春霞
寄賀あける
桜精霊
不意に花びらが宙を舞った。
目の前を
夜目で見る限り着ている物は高価なものだ。
(さては妖しの者か――この敦実に取り入って、何の得があるというのだ)
自嘲気味の笑みを内心に浮かべる。貴族とは言え落ちぶれて久しい。任官も侭ならぬから困窮する一方である。自然、権力者に
その上今宵は、懇意にしていた娘にほかの男が通うのを目の当たりにした。来る事が判っていながらその男を招き入れたのは、明らかな娘の意思表示と受け取るほかないだろう。男は敦実と比べ、家柄こそ劣るものの官位は二つも上である。所詮世の中とはこんなものよ――
容姿はそこそこだが、気立ては優しく、心底慕ってくれていると娘を信じていた。自暴気味の敦実である。
視野の端に女人を捉えながら素知らぬふりで歩を進める。近づくにつれ芳香が際立ってくる。胸苦しく、それでいて懐かしい香だ。鼓動が早まっていくのが緊張のためなのか、それともこれから起こることに対しての期待からなのか、敦実にも
女はまんじりとも動かない。女人と思ったのは間違いでただの
ついにすれ違うというそのときになって、やっと女が身じろぎを見せた。かぶっていた
抜けるような白い肌、煙るような瞳、薄紅を刷いた唇……美しいとはこういうことをいうのだ。およそ敦実の知る限り、これほど美しい女はほかにいない。
女が敦実を見たのは一瞬である。次には視線を元に戻し、そしてゆるりと歩み始めた。知らずのうちに歩みを止めているのは敦実である。根が生えたように立ち止まったまま女を見送っている。すると数歩先で女が振り返るような仕種を見せた。
――誘っている……
妖しの者か、と思ったことを忘れて敦実は女の後を追った。いや、忘れてなどいない。たとえそれでもいいと、意識の片隅で呟いていた。
女はゆっくりと、そして時に足早に、都の
見上げるほどの大木が薄紅色の花を咲かせ空を覆っている。月の光を映して、ぼんやりと輝いている。
(さて、ここはどこだ? 都にこのような桜があったであろうか?)
女の姿ばかりを追ってきた。どの小路を過ぎてきたか覚えていない。さりとて、そうそう遠くに来たとも思えない。
(これが妖しというものか……)
呆気にとられて見ていると視界を遮るものがある。女の
いくら薄物の
女は眼差しを敦実に向けたまま、少しずつ身体を幹に寄り添わせていく。そして慈しむような仕種で荒れた木肌に
手にした薄絹は冷ややかな滑らかさをもって、女の艶を連想させた。その薄絹を無造作に打ち捨てて、己を見つめるものへと近づいていく。
女との距離が狭まるにつれ、動悸は激しくなっていく。人ならぬものに魅入られて、その術中にはまるのか? 諌める声が遠くに霞む。
やがて手を伸ばせば触れられようかというときに、女の口元が微かに動いた。
微笑……いや、違う。
女の顔に浮かんだのは哀れみか? それとも
それがなんであるのか突詰めたい要求に、敦実は女の顔を凝視した。すると、ふわりと女が後退した。
またどこかへ行こうと言うのか? 反射的に腕を伸ばし、女を捕らえようとする。指先に触れた女の袖をしっかりと掴む。が、手ごたえがない。敦実が捕らえた装束は女の肩を滑り落ち、力なく
(おのれ……)
なにが敦実を煽るのか、手にした布を振り払うと、再び女に挑みかかる。衣は掴めるものの女はそのたびに身体を滑らせて衣から抜け出してしまう。宙を舞う花びらのごとく、ゆるりとした風情を見せながら、まるで取り付く島がない。
捕らえたと思えばすり抜けられ、焦れるのは敦実である。躍起になって女を追う。女は相変わらず不可思議な笑みを浮かべたまま敦実を見つめている。
いつしか幹の周囲は、敦実が剥ぎ取った女の衣で埋もれていく。その衣に足をとられ、危うく転倒しそうになる。
(なにをしているのだ、俺は……)
どこかでわずかに覚醒した意識が敦実に問い掛ける。
(今まで、これほどまでに必死になったことがあろうか?)
女を追ううち、なぜ追っているのかさえ定かではなくなった。
(違う――)
手に残された衣は段々と熱を帯び、生き物の温もりを敦実に伝えている。
(俺はなんとしても……)
なんとしても女を我が物にしたい。その細い身体を抱きしめて、この手で手折ってしまいたいのだ。
女が身に
不意に花びらが宙を舞った。
目の前を
月は重く西に傾いている。
< 完 >
春霞 寄賀あける @akeru_yoga
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