風船

風船


                      



 窓の外を風船がゆっくり昇ってきた。赤い色の風船だ。



 今にも壊れそうなコースターの振動で、二階に在る遊園地の事務所はしょっちゅうがたがた揺れる。ウイークデーで園内には余り人はいなく、バイト達がアトラクションの裏で暇そうに煙草をふかしているのが窓の向こうに見える。


 私は、窓際で眠くなるような日を浴びながら買出しが帰ってくるのを待っていた。ボールペンを指先でくるくる回しながら、そうやって窓の外を眺めていると嫌に近くをゆっくりと、風船が昇ってきたのだ。


 そして、


 まるで自分の姿を見せたがるかのように張り付いたので、堪らず目を逸らした。






 そんなものを見た所為でふと、昔のことを思い出した。



 母が、鬼灯を鳴らしている。


 皮を剥くとてるてる坊主のように可愛い姿になった鬼灯は、その実の部分だけ見るとミニトマトにそっくりだった。弁当に入っていたトマト。余り好きではなかったが、弁当箱にぽつんと取り残された赤い実が何だか気の毒に思えて、結局食べてしまった。食べてしまうとそう不味くは無かった。

 そんな憐れなミニトマトにそっくりな鬼灯。



 母は、楊枝を器用に使い、破いてしまわない様に丁寧に鬼灯の中身を取り出している。



 私もやってみたが何度やっても突き破ってしまったり潰してしまったりで綺麗に種を取ることは出来なかった。


 私は母が呉れると言った鬼灯を受け取らず、出来損ないの自分の笛を口に含んだ。洗ったはずなのに、苦くて苦くて、吹くどころではなかった。ああ、そういえばミニトマトが苦手なのは鬼灯の所為だったのかもしれない。



 母が鬼灯を口に含む。

 鬼灯は生き物のようにぎゅうぎゅうと鳴った。



 不思議だった。

 何で鳴るのか訊いた事があったけれど、母はなんと答えたのか。



 息が、……息を。


 嗚呼、何だったのか思い出せない。




 鬼灯を鳴らすことは出来なかったけれど、その頃は良くゴム風船に息を吹き込んで飛ばして遊んだりした。思い切り吸った息を風船に篭める時、息継ぎの時にゴムの臭いが鼻をついた。


 一杯に入ると口を押さえていた手を離し、遠くに飛ばした。鳩に向かって飛ばして吃驚させた事もある。飛ばすとき音が出るのでそれが面白かった。啼きながら小さく凋んで再び己の手の平に戻った。繰り返し、唇が痺れて息を吹き込めなくなるまで遊んだ──。







 事務所を見回したが、まだ買出しが戻ってくる気配はない。弁当を買いに行った同僚に財布を持たせてしまったから今持っている金はポケットにある缶コーヒー代くらいだ。


 私は風船を飛ばした主を探しに行くことにした。


 ひょっとしたら園内で小さい子供が泣いているかもしれない。


 錆びた階段を降りると、早速それらしい親子連れを探したが、乗り物に乗っているのか見付らなかった。天気は良く、偶にすぐ側の寺の門から鳩が湧き上がった。参詣者の服からか、護摩の臭いが饅頭の匂いと共に辺りに漂っている。何時も通り胡散臭い占い屋もやっていた。

 何時も通り、何時も通り。


 しかし、鬼灯の事など思い出した所為だろうか。こんな、毎日通っている町が何故か愛しく見える。案外、無縁と思っていた郷愁という奴にやられたのかも知れない。







 園に入る入り口でふわふわ漂うものを見つけた。

 暫らく漂うとぱちっと消えてしまう。

 虹色に輝きながら飛ぶ薄い球。


 シャボン玉はどうやら遊園地の外から来るらしい。親子連れも見つからないし、釣られる様にして私は外に出た。シャボン玉は儚過ぎて長く遊んだ経験はない。しかし母はそんな儚さを好んでいたようだ。


