綺麗事の最期

抱き枕

綺麗事の最期

罪悪感。

僕の心にこびりついて決して消えないシミのようなもの。

それは染み付いた人間の根幹を揺さぶり、いとも簡単に精神の病を引き起こす。

彼らは時間が経つにつれどんどんと肥大化していき、視野を狭めさせ、人生の選択肢をひょいと取り上げては大層愉快そうにこちらを嘲笑っている。それらが十分成長して鮮やかな熟れた実をつける頃には、養分を吸いつくされガワだけになったカラカラの体とその場から動くことすらままならなくなるおもしだけが残る。

罪悪感という重い意思は、自我を持って常に水を吸ったシャツのようにぴっとりと心の臓の影の後ろに張り付き離れない。

やけに鋭い胸の痛みが僕の心を幾度となく針山のてっぺんに叩きつけているのだ。


「新田、帰ろ」


深く暗い疑心暗鬼な世界からの脱出、すなわち意識の浮上。リアリティが質感を伴う世界へと呼び戻された原因を辿れば、自ずと一つの答えにたどり着く。さぞ物憂げな表情をしているであろう僕のぼやけた瞳が光を取り戻していくのでそっと上を向く。小さな口をニンマリ広げ、軽く小首をかしげてみせるオンナノコの姿。


「すぐ支度するから、キセちゃん」


僕の返事に満足したのか、九十度近く傾きかけていたアタマを元に戻す彼女。

いつから彼女のことをキセちゃんなんて呼び始めたのかもわからないし、そもそもきっかけなんて覚えていない。ただまあ、今の僕から言えることがあるとすれば、それはきっとただのあだ名なのだ。そっちのほうが呼びやすいから、それ以上でもそれ以下でもない。


そうこう考えているうちに最低限の荷物をまとめてしまったので、クールビズの名のもとに開けたシャツのボタンの上をきっちり止め、赤黒く染まったネクタイを息が苦しくなるくらいに締める。バランスの悪いボロの椅子から腰を上げ、学校に来てからずっとかけっぱなしだったブレザーのホコリをはたき落として羽織ると、一介の男子高校生の完成である。これでまあ、女子高生の横に並んで歩けるくらいには見えるようになっただろうと勝手な納得をあとの自分に押し付けて靴箱に向かう。二階の教室を出て、やっつけ仕事感の否めない掃除されたはずの粗雑な階段を淡々と降りていく。

全開になった扉から吹き込んでくる刺すように冷たい風がぴうと頬をかすめていく。どうやら季節の神様が秋のマスをひとつすっ飛ばしてしまったらしく、ヒートショックの起こりそうな激しい寒暖差が防寒着の一つもない生身の肌に躊躇なく襲いかかってくるようだ。その場でぶるりと身震いして、つくづく嫌な季節だな、なんて思いつつ立て付けの悪いロッカーから先日手入れしたばかりのスニーカーを取り出す。つま先からかかとまで丁寧に足を滑らせて、少しだけ微調整したら、かじかみそうな両手をすりすりこすり合わせながらいつものように校門へ走った。


「ちょっと遅かったね」

「申し訳ない」

「ウソ、あんまし気にしてないよ」


べ、と真っ赤な舌を出す彼女に苦笑して、ゆっくり歩き始めた。僕と変わらない寒さを感じているにも関わらず、平気さを装って白い息を吐くキセちゃん。息は薄暗い空へ登っていく中ではらはら世界に溶けて消えた。薄雲に覆い隠されたぼんやりとした光がやけに眩しく感じて、下を向いて歩くことにした。


ナンセンスな言葉の一つも飛び交うことなく、それでいて心地のいい沈黙だけが場を支配している。しかしふと気になって彼女の方をちらりと覗き込むとどうにもムズムズしたような、それでいて不満そうな表情が読み取れた。小さくてつややかな唇が大きく「へ」の字に曲がっているのが良い証拠だ。それからしばらくの間同じような時間を享受していたが、ついに耐えかねたように


