涙のあとは

Kanon


 肌寒さを感じて、目を覚ました。

 名古屋を出たあたりでは快晴だったはずが、目を覚ますと窓にはすっかり霜が着いていて、外が薄暗いことだけが分かった。袖を伸ばして窓を拭いてみる。霜は雫と姿を変え、綺麗なガラスにはならなかったけれども、外の状況を確認するには十分だった。


 身を乗り出すようにして窓の向こうを見やると、雪が降りしきっているようだった。寒さの正体はこれだ。

 新幹線の速度も相まって、景色だけでなく雪までも一瞬で流れていく。見える景色は変わるものの、降り頻る雪だけは変わらない。まるで僕の人生そのもののように思えた。


 僕の人生はつまらないものだった。

 特に興味を抱けるものに出会うことができず、とにかく当たり障りのない選択ばかりしてきた。学生時代は無難に文系を選び、それなりの大学に進学し、人並みに恋愛をして、普通の会社に就職した。


 学生の頃はよかったなと思う。

 最低限、単位を満たすということさえしていれば次のステップへの道が開かれる。

 出席日数が足りていて、テストで赤点さえ取らなければ次の学年へ進めるし、最低限の礼儀作法と学力さえあればどこかしらの会社には就職することができる。


 けれども、社会人になるとそうはいかなかった。

 最低限、無難に仕事をこなしていたとしても、「さらに、さらに」を求められる。求められたものに応えようとしない場合、無理矢理にでも仕事を積まれる。それが自分が興味のない仕事で、勝手に押し付けられたものであったとしても、NOということは許されない。


 もちろん僕はNOと言うことはなかった。ただ心を無にして、積まれた仕事を消化するだけ。そこに自分の意思はなく、ただひたすらに作業をこなしていく。客観的に見たその姿と、昔チョコレート工場で見たお菓子を包装する機械が重なった時、僕は自分がなんなのか分からなくなった。


 そのことに一度気づいてしまってからは、もう正気ではいられなかった。そして、とある事件が起こったのだが、その時に「今、自分の意志で何かを始めなければ、僕は死んでしまうだろう。」と、そんな予感がしたのだ。

 こうして僕は、無断で会社を休み新幹線に乗り込むことに決めたのだった。行き先は広島。昔、修学旅行で訪れた宮島に、もう一度行ってみたいと思ったのがきっかけだ。


 一度無断欠勤を決め込んでしまえば、あとは気楽なものだった。昼過ぎまで布団の中で過ごし、のそのそと布団を出て、簡単に支度をしてからは財布だけを持って家を出た。スマートフォンは持って出なかった。持っていると、仕事のチャットを確認してしまいそうだったからだ。

 家を出て、最寄りの新幹線駅近くで昼食を食べる場所を探しているとやけにカップルの姿が多く見受けられた。平日のためそのほとんどが学生だろうと思われるが、平時の2割増しくらいには感じられた。その答えは、駅ビルのロータリーにあった。

 そこにあったのは装飾が施されたもみの木だった。それを見て、僕は今日がクリスマスであることを思い出した。


「雪の降る広島だと、今日はホワイトクリスマスということになるなぁ」とどうでもいいことを考えていると、流れていく景色が徐々にゆっくりと変わっていった。そこから一拍時を置いて、お馴染みの車内メロディーが流れる。アナウンスを聞くと、次が目的地のようだった。僕は降車の準備を始めるのだった。

 

 どうして旅に出ようと思ったのか。


 それは僕にもわからない。けれど、今、旅をすると何かが変わる。根拠はないけれど、それだけは確信があった。



*****



 広島駅から宮島へ向かうためにはJR線を利用して、まずは宮島口まで向かわなくてはならなかった。新幹線の駅から在来線のホームは直通でつながっている。そこを通って在来線の広島駅へ入る。宮島口方面への電車の乗り場を確認する。どうやら1番乗り場のようだった。


