怪談コンビニの娘

rokumonsen

怪談コンビニの娘

 親友の新太郎がLINEで言ってきた。

「マジだぜ。すごくかわいい子に恋している。紹介するよ。バレンタインデーに旅行に行く」

 わたしは、また、いつものことか、と特に驚きもしなかった。新太郎は高校時代から、早とちりの男だ。クラスメイトの舞が自分を好いてくれていると思い込んだ。隣のクラスのスポーツ万能、成績優秀、つまり、女子サッカー部のキャプテンで、学力テストは学年五番以内という女の子と舞は恋人同士。新太郎は呆然自失、一週間は立ち直れなかった。まあ、一週間程度で元に戻るところが、すごいといえばすごい。

 東京の私立大学で新太郎は同じ建築学科の綾香に恋した。わたしは、こんどは本物かと半ば、信じた。初めて紹介されたとき、彼女は、ひとことで描写すると、雨上がりの空にかかる虹のようなさわやかさだった。新太郎も身長一メートル八十ちょっとあるが、彼女も一メートル七十ぐらいの上背で、ほっそりしており、新太郎は東京スカイツリーみたいな恋人だといっていた。新太郎がのぼせ上がるのも無理はなかった。

 一か月後にふられた。いや、ふられたというより、この場合も新太郎の片思いだったというべきだろう。新太郎と綾香が学食でランチを食べているとき、口論になった。東京スカイツリーの建築学的な意味合いだ。新太郎は東京スカイツリーのライトアップされた優美さをたとえに、彼女の美しさをたたえ、ディナーに誘った。

 意外なことに、彼女は反論した。東京の下町に高さ六百三十四メートルのスカイツリーはふさわしくない。パリの整然とした低層ビル群のある旧市街を例にだし、東京の下町の平面の街並みこそが文化的、歴史的な街づくりの大切さを象徴している。石油で有り余る金を注ぎ込み、ドバイの象徴になっている高さ八百二十八メートルの複合商業施設、ブルジュ・ハリファと同じ思想で東京の街づくりをしてはいけない。綾香は、自分とスカイツリーが一緒にされて腹を立てた。

 その程度の認識では一緒に未来の建築のロマンは語り合えない、と一蹴され、新太郎の片思いは終了のゴングが鳴った。綾香は、同学の志と新太郎を見ていただけで、恋愛などふたりの間には存在しなかった。それを取り違えた新太郎のいつもの早とちりだ。


 一級建築士として活躍している二十五歳の新太郎から、かわいい子と一緒にバレンタインデーに旅行に行くと、LINEが来てもわたしはにわかには信じられなかった。翌日、新太郎の誘いでなじみの中野の焼き鳥屋で飲んだ。新太郎は飲む前からハイテンションだ。アドレナリンが相当量出ている。

「自宅近くのコンビニで知り合った。そこのオーナーの娘だ。二十歳だ。美術大学の学生で、名前は愛子。週に一度、店の手伝いをしている。かわいいよ」

 トロトロの声だ。わたしも男だが、男という生き物は自己中心的で、とにかく美人に弱い。

「コンビニの娘と、どうして仲良くなったんだ」

「知りたいか」

「どうでもいいが、また、新太郎の思い込みじゃないかと思ってね」

「それは心配ない。これは真実の恋だ」

 新太郎はウィスキーのハイボールを一気に飲み干した。

「お代わりっ」 

 話の始まりは、東京に十数センチの雪が降った夜だという。新太郎は同僚と酒を飲んだ後、地下鉄の駅を降り、自宅のアパートに向かった。一キロ程度の道だが、雪はしんしんと降り、革靴は滑りやすく、そろりそろりと歩を進めた。いつもなら十五分ぐらいで着くが、その夜は道をどこで間違えたのか、迷ってしまった。革靴は中まで雪が入り、濡れた。と、少し先に青白いネオンサインの看板が見えた。

 〈コンビニエンスストア クロッカス〉 

 見慣れない名前のコンビニだ。セブンイレブン、ローソン、ファミリーマートというフランチャイズチェーンでもないらしい。店の前はきれいに除雪され、中はとても暖かそうだ。新太郎は、何か温かいものでも買おうと足早に店に急いだ。ドア先で、新太郎は思いっきり転んだ。幸い、頭は打たなかったが、体を守ろうと左手を地面につけ、手首をひねってしまい、痛みにうなった。店から助けに出てきたのが、愛子だ。