「寒くないの?」


と心配する優しい口調で問いかけてきた。特段返事に詰まるような質問でもないので、

「多少は」なんてぶっきらぼうな言葉を返してしまう。


「じゃ、貸して」


その発言の意味を理解するよりも先に、彼女の細くてしなやかな指が僕のささくれだらけのなんの面白みもない乾いた右手を余すところなく包み込んだ。今にも儚く折れてしまいそうな繊細さを肌でびんびんに感じて、しかし下手に振り払ってしまえば彼女を傷つけたという結果だけが残る。それだけは不味い、思案を始めるも大して成果はなく、握られた箇所から伝わる籠もるような熱が僕の心に張り付いたハリボテの薄氷をじんわり溶かしていく。


「さっきまで触ってたの、かいろ」


なんでもない事実を淡々と述べる。それからすっと手を離し、ベージュコートのポケットに入っているらしいかいろをゴソゴソし始めた。僕はぽかんとして、それからやかんが一瞬で沸騰したみたいに、溢れ出そうな熱湯の寸前のような、限界すれすれの境界線の上で侵食された倫理観という名のボーダーラインを踏みとどまるので精一杯になった。王様の耳はロバの耳だというみたいに、人知れず底なし穴の暗闇が僕の叫びを飲み込んで溶かしきってくれればいい。夜の黒よりよっぽどそれらしい色だから、きっとうまくいくだろう。国中、まして彼女一人にすら届かない卑屈な僕の想いがどこか遠くの洞穴にでも閉じこもって、そのまま潰えてほしい。切に願っている。


もうあと少し、僕の家が迫ってくるから、別れの言葉を呟いて駆け足に門扉を通り抜けた。僅かな期待を込めてチラリと振り向けば、目があって、ひらひら上品に手を振ってくれる。振り返そうと思ったけれど、玄関のドアが閉まったから、今日の僕はもうおしまい。







自慢の一つもできやしない黒歴史、けれど輝かしい僕の時代。


優しさと強さを兼ね備え、愛と勇気だけを友に持って己が正義を貫いていた過去。

キセちゃんとの出会いは幼稚園から始まった。その頃からすでに彼女は『キセちゃん』で、僕もそう呼んでいた気がする。別にいつも一緒に行動していたとか、特別仲の良さを証明するイベントはまるで皆無だったが、それでも悪くはなかったと思う。彼女との関係性に大きな変化が訪れたのは、僕と彼女が同じ中学校に入学してしばらく経ってからのこと。ハンカチで粗相の後始末を終わらせ、階段を登って教室へと戻ろうとしたとき、たまたま彼女を見つけたのだ。世間話くらい、と思ったが彼女はこちらの呼びかけに反応することなく、つかつか仏頂面で廊下へと姿を消してしまった。

彼女の左の頬には、醜く腫れ上がった真っ赤な傷が浮かんでいた。保健室にでも行くのだろう、なんて浅い納得ができるほど真っ当な人間でなかったことは、生涯僕の誇りだ。今では数少なくなってしまった友人たちに協力してもらいストーカー紛いの調査を続けた結果、彼女がとある教師に暴力を振るわれていることを知った。それからは簡単な話で、現場に盗聴器やらなんやらをセットして、信頼できる教師にそれを提出。教師のその後は知らないが、そんな価値を見出してやるまでもない。

かくして体調を崩していた彼女は完全復活とまでは行かずとも元気を取り戻し、再び笑顔をみせるようになりましたとさ、めでたしめでたし。

しかし現実がそう簡単に行く筈もなく、だからといって心の調子が不安定になってしまった彼女を再び教師に任せるわけにも行かず、そこで白羽の矢が立ったのが僕だった。彼女の友人や僕の親友を加え、お昼や移動教室だったりを一緒にし始めた。初めの方こそもじもじしていた彼女だが、元来の明るい性格のおかげですぐに馴染むことができた。それからも四人で定期的に遊びに行ったり、欠けたピースを埋めるように過ごすうち唯一無二と言えるくらいには親密になっていった。


日々の登下校に関しては彼女の方から提案してきたものだ。そこまでの信頼を勝ち取ったことに対する喜びと、僅かばかりの優越感が僕の単純さを正確に表していることだろう。彼女は端から見ても整った容姿とスタイルをしており、何よりそのうっすらした笑顔が魅力的だったから。



