狼の話

名▓し

狼王

 狼の話をしよう。

 昔々のオオカミさ。

 いまよりもっとおっきくて、言葉もしゃべれて賢い、立派な狼たちの話。

 その昔、狼は誰よりも早く走った。

 人間がまだ鉄を知らないまえから、彼らは野を蹴り山を超えた。

 彼らは住処を選ばなかった。つがいを唯一のむれとし、自分の一生にいている。

 誰も彼らを知らず、それでいて悠々と生き抜く。

 それゆえに美しい。

 いまでは彼らに関する文献はほとんど残っていない。彼らが何を求め、愛し、そしてどこへ向かっていたのか。

 それを知るものは誰もいない。


   ◇ ◇ ◇


 奔ることが好きだった。

 生きていくということは、奔るということだった。

 前足で雪をかけ、後ろ足で野を蹴る。

 そうしていくつもの山を超え、夜を超えた。

 風をきっていくこの感覚が。あなたは何より好きだったんだね、セツ。

 君をはじめてみたとき、美しいと思った。

 銀色の流れ毛。

 夜のような黒い背に、雪のように白い四肢。

 それでいて三日月のような瞳を暗闇のなかで照らしている。

 火薬を湿らせるよりも前に、私は君に惚れたのさ、セツ。

 向けられた火の粉には目もくれず、君は私の横をかすめていった。

 あれはまさしく風だった。

 何者にも囚われない一迅。

『俺は風になりたかった。野草のぐさをなでる春のように。けれど俺は冬しかしらない。冬は嫌いだ。鹿が眠りだす』

「ははっ、今度もってきてあげるよ」

 少女は猟師マタギだった。雪のなかで生き、雪に埋もれて死んでいく人間。

 彼女の父もまたマタギだった。その父も、そのまた父も。連綿と受け継がれるその血は他の動物たちと同じようにこの白い山の土になるのだった。

 そんなひとのがこの大きな銀狼の横で毛皮を編んでいる。

『自分で取れるようになるのはまだ先か』

 狼は傷を負っていた。罠にかかり、銃弾が後肢を貫いている。人の作る、野蛮な罠だ。銀毛は血にまみれ、赤黒く汚れていた。

「それまではイノシシで我慢しておくれ」

『イノシシは嫌いだ。臭くてかなわん』

「そうかい? 私は好きだ」

 少女は狼に寄り添い、その体を温める。

 傷をなでてやると、狼は心地よさそうに目を細めた。

 もう三月みつき、彼は走れていない。

 人間の悪知恵はとどまることを知らない。火をもち木を切り、徐々に彼らの住処を脅かしていた。

 こんなことは一度もなかった。少女もまた蝦夷の身に生まれる。人里とは違う生まれの彼女も、そうした彼らの動きは間近で感じていた。

 この頃もまた近くに集落ができたと聞く。彼女自身、ひと里に降りるのは数えるほどしかなかっったが、その賑わいを目の当たりにして面を食らったものだ。

「なあ、セツ。私はね、冬が好きだよ」

 それに当てられたわけではないが、薫子は少し深い息で背をこの白狼に預けた。

 冬は生命いのちを潜ませる。次に来る春のために、木々は眠り、新たな年を辛抱強く待ち望む。

 それはまるで獲物を見つけ、じっと標的を定めるあの我慢の時間。

 獲物に痛みは与えない。それがマタギに続く流儀であった。

 臓物ではだめだ。神経はまだ生きている。確実に息を止めるには、頭蓋を穿つほかない。

 十四のよわいにして、彼女もまた命を奪うことを教わっていた。

「私はこのなかで生き、この雪のなかで死ぬ。そういう人種さ。うちのおっとーも、おじーもそのまた前も。そうしていきて、死んでった。」

