善人道中
詩人(ことり)
本文
財布を落とした。牛革で作られた上品な焦茶が気に入っている代物であるが、しかし学生の身分で購入できる程度の物なので決して最高級ではない。しかも万年金欠の私の持ち物である。中身の金額よりも財布の方が高いのが常ではあったし、今回も例に漏れず、二万円程の私の財布はたった4000円をしっかりと挟み込んでいた。
問題は金額ではなく、はじめての給料で買った贅沢品が、早々として手元に無いことである。
気が付いたのは今朝のことで、いつもの手提げの中に財布がなかったことは、平穏を絵に描いたような搬びの我が人生において、とてつもない異常であった。その衝撃たるや、毎朝、欠かさず飲んでいたヤクルトを冷蔵庫から出しただけで、飲みもせずに出かけてしまうほどだった。
兎にも角にも、まずは大学に行かなければならない。なぜなら、私は大学生である。会社員が会社に行き、歯医者が歯医者に行くように、大学生は大学に行かなければならないと決まっている。誰がそう決めたのかは分からない。きっと頭が固く面白味のない爺に違いない。
アスファルトが凝固していないのかと思えるほど沈む足に鞭を打ち、最寄駅の改札前にまで来たはいいが、私はたった今、財布を紛失している最中ではないか。クレジットカードや学生証を始め、少ない現金も定期券も、全てあの中に入っている。これでは電車に乗ることができない。キセルをするほどの度胸もない。
私は人目も憚らずに地団駄を踏んでしまいそうになった。一限の授業は、今日を欠席してしまうと五回出席していないことになる。そうすると単位を落とすことが決定してしまうのだ。自慢できることは数少ない私だが、唯一、単位を落としたことがないという細やか誇りを持っていた。そんな私の氷菓子よりも儚い矜持も、どうやらついに砕け溶けてしまったらしい。
そもそも四度も欠席することが悪いのだと言うのなら、朝の九時という阿呆な時間に授業をやろうとする大学及び教授が悪いのだ。そんな時刻を決して寝過ごさないという人間は絶対にいない。いるのならそいつは人間ではない。
さて、今日の授業は、その阿呆な一限だけだ。どうせ間に合わない。仕方がないので私は改札を通り抜けたいと宣う右脚を軸に半回転し、来た道を引き返すことにした。
交番に行こう。私が財布を落としたのは昨日のことだろう。日本は治安が良い。交番には財布が届いているかもしれない。ここからだと少々歩くが、日頃の運動不足を解消するとでも思えばよかった。
駅を発って少しすると、まずは商店街を通る。辺りにはショッピングモールだとかスーパーだとかが無いため、現代では珍しく、どの店も繁盛している。
一歩足を踏み入れると、肉屋のなんと美味そうなコロッケの匂いだろうか。普段なら何の迷いも無く買い食いに耽る私だが、生憎、今は財布が無いのだ。
とほほ、と肩を落として先を急ごうとすると、肉屋の主人が私を呼び止める。
「揚げたてだ。食っていくといい」
「財布を落として持ち合わせが無いのです」「若いモンが何を。奢ってやるから食いなさい」
気前の良い主人は、なんと一番高い700円もする高級コロッケを私に持たせてくれた。外食に行けば食べ放題で元を取ろうとし、自販機に向き合えば得だという理由で500ミリリットル入りの飲み物しか買わない私にとって、こんなものはほとんどダイヤモンドである。
「あなたは聖人だ」
私がそう言うと、肉屋の主人は鼻を鳴らして「何を言う」とおっしゃる。
「俺は過去、落ちてる財布から金を抜いたことがある。今では何てことをしてしまったんだと反省してる。だから、その分は善行をしようと決めた。これでチャラだ」
なるほど。人間、誰しも悪行のひとつやふたつ、魔が刺してやってしまうこともあるだろう。けれど、最終的に善行の割合が悪行を上回っていれば、四捨五入で善人である。
ダイヤモンドコロッケの味は、まさしく絶品であった。
商店街を抜けると、今度は古着屋通りを歩くことになる。私は服についててんで知識が無いが、それでも人並みに感性は持っているのだ。とある古着屋の店先にぶら下がっている、綺麗な色のシャツに目を奪われた。洗った後の天日干しで、そのまま晴天が色移りしたかのような純青である。