 ホームに降り立つと、建物や線路にはしっかりと雪が降り積もっていた。かなり寒く、僕は暖を求めて車両に乗り込んだ。

 出発がほとんど夕方だったこともあって、宮島口に近づくにつれて周囲は一層暗くなっていった。宮島口についた頃には、あたりはもう真っ暗だった。


 さて、宮島へ向かうためにはここからフェリー乗り場へ向かわなくてはならない。僕は駅舎を出て歩みを進めた。すると途中にある、イルミネーションが施された大きなクリスマスツリーが目に入った。

 そして…ツリーの下には奇妙な女性ひとがいた。

 その人はこれまでに見たどんな女性よりも美しいと思えた。大きな目。長いまつ毛。顔の真ん中にすっと通った鼻梁。水分の行き渡った唇は、タンポポのように小さく咲いている。そんな素材を際立たせるように、けれど邪魔をすることなく施されたメイク。髪は程よく茶色に染まっていて、しかし彼女の顔立ちにはよく似合っていた。

 どこかのパーティー会場から抜け出してきたのだろうか。装いも煌びやかなものだったが…彼女の瞳は涙で溢れていて、それは止まるところを知らない様子だった。

 彼女の美しさとのアンバランスさに、通りかかった人たちは怪訝な視線を彼女に向けている。


 当の本人はそんな視線に気づきながらも、それでもそこを動こうとはしない様子だった。若干俯きながらも、ただじっと降り頻る雪の中、涙を流し続けていた。


 僕はというと、そんな彼女に心底見惚れてしまっていた。涙に濡れた彼女の瞳は宝石のように綺麗で。雪が反射することでその輝きは一層増しているように見えた。けれど、僕はそんな彼女の涙の訳をどうしても知りたいと思ってしまった。


 どう声をかけようかと思案していると、昼間感じたことを思い出した。


「今日はクリスマスみたいですよ」


 そう言って僕は彼女にハンカチを差し出した。

 彼女はおずおずとハンカチを受け取るも、手に取ったハンカチをじっと見つめたまま動かない。


「大丈夫、今日はまだ使っていないので綺麗なやつですよ…?」


「いえ、そこは心配してませんよ」


 そう言うと、ようやく彼女ははにかむように笑った。


「本当にこういうことしてくれる人、いるんだと思って…優しさに感動していたの」


「え、そうなんですか…?てっきり、こういう経験は今まで山のようにされてきたのではないかと思っていました」


「そうね。これまで私に愛の言葉を囁いてきた男はB'zのシングル曲くらいはいたわね」


「なぜにB'z?」


「好きなのよ」


彼女はハンカチを目頭に当て、涙を拭った。


「ただ、本当にかなしい時に言葉をかけてくれた人はあなたが初めてよ」


「初めての男性ひとになれて光栄です」


「ふふっ、その言い方、なんだかイヤらしいわね」


 口元を手で隠すようにしながら、彼女はクスクスと笑い続けた。

 そんな彼女はやはりとても綺麗だった。


「ねぇ、サンタクロースさん。素敵なプレゼントをくれたついでに、私のひとりごとを聞いてくれないかしら?」


 唐突な彼女の申し出だったが、僕は嫌なはずもなく「喜んで」と答えた。すると彼女は「ありがとう」と言って、しんしんと降る雪に溶けていくように、彼女の話を始めるのだった。



*****



 私には夢があった。それは、女優になること。

 

 私の母は体が弱く、父は私が物心をつく前に他界。そんな私を母は女で一つで育ててくれた。私は母に恩を返したくて、女性がたくさんお金を稼ぐ方法を考えた。

 その結果、健全にお金をたくさん稼ぐには女優になることが一番だと結論に至った。幼い頃から私は自分の容姿が他人より優れていることに気づいていたので、これが手取り早いとも思っていた。

 そうして私は夢を叶えるために、ただひたすらに努力を重ねてきた。


 学生の頃、他の子たちが恋愛や、遊びといったことにかまけている間もただひたすらに夢を叶えるために邁進してきた。

 高校を卒業してからも、売れない女優として舞台稽古に励む傍ら、アルバイトをして生きることに必死だった。そうしてようやく、大手芸能事務所の社長から「全国放送されるドラマの主演としてデビューしないか」という誘いを受けた。それにあたって、まずは一度食事でもどうかということだった。


