福(人名)の書簡集になるため、それらを精査して『靖康稗史』の真贋について論じる……という流れです。なお、丁丙も謝家福も、生没年や経歴もはっきりしている、結構知られた人物のようです。とはいえ両者とも清末の人なので、『靖康稗史』のぽっと出感はやはり否めないという感触はありますね。
本稿の結論をざっくりとまとめると下記の通り。
・謝家福は『靖康稗史』の入手経路をはっきりと記録に残していない。よってこれ以上の追跡は難しそう。
・謝家福は、『靖康稗史』の真贋を疑って調査しようとしていた形跡がある
・『靖康稗史』の検討に当たって、謝家福は『燼餘録』という書物を参照しているが、『燼餘録』は清末に初出かつ謝家福自身が刊行しているため、信頼度は『靖康稗史』と同程度(に疑わしい)。
『燼餘録』に関する検討がさらっとしていてもの足りなさもあったのですが。著者の毛利氏の結論によると、『靖康稗史』は偽書である可能性が高そう、ただし一般に存在している書物を偽書と断言するのは難しいだろう、とのことです。黒に近いグレー、ということになるのでしょうか。私としても数年来の疑問が裏付けされたようでちょっと安心しています。
毛利氏は続けて、偽書だとしたら、清末という「出現」時期を鑑みると反清運動の一環として、非漢民族への反感を喚起するために作られたのではないか、という推論を述べています。これも説得力があるように感じます。
ちなみに、本稿には丁丙跋文も収録されていましたが、中文Wikipediaの記事にあった「『水滸伝』の著者だと思って所蔵した」という記述は見当たりませんでした。じゃあどこ情報だよ……という謎が深まったことは付記しておきます。この記述、出典が書いてないんですよね……。
毛利氏も引き続き内容面から精査を続けるとのこと、数年後に検索したらまた進展があるのかもしれません。
というわけで、掲題の「洗衣院は本当にあったの?」という疑問への答えは「たぶんなかった!」になりそうです。
もちろん、洗衣院の実在性はさておき、靖康の変で受難した女性が金国で幸せになれた可能性は低いんじゃないかなあ、とは思います。辛酸を嘗めた中には性的暴行もあったかもしれないでしょう。
とはいえ、『靖康稗史箋証』の記述を根拠に断定的に語る記事については眉に唾しておくのが良いのではないかと思います。プロパガンダ目的で作られたと仮定するなら、その記述に乗っかって実在の人物が性的暴行を受けたと面白おかしく語るのは、マリー・アントワネットの生首に革命歌を歌わせるのと同じようなことではないですかね……。
広く流布されている説でも間違っているかもしれないし、時間をおいて調べ直してみると新たな証拠や反論が出ているかもしれないので、たまに振り返ってみると面白いですね、というお話でした。あとWikipediaは出典にも当たろう! という学びも得られましたね。
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