 彼女の手が差し伸べられ、新太郎を抱き起こした。新太郎の周囲の空気が一陣の風に揺らぎ、彼は何とも表現のしようがない、かぐわしい香りに包まれた。その香りは鎮静効果を持つかのように、新太郎の体にも染み込み、左手首の痛みを鎮めた。新太郎は愛子に支えられて、起き上がった。店からもう一人の女が心配そうな表情で出てきた。五十前後で、小太りだ。

「お嬢さま、中で手当てして差し上げましょう。湿布したほうがいいでしょう」

「歩けますか」

 愛子の声は優しかった。新太郎はうなずき、恥ずかしげにズボンの雪を払って店に入り、年配の女が持ってきた椅子に腰かけた。そのとき、気づいたが、二人の胸にネームがあった。

 〈島田 愛子〉

 〈磯崎 知子〉

 磯崎は、新太郎の左手首を一瞥すると、持ち帰り用の小さなアイスパックを二つ、薄いガーゼに包んで持ってきた。それを左手首に押し当て、包帯を巻いた。

「とりあえず、冷やさないとね。あす、病院に行ったほうがいいですよ」

 その間、愛子はコーヒーをれていた。湯気の立つ白いカップが新太郎の前に出された。コーヒーを一口ふくみ、飲み込んだ。彼女がほほ笑む。新太郎は至福の境地だ。

「元気でましたか」

「ありがとうございます。どじった」

「こんな雪ですから、道はとても滑りますね。手首、痛みますか」

「いや、たいして。手当てしてもらったから、もう大丈夫です」

「あまり腫れないといいけれど」

「磯崎さんにお礼をいわなければ」

「どうして知子さんの名前を知っているの」

「ネームプレートで。お嬢さまといっていましたが、磯崎さんは従業員の方ですか」

「もう長い間、勤めているの。わたしが生まれたころから」

 いつの間にか、磯崎は姿を消していた。新太郎にとっては愛子と二人だけのほうが都合がいい。二人は自己紹介した。新太郎は都内の建築会社に勤める一級建築士。愛子はフランスのカミーユ・クローデルのような女性彫刻家を目指す美大生。髪をポニーテールに結び、胸にピノキオの銀のペンダントを下げていた。クローデルは「考える人」で有名なロダンの愛人で、晩年は狂気のうちに逝った。芸術の都、パリで奔放に生きた女性だ。愛子に言わせると、クローデルの輝きは歴史から消えることはない。愛子は、自分もそうありたいと力を込めた。

 新太郎に言わせると、彫刻と建築は兄弟のようなもので、人類にとって価値ある造形だ。スカイツリーは現代のバビロンの塔ではない。建築工学の粋だ。地震国・日本で五重塔のような木造の歴史的な建造物が倒壊しないのは、宮大工の精緻な技術があるからだ。それは現代のスカイツリーに結晶している。新太郎と愛子は意気投合し、時間を忘れた。

 新太郎によると、いつ店を出たのか定かではない。ナイトテーブルの目覚まし時計がけたたましく鳴って、自宅マンションのベッドで目覚めた。スーツを着たまま、横になっていた。最初、夢を見ていたのか、と思った。同僚とは、二軒の居酒屋を飲み歩き、生ビールのジョッキとウィスキーのハイボールを数杯、飲んだ。かなり酔ってはいた。だが、あまりに鮮明な夢だ。

「なんだ、結局は楽しい夢を見た話で一件落着か」

「いや、夢ではない。いつ、家に戻ったかは、記憶にないが、本当だよ」

 新太郎は黒いビジネスバッグの口を開け、中から水色の薄いアイスパックを二個、取り出した。

「最初の出会いの記念に肌身は出さず持ち歩いている。この左手首から恋が始まった」

 なんともロマンチックで、わたしは信じがたかったが、手の込んだ作り話をする男ではない。可能性があるとすれば、新太郎が精神に病をきたし、幻覚、幻聴を実在のコンビニの娘と信じ込んでいることだろう。しかし、こうして焼き鳥屋で酒を飲んで、不思議なコンビニの話は別として、新太郎に不自然な様子は見られない。アイスパックをテーブルにおき、新太郎の話は続いた。

「また会いたくて、地下鉄の駅からいろいろな道を歩いてみたが、見つからなかった。グーグルで検索しても〈コンビニエンスストア クロッカス〉という名前の店はなかった。逆にグーグルでも検索対象に取りこぼしがあるだと思った」

