迷子の国
坂本 有羽庵
迷子の国
「ぼく、車のところに戻って、みんなを待とうと思ったんだ。なのに、お店の出口も階段も、ぜんぜん見つからなかった。変だよね?」
「でも、前に教えただろう? お父さんたちとはぐれた時は、そこで動かず待っているか、お店の人に話して、助けてもらうようにって」
「ちゃんとお店の人に言おうとしたよ。でも、みんな顔がなくてユラユラしてて……だから怖くて話せなかったんだ。ほんとだよ!」
「うーん、そうかぁ、それなら……」
「それなら?」
「きっと〝迷子の国〟にいたんだろうなぁ」
デパートの地下に、駐車場が薄暗く静かに広がっていた。その一角にシルバーのセダンをとめ、男は家族と一緒に、上の階の明るい地下フロアへと向かった。
お昼には少し早い時間帯。夏の食品フロアは、大勢の買い物客で賑わって混んでいたが、冷房がよく効いていて寒いほどだった。
「わたし、行きたいお店があるんだけど」
最近ずいぶんと大人びてきた十歳の長女が流行りのスイーツをねだると、五歳になる長男も「ぼく、プリン欲しい!」と張り合うように声をあげ、とび跳ねた。
洋菓子に和菓子、色とりどりのお惣菜が、フロアのショーケースの中で美味しそうに並んでいる。客に商品をすすめる店員の明るい声が、あちらこちらから聞こえてきた。
「もう。おばあちゃんへのお土産を買うのが先でしょう。それと……」子供たちに注意しながら、妻が夫に気遣うようにそっと言葉を添える。「おじいちゃんへのお供えもね」
数ヶ月前、男の父親が亡くなった。実家では今、年老いた母親が一人で暮らしていて、今日は、新盆法要の準備も兼ね、妻と子供たちを連れて会いにいく日だった。
「いいよ。子供たちの食べたいものを選んで買っていこう。その方がお袋も、それにきっと……親父も喜ぶから」
男の言葉に、子供たちが浮き立つ。
四人の家族は、広いフロアに伸びる通路を、互いに離れぬように歩きはじめた。
ショーケースに美しく盛られたお惣菜をしばらく眺め、振り返ったとき、男は、自分の家族が誰も近くにいないことに気が付いた。人混みの中、首を伸ばしつつ前後を探すが、妻や子供たちの姿は見当たらない。
(家族とはぐれたか。久しぶりだな)
子供の頃、皆で出かけた際に家族を見失い、よく迷子になっていたことを思い出し、男は軽く苦笑する。
妻に連絡して、店内のどこかで待ち合わせようと、ポケットからスマートフォンを取り出す。しかしその画面は真っ暗なまま、起動する気配はなかった。
「まいったな」
顔を上げ、もう一度あたりを見回そうとして、男は異変に気付いた。
デパートの地下食品フロアの、通路やその雰囲気は残っていた。しかしそれは不気味なほど無機質に、寒々とした白い空間へと変貌していた。
店員も買い物客も、薄紫色のシルエットだけの存在になり、海藻のようにゆらゆらと揺れている。彼らは時おり会話をしているようだったが、その音は遠く、虚ろに響き、内容を聞きとることは難しかった。
男は立ちすくみ、しかし混乱しながらも、自分の置かれた状況を把握しようとした。
白い空間は遠くまで広がり、端が見えない。エレベーターや階段など、別の階に移動するものは、存在すらしていないようだった。
誰からも見られていないのに、空間そのものから、じっと観察されているような、そんな感覚が全身を這いまわる。
——〝迷子の国〟。
そう言っていたのは、彼の父親だったか。男は、子供の頃、何度もこの世界に来たことを、奇妙な懐かしさと一緒に思い出した。
(子供の頃は、ちゃんと現実の世界に戻ることができた。だがどうやって?)
男の斜め前から、軽い足音が聞こえた。
この世界の中で、唯一、生命力を感じさせる音。
男がそちらへ目を向けると、真っ白なショーケースの向こうの通路から、小さな子供が現れた。
男は思わず「あっ」と声を上げる。
彼の五歳になる息子だった。
(……あの子まで、ここに来ていたのか!)
ゆらゆらと揺れる薄紫色の買い物客たちの間を、キョロキョロとまわりを見ながら、不安そうな顔で小走りに通り抜けていく。男の目と鼻の先までやって来ても、彼の息子が、こちらに気付く様子はない。
過去の記憶から、男には今の息子の状態が痛いほど理解できた。家族とはぐれ、焦りと恐怖で、何を見ても目に入ってこないのだ。
小さな背中が遠ざかろうとしたとき、男は手を伸ばし、声をかけながら息子の肩に触れようとした。
息子の姿が消え、なにも触れることなく、男の手は宙をさまよった。
呆然とする男の耳に、再び、軽い足音が聞こえてくる。
少し離れた別の通路から子供が小走りで飛び出してくる。息子だった。今度は男のいる場所とは反対の方向へ走っていく。
幼い息子の背中を追いかけ、男は走り出した。なぜか二人の距離は、いっこうに縮まらなかった。
唐突に、強い寒気に襲われる。息子をつかまえなくては。そして一緒に、この世界から脱出しなくては。
だが不意にぞっとする考えが生まれ、男は足をとめた。
——あの子は本当に、うちの息子なのだろうか?