 母の作ったシャボン玉に、まだその頃煙草を吸っていた父が煙を入れるのは面白かった。本来七色に光って飛んでいくはずのそれは、父の吹き込んだ白い煙を中に閉じ込めて飛んだ。そして唐突にぱち、と割れてしまう。すると中から白い煙が再び外に出てくる。ゴム風船に出会う少し前にそうして母と父と遊んだ。

 鬼灯とシャボン玉はどこか似ている。




 少しばかり逡巡して、寺を一周して来ることにした。


 右手に寺を見ながら周ると、鉢植えの菊が並べて置いてある。観光客も多い寺なのに、立派な鉢植えに目を遣る人はほとんど居ない。菊は大振りのものから小振りのものまで様々で、折れないように支柱で支えられながら、空に向かって咲いている。

 専ら小山のような寺ばかりが注目を浴びている所為で。ここだけがまるで別の世界のようだった。別の世界……菊が咲いているし、さながらあの世のようなものかもしれない。とするとあちらがこの世か。


 手にカメラを持った人がそこらで記念撮影しているのを、ころころに太った鳩がさも当然な顔をして邪魔している。

 一見愛らしいけれど、小首を傾げるあの仕草に騙されてはいけない。油断していると群れに喰われるやも知れない。実際今も豆の袋を持った観光客が頭や肩に止まられて悲鳴をあげているではないか。


「莫迦莫迦しい」


 左右にあるおみくじの棚を横目に見つつ、浮かんだ妄想をすぐに否定した。

 門を潜った私の背後で、道化が離した風船の束のように、鳩が一斉に飛んだ気配がした。




 門を出ると、暫らく賑やかな通りを行った。


 ここは、参詣客や訪れる人の大半を占める観光客の為に、食べ物屋と土産屋が仲良く軒を連ねている。こんな平日の昼間には歩いていると中々楽しいものだが、休日になると店は人に埋もれ、ちょっと高い所にある看板しか見えないような状況になる。押し合いへし合いしながらちょこちょこと先に進むしかない。


 目的の店は行きつけの喫茶店だった。買い出しが帰ってこないから空腹をクリームと砂糖を一杯入れた珈琲で誤魔化したかった。手持ちの小銭では足りないが、なに、ツケで一杯くらいは飲めるだろう。

 ちょうど買出しが行ったと思われる弁当屋の側なので向かっているのだが、まだ会わない。


 賑やかな通りを右に曲がり、先に進むと大きなものが行く手を妨げていた。


 白と、赤。

 サイレンと、人だかり。

 ちらりと見えた同じ制服の色。





 財布は無事だった。中に母が呉れた万博のコインもちゃんと入っていた。もっとも、カードも何も入っていない安いだけの財布だから無くなっても大した損害にはならないのだが。


 同僚が救急車に乗せられる所に出くわした。そのまま職場の近くの総合病院まで一緒に乗っていった。揺られる間、サイレンが案外小さな音に感じて、妙に感心してしまった。病院に着くと早速職場に電話をかけ事情を話し、倒れた同僚に暫らく付き添ってやることにした。


