第4話 緋ながるる

 火の粉が地を天を覆い尽くすかのようだ。ギードは友軍後背の丘の上から、両軍入り混じった先を眺めて眉を顰めた。オスマン軍には圧倒的な火力が有るが、神聖同盟軍には機動力を誇る指揮官たちがいる。


「見えますか、従兄上は」

 一歩前で馬を立たせていた青年が、ギードを振り返って言った。まだどこか心もとなげなところは有るが、ルートヴィッヒから戦法を、ギードから武器の扱いを学んだ青年-オーストリアでの名を、オイゲン・フォン・サヴォイエンという-は、いまや神聖同盟の士官となっていた。ルートヴィッヒが言ったように、オイゲンには軍人としての才能があったのだ。大勢を把握して、的確に部隊を采配できること。盲信や陽動や内部の軋轢などに屈せず、人の心理と行動を理解できること。それらは恐らく、一人で戦闘の跡地を歩いてきたことで培われたものだ。もっとも、ルイ十四世には見抜けなかったらしいが。

「さあね、全部赤いからな」

 バーデン・バーデン辺境伯ルートヴィッヒ・ヴィルヘルムは、戦場で常に紅い衣を纏っている。友軍にとってはよい目印だが、敵軍にとってもよい標的だろうに、とギードは思う。


 私は何度もオスマンの大宰相グランド・ビザールに肉迫した。だが、常に、俊足のあの男が現れる。王の親衛隊イェニチェリ、エルマス・ムスタファ!


 ルートヴィッヒの怒号が、熱気に煽られて空の端々まで響くようだ。ギードは泥と黒煙に塗れた地上を眺め渡した。


 あの、船乗りの倅から成り上がったギリシャ人! 奴は馬から蹴落とした私を見逃しさえした。何という屈辱、モレアで同盟軍にどれほど落ち度があったか、あの虚栄の権化モッシーニめ。我々は譲られたのだ。私は永遠にあの男を乗り越えられぬのだ、真の勝利は常にあの男の上にある!


 私はあの男を撃ちたい。大宰相の側に侍る、あの男だ。何も持たずに生まれ、ここまで這い上がってきた、あの才気と高貴さにこれ以上平伏すのは我慢ならん。あれからギードは幾度となくルートヴィッヒの怨嗟を聞いた。あの男を撃つために、共に施条銃をつくり続けてきたためか、もはやその執着がルートヴィッヒのものなのか、己れのものなのかすら分からない。


 伝令の蹄の音に、ギードは我に返った。オイゲンは一言二言交わし、手綱を引いた。

「ギード殿、我々も出陣し《で》ます」

 またお会い致します。軍旗を掲げて部隊が動き出す。ギードは別れ、兵士と軍馬の流れを分けて進んでいく。背後で銃声のこだまが聞こえたような気がした。


1695年 エルマス・ムスタファ、オスマン帝国の大宰相に指名される

1697年 オイゲン・フォン・サヴォイエン、シュターレンベルク軍事総裁とバーデン・バーデン辺境伯の推薦で、対オスマン帝国方面の総司令官となる

1697年 ゼンタの戦いにおいて、オイゲンはエルマス・ムスタファ・パシャを殺害する

1699年 カルロヴィッツ条約締結。大トルコ戦争終結す

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

緋ながるる 田辺すみ @stanabe

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