問題が起こったのはそれから一年が経った頃。桜が控えめに咲いて、中学二年生にして年齢に不相応な落ち着きを見せ始めた僕が、性の芽生えを知った頃。閑散とした教室にいた彼女に帰ろうと声をかけるも、机に体重を預けたまま微塵ともしない。春の陽気に誘われて深い眠りに落ちたから、なんて簡単に検討をつけてみる。


それから僕は少しばかり魔が差して、誰ともしれない椅子に座って彼女の端正な顔をいじり始めた。軽く鼻をつまんだり、瞼を無理やり開けてみたり、頬をつねってみたり、パーツのラインをなぞってみたり。そして意識が唇に向いたとき、互いの距離が限りなくゼロに近いことに気付いて、額にあった人差し指を離そうとしたけれど、磁石みたいにくっついて剥がせなかった。

そのまま、つ、つ、つ、と指先をおろしていくと、彼女の小さな唇に触れた。ほのかにピンクに色づいていて、ふっくらしている。そっと指を離すとぷるんと震えて、やけに不気味な柔らかさだけが残っている。不意にゾクリと背筋が震えた。未知に対する恐怖ではない何かが、とぐろを巻いた好奇心の導火線に淡く火をつけた。視線が沈んで、その一点だけを捉える。身を乗り出して、大切な何かが、どろり塗り替えられていくような気がして________


「______ぇ、ん」


かすれた声が漏れた。どうやらお目覚めの時間らしい。寝ぼけ眼を擦って、覚醒したばかりのボケた頭にスイッチを入れる。キョロキョロあたりを見回して誰もいないことを確認すると、最後に僕の姿を見つけて無邪気にそっと微笑んだ。


「何、してるの?」


無様に尻餅をついた僕はなんでもない、なんて言って誤魔化した。いそいそと帰りの準備を始める彼女。どうやら気付いてはいないようでほっと胸を撫で下ろす。

気持ちの悪いわだかまりが僕の中を堂々巡って豚のように肥え、膨らんでいく。


「じゃ、帰ろっか」


立ち上がった彼女に慌ててついていく。

その日はどうしても彼女の横を歩く気にはなれなかった。








火照った体はマグマのように煮えたぎり、留まるところを知らない。


「キセちゃん、キセちゃん、キセちゃん」


暗い部屋の隅、狂ったように彼女の名前を呼ぶ。そのたびに熱は増していき体は正直になっていく。

いつからだったか。あの日、甘い香りに誘われる虫のように彼女の唇に引き寄せられたその時から、僕はもうおかしくなっていたのかもしれない。あの白い指が触れた僅かな記憶と感覚だけを頼りに、彼女のことを深く想い続ける。


「キセちゃん、キセちゃん、キセちゃん、キセちゃん」


暗い部屋で独り、罪悪感と背徳感でめちゃくちゃになった脳みそを欲望のスプーンでぐるぐるかき回す。そしてその二つが歪に混ざり合ってどろどろに溶け合って、初めて僕は自分を知ることができる。


「う、あぁ」


声にもならない絶望がうめき声になって舌を這いずる。とめどない熱が僕の頭のてっぺんから爪先まで余すところなく興奮を流し込んでいく。空っぽだったはずの僕の中に、卑屈で卑怯な僕自身が形取られていく。


「_________あ」



決定的な瞬間、混濁した意識の中でいつも考えることがある。

僕はなにか、勘違いしているのではあるまいか。

たしかに彼女を助けたときの僕は控えめに言って最高の自己満足野郎だった。それで良かったと、今でも思えている。しかしどうだ、果たしてこの想いは本物なのだろうか。僕が思い描いている、ガラスのように透き通った何処までも純粋で汚れることを知らない、そんなモノなのだろうか。


あの長い足。

あの引き締まった股。

あのくびれた腰。

あの丸みを帯びた尻。

あの細いウエスト。

あのなだらかな胸。

あの華奢な腕。

あのしなやかな指。

あのきれいに整えられた爪。

あのデッパリの無い喉。

あの透明感のある髪の毛。

あの端正な顔。


僕の心は彼女の内面を覗いたことはあるのだろうか。

本当の意味で知ろうとしたことはあっただろうか。

外見ばかりで判断をしていないだろうか。

今の僕は、彼女の側にいていいのだろうか。


贋物は本物になろうとしている分、本物より強い輝きを放っている。ならば、きっと僕の今の気持ちはどちらでもないのだろう。段々と気が滅入ってきた。どうせ明日からまた変わらない日々の焼き直しなのだ、それならば、中途半端はやめて曖昧な雑踏の隙間にするり消え入ってしまいたいと思うのもなんらおかしい話ではないだろう。