「それでどうなった」

「一週間後だ。上司と酒を飲んで別れ、いつものように地下鉄の駅に着いた。改札を出ると、雨が激しく降っていた。傘を持っていなかった。一キロの道でも傘なしでは、ずぶ濡れだ。どうしようかと考えていたとき、目の前に磯崎さんがいた。傘を二本持っていた。あまりにタイミングがいいのでビックリした」

 磯崎は、新太郎が帰宅する頃合いだろうと、迎えに来たそうだ。愛子がコンビニで待っている。新太郎にとっては願ってもないことだ。店を一生懸命、探していたのだから。新太郎は磯崎のあとを付いて行った。雨は激しい。アスファルトの固い路面に当たり跳ね返っている。突風で傘が吹き飛ばされそうになり、新太郎は風に向かって前傾姿勢になった。数秒、そのまま立ち止まった。風の力が消失すると、傘を上げた先に青白いネオンサインの看板が浮かんでいた。

〈コンビニエンスストア クロッカス〉

「さあ、お嬢さまとコーヒーを飲みながら、夜を楽しく過ごしてください。新太郎さま」

 磯崎が店の前で傘をたたむと、ドアがスッと開き、レジの前で愛子がほほ笑んでいた。

「なるほどな。それ以来、毎夜、コンビニ通いしているのか」

「いや。そうじゃない。コンビニに行ったのは、この二回だけだ。それからは愛子さんがうちに来るようになった。夜来ては、朝帰りさ」

 ここでわたしは新太郎の眼の中に、不吉なものを感じた。男女の肉体関係に野暮はいうことない。親友として、祝ってあげるべきだろう。ただ、目の前の新太郎の双眸に宿る不気味な色合いはなんだろうか。

「磯崎さんがうちのドアの前までボディーガード役で一緒に来るのにはまいるが」


 新太郎に、めくるめくような愛の夜が訪れた。愛子の肌は白く透き通り、新太郎には、はじめきゃしゃな印象を与えたが、ベッドの中で愛子の内に秘めた激しい欲求に思わずたじろいだという。二十五歳で肉体的にも強靭な新太郎は理性をかなぐり捨て、愛子の求めに応じた。ひと夜、何度、愛を交わしたか。夜明け前に愛子が迎えに来た磯崎と帰っていくのを新太郎は、二人の汗と愛液でしっとりと濡れたシーツの上でグッタリしながら見送った。

 ある夜、愛子は新太郎にプレゼントをくれた。三角フラスコのようなガラスの器で育てる早春の球根の花、クロッカスだ。二人が旅に出るバレンタインの日に六弁の黄色い花が美しく開く。クロッカスの花言葉は、あなたを待ち続ける。深い愛だ。愛子はそう説明して、花を新太郎の寝室のナイトテーブルの上に置いた。

「私がここにいないときは、この花を愛子と思ってください」

 わたしは、話を続ける新太郎の顔をまじまじと見詰めた。その視線は宙を漂い、自分の語りに心を奪われていた。

 その後、しばらくわたしは新太郎に会わなかった。会社の仕事で出張が続き、東京を離れることもしばしばだった。バレンタインをあすに控えた日、わたしは久しぶりに新太郎に電話した。コールはするが、出ない。LINEfに返信もない。何度か試したが、反応はなかった。

 わたしは胸騒ぎを覚えた。高校時代の共通の友人である健太に声を掛け、午後六時すぎ、一緒に新太郎のマンションに行った。新太郎の自宅は三階建てのマンションで、二階の二○三号室だ。八畳のダイニングキッチン、隣に六畳の寝室と続く1DKだ。健太と地下鉄の駅で待ち合わせ、歩いて十五分ほどで、着いた。一階入口わきに各室の郵便ポストが並んでいる。二○三号室は、ポスティングされたチラシでいっぱいだ。階段を上がり、新太郎の部屋のドアの前にわたしと健太は立った。通路の照明は明るいが、人が住んでいる生活音が何もしなかった。

 わたしは玄関チャイムのボタンを押した。部屋の中にチャイム音が響き渡った。何の応答もない。二度、三度、押した。同時に、健太が鉄のドアをドンドンと叩いた。わたしは、ドアのノッブをひねった。鍵はかかっていなかった。わたしと健太は目を見合わせた。ドアを外側に開けた。