「そのシャツ、いいでしょう」
この古着屋の主人であろう男性に声をかけられた。彼は反対に、燃えるような赤いシャツを着ている。
「有名なブランドじゃないけど、状態はいい。安くするからどうだろう」
「そうしたいのは山々ですが、財布を落としてしまって」
「なるほど」
会話が終わると、主人はシャツを下げていたハンガーを取り、2000円と書かれた値札を千切り取ると、素晴らしい腕前でぱたぱたとシャツを畳んで、紙袋に入れてしまった。
「私が奢ろう。服は着たい人が着るべきだ」
こんなことが一日に二度も起きるなんて。「あなたは聖人だ」と私が言うと、「何を言う」と古着屋の主人はおっしゃる。
「私は以前、落ちていた財布から金を抜いてしまった。本当に酷いことをしてしまったと省みて、その分、人を喜ばせたい。これで償えた」
なるほど。止むに止まれぬ事情で悪の道を歩いてしまうこともあるだろう。けれど、最終的に善の道の上で死ねば、写真判定で善人である。
青空のシャツの肌触りは、まさしく格別であった。
なんと素敵な善人道中であったか。名残惜しいが、最終目的地の交番に辿り着いてしまった。中には駐在の警察官がいる。やはり善人道中の最終地には、正義に仕える警察官が相応しい。
私は誠実な顔をした警官に、茶色い牛革財布が届いていないか確認した。すると警官は「ああ!」と顔を上げて、素早く机の下から見慣れた革財布を取り出した。
「これです、これです。良かった、やっぱりここは善い人だらけだ」
私はあまりの感激に目頭が熱くなるのを感じながら、警察官に御礼を言った。
「大変だったでしょう。お気をつけてお帰りください」
警官の彼はそう言うと、まだ業務が残っているらしく、外に出た私から早々に目を外して、ペットボトルの炭酸飲料をぐいっと呷った。その500ミリリットルのサイダーを見て、私と同じように得だからと大きいサイズを買ったりするんだろうか、と親近感を勝手に憶えた。
交番を後にした私は、今日の善い人々との出会いに感謝せずにはいられなかった。こんなに善の気に触れてしまったのだから、私も大学や教授を阿呆と呼ばず、真面目に授業を受けるべきだろう。
私は来週こそは早起きをしてみせると意気込んで、財布を開いた。クレジットカードと学生証、定期券は無事だったが、なにやら現金の方に問題がある。数えると1140円しか入っていないではないか。
善人ばかりだと思っていたが、やはり悪人もいるらしい、と財布を恨めしく見つめていると、何やら表面にぬらりと光っている部分がある。指で触れてみると、それは油だった。どうやら、機械油の類ではなく、動物由来のものらしい。
なんだなんだと不思議がっていると、札入れの部分に何か挟まっている。取り出してみると、それはほつれた赤色の糸だった。
私は合点がいって、溜息を吐いた。けれど彼らは、拾った財布の中にあった顔写真付きの学生証で私の顔を知って償いをしてくれたから、大目に見ようと寛大な心を発揮した。コロッケと古着で、2700円は戻ってきたのだから。私だって悪人であった頃がある。ちょうど今朝も尊敬すべき大学創設者を爺と言ったり、教授を阿呆と口汚く罵ったりしたのだ。けれど、これを許せば、二位に大きく差をつけて善人である。
「世の中に完璧な人間はいないんだ。私だってそうじゃないか」
しかし、そうなると財布の中身は1140円、コロッケ屋と古着屋で2700円、併せて3840円、もともとが4000円。残りは誰に使われてしまったのだろう。犯人探しをする気は毛頭無いが、しこりが残るなあ、と私は首を傾げる。
「何はともあれ、財布が戻ってきたのだから、まずは良いか」
私は気分を軽やかにするために青空のシャツに袖を通し、口腔内に残るジューシーなダイヤモンドコロッケの油を流すため、自販機の前に立った。
少しは成長できたと思ったが、やっぱり小さいサイズは勿体ない気がする。
私は160円で、警官の彼と同じサイダーを購入したのだった。
善人道中 詩人(ことり) @kotori_yy
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