所詮全て、戯言だけれども。




















「やっぱり昆布はジャスティス」

「握り飯一つにそんな御大層なモノ掲げるの?」

「言葉の綾ってやつ?」

「いや知らないけど」


疑問を疑問で返すキセちゃん。絶賛昼休みをエンジョイしている僕達は各々の昼ごはんを持ち寄り、がらんとした空き教室に集まっていた。


「わりぃ、遅れた」


ガラガラとドアを開ける音がして、そこそこ大きな人影が現れたかと思うと用意された椅子にそそくさ座った。休み時間が始まって既に半分以上の時間が経過している現在、下手な会話は致命的な時間のロスになりかねない。早速昼飯を広げ始める男、中田。僕の指折り数えられる友人の中で真っ先にメンバーに入る、うぬぼれていなければ親友といえるポジションに位置する奴である。


「今日はあいつ来ないってよ」


おそらく彼女の友人のことだろう。どうせサボりだろうと高を括っていると、メールには「あとはヨロピク」なんていうふざけたメッセージが届いた。ノート貸すのは要検討。

そうこうしているうちにすっからかんになったラップの中身をクシャクシャにまとめて、珍しく早めに席を立つキセちゃん。どうやら小テストがあるらしく、残った時間は教室でのお勉強タイムに当てるらしい。常設されたゴミ箱にゴミを見事ゴールインさせて、それじゃあ、なんて言葉を残して去っていく。彼女を見送ってほんの少し立ったあと、明らかに喋るタイミングを求めてウズウズし始めた中田がうざったいくらいの視線をこちらに投げかけてきた。


「…………なんだよ」

「お前、まだこじらせてんの?」


根負けしたのがここまで悔やまれる日が来るとは。口にしていた白米がホコリまみれの床にぶちまけられる。えづかなかっただけ上出来だろう。痛む頭を抑えながら、地獄に落ちていく罪人を見つめるような気持ちとポーズでその元凶になった親友の面を拝む。


「何の話だよ」

「キセさんの話だよ」

「未だにあの子のことさん付けしてるのお前くらいだろ」

「話を逸らしてんじゃねえよ」

「何の事だか」

「好きなんだろ?」

「そんなんじゃない」

「他に何があるってんだ」

「別に、なにもない」

「ウソつけ」


「違うっつってんだろ」


自分でも驚くほど低い声が出た。中田は何か続けようとしたが、ちょうどその時チャイムが鳴って、少し間があってから黙って両者片付けを始めた。教室の戸締まりをして、最後に見たアイツの顔。憐れむような、可哀想なものを見る目がやけに濁った視界をチラついていた。








六時間目は体育、種目は持久走。長い距離を走るのは嫌いじゃない。走っている間は、些細なことを考えなくて済むから。風流を失った銀杏の木を横目に流しながら、黙々と足を出しては引っ込める。いつも感じているはずの肺まで凍るような寒さが、この時ばかりはどうも苦に感じなかった。時計のメモリがいくらばかりか進んで、終了のホイッスルが運動場に鳴り響く。生徒に満ち溢れていたはずのみずみずしい若葉のような精神力はとうに失われており、代わりに激しい疲労とやつれきった餓鬼の如き形相が能面のように呼吸の合間を縫って張り付いていた。


「おつかれぇ」


一人離れた場所で孤高を気取っていると、不意に聞き馴染みのある声。気づかれないよう声のする方に視線を向けると複数の女生徒に囲まれたキセちゃんの姿が見えた。大方記録でも更新したのだろう、小動物のようにぴょんぴょん跳ねる彼女。その度ささやかに揺れる胸と、時折覗くうなじのチラリズムとのダブルパンチにどうも脳がやられてしまったらしい。自制を知らない心臓が、薄くなった理性を張り裂いてしまおうとする。情けなく吐息を漏らすと、肩で息していたはずの男どもがじっとりとした視線を彼女に向けていて、心底軽蔑したけども、自分と何ら変わらないことに気が付いて、つっかえた落胆の念を自責の念と一緒に錠剤みたくして飲み込んだ。くるり後ろを向いて、何事もなかったように場を立ち去ることにした。本当に、後ろめたいことだけれども。