 何日も空気を入れ替えていない、よどんだ臭いがした。微かに若い男の精液と汗の臭気が入り混じっている。奥まったテーブルの上にLEDの小さなスタンドが青白く、冷たい光を放っていた。思わず、わたしと健太は叫び声を上げそうだった。その光に照らされて新太郎がソファに座っていた。無精ひげを生やし、目は落ちくぼみ、恐ろしいほどに痩せこけていた。

「新太郎、何があった。こんなに痩せて。どうした。電話にもLINEにも出ないで」

 わたしはそういいながら、部屋の照明のスイッチを探した。

「だめだ。点けるな。明かりはだめだ」

「こんなに暗くちゃ、話もできないだろう」

 健太がいった。

「点けないでくれ。クロッカスに余計な光を当てたくない。あす、バレンタインで咲かせると約束している」

「その話は前に聞いた。そんなことより、新太郎の健康状態が心配だ。こんな状況は不健康だ」

「ぼくは大丈夫だ。愛に包まれている。愛子さんともうまくいっている」

「愛子さんとの関係に口をはさむつもりはない。しかし、今の新太郎は病気だ。こんなに痩せていることが証明しているじゃないか」

 わたしは、そういって思い出した。新太郎と愛子はバレンタインの日に旅行に行く約束をしていたはずだ。

「こんな調子で、愛子さんと旅行はできるのか」

「もちろんだ。前からの約束だ。心配は無用だ」

「だけど、本当に具合悪そうだよ。一度、病院に行こうよ。新太郎。それでなんでもなければ、いいのだから」

 健太は心配そうにいった。

「だから、余計なお世話なんだ。ぼくは、クロッカスをちゃんと咲かせなくちゃいけない。ぼくの命だ」

「命って…」

 わたしはドアが開いている隣の寝室に視線を向けた。真っ暗な空間の向こうに、妖しげな黄色い光がボウっと輝いている。目を凝らすと、黄色いクロッカスのつぼみだ。まるで誘蛾灯のようだ。わたしの横で、健太もそのクロッカスに魅せられたように立ち尽くしている。わたしは眩暈を覚えた。


 遠くで消防車のサイレンが聞こえた。わたしの目の前の空間は白濁し、その中で消防車の赤色灯がいくつもクルクルと回っていた。コンビニのガラスが次々と砕け、炎が噴き出す。ネオンサインはバリバリと割れた。

〈コンビニエンスストア クロッカス〉

「中に三人がいる」

「火勢が強く、入れません」

 消防士たちの緊迫した声が響く。

「お父さんっ」

「お嬢さまっ」

 若い女と年配の女の叫びが交差した。コンビニは猛煙を吐き出し、炎に包まれた。商品のビンやスプレー類が次々と弾ける。

「崩れるぞお」

 消防士の叫びと、女たちの悲鳴が一瞬のうちに交じり合い、わたしに向かって紅蓮の炎が襲い掛かった。わたしは目を閉じ、しゃがみこんだ。

 数秒だろうか。暗い部屋の冷たい静寂の中で我に返った。横で健太もしゃがみこんでいる。同じ幻覚、幻聴を見たに違いない。わたしと健太は、心の隅に信じられない、信じたくないという少しの疑念は残してはいたが、新太郎の身に何が起きているのか、はっきりと分かった。

 新太郎はこの世に未練を残して死んだ若い愛子と、不憫と思う磯崎の亡霊に憑りつかれている。このままでは取り殺される。その夜、わたしと健太はまんじりともせず、新太郎の部屋で明かした。新太郎はベッドに横たわり、目を閉じている。ナイトテーブルのクロッカスはますます、黄色い輝きを増している。じき花開く。クロッカスを破壊すれば、愛子と磯崎を撃退し、新太郎を救えるのだろうか。いや、クロッカスに近づきがたいものを感じる。見えないバリアが周囲を覆っている。

「とっても非科学的だが、これは牡丹燈籠の話に似ている」

「怪談の牡丹燈籠か」

 中国の怪異小説をタネに江戸時代の文久年間、三遊亭円朝が作った名作だ。イケメン浪人の新三郎に旗本の娘で亡霊のお露と下女のお米が夜な夜な、牡丹燈籠を手に下駄でカランコロンと鳴らしながら、新三郎に通う。

「新三郎は取り殺されてしまう。新太郎に、そんな結末はとんでもない」

 わたしは首を振った。

「この部屋に愛子を入れないためには、魔除けのお札が必要だ」

 健太が真顔で言った。しかし、牡丹燈籠の展開では、魔除けのお札を貼ったものの、お米に金で買収された新三郎の下働き、伴蔵の裏切りで窓のお札がはがされ、亡霊は新三郎の家に入ってしまう。