幼少期、何度も家族とはぐれ迷子になった彼だったが、強く印象に残っている出来事があった。
まったく知らない家族のことを、自分の両親と弟だと思い込み、店内でずっとその後ろをついてまわっていたのだ。
幸い、偶然近くを通りかかった家族が気付き、「なにやってるの!」と母親が彼の腕をつかんで戻し、大ごとになることはなかった。しかし、髪型や服装、体型も、何もかも違う女性と間違われたことに、母はいつまでも腹を立て、その日は一日中機嫌が悪かった。
「しかも、あの人たちが連れていたの、女の子だったでしょう。なんで弟だって思うの」
母親に文句を言われ続ける彼に、父親と幼い弟は同情の視線を向けていた。
しかし彼はずっと考え続けていた。見知らぬ男性と女性とその子供。彼らを自分の家族と思い込んでいた、奇妙にゆがんだ純粋な感覚を。
「家族の人数だけは、合っていたよなぁ」
場の空気をなごませようと、父がのんびり笑いながら言ったが、母に睨まれ、口を閉じた。
真っ白なフロアに軽い足音がして、息子に似た子供が、再び目の前を横切った。やはり、男の姿に気付く様子はない。
泣くことを我慢しているのか、子供は顔を真っ赤にして、走っては何度も足をとめ、あたりを見回している。その顔も姿も行動も、幼い頃の男とよく似ていた。
やがて子供は弱々しい声で、家族を呼びはじめた。
父を呼ぶその幼い声を聞いた瞬間、男は足をもつれさせながら前進した。
——あの子は息子だ。おれの息子だ。
男はもう一度、子供を追いかけた。なぜか今度はすぐ、その背中に追いつくことができた。息子の名を呼び、腕をつかむ。
子供が弾かれたように振り返り、男を見た。
自分の腕をつかんでいる相手を認識した途端、安心したのか、男の子は顔をくしゃくしゃに崩し、大きな声を出した。
「……おとうさん!」
眠りの底のような空間が溶け、人の声が、店内の音が、以前と同じように耳に入ってきた。もたつくように、それらに少しだけ遅れて景色に色がつき、現実世界に戻っていく。
男のポケットの中で、スマートフォンが小さく振動した。妻からの電話だった。
「まったく! この子だけじゃなく、父親のあなたまで一緒に迷子になるなんて!」
腰に手を当て、妻は男に軽く怒った。顔をしかめ腹を立ててはいたが、表情は安堵の色の方が濃い。
ソフトクリームを手にした十歳の長男が「みんな心配したんだからな」と、迷子になった末っ子をもう片方の手で軽く小突く。
「でも無事でよかったよ」と、八歳の長女が庇うように言った。
ショッピングモール内のフードコートは、年末のせいか、食事には中途半端な時間であるにもかかわらず、大勢の人間とその熱気でごった返していた。
混雑した店内で説教を受けながら、男は、自分と似た立場である五歳の次男とこっそり視線を合わせ、照れ笑いをした。
「この子は小さい頃、どこかへ出かけるたびに、すぐ家族からはぐれて迷子になっていたけど……まさかこんな大人になってまでも、そうなるなんてねぇ」
テーブル席で抹茶ラテを飲みながら、男の年老いた母がため息をつく。
「ねぇ、おじいちゃん。お父さんって、小さい時、そんなに迷子になってたの?」
子供たちの質問に、男の父が白髪頭を揺らして笑い、「そうだよ」と答えた。
「しょっちゅう、〝迷子の国〟に迷い込んでいたなぁ。まぁ、いつもこうして無事に戻ってきていたから……よかった、よかった」
まだ夕方だったが、外はすっかり暗くなっていた。買い物している間に降ったのか、屋外の駐車場にとめていた七人乗りの白いワンボックスカーの屋根の上には、うっすらと雪が積もっていた。
スタッドレスタイヤにしておいてよかったと男は思い、除雪ブラシで車の屋根から雪をはらい落とす。
妻と三人の子供たち、そして父と母が、買い物袋と一緒に乗り込んだことを確かめると、男は車のエンジンをかけ、ショッピングモールの広い駐車場をゆっくりと後にした。
迷子の国 坂本 有羽庵 @sakamoto_yu-an
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