「…………」






また、放課後がやってきた。最近はこの時間が何より窮屈で仕方がない。


「今日、なんか変だよね」


浸かっていたはずのぬるま湯が繊細なこころを芯から冷やしていく。


「キセちゃんには関係ないよ」


最低な人間になった気がした。今更吐いた唾を飲むわけにも行かず、恐る恐る彼女の出方を伺う。


「…………新田、嘘つき」


彼女が立ち止まったので、つられて僕も立ち止まった。親指を四本の家族指で丁寧に包み込んで、血の通わないくらいに力の込められた真っ青な彼女の手。


「さっきの授業の時、ううん、それだけじゃない。一緒にご飯食べてるときも、こうやって帰ってるときも、ずっとつらそうなカオしてる」

「そんなの勘違いだって」

「そんなはずない、ずっとみてるから」

「知ったことかよ」

「ねえ」


いつになく真剣な目で彼女は言った。


「私達って、お互いの心配もしちゃいけないような関係だったっけ」


愚直な思いが、僕のプラスチックでできた見栄をいとも簡単に破るから、このまま膝から崩れ落ちて、彼女の胸の中で涙の一つでも流せたのなら。

一体どれほど楽になれるのだろうか。

長い長い沈黙があって、震える唇をズタボロのプライドで噛み締めている僕は、一体何と答えるべきなのだろうか。


「今日は、先帰る」


すれ違って離れていく彼女の姿、その背中にわずかに手を伸ばせもしなかった。彼女に女を感じる自分が、その現実と理想との乖離が、僕のちっぽけな意地に幕を下ろさせない。僕はそんな僕を許さないし、絶対に許せない。センチメンタルな気持ちに浸ってもご都合主義に雪なんて降ってきてくれないのだ。

僕のこの傷が、寂しいなんて言葉で表されていいものか。遠ざかった彼女の影は、汗で滲んでぼやけて消えた。










やかましい通知と電子音が鳴り響く深夜、蠢くベッドの中。発信源はわかりきっていて、ケータイは手の中を滑り落ちた。だけど結局物寂しくなって、安全の象徴のカラーにすべてを委ねることにした。中指で画面にそっと触れて、それから耳元に持っていく。


「やっと出やがったかこの野郎め」


中田はそれだけ言うと黙りこくって、少し間が空いたあと再び肺のかすれた音が聞こえたかと思うと


「その、すまんかった。俺の配慮が足りてなかった」


通話越しでもわかるくらいの腰の低さで、顔の見えない親友の生真面目さを感じ取った。僕がなにか返答しようとすると電話越しの彼は「必要ない」と首を横に振る。


「俺が言いたいことは単純明快だ、いいか。俺にはお前の全部がわかるわけじゃない。言い換えたら、お前も誰も、他人のことなんて分かっちゃいない」


「だから勝手にお前が彼女の気持ちを決めつけんな」


決定的な台詞。お前は優しすぎるんだ、と最後のおせっかいと前置きして彼は言った。


「お前にもお前の考えがあるのかも知んねえけど。少しくらいさ、自分に正直になってみせろよ」


それだけ言って、中田は通話を切った。

今更、遅かった。だけど、そのおかげで決意を抱けた。彼女に対する想いについてである。やけになって引きずり続けて、思い十字架を背負って砂漠を歩き彷徨うだけの生きる死体になるくらいならせめて、きれいな思い出として彼女の存在を残しておきたいと思うのだ。

今日はもう、眠ってしまおうか。







長い、長い夢を見る。

泡沫のような、揺蕩うようなそんな夢。

僕の抱いていた子供騙しのチャチな想いは、人魚姫の二番煎じにもなれやしない。積み重ねた年月が、大切な記憶が、塵となって灰になってはらはら僕の掌から零れ落ちていく。思い出されるのはいつだって、彼女が僕だけに見せるとびきりのささやかな笑顔。