「少なくとも伴蔵のような裏切り者は、ここにはいないよ。一か八か、やってみる価値はある」

「やろう」

 わたしと健太は、健太の両親の伝手で四谷のお岩稲荷と縁がある寺の住職に、魔除けのお札をもらいに行った。八十すぎの住職は、この話を聞き、法力を強めるとして本堂でお札を前に一時間余り読経し、悪霊撃退を念じた。わたしたちは十枚のお札を手に再び、新太郎の部屋に行った。

 バレンタインの昼も過ぎようとする頃、わたしと健太は玄関ドア、ダイニングキッチンと寝室のベランダと窓に念を入れて二枚ずつ、お札を貼った。これで愛子は部屋に入ることはできない。新太郎はベッドで眠り続けている。

 わたしには、バレンタインの夜さえ、愛子と新太郎を離すことができれば、新太郎の命は助かると確信があった。科学的な知見ではないことは、わたしも健太も十分、認識していたが、森羅万象、科学で割り切れないことも多く存在することも事実だ。新太郎を助けることが第一だ。

 夜のとばりが降り、わたしと健太はLEDの青白い光のもと、緊張していた。ベッドわきのナイトテーブルのクロッカスはいよいよ、その固いつぼみをふくらませ、六弁の花を一気に咲かせようとしていた。

 「どうしてこのようなことを…新太郎さん、裏切るのですか」

 若い女の恨めしい声が聞こえた。愛子だ。

「新太郎さまがこのようなことをするわけがありません。悪いお友達の仕業です。はがしてください。愛子さまと新太郎さまの恋路の邪魔をしないで」

 磯崎だ。

「後生です。新太郎さまと約束したのです。バレンタインの日に旅に出ると。どうか、後生です。お札をはがしてください」

「お友達のあなたたち、こんなことをして…恨みますよ」

 わたしと健太は息を殺した。

「ドアも窓もベランダもお札があって、入れません。どうしたら、どうしたらいいのでしょう」

 さめざめと泣く愛子の切ない声が漏れてくる。空気が冷え切っている。冷蔵庫の中にいるようだ。わたしと健太は震えた。吐く息が白い。

「十年前、経営不振に陥ったご主人の放火で、お店は焼け落ち、若い愛子さまもわたしもこの世に未練を残して焼け死にました。やっと愛子さまと相思相愛の新太郎さまと知り合い、愛を確かめ合ってきましたのに、こんな最後の最後のバレンタインの日に、このような悲しい目に遭おうとは…どうか、後生です。お札をはがしてください」

 磯崎が涙声で懇願した。わたしと健太は両手で耳をふさいだ。この一夜をひたすらお札の法力で新太郎を守るしかない。

「情けない、情けない。恨めしや、恨めしや」

 愛子と磯崎の声が次第に遠のいていく。あきらめて去っていくのだ。

「情けない、情けない。恨めしや、恨めしや」

 消え入るように声は次第に細くなり、静寂があたりを包んだ。バレンタインが終わるまで夜中の十二時まで、残す時間はもう数分だった。しかし、クロッカスは近づき難い黄色い光をまだ放っていた。つぼみが開きかけている。わたしと健太は少し安堵していた。もう、バレンタインはすぎる。あと、一分だ。十四日午後十一時五十九分。

 そのとき、ダイニングキッチンのテーブルにある新太郎の仕事で使うノートパソコンの液晶が突然、輝いた。わたしは目を疑った。数秒のうちに映像が現れた。黄色いクロッカスが絨毯のように咲き誇る花畑の中の一本道を、二人の人影が次第に近づいてくる。健太は声にならない恐怖に顔を歪めた。二人は愛子と磯崎だ。その姿は画面いっぱいに大きくなり、画面からこの部屋に飛び出して来そうだ。

「健太っ、お札を貼れっ」

 わたしは叫んだ。

「貼るんだ。貼るんだ」

 わたしは気づいた。インターネットこそ、だれもが使っている現代のアクセスの出入り口だ。亡霊はこのインターネットを通じて新太郎の部屋に入ろうとしている。健太はお札を二枚、バンと貼り付けた。二人の女は泣きながら立ち止まった。 恨めしい表情だ。