 去年の師走しわす、冬が深まり雪がしんしんと降り積もるなか、父は土に還った。

「雪が降って、寒くて、でも雪の日は空がよく見えるんだ。そして銀世界のなかで君を見つけた」

『俺もだ。お前を見た』

 少女は猟師で、狼は獲物だった。けれど二人はそのとき互いを同類と認めていた。

 空は暗く、冷たさを増し、けれどもどうしようもなく澄んでいる。

 そんな冬が好きだった。深く冷たい闇の底で唯一なびく、灯の明かりが家を持たない薫子マタギの道標であった。

「俺は花を見てみたい」

 狼は顔を上げて前を見つめた。薫子は「花?」と首を傾げる。

 雪は白い。それは美しい。けれど、生きるにはあまりに不毛だ。雪の白さはこの身から熱を、生気を根こそぎ奪っていく。

 野草が芽吹き、獣たちが目を覚ます。霞んだ雲でさえもその温かさのなかでは、心地よく感じる。そんな春を一度でいい、見てみたい。

 雪解け水は川となり、山を駆ける。そうしてまた俺たちを駆り立てるあの風を起こすのだ。

おれたちは住処を選ばない。ただまえに突き進む。それが俺が俺たる所以だ」

 そういった狼の視線は、まるでここにはない遠いどこかを見つめているようだった。

「すべてはあの場所へいくために……」

「あの場所?」

「西の果てに、一面の花畑がある。ひとが寄らず、けがれのない一面の庭園だ」

「どうしてそんな場所に?」

「母の故郷なんだ。俺はそこにいきたい」

 死んだ母がいっていた。彼女はよそ者だったから、群れからいつも離れたところにいた。父は優しいひとだったという。父も早くになくなっていた。

 母は病気がちだった。

 母はよく故郷の話をしてくれた。一面の花畑があって、そこで花摘みをよくしていたという。母は獣人だった。

「じゃあ、そこへいくために?」

「そうだな…、元来、おれたちは群れない。だから大人になれば、己が命をかけてまえへまえへと突き進む。けれど、一向に冬からは出られないでいるがな」

 狼はけたけたと笑う。疲れのない。少年のような笑顔だった。

 少女は笑った。それはとても美しい笑顔だった。まるで花が咲くように、彼女は笑うのだった。

 血と薬液のにおい、鉄と森のにおい。雪で湿ったつややかな銀の体毛。全てが一つとなり、懐かしくさえ思う香りに包まれる。

「でも、そうか……。すこし、うらやましいな」

 そういった薫子の瞳は、憧憬というよりも少し諦めたような寂しい目だった。

「君は自由だ。どこへでもいける。好きなときに走り、好きなところで死ぬ。だから、私は君がちょっとうらやましい」

 少女は狼の首に寄り添い目を閉じた。

 その毛に顔をうずめながら、その匂いを胸一杯に取り込む。この匂いも好きだ。雪で洗われた銀の匂い。

「君が好きさ」

 狼はすこしきょとんとしたように目を開けて、『俺もだ』と応えてやる。

「君とならどこへだっていける気がする。君がわたしにしてくれた景色の話は、ほんとうに私もいったようで…こっちまでわくわくする」

 そうして少女はまた笑うのだった。

『そうだな。俺がみた景色を、お前に見せたい』

「ねぇ、もっと聞かせておくれよ、セツ。君の見てきた景色を」

 そうして狼はまた話した。まだ知らない景色、知らぬ花の香りを、自身の見てきた場所の風景を話すのだった。吸血種の住まう古城。虹色のカーテンのたなびく氷の大地。山を吹き抜ける風の温度や冷たさを。そのすべてを少女は瞳を輝かせながら聞くのだった。狼も彼女の反応が面白いのか、思い出すように視線を上に置く。