彼女に惹かれたその日から、僕の心は囚われた蝶の標本のように釘付けのまま。


このままずっと、明日なんて来なければいいのに。





















憂鬱な朝が来た。

汗と涙と色々なもので混ぜこぜになった部屋を片付け、やけに鼻につく刺激臭は無視して部屋を出た。いつもなら彼女が門扉の前で待っている頃だろう。彼女には今日は休むから先に行っていてほしい旨と、学校には体調不良の連絡を入れた。

正直、限界だった。これ以上彼女と共にいては遅かれ早かれ必ずサイアクな日がやってくる、そうなる前の苦肉の策だった。

明日、そう明日。

明日になったら伝えるとしよう。

僕はもう、彼女の隣を歩くのをやめにしよう。

高校を卒業して大学に行けば可愛らしい彼女のことだ、いい男の一人や二人、またたく間に引っ掛けて誠実なお付き合いの末見事ゴールインをカマすことだろう。そして幸せの絶頂の仲、安らかな老後を経て安らかに眠るのだ。もちろん僕のことなんか記憶の隅にもなくて、結婚式の招待にも呼ばれず、たまたま再開しても名字にさん付け呼びで、それで胸元には小さくて可愛らしい何処の誰ともしれない男との赤ん坊がよだれを垂らして幸せそうにしているのを目の当たりにするのだ。

それはちょっと、いやだいぶ嫌だけれども。

下心と真心を履き違えている奴となんかよりは、よっぽど幸せな結末を迎えられるだろう。

そうだ、きっとそうに違いない。これはきっと、僕の嘘偽りあらざる本音で_______



だから今日までは、僕のこの下らない勘違いをどうか許してほしい。


足を床に投げ出して気怠げに壁に寄りかかった。曇ったベランダの窓が、僕の薄汚れたこころを鏡のように映し出す。欲望を表面に押し出し、苦しいままに偽物を叫ぶ。切なさで汚れ濡れていくカラダが、どうも上手く動かなかった。


「キセちゃん_____」


ただ苦しいままに、愛しい彼女の名を呼んだ。


「_____うん、聞こえてるよ」


馴染みのある声がして、閉めたはずの扉の方を向く。瞬間理性が総動員し、しかし離しかけた右腕は彼女の柔く優しい左腕に掴まれた。


「最後まで、やってみせてよ」



僕の影に彼女が重なる。重さを感じさせない彼女の身体。今にも壊れてしまいそうな四肢から伝わる温もりが、焦がれるほど追い求めた本物が、絶対性を持って目の前にある。熱を帯びた湿っぽい吐息が、嫌でも彼女の存在を近くに感じさせる。

違う。僕がほしいのはこんな関係性では無い、もっと別の、キラキラ輝く別の何かのはずなのに。


「私、思ったの」


やめろ。

それを聞いたらきっと、二度と逃れられなくなる。

優しいひとなのだ。

とびきり優しくて、可愛くて、憧れで、だから、そんな________


「愛してる」


________そんなとびきりの呪いを、

かけないでおくれ。


結局表面上で突き放しても、中身がすぐに変わるわけはなし。自分につけた仮面なんてメッキみたいにすぐ剥がされて、ありのままの自分で生きていく他ないのだ。僕は卑屈な負け犬で、背徳感に簡単に溺れてしまう典型的なこじらせ人間なのだ。そしてそんな僕を、彼女が愛してくれるのならば。


「ばかになっちゃえ」


僕は抗うことをやめて、彼女に身を委ねることにした。

夢に溺れてランデブー。閉じた瞼の隙間から見える、そんな一幕もきっと悪くない。





「そういえば返事、聞いてなかったね」


あの日、彼女は僕のメールを見て一直線に僕の家に来たのだという。それが嬉しいやら恥ずかしいやらで、僕は空いた方の手で頭を掻きむしった。

後ろから迫ってくる影に声をかけると、中田は貸しっぱなしの僕の腕を見てきょとん、それからすぐ我に返ってサムズ・アップして、小走りに学校へと向かっていった。


繋がれた手は離れることなく、罪悪の華は未だ僕の中に咲いている。


「キセちゃん」

「?」


冷やかしの風が、祝福の春を連れてきた。






「愛してるぜ、ずっと」

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綺麗事の最期 抱き枕 @yasuriya

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