 私はなんの迷いもなくOKした。しかし、それが間違いだった。


 初めは食事をするだけだと思っていた。しかし、食事が終わった後、「これから演技指導をする」と言われ、ホテルの部屋に案内された。さすがにおかしいと感じていたけれど、相手は大手芸能事務所の社長。変に事を荒げると、デビューの話もたち消えになるかもと思うと素直に言い出せず、私は素直に従った。

 しかし、部屋に案内されるや否や、すごく強い力で動きを封じ込められた。父を知らず、恋愛にも現を抜かすことがなかった私は、この時初めて「男性はすごく怖い」と言うことを思い知ることになったのだった。

 

 そこからはもう何がどうなったのかも覚えていなかった。

 ただ手に握らされた何十枚もの一万円札の感触だけがはっきりしていた。やがて秘部に滴る血の温もりがはっきりしてくると、心も、体も、とにかく痛かった。

 痛みに慣れたと思うと、今度は頬に温かいものが伝う感触があった。そこでようやく、私に何が起こったのかを理解できた。社長が部屋からいなくなったことを確認してから、私は声が枯れるまで泣き続けた。

 けれど、この関係を続けることで母に恩を返すという目的だけは達成できる。しかしそれは私が排除していた、"不健全"な方法でだった。


 これまでの私の努力はなんだったのだろう。


 これで仮にドラマに出られたとしても、「枕営業によって得た仕事」と言う事実には変わらなくなってしまった。このご時世だ。どこからこの情報が漏れ出るかはわからない。私の人生は、始まる前に断たれてしまったも同然だった。


 ならば、方法にこだわる必要なない。女優への道が断たれ、一度踏み外してしまったのであれば、あとはもうどうにでもなれ。そう思って、好きでもない男と体を重ねてきた。その度に、たくさんお金は手に入った。けれどその度に…私の中から愛を感じる部分が消えて行くのがわかった。回数を重ねるごとに、私はお金が目当てで、相手は体が目当てで、私という人間を愛しているわけではないことがはっきりしていったから。


 それから私は"仕事"を終えると、ここで泣くようになった。恋人たちが待ち合わせに使うここで泣いていれば、きっといつかこんな私を愛してくれる人が現れるかもしれない。そう信じて…



*****



 僕は彼女が話し終わるのを、ただ静かに待った。相変わらず雪は止まない。周りには全く人も居なくなっていて、ツリーの電飾に合わせてツリーの影が現れたり、消えたりと言うことだけを繰り返していた。


 彼女が話終えた後も、ただ静かに明暗が繰り返された。やがてツリーの電飾が消えると、雪あかりだけが僕らを照らした。そのタイミングで、僕は両手を彼女の頬に添える。


 僕は彼女にキスをした。彼女は僕を拒むことなく受け入れた。やがてどちらからともなく唇を離して、僕らは見つめあった。

 そこからは場所を変えて、彼女の穢れを禊ぎ祓うように体を重ねた。一度目の行為が終わった後、僕も自分がここにきた理由を話した。「僕がここにきたのは、君にプレゼントを渡すためだったんだ」というと彼女は「だとしたら、運命ね」と嬉しそうに、けれども「冗談でしょ」という風に笑った。


 それから二度目の行為が終わったとき、僕は言った。


「これからの僕の人生は、君に全部あげる」


 彼女は泣いていた。どうして泣くの?と尋ねると、「クリスマスだから泣くの」と答えた。それから彼女が「もう一度抱いて」と言うので、僕はそれに応えた。そのあとはいよいよ眠気が襲ってきて、僕は眠った。


 次に目を覚ました時、彼女は僕の隣にはもういなかった。けど悲しいことは何もない。昨日の僕と今日の僕はもう別人なのだから。代わりに書き置きだけが残されていた。そこには彼女の連絡先に加えて、こう書かれていた。



「ありがとう、またね」



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