 それが彼らの日常だった。マタギの少女と大きな銀狼はそうして幾度の夜を過ごした。

『なぁ、薫子』

 不意に狼は少女を見つめた。それは親が子に諭すような優しさの、けどどこか威厳のある大きな瞳だった。

「俺が死ねば、その毛皮を剥いでくれ。毛皮で頭巾をつくり、君がかぶりなさい。わたしをあの場所まで連れっておくれ」

 この身は重すぎる。この足も、もはや雪を踏めまい。

 狼はそういいながら、身を少し起こして鼻で薫子の頬をなでた。

 私の代わりに、私をつれて、あの場所まで辿り着いてほしい。

「何いってるんだ。君はまだ走れるじゃないか。すぐによくなるよ」

 少女の励ましを狼はどう思ったのだろうか。

 ……ああ。そうだな。

 その言葉ののち、狼は静かに目を閉じた。

 セツはこの頃よくそんなことを口にする。

 弱気なんて珍しい。

 狼はそれから三日もたたぬうちに死んだ。罠にかかって脚を痛め、餌を満足に食べられなかったのが原因だった。

 よわい二百を超える狼の四肢には人の子が運ぶ獣程度では足らなかったのだ。

 狼の身体を彼女はなでる。そうして、体温が失われるのをしっかりと確認した。

 どうして、なんていわない。

 マタギとして少女もまた命の有限を知っていた。

 だから悲しみはあれど、涙は流さない。

 人がいつか死ぬように、獣もやがて死ぬ。自然の摂理だ。

 けれど少女は泣いた。涙が枯れるほど泣いて、泣き疲れて眠った。

 目が覚めたとき、彼女は狼の亡骸に寄り添い、再びその身体をなでていた。

 それは彼の匂いだった。もういない、セツの匂いだ。

『なぁ。薫子』

 頭のなかで反芻する。あの優しい声。

 大きな大きな狼の最後のお願い。

 なぁ。薫子。連れていってくれよ。俺の代わりに君が。

 行けなかった故郷へ。

 満開の春の場へ。

 


 ◇ ◇ ◇



 狼たちが月を見る。

 あくる年も、そのまたあくる年も狼たちは夜な夜な月を見る。

 それは眠りについた王を悲しむように。それは王を看取ったものを讃えるように。

 どこからか聞こえる鎮魂歌とおぼえは喜哀の混じるものだった。

 奔ることが好きだった。

 生きていくということは、奔るということだった。

 前足で雪をかけ、後ろ足で野を蹴る。

 そうしていくつもの山を超え、夜を超えた。

 風をきっていくこの感覚が。あなたは何より好きだったんだね、セツ。

 君の毛皮をかぶって、この脚の軽さがわかる。

 楽しいから、どんどん進んでしまう無邪気な感覚。

 セツの毛皮は魔力を帯びていた。

 ひとはそれを人狼の皮と呼ぶ。少女の身体を借りて、狼は再び走り出す。

 風になりたいといった彼の気持ちがいまならすこし、わかるような気がする。

 山が後ろに流れていく。雪のつもった道を駆け下り、獣道が後にできる。

 こちらを静かに見つめる木々と獣たちの息遣いをたしかに感じながら、少女はいくつもの山を超えた。銀毛に土が被り色褪せたとしても、少女は奔り続けた。

 それからどれほどの時が経っただろう。 もう数えるのも忘れるくらい、ただずっと雪のなかを走り続けてきた。

 雪をものともせず、ただ前だけを見て。少女は走り続けていた。

 いつしか、少女はほんとうに狼になっていた。

 出会った銀狼とは、ひとまわりも小さな、けれどもたくましい狼。

 腹が減れば獣を狩り、喉が乾けば川の水を飲む。

 その昔、狼は白銀のような銀毛に包まれていた。

 いまよりもっとおっきくて、言葉もしゃべれて賢い、立派な狼たちの話。

 人間がまだ鉄を知らないまえから、彼らは野を蹴り山を超え、住処を選ばず奔り続けた。

 少女もまたそのひとりだった。

 けれど永遠にも思えるような時の流れを経て、狼たちは小さくなり、言葉も喋れなくなった。

 夜をその背に乗せた銀色の体躯は雪解けのように土色となり、小さな狼は走り続けた。

 彼らは住処を選ばなかった。つがいを唯一のむれとし、自分の一生にいている。

 誰も彼らを知らず、それでいて悠々と生き抜く。

 それゆえに美しい。

 身体は変わり、色は失へどその美しさは確かだった。

 いまでは彼らに関する文献はほとんど残っていない。彼らが何を求め、愛し、そしてどこへ向かっていたのか。

 それを知るものは誰もいない。

 けれど。

 西の奥地に一面の花畑がある。

 狼王の墓場といわれるそこは、かつて北の夜を統べた大きなオオカミが深く眠っているという。

 一面に広がる花々は季節など関係なく咲き乱れ、まるで王の死を悲しむように、あるいは王が安らかに眠れるよう祈るかのように、ただ静かにそこに在るのだった。

 月の光はここにはない。代わりに、星々が花畑を青白く照らしていた。

 年老いた狼は自らの死期を悟ると、誰にいわれるまでもなく、そこへ向かうのだという。

 古き狼の安息の地であり、今の狼の始まりの地。

 もし訪れるなら、鹿を一匹持つといい。

 きっと彼も喜ぶだろう。

 大きな大きな狼と、小さな小さな少女の、そんな話。

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狼の話 名▓し @nezumico

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