 わたしの心臓はバクバクと鳴る。健太は荒い息を吐いている。危機一髪、侵入は止めた。と、わたしの背後で、新太郎の寝室から着信音が鳴った。わたしは恐怖で固まった。ベートーベンの運命の着信音は新太郎のスマートフォンだ。万事休す。

「新太郎さん、やっと一緒ですね」

 愛子の声が聞こえた。ナイトテーブルのクロッカスは六弁の花を一気に開いた。わたしと健太は目を見開いた。寝室のクロッカスが宙に浮かび、その下で新太郎と愛子が抱擁していた。唇を重ねた。

「新太郎っ」

 わたしは近づいて二人を引き離そうとした。抗いがたい力が、わたしを部屋の隅に弾き飛ばした。二人は紅蓮の炎に包まれ。抱き合っている。クロッカスがガラスの器ごと、破裂した。炎とクロッカスの黄色い花びらが幾千も部屋を満たし、わたしはその中に飲み込まれた。


 気が付いたときは、すでに夜中の十二時をすぎ、バレンタインは終わっていた。わたしと健太は、新太郎が寝ていたベッドに走り寄った。思わず、一歩下がった。新太郎は黒いしゃれこうべを抱いて、息絶えていた。

 検死の結果、新太郎の死因は心不全として片づけられ、わたしと健太の怪異談は一笑に付された。葬儀の数日後、わたしは十年前に焼失したコンビニがあった場所を訪れた。今は五階建てのオフィスビルが新築されている。そのビルの名前を聞いて、わたしは合点がいった。新太郎が初めて設計を任されたビルだ。新太郎は、うれしくてしょうがないと手放しで喜んでいた。

 未練を残して死んだ愛子と、その焼け跡に新築したビルの設計者の新太郎。二人の赤い糸の接点はここにあったのか。

 わたしは昔のことを知りたくて、ビルの管理人に尋ねた。二軒先の和菓子屋の主人が町内会長だという。古い小さな店だ。主人は七十前後の痩身の男だった。

「元はな、島田酒店という、繁盛店だ。うちと同じく先代の創業で、幼なじみのよっちゃん、芳蔵というのだが、一人息子で、働き者だったなあ。その一人娘が愛子さんだ。母親似でべっぴんだったなあ。ところが、母親が乳がんで早くに死に、芳蔵は男親ひとりで育て上げた。そのときに、助けてくれたのが、従業員の磯崎さんだ。この人も独り身でな、まあ、つまらんことはいう気はないが、さびしい芳蔵と男と女の間柄だったかも知れん。

 従業員は四、五人いたが、そのうち、大きなショッピングモールが出来てな。追い打ちをかけるように近くにディスカウントの酒の販売店がオープンし、芳蔵の商売は上がったりだ。店をたたむかどうか、悩んでいたところに、コンビニに衣替えしたらどうか、という話が舞い込み、芳蔵は飛びついた。それしか、生きる道がなかったからなあ。それでも一生懸命に働いて、二年ほどはもったが、それが限界だった。この周辺は、コンビニが乱立して、過当競争なんだ。死んだ母親が好きだった花の名前をつけて、クロッカスという店名で、ちょいとしゃれたが、それだけではなあ。

 あの朝は、雪が降っていたよ。愛子さんがうちに飛び込んできた。お父さんが店にガソリンをまいていると叫んでな。おれは女房に一一〇番しろっと、消火器をもって愛子さんとコンビニに向かった。そのとき、目の前で、ドカンっだ。磯崎さんが店の前にいたな。愛子さんは、お父さんっと絶叫し、店に飛び込んだ。その後を追って、磯崎さんも店の中だ。止めようもなかった…」

 主人は目頭を押さえた。

「すみません。思い出させてしまって」

「世の中、こんな悲しいこともあるんだなあ。あれから十年も立つが、幼なじみを助けられなかった自分がふがいないよ…そう、コンビニの開店一周年を記念して店の前で記念撮影した。あの頃は、まだ、よかったな。おい、あのアルバムを持ってきてくれ」

 主人は奥さんにいった。青い表紙のアルバムを受け取り、何ページ目かを開いた。ふっと怪訝な表情を見せた。

「変だな、この写真。店の前で、芳蔵と愛子さん、磯崎さんの三人を撮ったのに」

 わたしはアルバムを覗き込んだ。驚きのあまり、声はなかった。そこには四人が並んで写っていた。愛子の隣には、紺のスーツ姿の新太郎が、愛子の肩に手を回し、笑顔で立っていた。       了                                      

                            


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