 買出しに行った同僚は帰る途中でちょっとした事故にあったのだという。


「それが、突然ね。女の人が出てきてシャボン玉を僕に吹きかけたんですよ」


 同僚は照れ笑いを浮かべながら言った。


「それで、消えてしまいたいって言うんです。アッと思った時にはシャボン玉、思いっきり吸い込んじゃって……」


「それで倒れたのか。随分簡単な奴」


 私が言うと、同僚は心なしか青ざめた顔で言ったのだ。


「なんて、言うんでしょうね。なんかヘンな物が自分の吸う空気をみんな奪ってしまう感じなんですよ。呼吸がね、出来ないの」


「ふーん」


「ああ、駄目だ。殺られると思った時に近所の人が呼んでくれたらしい救急車のサイレンが聞こえてきて、気付いたらこうですよ」


「……元気そうだな、私はもう帰るぞ。病院は苦手なんだ」



 高々シャボン玉くらいで、と笑いあったのだが、何か引っかかるものを感じた。

 シャボン玉? 似たようなことが嘗て無かっただろうか。




 病院から出ると夕焼けの中、小さな女の子が神社の前でシャボン玉を吹いているのに遭遇した。私は、なんだか同僚の話を思い出してそちらを見ないようにして足早に歩いた。


 その子の母と思しき人が、もう一回り小さい女の子の手を引いて向かったので、少し安心した。








 漸く事務所に戻ると、誰かが駄菓子を買ってきたらしく、私の机にも分け前が置いてあった。口々に倒れた同僚の様子を聞かれ、それにこたえている内にとっぷりと日が落ちた。

 仕事を慌てて進め、いざ帰る段になり、私は再び駄菓子に向き合う。

 串カステラや、ひも付きの飴、木の匙で食べるヨーグルトなどは私の大好物だった。それらは事務所に常備されている紙皿に置かれていた。机の端に置かれたそれらを引き寄せた時、皿は下に踏んでいるものを私に見せた。


 何色かの紙が張り合わせてある紙風船だった。

 隣の同僚の机にはベーゴマが置かれているから、どうやら玩具は一人一つあるらしい。


 戯れにふっと息を吹き込むとゴム臭いような気がした。


 手に当てて何度か空中に躍らせるつもりが、取り落としてしまった。今なら分かる気がする。ゴム風船はシャボン玉や鬼灯のように儚くはない。





 ゴム風船を縛ったことがある。


 鬼灯は、母がくれたのも私の不細工なのも机の中で腐ってしまった。

 木の引き出しに嫌な染みを作り、落とすことが出来なかった。それで、鬼灯のような赤い色をしたゴム風船に息を吹き込んで、縛ってみたのだ。ようは腐ってしまった鬼灯に似せたかった。それに、良く飛んだからさぞ良く浮くだろうと思っていた。


 風船は屋台で売っているようなふわふわした空中を漂うものと違い、すぐに地面に落ちてしまった。


 私は鬼灯のように鳴くこともせず、シャボン玉のように浮くこともしないゴム風船に興醒めしてそのまま放っておいた。




「──物に息をふきこむってことはね」


 そう、風船は重そうに家の床に落ちていた。鬼灯のような愛らしさはなかった。


「──命をふきこむのと同じことなんだよ」


 ゴムの風船は何日かするとしぼんでしまった。しかも飛ばして遊んでいた時のように再び空気を入れてやろうとしてもくったりとして入らなかった。なんだか大変な事をしてしまったようで、お気に入りだった風船遊びはそれきりやめてしまった。





 ずきりと頭が痛んだ。

 手の中でくしゃりと紙風船が潰れる音がした。


 最近のことだ。私は風呂場で倒れていた母を助けた。

 でも、完全に助けられたわけではなかった。湯船で居眠りした母は、私が人工呼吸したときには既に脳の一部が壊れていたのだという。母の唇はゴムのような感触がした。


 息を吹き込むことが苦手だった私は、命を吹き込むことに失敗したのだろう。母の姿は残った。しかし母の魂は何処かに飛んでいってしまった。私には飛んで行った母の魂の行方が分からなかった。


 魂だけはせめてシャボンの様にぱち、っと消えてしまったのならいい。


 あの縛られた風船は壊れることも無ければ、音を出して飛ぶことも無かった。

 母は、母も、声も出さずに萎んでいくだけだった。






 仕事が終わり、家に帰ると私は母の部屋にただいまを言った。

 そして自分の部屋に入ると暫く開けていなかった昔の机の引き出しをそっと開けてみた。


 しぼんだ風船はまだあった。


 手に取り、目を閉じていたわるように頬ずりした。

 ふと気配を感じて目を開けると、





 自室の窓に昼間の風船がはりついていた。

 あの赤い風船。

 


 そう母の顔をした風船がはりついて、こちらを見つめていた。


 私はそちらを見る事ができずに、しぼんだゴム風船に視線を落とした。






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風船 @nekoken222

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