旅人と花
淵瀬 このや
水を汲めなかった旅人のお話。
枯れていく季節の中を、旅人は一人歩いていました。
草木も無く、水も枯れ果てた荒野。人と会うことも滅多にありません。
そんな荒野を歩いていたある日、彼は遠くに一つの人影を見つけました。人影はしゃがみこんで何かと話しているようでしたが、立ち上がったかと思うと、すぐにその場を離れてしまいました。
旅人はあの人影が何と話していたのか気になって、その場所に近づいてみました。
そこにあったのは、一輪の美しい花。花はその身を震わせて、花弁に落ちた露をはらはらと落としています。その様はまるで涙のよう。旅人は問いかけずにはいられませんでした。
「なぜ、あなたは泣いているのですか。こんな荒野では、水は無駄にできるものではないでしょうに」
「切ないのです。あの人に私の想いの届かなかったことが。悲しいのです。私を慈しみ、水を与えてくれる人のいないことが」
「愛されたくて愛したのに、愛がかえってこなかったのが、つらいということですか」
「ええ、ええ。その通りです。情けないことに!」
花は叫んで、その身を一層震わせました。その姿はあまりに哀れで、そして美しく。旅人はその震えをおさえるように、そっとその花弁に手を添えました。
「ならば、代わりに私が愛しましょう。あなたの欲する愛を、あなたの望むだけ。……私はあまり、他者を愛することに長けておりません。それでも、その場しのぎくらいにはなるでしょうから」
旅人の言葉を受けて、花はその葉で旅人の手に触れました。一見ぎざぎざとした葉は、実際には羽毛のような柔らかい毛で覆われていました。
「それは、それは、ありがたいこと。私を愛してくださいね、旅人さん」
そう言葉を交わしてすぐ、旅人は立ち上がりました。
「旅人さん、どちらへ行くのです。私を、愛してくれるのではなかったのですか」
「ええ、約束を違えるつもりはまったくありません。しかし、このままただ傍にいるだけではあなたは枯れてしまう」
旅人は美しいその赤い花弁をひとつ撫でて微笑みました。
「あなたに、水を汲んできましょう。美しいあなたが、この荒野に朽ちることのないように」
それから旅人は、枯れ果てた荒野をさ迷い歩きました。水を求めて、日夜足も止めずに。やがて彼は見つけました。水のこぽこぽと湧きいでる、小さな小さなオアシスを!
旅人はそのオアシスの前に膝をつき、疲労で震える手でその帽子をとります。両の手でしっかりと帽子を支え、砂を巻き上げぬようゆっくりと水を汲みました。
「ああ、やった、やったぞ。これであの花に水を、愛を与えてあげられる。私を頼ってくれた美しいあの花を、胸を張って愛することができる」
旅人はそっと立ち上がり、帽子に湛えた水を零さないように、そっとそっと歩き始めました。
地平線はずっと向こうの荒野を歩き続け、旅人はようやくあの花のもとへ戻ってきました。
「やあ、君のための水を汲んできましたよ!」
かけようとした言葉は、音にならずに荒野に落ちました。
「さあ、水を汲んできたんだ」
「ああ、ああ、ありがとう旅人さん。私に愛を与えてくれて。嬉しくて泣いてしまいそう」
他の旅人が、あの花にちょうど水をあげているところだったのです。
それでも、あの花は旅人に気がついて朗らかに声をかけてくれました。
「あら、旅人さん。お久しぶりですね」
「え、ええ。久しぶり……。そうだ、私も水を汲んできたんです、良かったら……」
そう水の入った帽子を差し出そうとして、旅人は驚きました。そこには一滴も水など無かったのです。荒野を歩き回ってきた彼の帽子は穴だらけで、荒野に大切な水をすべて零してきてしまったのです。
「気にしないでください、旅人さん。私はこの方から水を頂きました。旅人さんから水を貰わなくても生きていけますわ」
「そうです、どこの誰とは存じませんが、気に病まないでください。この花のことは、僕がちゃんと、責任を持って面倒見ますから」
他の旅人が、花に手を添え微笑みます。
「そうだ、私は歌を歌いましょう。旅人さんが心置き無く、次の旅を始められるように」
そう言って、美しい花は歌います。その言葉は旅人に解することはできませんが、旋律の美しさは月もため息をつくと思うほど。他の旅人を押しのけてでも、ここに留まりたいと思ってしまいそうなほどに魅惑的な歌声。
「……ありがとうございます。あなたのおかげで、私は前に進めそうだ」
旅人は辛うじてそう言葉を紡ぎ、花の歌を止めました。彼は花と他の旅人とに一礼し、そのまま足早にその場を離れました。
花のもとを離れても、あの美しい歌が、旅人の耳にこびりついて離れません。旅人の歩く律動はあの歌のリズム、旅人の足音はあの歌の旋律となり、彼の耳へと届きます。
胸が苦しい。痛い。つらい。渇く。渇く、渇く!
旅人は胸を抑えて、荒野に倒れ伏してしまいました。
切ないのです! あの人に私の想いの届かなかったことが!
悲しいのです! 私を慈しみ、水を与えてくれる人のいないことが!
旅人の両目から、とめどなく涙が零れ落ちます。
「はは、もったいないなあ。最初からこうすれば良かったんだ。そうしたら、もっと早く、あの花に、水を与えてあげられたのになあ……」
荒野の真ん中、旅人はそっと、目をつぶりました。
旅人と花 淵瀬 このや @Earth13304453
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます