めおとのお願い
結騎 了
#365日ショートショート 364
「これを超える妊婦体験は無いと言われています。科学の恩恵ですね」
医師はそう締めくくった。若夫婦は感心したように頷いている。
「先生、もう一度だけ、確認したいのですが……」。尋ねたのは夫の方だ。「僕のお腹の中に赤ちゃんが移ってくる、という訳じゃないんですよね」
「まったく、そうじゃないって言ってたでしょ。ちゃんと話を聞いていたの」。すかさず突っ込んだのは妻だ。「先生、ごめんなさい。この人よく分かっていないみたいで」
「いいえ、大丈夫ですよ」。医師はつとめて笑顔で答えた。「まだまだ馴染みのない新しい技術ですから、不安はよく分かります」
夫に向き直って。
「よろしいですか。米国の研究機関で開発された、擬似DNA。こちらを使います。DNAとはつまり、その生物のデータ情報とお考えください。妊娠されている奥様のDNAを採取し、そこから擬似DNAを生成します。このデータの中には、奥様の現在の体の情報…… 妊娠し、お腹に体験したことのない違和感があり、つわりに悩まれている、それがそっくりそのまま記録されています。この擬似DNAを、ご主人に移植するのです。ああ、ご心配なく。擬似DNAは移植から約24時間で血液に溶け、人体には無害です。データは体に残りません。たった一日だけ、ご主人は奥様の妊娠をDNAレベルで正確に体験できる、という訳です」
夫は何度も頷きながら、頭の中を整理していた。「なるほど、なるほどですね」
「妊娠とは、共同作業なのです」。医師はゆっくりと、言葉を選びながら続ける。「もちろん、生物学的に妊娠と出産が可能なのは奥様です。しかし、それにより劇的に変化していく奥様の体と、実生活への様々な影響は、夫婦ふたりで乗り越える必要があります。思いやり、気づき、配慮。それを支えるのは、知識と体験です。知識は、今やネットで調べればどうとでもなる時代になりました。大事なのは……」
「ほぅら、先生の仰る通りよ」。妻が話の腰を折る。「大切なのは、体験。実体験よ。私のこのつわりの酷さ、ぜひ体験してみて。仕事はおろか、家事だってまともに出来ないんだから。いつも吐き気と一緒で、気が滅入ってばかりなの」
「うん、もちろんだよ」。夫は微笑みながら妻の背中をさすった。
「それでは、先ほど採取は終わりましたので、早速本日から擬似DNAの生成に入ります。来週、またいらしてください」
夫婦は頭を下げ、病院を後にした。
翌日、医師あてに電話が鳴った。あの夫婦の妻からだった。
「これは奥様。昨日はどうも」
「先生、折り入ってご相談がありまして」
「どうしたというのです」
ごくり、と。電話の向こうで生唾を飲む音がした。
「例の擬似DNAですが、夫に内緒でデータに手を加える、ということは可能なのでしょうか」
「なんですって」
医師は大声を上げた。しかし、咄嗟に声をひそめる。受話器に口を近づけ、「奥様、それはどういう……」
「聞いてください。うちの夫は正直者で、嘘がつけません。すぐ顔に出ます。加えて、学生時代はラグビーをしており、人よりも体力があります。ですから、擬似DNAを移植したとして、もし夫が『こんなものか』『あまり辛くはないな』と感じてしまったら……。彼はきっと、そっくりそのまま顔に出るでしょう。でも彼は、私の辛さを知ることを望んでいます。昨晩も言っていたんです、これを体験すればもっと君のことを理解できる、って。それも嬉しそうに。ですから、データに手を加えて、お腹の痛みや倦怠感をうんと強く、体に負担がかかるように出来ませんか」
「しかし、それはさすがに……」
「先生、お願いです。彼のためなんです。彼が素直に、正直に、間違いなく『辛い』と感じること。それが彼が求める体験なのです」
必死な嘆願が電話の向こうで繰り広げられた。突飛な願いに戸惑いながら、「少し考えさせてください」と返すのがやっとだった。
受話器を置き、ため息をつく。医師はへたりと椅子に腰を下ろした。さて、どうしたものか。
すると、ノックが。看護師だ。
「先生、昨日の患者さんが、その……」
現れたのは夫だった。まさか。ぎくりとした素振りが悟られないよう、医師は背筋を伸ばして向き直った。
「いかがされたのです。昨日の説明では足りませんか」
「それが、先生。折り入ってご相談がありまして」
夫の表情は真に迫っていた。ふぅと息を吐き、意を決したように口を開く。
「例の擬似DNAですが、妻に内緒でデータに手を加えて、負荷を強くする、といったことは可能でしょうか」
「なんですって」
「お願いです。実は私は本心がすぐ顔に出てしまうタイプで、加えて、学生時代から鍛えており体力だけは備わっています。妻は、この体験を通して僕が『辛い』と感じることを望んでいます。夫婦で妊娠を共有したいのです。それなのに、もし僕がそれを普通に耐えきれてしまったら、目も当てられません。彼女のために、どうか!どうかお願いします!」
めおとのお願い 結騎 了 @slinky_dog_s11
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
同じコレクションの次の小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます